Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう ξ^_^ξ

子夏と子張との交わる道の異なることを見(しめ)した

2015-02-12 12:21:42 | Weblog

子夏之門人問交於子張。子張曰。子夏云何。對曰、子夏曰、可者與之、其不可者距之。
子張曰、異乎吾所聞。子尊賢而容衆。嘉善而矜不能。我之大賢與、於人何所不容。
我之不賢與、人將距我。如之何其距人也。


子夏の門人交わりを子張に問う。

子張曰はく、「子夏は何とか云える。」

対えて曰はく、「子夏曰はく、『可なる者は之に与みし、其の不可なる者は之を距ぐ』と。」

子張曰はく、
「吾が聞く所に異なり。君子は賢を尊んで衆を容れ、善を嘉して不能を矜れむ、
我にして大賢ならんか、人に於いて何ぞ容れざる所あらん。
我にして不賢ならんか、人将に我を距がんとす。之を如何ぞ其れ人を距がん。」

                                             子張第十九の三


子夏の門人が友と交わる道を子張に問うた。

子張の説を聞いて折衷しようと思ったのであろう。

子張「子夏は何と言いました。」

子夏の門人
「子夏は『交わって可い友ならばこれと交わり、
交わって可くない友ならば拒絶してこれと交わるな』と曰いました。」

子張「それは私の聞いている所と違います。
私は『君子は有徳の賢者を尊敬し、一般の衆人をも容れて棄てることなく、
善の取るべき者があればこれを嘉(よみ)し、
善なく不能なる者でもまたこれを矜(あわ)れんで交わりを絶たない。』と聞いています。
つまり交わって可(よ)い者は固(もと)より交わり、
交わって可くない者でも拒(ふせ)がないのです。
子夏は可くない者はこれを拒絶すると曰いますが、己を大賢として拒ぐのでしょうか、
もし己が大賢ならば、己の可い所を以て人の可くない所を化することができますから、
どうして人を受け容れないことがありましょう。
又己が不賢ならば、己が可くないのですから、他人が先ず己を拒絶します。
どうして人を拒絶することができましょう。
友と交わるには子夏の言う様に人を拒絶することはありますまい。」


木曜日ですが前日が休日ですと、まるで月曜日の様な感覚になります。
それで昨日は日曜日感覚で、二週続けて「容器・包装・プラスチック」を出すのを忘れる。
昨日で「さっぽろ雪まつり」が終わりましたが、開催中には暖かい日もあったので、雪像が融けたりしたそうですが、235万人の国内外からのお客様、ありがとう御座いましたって思います。


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弘徳の学を示す

2015-02-12 12:03:37 | Weblog

子張曰、執徳不弘、信道不篤、焉能爲有、焉能爲亡。

子張曰はく、徳を執ること弘からず、道を信ずること篤からずんば、
焉んぞ能く有りと為さん、焉んぞ能く亡しと為さん。

                               子張第十九の二



事場の理の天下にあるのが道で、道を行って身に悟り得るのが徳である。

徳を守ることが弘ければ衆徳が集まって徳が一つに限られることはなく、
道を信ずることが篤ければ志操が堅固で廃れることはない。

もし人が徳を守ることが弘くなくて一善で満足し、
道を信ずることが篤くなくて疑い惑うているならば、
徳は弧に道は廃れてしまうから、
この如き人は世から存在を認められないのである。


