人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自由と隷従

2014-11-06 17:27:37 | 求道、探究
「その上よりの導きを受けたなら、もはや選択の余地は無い…それを受けるや否や心身の機能を奪われる…」
こういう言葉を聞いたなら、きっと「それでは、その導きに接するという事は一方的な不可知のハタラキに打ち負かされて、こっちの自由というものは無くなってしまうのか?」と怪訝に思われる方もおられるかと思います。
確かに表面的に捉えれば、そのように受け取られかねない部分も有ります。
まずバイブレーションが伝わって、心身の機能がマヒするという件ですが、数年前ある集会でそれが私に起きた時、余程見た目にシンドそう、苦しそう
に見えたのか、ある人から「大丈夫ですか? 医者に行きましょうか?」などと言われ困った事が有ります。(笑)
しかしながら、実際にその時実感しているのは実は真逆で、あらゆる重荷、囚われから自由にされるという解放感なのです。
これにより、むしろ我々は普段自我にまつわる思考や欲望などで雁字搦めになっていることが知られるのです。
我々は自由という言葉を普通に使っていますが、自我に捉われているという事には中々気づけません。
本当の自由というのは自我からの解放なのです。
又、絶対的、一方的なものに任せるのみで、選択の余地が無いとは何と狭隘なことか!と思われるでしょうが、これが又反対でこの世には求むべくもないような、普遍的な世界が実感されるのです。
一つっきゃない道を通ったら、そんな世界が開かれるというのは逆説的ですが、そこには「コレコレを信じなければならない、従わなければならない」ものなど何一つ無く、百花繚乱、あらゆる多様な顕れが調和を成しているまんまを受け入れることが出来ます。
これに比して、世の多くの宗教で説かれている教理、修行体系というものはそこでしか通用しないものであったり、何よりも多くの宗教信者の意識はそれらの外から与えられた権威に隷属させられてしまうようです。
その反面、自己の内なる内的権威には意識は向けられていない…自分自身を信じていないのです。
私には学生時代、ある新宗教に入っていた経験で、自分自身についても周囲にもそうした「井戸の中の蛙」のような狭隘な世界を嫌と言うほど知らされていたので、心の奥から本当の普遍性というものを希求してやまないものがあったのです。
導きを受け初めて、当初私はその天来の恩寵を受けるのを、罪の意識から拒んでいたのですが、段々無駄な抵抗のように感じ始め、ついに手を放して降参してしまう訳ですが、これはあまり適切でないかも分かりませんがこんな風にたとえてみます。
子供がおやつのアメ玉を後生大事に握っています。
その子にとって、アメ玉以上に美味しいおやつなど無いと信じ込んでいるのです。
ある時、親がもっと美味しいおやつををあげようとチョコレートを持ってきました。
しかしその子はチョコレートがどんなものか知らず、頑なにアメ玉を握って放そうとしません。
すると、気が付くと甘いチョコの匂いがしてきました。
「こりゃあ、なんか今まで嗅いだことない美味しそうな匂いだ…何だかたまらなくなってきた…」
と思わず、アメ玉を手放し、チョコの恩恵にありつけた…
と、まあ想定外の欲望に屈したと言うべきでしょうか?甘い誘惑ですね…。
よく自分を無にしないと、自我を克服しないとそんな境地には成れないなどと言いますが、私はそういう努力はやったことはありません。
やろうと思ったことは有りますが、あまりにも自我のガンバリが強くて出来そうにありません。
ただ導きに任せるだけなのです。
すると、バイブレーションに満たされるのですが、それは一面何か一方的な強制力に感じるのですが、どうもそこには普段は意識されることの無い、自己のより深いところからの希求に答えてくれるものがあるようです。
私の場合、その時導師の「これはお前が望んだことだよ」という促しで降参することになったのです…。
「神の意志に従う」という事でも、それは自我の意志を断念するといったことで無しに、もっと深いところから促されるということのようです。
私の実感では神は強制しません。
世界は何故かくも矛盾、相克、不調和に満たされているのか?
神が我々を自由のままにしているからではないでしょうか…










コメント
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