人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

宗教の運命

2014-11-07 19:13:47 | 宗教
宗教と私の関わりは、実に複雑なものが有ります。
何度か書いたように、初めに関わったある新宗教でまず宗教組織というものに不信感を植え付けられました。
そしてそこを辞めてから本格的な精神的探究が始まるのですが、いくつか啓発されたのが直接、間接問わず何人かの宗教家との出会いでした。
その出会いの瞬間というのは、今でも鮮烈に覚えており、感謝は尽くせないものが有ります。
実際、そうした縁が無ければ、その後の気づきというものも与えられなかったかも知れないのですから…。
でもこの多くは、その創始者たちに対するものであり、ことそのグループとの関わりとなると軋轢も又多かった、と言わざるを得ません。
特に「某先生は今世紀最大の聖者です」「この教えに勝るものは無いのです」
こうしたどうでもいいような、相対的観念をチラつかせるものは、もう生理的に受け付けないものが有りました。
そして「先生の教えを信じ、従う」という宗教信者の意識…私はグループと関わりながらも、宗教信者にはなろうと思いませんでした。
主体性の欠如、密閉された空間のような通気性の悪さ…私にはどうしてもなじめません。
多分、周りからは「何て我の強いヤツなんだろう」と思われていただろうと思います。
私は否定しませんが…。
おそらく初めの宗教教団で受けたものがトラウマのようになっていたんでしょう…。
そして創始者が亡くなると次のような言葉が聞かれ出します。
「先生の教えを誤りなく伝えるのが、私たちの使命だ…」
言わんとすることは分かるけど、私にはどうしても違和感がもたげてきてなりません。
これが単に言葉の理解だけを持って伝えるのみで、そこに火が点っていなかったら一体何になるでしょうか?
後進のものが求めているのは、その創始者のコピーなのでしょうか…創始者と同質のところから、その人なりの色合いで体得し、体現できる道は無いものなのでしょうか…。
諸々の違和感の主たる根っこはどうもその辺りに有ったようです。
多くの宗教信者の意識は、内なる絶対的なものに向けられていないのです。
そしてその意識から内なる火は消え、グループは形骸化の一途をたどります。
ロシアの哲人ベルジャーエフの言う精神の客体化です。
毎週集会で行われる例えば祈りや瞑想といった行事で「今週も、来週も、この先ずっと毎週日曜にはこうして集まる…そしていつかは新しい境地も開けるだろう…」
このような意識がもたげてきたなら、もうそれは進行しているとみて間違いありません。
段々惰性的、因習的なものになっていき、ただ何十年も同じことを繰り返しているばかりです。
パターン化し出すと、「このままでいいのだろうか…」と立ち止まって自省することすら出来なくなります。
客体化された精神は「今日、今のこの場が特別な時と場になり得る」という事を知らないのです…。
「この次がある」何て言ってるうち、この世の終わりが来てしまいますよ!
おそらく今までの宗教的創始者たちは、彼らの受けた内的ヴィジョンを表す方便として、宗教団体という形態を借りる必要があったものと思われます。
そこに限界もあり、変質化してしまうという成り行きも有ったのでしょう。
しかしながら私が啓発を受けた方がたの内的ヴィジョンの多くからは、アリアリと今でも彼の世界の息吹が感じられます。
彼らのヴィジョンは全く特定の宗教などに関わらない、普遍調和世界からの音信です。
そしてその巻かれた種は、今開花、結実の時を迎えたと私は実感しています。
何故ならば、今宗教という枠を超えて、特別の先生でない、ごく普通の人達に天来の恩恵が注ぎ始めているからです…。


コメント
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