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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

本当の自分は幻想?

2018-09-10 17:46:43 | 哲学・思想
本当の自分とは?
真我、魂、アートマン、ハイアーセルフ...私にはそれが何かということは明言することが出来ません。
それは全くそのとおり、本当に何であるかが分からないということでもありますが、他からそのように誰にも分かるように、図式的に説明されたところで、納得することなど出来ないものがあるからです。
それらのものは同じものなのか、どうかということも、そういう事由なのでどうでもよさそうです。
このことは誰にとっても、全く自分自身のこととして得心し、実感するしかないのではありませんか?
それを蔑ろにして、通説のようなものにただ迎合してしまうのなら、これほど正にそう感じている自己そのものに対するギマンは無いでしょう。
この真我的なものは、ベルジャーエフによれば人格とつながりがあるようです。
「人格は人格を超えたものを予定している」
彼は「人間は神の似姿である」という、神秘思想で伝統的な表現を借りて、人格をそうたらしめているのは、超人格的なものであると説いていますが、私にはその彼が人格と言っているもの自体が、通常言われているものよりも超人格的なものに思えてなりません。
何にせよ、自分のことは、自分のみからは分からないというのは、実に至当なことでしょう。
ある時は欲望の赴くままに野獣と化してしまったり、又ある時は通俗的なドラマなどを観ていて涙してセンチになってしまったり、テンデにバラバラなのが自己というものじゃありませんか? グルジェフが言うようにいくつもの人格(らしきもの?)がせめぎあっているのが、制御不能な人間という機械なのかも分かりません。
しかし、そんな人間がよくもまあ、"人間でござい"と、大手を振って世の始めから面目を保っていられるものだ、とも思います。
私自身のことにしても、どうしてもそこに、そのバラバラな人格らしきものを統べている何かを想定せずには、私の人生というものが全く考えられなくなりそうです。
そして、時に思われた自己が超え出てしまうこともある...そこで本当の自分が分かる訳では無い...しかしある得心、実感は生まれます。
それは、正に"自分はそれまで自分と思っていたものでは無かったi"ということです。
自分を超えたものとは、神的なもの、超人格的なものと仮に言うことは出来るでしょう。
しかしそれはどこまでも"自分を超えたものがある"ことが示されるだけであり、それが何であるかは、知解を超えているので分からないのです。
人間は神の似姿かもしれませんが、自分は神だとか真我そのものとは短絡的に言えるものではないのです。
この意味で本当の自分とか、真我というものは幻想なのかも分かりません。
これは、神、霊、魂というものでもそうですが、それらを実体論的なものとして囚われてしまう傾向について言っているのです。
そこから安易な、デキアイの信仰への迎合が生まれるのです。
予め設えた教えをいくら信じ込んでいても、本当の自分自身の真実には導かれることは無いでしょう。
それはベルジャーエフが言うように、自由に、主体的に関わることから開かれるからです。
超人格、神的なものは、そこにハタラく...それは自己を超えたものでありつつ、自己よりも自己に近いものでもあります。
本当の自己とは、このような見える、見えない不可分なすべてのもので、"これが本当の自分"と切り取ってしまうことで失ってしまうものかもしれません。
ただ、感じたままを受け入れざるを得ないでしょう。
誰が何を言おうと、幻想だろうが何だろうと、自分が疑えない真実こそが真実なのです。
そう実感されちゃったものはしょうがないじゃありませんかi
それに預かれるものは、他の誰でもないあなたや私しか居ないでしょう。



コメント (2)
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