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士たる者は身を立つる大節あるべきことを述べた

2015-02-11 15:46:06 | Weblog

子張曰、士見危致命、見得思義、祭思敬、喪思哀、其可已矣。

子張曰はく、士は危うきを見ては命を致し、得るを見ては義を思い、祭には敬を思い、
喪に哀を思わば、其れ可なるのみ。

                                          子張第十九の一

士は正しく身を立てる大なる節操あることを貴ぶ。

もし君父の危難を見ては己の命を差し出して荀(いやしく)も免れることをせず、

得べき利益のあるのを見ては道理上取るべきか否かを思って、荀も得ることをせず、

祭をする時は敬を思って現に眼前に在る時と同様の誠を尽くし、

喪におる時は哀を思って悲痛の情を極めるならば、

大節が欠ける所なくまあ士として宜しいのである。







今日は久しぶりに百合が原公園緑のセンターに行って来ました。
何よりか、大好きな椿「王昭君」に逢えて大満足です。


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周の初めの盛んな時を謂う

2015-02-10 12:41:10 | Weblog

周有八士、伯達・伯適・仲突・仲忽・叔夜・叔夏・季随・季騧。

周に八士あり、伯達・伯適・仲突・仲忽・叔夜・叔夏・季随・季騧。

                           微子第十八の十一

昔時我が周の盛んな時には、代々人材を教育したので賢人が輩出して、
一家の中に八人の英才が現れた。
それは伯達・伯適・仲突・仲忽・叔夜・叔夏・季随・季騧である。
これは一門の慶事であるばかりでなく、実に邦家の光栄である。
惜しいかな今は最早この様に人材の盛んに出るのを見ることはできない。



何をやっているかと問われても困るが、一日が慌しく終わってしまう感じだ。
まあまあ、嫌な事とか難儀な事でもないので、まあ~イイかぁ~と云う感じです。
何よりか、一人(猫たちもいるが)で居る時の時間が大切であり、ボーッとしてる間もないってとこです。
お陰様で。


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君子が人を待つに忠厚の心を以てすることを述べる

2015-02-08 16:06:38 | Weblog

周公謂魯公曰、君子不施其親。不使大臣怨乎不以。故舊無大故、則不棄也。無求備於一人。


周公魯公に謂って曰はく、「君子は其の親を施てず。大臣をして以いられざるを怨みしめず。
故旧大故なければ則ち棄てず。備わらんことを一人に求むること無し。

                                            微子第十八の十


魯公が封を受けた始めに、周公がこれを訓戒して曰うには、
「国を治めるには忠厚を本とする。君子は親族は己と本を同じくしている者であるから、
篤く親愛して見棄てることなく、大臣はその任に堪えなければこれを去るが、
その位にいる間は信任して用いられないことを怨ませることなく、
故旧の家は先世民に功徳があったのであるから、
大きな悪逆のない限りは見棄てることなく、人は全能の者はないから、
長所に従ってこれを用いてすべての才能を完備することを一人に求めない。」




しかし、なんだね。
この冬くらい、楽な冬と云うのも無かったものだと思う。体調だって寧ろ若い時よりイイくらいだし。
何よりの変化は自分の気持ちだと想いもしている。
それなりに色んな事をやってはみたけれど、その場賑やかでも、その後には虚無感に襲われたが、
ただ、その経験はよくよく活きているのだろうと感じています。


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魯の礼楽が壊崩して楽人が皆魯を去ることを記す

2015-02-08 15:15:04 | Weblog

大師摯適齊。亞飯干適楚。三飯繚適蔡。四飯缺適秦。
鼓方叔入于河。播鞉武入于漢。少師陽・撃磬襄入于海。



大師摯は斉に適く。亜飯干は楚に適く。三飯繚は蔡に適く。四飯缺は秦に適く。
鼓方叔は河に入る。播鞉武は漢に入る。少師陽・撃磬襄は海に入る。

                                          微子第十八の九


魯の国政が乱れて礼は壊れ楽は崩れたので、大師の官の摯は魯を去って斉へ往った。
大師が去ると相率いて去る者が一人に止まらなかった。
君が第二次に食事する時楽を奏する官の干と云う者は楚へ往った。
君が第三次に食事をする時楽を奏する官の繚と云う者は蔡へ往った。
君が第四次に食事をする時に楽を奏する官の缺は秦へ往った。
鼓を撃つ官の方叔と云う者は河内の地方へ入った。
振鼓を播す官の武と云う者は漢中の地方へ入った。
少師の官の陽と云う者と磬を撃つ官の襄と云う者とは海島の中に入った。



