人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

個と人類

2014-11-19 19:58:59 | スピリチュアル
「どんなに至福に満ちた、調和に満ちた、永遠の世界を垣間見ようと、もしそれが自分の内面だけにしか示されない、一人善がり的なものに過ぎないとしたら…。」
私がその恩恵に預かった直後、そんな思いが脳裏を霞めました。
結局、いくら自分の中で確信的な体験をしようと、「それはあなたの主観でしょう。」という事で片付けられてしまうではないか、という事です。
この思いの底には実はいくつかの側面が交錯していました。
まず、自分の体験はもしかしたら幻覚なのかもわからない…実際熱に浮かされていたし…だから自分の体験に確実性を持たせねばならない、というものです。
それには誰か権威ある人、マスターと言われるような人からお墨付きを貰おうとさえ思いました。
これはお気づきの方もおられるでしょうが、エゴの声に他なりません…。
エゴというのは証明書のようなのが無いと、落ち着かないのです。
毎日エゴに飲まれた生活をしていたからか、私でもそう感じられる自覚はありました。
「そんな事人に話したら、絶対マトモじゃいられなくなる…」と、どうにか自制心が働きました。
でも私には又これとは別にどうしても抗し難く、その体験の証を求めようとする気持ちが有りました。
「あれがウソ、幻覚だったら何一つ確実なものなど求むべくも無くなるではないか?」
「夢から覚めてみて、この世を振り返ってみたら、あらゆるものが本体を欠いた砂上の楼閣の様に見える…」
「人々は命そのもの、そもそもの命の出どころというものを知らずに生きている…いや、生きているのではない…機械の如く動いているだけではないか!早晩、この見える現実は崩れ去る運命にある…」
こうした事に思いを馳せているうち、私がどういうことを問題にしているのかが徐々に分かって来ました。
それは…「これはもはや私個人の問題じゃない!」という事です。
自分は目覚め、至福感というものを味わった…それで完結、という訳にいかないのです。
それでオシマイと思っている人は…多分オメデタイのでしょう?(色々な意味で…)
これは、よくよく自分の気付きというものを探ってみれば、次のように自明の事です。
「私は一個人として切り離されてあるのでは無く、一切との繋がりとしてある、それを広げれば世界人類、宇宙ともなるものである…それが分離されてしまったら、もう自分は本体を失って宙に浮くしかないではないか!」 
そして「私はこの自分自身の大本、それを生かしているもの、神と言ってもいい…そのものの為に証を求めざるを得ない!」という具合に行き着くのです。
この事を見えざる導師に訴えました。
その答えは「お前は見た¡」の記事に書いた通りです。
これは一人一人に真我の目覚めというものが有るように、この有機的つながりにもそれが有り得るという予感をもたらします。
自己の内なる神性は表に顕れて、この見える世界へと歩み出すのです。
それは顕現されていくにつれて、この不調和極まる世界に、かの普遍調和世界が応現して来ることでしょう。
今の私は、あの時のように「証」を求めようという切羽詰まった気持ちは薄れました。
生きた証というのは取りも直さず、生きた「証人」に他なりません。
証人はそこ、かしこに見出せるからです。
もし、あなたにこの「証」を求める気持ちが起こってきたら…
こんな私でよかったら喜んでなりますよ…。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする