太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

目にはみえなくても

2024-04-16 08:07:27 | 日記
朝、起きたときと、仕事から帰宅して、玄関に入る前に家の前の花のチェックをするのが習慣になっている。
私はサボテンも枯らす植物キラーだったのだが、気にかけて育てることが大事なのだと聞いてから、毎日声をかけたり、花がらを摘んだり、重そうな茎を切ったり、言葉どおり気にかけているのだ。
そうしていると、ひとつひとつの植物がかわいくなってくるから不思議。
玄関まわりにあるのは、名前を知らないピンクの小さな花、ゼラニウム2鉢、アンスリウム4鉢、ランタナ3鉢、ビンカ、ソングオブウインディア、ブルージンジャーたくさん。
このゼラニウムはしばらく花が咲かなかったのが、手入れをしていたらこんなに花が咲いた。
ゼラニウムは水が多すぎると根が弱ってしまうようで、そうなると蕾のままでしおれてしまう。
だから雨が降っているときは、寝ていても飛び起きて、玄関の屋根の下に鉢を移す。


ビンカは、こぶりの鉢で買ってきたものが、いまや特大サイズに成長。
ドライブウェイの端のほうからも、ピンクが鮮やかに見えて「おかえりー」と言っているみたいだ。これは水が大好きで、毎日たっぷり水遣りをする。

先日、家に入る前に花チェックをしていた。
ブルージンジャーの茎の先がこちらに向かっているのに気付かずに、アンスリウムの古い葉を取ろうとして勢いよく前かがみになったら、その茎の先が鼻の脇に思い切り当たった。
ブルージンジャーの茎は、竹のように節があって、まさに細い竹みたいに固い。その先っぽで強打したのだから、そりゃあ痛かった。

流血しているのではと鏡を見たら、ただ茎の形に赤くなっているだけ。
しかし、その場所は、目頭から1センチも離れていない。
もし、あの勢いで目に刺さったら大変なことになっていた(怖・・・)

助けられたと確信し、感謝した。
人は、都合の悪いことが起きれば何かのせいで、都合のいいことは、ただ運がよかったと思いがち。
このブログ内に、「天使に出会った実話」のカテゴリーがあるが、そんなふうに目にはみえなくとも、私たちはいつも助けられているのだ。
私の後ろの人達か、亡くなった両親か、はたまた花達か。


「ここに茎が当たったんだよぅー」

夫に報告。

「赤くなってるけどたいしたことないね。なんだか嬉しそうだけど、なんで?」

あれから数日、青アザになるのではと思ったが、そうはならず、赤い色が少しずつさめてきている。
またもや助けられている。







あの時私が見たもの

2024-04-15 06:40:45 | 不思議なはなし
突然、何十年もずっと、忘れていた古い記憶がよみがえることがある。

子供の頃、家の向かいに山田さん一家が住んでいた。
山田さんちは、おばあさんと、その息子夫婦、3人の男の子という家族構成で、
男の子は上が10歳ぐらい、末っ子が4歳ぐらいだったろうか。


私が、6歳か7歳の頃だったと思う。
うちで新しい冷蔵庫を買って、それが入っていた大きな段ボールが、家の前に置いてあった。
家は玄関と門の間に、車1台ぐらいのスペースがあった。
門はキャスターがついた金網で、内側から外が良く見えた。
これが、家と門の間に立って撮った写真。(ピン止めしているのが私)
たぶん、この写真と同じころの話。


夜、夕飯を食べたあと、私はその段ボールに入ってみた。
説明するまでもないが、私はちょっと変わった子供だった。
私は段ボールの隙間から、外を眺めた。
季節は初夏で、段ボールの中にいても暑くも寒くもなく、見慣れた風景も、四角い隙間のこちらから見ると、どこか違って見えておもしろかった。
家の前の道は舗装されていない砂利道で、近所の誰かが砂利を踏む音や、どこかの家からお風呂をつかっている音が聞こえた。
街灯のたよりない明かりが照らしているのは、ほんの限られた範囲だけで、昔の夜は今から想像できないほど暗かった。