今日は日曜日。
朝からこの時季じゃ珍しい小雨が降ったりしています。
これが雪だと思ったらまた厄介だけれど、心配なのは開催中の「雪まつり」のこと。


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逸民を評して己の行いに及んだ

2015-02-07 15:37:39 | Weblog

逸民、伯夷・叔齊・虞仲・夷逸、朱張・柳下惠・少連。
子曰、不降其志、不辱其身者、伯夷・叔齊與・謂柳下惠・少連・降志辱身矣。
言中倫、行中慮。其斯而已矣。謂虞仲・夷逸。隠居放言。身中清、廢中權。
我則異於是。無可無不可。


逸民は、伯夷・叔斉・虞仲・夷逸・朱張・柳下恵・少連。

子曰はく、「其の志しを降さず、其の身を辱しめざるは、伯夷・叔斉か。」

柳下惠・少連を謂う。「志しを降し身を辱しむ。言倫に中り、行い慮に中る、其れ斯れのみ。」

虞仲・夷逸を謂う。「隠居放言す。身清に中り、廃権に中る。」

「我は則ち是に異なり。可も無く不可も無し。」

                                             微子第十八の八



古の人で逸民と称せられる者が七人ある。

伯夷と叔斉と虞仲と夷逸と朱張と柳下恵と少連との七人で、皆賢才を抱いて世を遁れた人である。

孔子が評して曰われるには、
「これらの人の中でその志を立てることが高くて少しも人に屈せず、
その身の清潔を守って少しも世から汚されないのは伯夷と叔斉とであろう。」

次に柳下恵と少連とを批評して曰われるには、
「君を択ばないで仕え、時を待たないで出て、その志を屈しその身を辱めて憂うることなく、
その言うことは道理に中り、その行うことは衆人の思慮する所に合する。
他人の志を屈して身を辱めるのとは違う。二人の取るべき所はこれだけである。」

虞仲と夷逸とを評して曰われるには、
「隠居して世を遁れ放言して忌まない。しかし隠居して独りその身を潔くして汚されないのは道の清に合し、
放言して自ら廃てられて用いられないことを示して時に応じ変に通じるには道の権に合する。」

孔子は次に己の行いに説き及んで曰われるには、
「この人たちの行わない所は皆その心に不可とする所があるからであり、
行う所は皆その心を可とする所があるからである。
然るに、私はこれとは違う。可とすべき時は可とし、不可とすべき時は不可として、
可と不可とを初めから心に存しないのである。」


逸民七人の中で孔子が朱張を評していないのは、夷逸の後にあるはずのが落ちたのだと云う説があるし、
朱張の行いは孔子と同じだから、また論じないのだと云う説がある。


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孔子が出仕するのは君臣の義を行う為であることを述べた

2015-02-06 10:56:30 | Weblog

子路從而後。遇丈人以杖荷蓧。子路問曰、子見夫子乎、丈人曰、四體不勤。五穀不分。孰爲夫子。
植其杖而芸。子路拱而立。止子路宿、殺雞爲黍而食之、見 其二子焉。明日子路行以告。
子曰、隠者也。使子路反見之、至則行矣。子路曰、不仕無義。長幼之節、不可廢也。
君臣之義、如之何其可廢也。欲潔其身而亂大倫。君子之仕也、行其義也。道之不行也、已知之矣。


子路従って後る。丈人の杖を以て蓧(あじか)を荷なうに遇う。
子路問うて曰はく、「子夫子を見ざるか。」
丈人曰はく、「四体勤めず、五穀分かたず、孰(たれ)をか夫子と為す。」
其の杖を植てて芸る。子路拱して立つ。
子路を止めて宿せしめ、鶏を殺し黍を為りて之に食せしめ、其の二子を見えしむ。
明日子路行いて以て告ぐ、子の曰はく、「隠者なり。」
子路をして反って之を見しむ。至れば則ち行れり。
子路曰はく、「仕えざれば義なし。長幼の節は廃すべかざる。君臣の義は之を如何ぞ其れ之を廃せん。
其の身を潔くせんと欲して大倫を乱る。君子の仕うるや其の義を行うなり。
道の行われざるは已に之を知れり。」