どのぐらいそうしていただろうか。
山田さんちの屋根から、何かが夜空に向かってのぼっていくのが見えた。
はっきりとした形はなく、煙のようにも、湯気のようにもみえた。
それはゆっくりと1度まわってから、吸い込まれるようにして空に溶けていった。

「山田さんのおばさん、昨日亡くなったんだよ」

翌朝、母が言った。
私がそのとき何をどう思ったかは覚えていない。
私が見たもののことも、誰にも話さなかったように思う。
山田さんのおばさんが病気であることを、子供の私は知らなかった。身近で誰かが亡くなったという経験はなかったが、私よりも小さい子が、もうおかあさんに会えないのだということはわかっていて、子供心に何かを感じたのは間違いない。
おじさんは、そのあともとうとう後添いを迎えることなく、おばあさんが3人の孫を育てた。


私はこのことを、今になって思い出した。
小さな子供を3人残していかねばならなかった、おばさんの悲しみはいかばかりだったろう。
私があの時みたものは、おばさんの名残惜しくてたまらぬ思いだったと思う。

山田さんのおばあさんは、孫たちを立派に育て上げ、役目を果たしたかのように亡くなった。
そのあと、山田さんは家を売って引っ越していき、あとにはきれいな3階建ての家が建ち、幼い子供たちを連れた若い夫婦が越してきた。
その子供たちも巣立ち、広すぎる家を持て余した夫婦は、その家を売り、新たな家族が住んでいる。


私は30代だったろう山田さんの年齢も、母の年齢もとっくに超えた。もしかしたら、山田さんのおばあさんは今の私とたいして変わらなかったのではないか。
山田さんの家は、壁が羽目板で、窓は上下に開くクラシックな木造住宅だった。
今でも目を閉じれば、あの窓に灯っていた部屋の明かりや、屋根から立ち去りがたく登っていくおばさんの思いが、思い出されるのである。







衝動買いのたのしみ

2024-04-12 07:26:36 | 日記
近所のギャラリーに作品補充したあと、ショーに出す作品も仕上がって気持ちも軽く、ちょっとターゲットにでも行ってみるかと思う。
1年ほど前に近くにターゲットができて、村人たちは喜んでいる。
以前、1番近いターゲットはハラバという、ここからは遠い地域まで行かねばなかった。
6年ほど前にカイルアにできて、たった15分で行けるようになり、我が村のシアーズが閉店したあとに、ついにターゲットがきたのだ。

ターゲットは日本にもあるのかどうかわからないが、
食品も電化製品も化粧品も洋服も家具もある、いわゆるデパート。
洋服や生活用品など、まあまあの品質で、デパートより値段は安い。
ハワイはビジネスをする側にとっては地代、家賃もバカ高く、好きだったキッチン用品の専門店や、家庭用品のお店などがどんどん撤退して、なくなってしまう。
だから、欲しいものが具体的にあるときは、島中を探すよりも、座ったままネットで買うほうがずっといい。

それでも、たまに衝動買いしたくなるときがある。
実際のものを見て、触って、試して、買う。
それが、ホノルルまで行かなくてもできるのが、ターゲットというわけ。

ふらりと行ったターゲット。
デパートといったって、2階建て。
洋服類は、ちょっとユニクロぽい。私はここで、部屋着にするTシャツやキャミソールなどを買ったりする。
15分ぐらい見て、買ったもの。

麻のプレイスマット。3ドル!
ユーカリプタスとミントの入浴剤。6ドル!
サンダル。37ドル!


ここはほんとにハワイか?と思うぐらい、安い。
プレイスマットなんて、自作しようと布を買っただけで3ドル以上する。
これ、いいな。あそこに置いて、こう使ったらいいかもな。
そんな想像をしながらの買い物は、楽しい。



ちゃんとした味噌汁を食べてわかったこと

2024-04-11 10:22:22 | 食べ物とか
我が家の朝食に、味噌汁は欠かせない。
もう何年も、蕎麦ちょこに出汁、味噌、ネギ、生姜のすりおろし、乾燥わかめを入れて、お湯を注ぐだけ、という簡易式で、
味噌玉をたくさん作って冷凍しておき、それにお湯を注ぐだけになってからは1年あまり。
早起きの大人二人の朝は、慌ただしくもなんともないのに、楽なほうへと流れていった結果が、それだ。

昨年12月に私一人で日本に行った時、毎朝、姉の作る朝食をごちそうになっていた。
ご飯と味噌汁、納豆、それに魚の焼いたのとか、なにか一品が加わった標準的な和食スタイル。
もちろん姉は鍋でちゃんと味噌汁を作るのだが、その味噌汁の美味しかったこと!
味噌汁にお米のご飯は、黄金のコンビだということも思い出した。

それで私は心を入れ替えて、ちゃんと鍋で味噌汁を作るようになった。
今まで、蕎麦ちょこという小さな器に豆腐まで入りきらないから、味噌汁とは別に、湯豆腐にしたり奴にしたりしていたのが、鍋に入れるようになり、
「煮る」という行為ができなかったので入れられなかった具が、入るようになった。
そうして具が増えると、蕎麦ちょこではなくお椀になり、ますます味噌汁らしくなった。

意外にも、私が好きな具は玉ねぎだ。

というのも、昔、私は玉ねぎの味噌汁は苦手だったのだ。
実家は祖父母も同居だったので、朝は常にご飯と味噌汁で、パンやコーヒーなどというしゃれた朝食は皆無だった。
母がホットケーキを焼いてくれたこともあったが、それはあくまでもおやつであって、朝食はご飯と味噌汁。

玉ねぎには、ジャガイモ。わかめには豆腐。里芋には大根。卵とネギ。
変わったところで、そうめんの具のときもあった。
私が1番好きだったのは大根と豆腐の具で、苦手なのは玉ねぎとジャガイモだった。
卵もあまり好きじゃなかったのは、母は溶き卵をそのまま鍋に投入するので、白身も黄身もバラバラになったのが固まっていたからで、
自分が大人になって、あらかじめポーチドエッグを作っておくことを知ってからは、卵は好きな具になった。
会社の若い人たちの食事も作っていた母は、多い時で10個もお弁当をこしらえており、わざわざポーチドエッグなど作っていられるはずもない。

家族の中では遅く起きて来る子供たちが朝ごはんを食べる頃には、味噌汁はすでに何度も火を入れたあとで、ジャガイモなどの具は崩れ、味噌の香りなども飛んでしまっていた。
それだからなのか、味噌汁は物心ついたときから決まりのように食べ続けているものだからなのか、心から「美味しい!」と思ったことはなかったように思う。

最初の結婚時代は、私は今とは別人のように料理をしていて、和食が続いても洋食が続いても不機嫌になる相手のために、いろいろ取り交ぜて作り、味噌汁もしっかりイリコやカツオ出汁をとっていた。
でも、「美味しい!」と思って食べたことがあったかどうか、記憶にない。


心を入れ替えて、鍋で味噌汁を作るようになった今、毎朝、「美味しい!」と感動している。
出汁は、姉も妹も使っている、パウミーという焼津の即席出汁だ。
湯を沸かし、出汁をいれ、玉ねぎ、豆腐、油揚げ、常備しているキノコ類を入れ、味噌を溶かし、最後に塩糀を入れて火を止める。
お椀に、刻んだ青ネギ、乾燥わかめ、チアシードを入れ、夫のにはそれにおろし生姜も加えて、できた味噌汁を注ぐ。
たまに、冷凍してあったご飯を温めたら、もう至福。

本当にちゃんと作っている人に比べたら、全然ちゃんとしてはいないのだろうし、具がごちゃごちゃで見た目にはアレな味噌汁ではあるが、毎朝幸せな気持ちになれるのだからいいだろう。

「Good soup!」

違いのわからない夫にも、どうやらこの違いはわかるらしく、いつも褒めてくれる。
姉の手料理で、毎日お米のご飯を食べることの幸せも再確認し、以前よりもご飯を食べるようにもなった。
ちゃんとした味噌汁を食べてわかったこと。

日本人に生まれて、よかった!