                                                  微子第十八の七


子路が孔子に従って旅行してる時、孔子を見失って後れてしまった。
丈人(老人)が杖を持って蓧を荷って来るのに出遇った。
因って問うて曰うには、「あなたは私の先生にお遇いでしたか。」
丈人「今は働いて食う時だ。汝は手足を働かせて農業を勤めもせず、五穀の種類も分らず、
徒(いたずら)に師に従って遠遊し、わしに『先生に遇ったか』と問うたって、
わしは誰が汝の先生だか知りはしない。」こう曰ってその杖を立てて田の章を取って、
他に何も言わなかった。
子路は丈人の語を聞いて遂に手を拱いで立って敬意を表わした。
丈人は子路を止めてその家に宿らせ、鶏を殺し黍の飯を炊いてこれを食わせ、
又二人の子を子路に面会させた。
子路の敬意を表したのに感じ又世を避けることのたのしむべきことを示したのであろう。
翌日子路は行って孔子にこの事を告げた。
孔子は「ただの農夫ではなく賢人の隠れた者である。」と曰って、子路に命じて反ってこれを見させた。
君臣の義を告げようと思ったのであろう。
しかし、行って見ると丈人は去っていなかった。
子路が後に来ると思って先ず去ったのであろう。
子路は孔子の意を述べて曰うには、
「隠れて君に仕えなければ君臣の義はない。君臣の義長幼の節は均しく廃すべからざるものである。
先に丈人が二子を私に見えさせたのに因って長幼の節の廃すべからざることを知っているのに、
君臣の義をどうして廃してよかろう。
これは徒に世から隠れてその一身を潔くしようとして君臣の大倫を乱るのである。
君子が仕えるのは禄位を貪るためではなくて君臣の義を行って廃さないためである。
当今のような世に道の行われないことは已に知っているのである。
どうして道が行われないからと言って人と絶ち世を逃れて君臣の義を廃することができようか。」



昨日5日は「さっぽろ雪まつり」の初日。
2年ぶりくらいかで私は出かけていました。
空気が冷たくて寒かったけれども、絶好の見物日和だったし、画像を撮るぞッ!ってあまりにも構えず、
気楽にフラッと出てみたかったのもあります。
一応な、良い気分転換になった様に思い、また機会を作り一人で出てみたいと思っていますね。


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第66回さっぽろ雪まつり

2015-02-06 10:53:01 | Weblog



 


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孔子の道を以て天下を済おうとする心を見ることができる

2015-02-05 17:48:34 | Weblog

長沮桀溺耦而耕。孔子過之、使子路問津焉。長沮曰、夫執輿者爲誰。子路曰、爲孔丘。
曰、是魯孔丘與。曰、是也。曰、是知津矣。問於桀溺。桀溺曰、子爲誰。
曰、爲仲由。曰、是魯孔丘之徒與。對曰、然。曰、滔滔者天下皆是也。而誰以易之。
且而與其從辟人之士也、豈若從辟世之哉。耰而不輟。子路行以告。夫子憮然曰。鳥獣不可與同群也。
吾非斯人之徒與而誰與。天下有道、丘不與易也。


長沮桀溺藕して耕す。孔子之を過ぎ、子路をして津を問わしむ。
長沮が曰はく、「夫の輿を執る者は誰と為す。」
子路が曰はく、「孔丘と為す。」曰はく、是れ魯の孔丘か。」対えて曰はく、「是なり。」
曰はく、「是ならば津を知らん。」桀溺に問う。桀溺が曰はく、「子を誰と為す。」
曰はく、「仲由と為す。」曰はく、「是れ魯の孔丘の徒か。」対えて曰はく、「然り。」
曰はく、「滔滔たる者天下皆是れなり。而して誰と以にか之を易えん。
且つ而其の人を辟くるの士に従はんよりは、豈世を辟くるの士に従うに若かんや。」
憂して輟まず。子路以て告ぐ。夫子憮然として曰はく、「鳥獣には与に群を同じうすべからず。
吾斯の人の徒と与にするに非ずして誰と与にせん。天下道あれば、丘与に易えず。」