ありきたりだけれど、そう思う。
ついでに、和食の良さをわかってくれる夫でよかった。









姉の誕生日

2024-04-10 08:59:46 | 人生で出会った人々
今日は姉の誕生日だ。
姉とは3歳、妹とは5歳離れている。
妹とは、それほど喧嘩をした記憶はないが、姉とはよく喧嘩した。
2段ベッドの、上に寝るか下に寝るかで喧嘩し、おやつの分担で喧嘩し、ピアノの練習のことで喧嘩をした。
私の1番古い記憶は、まだ幼稚園にもいかない年齢だった私が、小学校の宿題をやっている姉を見て、
「いいなあ、宿題」
と言ったら、姉が
「ばーか」
と、さもバカにしたように言い放った。
確かに、なにより宿題が嫌いな私なのだから、あの頃の私に「ばーか」と言いたい。

姉はいつも私の前を歩き、お手本であり、ライバルであり、お互いにどこかで目の上のたんこぶ的存在でもあった。

姉との関係が変わってきたのは、姉が東京の大学に進学してからである。
姉の恋愛の話を対等に聞けるようになり、姉が横浜で就職すると、だんだん友達のようになっていった。
時々、姉が帰省したとき、まったく同じイヤリングや、色違いのワンピースを着ていることがあり、驚いた。
姉は横浜で、私は静岡で買い物をしているのに、どうしてそんなことが起こる?

そのうち、妹も大人になり、今度は3人で買い物をしたりできるようになった。
3人で、九州に行ったり、出雲大社に行ったりもした。出雲大社については、なかなか結婚をしない姉に焦った母から、ごり押しされて行ったのだったが。

当時は、オンナの結婚適齢期は24歳だった。
何度かのお見合いもうまくいかず、母と姉とで結婚しないことについての口喧嘩になったあと、私に言った。

「私だってずっと牢屋にいたわけじゃない、普通に社会に出て仕事して、普通に人とかかわって暮らしているんだよ。なんで結婚しないの?って言われても、わからないよ、私にも」

そんな姉が突然、何の心境の変化か、横浜の病院を辞めて静岡に帰ってきた。
30代も後半で、親もこのまま3人で暮らせばいいね、と諦めていたときに、ふと見合い話が舞い込んできた。
こちらの年齢も年齢だし、断る理由もないので、「美味しい料理でも食べてくるよ」と気軽な感じで出かけていった姉から電話があったのは、数日後のことだ。

「シロちゃん、私、結婚しようと思う」

相手の人と会った時、うまく説明できないけど、とってもしっくりくる何かがあったのだと言う。
徳川慶喜の住まいだった場所で、姉は盛大な結婚式を挙げた。そのときの姉は、本当に本当にきれいだった。

静かなアパートで、好きな人と、好きなものに囲まれての幸せな生活は、1年もたたないうちに、姉の病気が発覚したことで激変した。
それは死を覚悟せねばならぬほどの大病だったから、知らされたとき、姉を失うかもしれない恐怖で両手がガタガタと震えたのを覚えている。
ダンナさんになった人は、仕事の前と後、毎日姉を見舞い、毎日手紙を書き、その献身ぶりには頭が下がる思いだった。

「結婚する前に病気がわかっていたら、私は生涯結婚しなかったよね」

病気は避けられないことで、それを乗り越えるのに必要な人と出会うのを待っていた、というふうに考えられないだろうか。


姉は生還した。
不自由さは残ったけれども、生きてくれている。
そればかりか、術後5年で、子供を授かった。その子供が小学校に上がる時に、実家を二世帯住宅に建て替えて、姉一家が実家に入った。
子供が大学生になり、両親を見送り、ようやく一息ついたところだろう。
家族がいて、良い友達に囲まれて、今は姉にとって1番穏やかなときではないだろうか。



姉の誕生日を迎えるたびに、元気でいてくれることに心から感謝をする。
とうの昔にライバルではなくなった姉は、母がいなくなった今、私には母のようでもある。
どうかこの人を私から奪わないでください、と天に祈った時の気持ちを思い出すとき、今すぐ日本に行って、姉に会いたくてたまらなくなるのである。