                                               微子第十八の六


長沮と桀溺の二人が並んで耕していた。
孔子が楚から蔡へ帰る時、そこを通り過ぎて、子路をやって二人に渡場のある処を問い合わせた。
子路が車を下りたので、孔子は子路に代わって手綱を執っていた。
長沮は子路に問うて曰うには、「あの車の上で手綱を執っているのは誰だ。」
子路「孔丘です。」
長沮「魯の孔丘か。」
子路「そうです。」
長沮「孔丘は四方を廻り歩いているから渡場のある処は知ってるはずだ。何も問うことはあるまい。」
子路は長沮から聞くことができないから、桀溺に問うた。
桀溺「汝は誰だ。」
子路「仲由です。」
桀溺「魯の孔丘の弟子か。」
子路「そうです。」
桀溺「天下の人は皆水の下きに流れて原に帰らざるが如く日に乱に赴き悪に走るのである。
誰も汝を任用してその説を聴く者はないから、誰と与に悪を変じて善と為し乱を案じて治に易えようとする積もりなのか。まあ汝は人を避ける孔丘の様な人に従うよりは、世を避けるわしらの様な人に従う方がマシだ。」と曰って、
種に土をかけて止まず、遂に渡場のある処を告げなかった。
子路は去って二人の言葉を孔子に告げた。
孔子は二人が己の意中を覚らないのを惜しみ、憮然として嘆息して曰うには、
「彼は『世を避ける士に従う方がよい』と曰うけれども、吾人は人類であるから、如何に世を避けたからと云って全く人と交わらないで鳥獣と共に群を同じくすることはできない。この人類と与に群を同じくするのでなくて誰と群を同じくしよう。それ故、どうして世を避け人と絶つことができよう。彼は『天下に道がないから誰と与にこれを易よう。』と曰うけれども、もし天下に道があるならば、私も治に安んじて易えようとはしないのである。今天下に道がないからこそ道を行ってこれを易ようとするのである。」


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隠者が孔子の隠れることを諷した

2015-02-04 17:15:50 | Weblog

楚狂接輿歌而過孔子曰、鳳兮鳳兮、何徳之衰也。徃者不可諌。來者猶可追。已而已而。今之從政者殆而。
孔子下欲與之言。趨而辟之、不得與之言。

楚の狂接輿歌いて孔子を過ぎて曰はく、
「鳳よ鳳や、何ぞ徳の衰えたる。往く者は諌むべからず、来たる者は猶お追うべし。已みなん已みなん。
今の政に従う者は殆し。」
孔子下りて之と言わんと欲す。趨って之を辟け、之を言うを得ず。

                                                    微子第十八の五


孔子が楚に往こうとした時、楚に偽って狂人となっている接輿と云う者があって、
歌って孔子の車前を過ぎた。
その歌は次の様なものである。
「鳳や鳳や、道あれば見れ道なければ隠れてこそ、その徳は盛んであるのに、
今の様な道なき世に猶隠れずにいるとは、何と徳の衰えたことであろう。
過去の事は諌めて止めることはできないが、将来の事は猶追いつくことができる。
今は隠るべき時である。止めよ、止めよ。今の様な無道な世に政に従う者は危ういことだ。」
鳳を以て孔子に比し、孔子がかかる無道の世から隠れることを欲したのである。
孔子はこれを聞いて車を下って接輿と話そうと思ったが、接輿は疾行して孔子を避けたので、
孔子は接輿と話すことができなかった。



今日は水曜日休みでしたが、この時季の休みと云っても、お風呂或いは温泉に行くか、
買い物lくらいしかすることがない。
けれど、除雪要らずなことは、これは御馳走に近いものがあります。
穏便に日々が過ぎて行くことには、何の不満も不幸もないものですね。


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孔子が魯を去ったことを記す

2015-02-04 16:48:55 | Weblog

齊人歸女樂。季桓子受之、三日不朝。孔子行。

斉人女楽を帰る。季桓子之を受くけ三日朝せず。孔子行る。

                               微子第十八の四


魯の定公の十四年に、孔子は魯の司冠となり、宰相の事を兼ねて行った。
三月で魯の国は大いに治まった。
斉人は魯が孔子を用いて覇者となれば、己の国が先ず併呑されることを懼れて、
国中の美女八十人を択び舞楽を奏させて魯の君に贈り、
声色に溺れさせて賢を用いる心を妨げようとした。
時に魯国の政は季桓子が専らにしていたから、桓子は魯君に勧めてこれを受け、
君臣共に楽しみに耽って政治を怠り、朝に出ないことが三日に及んだ。
賢人を用いて女楽を受けるのは賢を侮るのである。
三日朝に出ないのは礼を棄てるのである。
与に政を行うことのできないのを見て、孔子は遂に魯を去った。


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孔子が斉を去ったことを記す

2015-02-02 15:47:59 | Weblog

齊景公待孔子曰、若季氏則吾不能。以季孟之間待之。曰、吾老矣、不能用也、孔子行。

斉の景公孔子を待つに曰はく、
「季氏の如きは則ち吾能わず。季孟の間を以て之を待たん。」
曰はく、「吾老いたり。用うる能わず。」
孔子行る。

                            微子第十八の三


孔子が斉に居られた時、斉の景公はその臣下と孔子の待遇を相談して曰うには
「孔子は魯の人だから魯公が魯の三卿(季孫・叔孫・孟孫)を待遇する礼を知ってるだろうが、
魯の上卿の季氏と同様に孔子を待遇することは私の力ではできないし、
そうかと云って孟氏と同様にしては粗末だから季氏と孟氏との中間の礼を以て孔子を待遇しようと思う。」
こうは言ったが、又暫くして、「孔子の道は大きくて効果を速く見ることはできない。
私はもう老いて行く先も短いからこれを用いてその道を行うことはできない。」と曰う。
孔子はこれを聞いて遂に斉の国を去った。



月曜日の午後です。
昨日より細かく吹雪いていたのですが、今朝は数日ぶりで除雪の羽目となりました。
後で、屋根雪も下ろしました。
間が開くと、慣れた除雪も疲れたナァと感じるんですよ。(;゜▽゜A


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柳下恵の和であり且つ守る所あることを記した

2015-02-01 15:46:52 | Weblog

柳下惠爲士師、三黜。人曰、子未可以去乎。
曰、直道而事人、焉徃而不三黜。枉道而事人、何必去父母之邦。

柳下恵、士師と為り、三たび黜(しりぞ)けらる。
人曰はく、「子未だ以て去る可からざるか。」
曰はく、「道を直くして人に事えば、 焉(いずく)に往いてか三たび黜けられざらん。
道を枉(ま)げて人に事えば、何ぞ必ずしも父母の邦を去らん。

                                        微子第十八の二


柳下恵が司法官の長となって、しばしば退けられた。
ある人が「君子が仕える場合には、合えば留まり、合わなければ去るのが常でありますが、
あなたはしばしば退けられて用いられないのに、
まだこの国を去って他の国へ行ってその道を行うことができませんか。」と曰ってこの国を去る様に諷した。

柳下恵はこれに答えて
「道を枉げないで人に事えるならば、いずれの国へ往ってもしばしば退けられないことはありません。
もし道を枉げて人に事えるならば、この国にいても用いられますから、
どうして父母の邦(魯)を去らなければならぬことがありましょう。」と曰って、
道を枉げて合うことを求めることはできないから、暫く道を守って去らない意を示した。


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