太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

こいがたき

2015-09-03 22:32:36 | 人生で出会った人々
おざわりえこちゃんは小学校の同級生だ。

実家の斜め向かいがりえこちゃんの家で、ご近所さんでもある。

それなのに、私はりえこちゃんと遊んだことがない。

母親同士は仲がいいのに、私はりえこちゃんが苦手だった。

りえこちゃんは、ひと昔前の少女画から飛び出したような顔立ちで、

なんでもハキハキと言う子だった。

あまりよく知らないのに、何となく意地悪な感じがするというだけで

こちらから近づくことをしなかった。


小学校3年のとき、私は同じクラスの小沢君が好きだった。

小沢君はハンサムではないけど小柄でヤンチャな感じで、体育が得意。

私は誰にも小沢君のことを話していないのに、りえこちゃんだけは

なぜか私が小沢君を好きなことを知っていた。

そしてなぜか私も、りえこちゃんが小沢君を好きなことを知っていたのだ。

放課後だった。

校庭で長縄跳びをしていた私に、りえこちゃんが近づいてきた。

「あたし、知ってるから」

りえこちゃんの顔は悲しいのか怒ってるのかわからない。

わけがわからず、私が黙っていると、

「同じ苗字の人同士はケッコンできないんだって」

そう言って、怒った顔のまま、走って行ってしまった。


おざわりえこちゃんとの思い出は、それだけである。

母が話のついでに、りえこちゃんが結婚した、と言ったのは、二十代も半ばごろだ。

りえこちゃんに子供が生まれて、時々実家に帰ってくることがあった。

それでも、私達が顔を合わせることはなく、りえこちゃんはいつも母の話の中に出てくるだけだ。

そのうち私が結婚し、実家を離れた。


それから10年、りえこちゃん一家はりえこちゃんの実家の隣を買って

そこに住むようになった。

私か離婚して実家に戻っていたとき、りえこちゃんの家から、

女の子が自転車を引いて出てきた。

それがりえこちゃんに見えて、私は心臓が飛び出そうになった。

そのぐらい、その子はあの頃のりえこちゃんに似ていた。

「こんにちは」

私がそう言うと、その子は少し驚いたような顔をしてから、

「こんにちは」

と言った。年齢からみて、末っ子ぐらいだろうか。

さらに何年もたって、私はとうとうりえこちゃんに会った。

帰国したときに、出先から戻ってきたりえこちゃんと鉢合わせしたのだ。

りえこちゃんが笑顔で会釈をした。

私も同じように、返した。

少女画から飛び出したような顔立ちはそのままで

優しそうな、きれいな女性になっていた。


「同じ苗字の人同士はケッコンできないんだって言ったの、覚えてる?

私が最初に結婚した人、同じ苗字だったんだよ。

そのとき、りえこちゃんのこと思い出していたんだ」


私は心の中で、りえこちゃんに話しかけた。

友達にはならなかったけど、40年以上ずっと、

りえこちゃんは私の心から消えることがない。



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とんちんかん

2015-03-22 11:52:48 | 人生で出会った人々
国語辞典を買ったお客様がいた。

私の母ぐらいの年齢だろうか。日本人の女性だ。


本の補充をしていると、その方が隣に立っていらして、

「日本の本がこんなにたくさんあるのねぇ」

と言った。

「私はメインランド(アメリカ本土)に住んでいて、そこでは日本の本が売ってないのよ。

この国語辞典もね、私が欲しかったものがあって、ほんとうによかった」

やわらかい表情で、ゆっくりとしたしゃべり方は、私の母のようだ。


「娘が5年前にこちらに来ましてね。その娘が病気になってしまって、

それで様子を見に来たんです」


「そうでしたか。それはご心配ですね」


「ええ。でももうダメみたいで」


返す言葉もない私の顔をおだやかに見ながら、その方は言った。


「菌にね、やられているんです。手術をしても助かるかはわからない。

ただ手術をすると、体内の血液を入れ替える作業を週に何回もやらなくてはならないそうで

それがとても辛いんだそうです」


「・・・・」


「娘が、手術は受けたくないと言うんです。親が親の権利をもって手術を受けさせるには、私たちがハワイに

住んでいないといけないんだそうですよ。でも本人は嫌だというものを、ねえ」


「手術をしないと・・」


「そうです。手術をしないとだんだん弱っていくだけ。手術をしても、助からないかもしれない」


そう言うと、その方は本棚を見上げて

「なにかおすすめの本はあるかしら」

「どんな本がお好きですか」

「そうねえ。時代物よりは現代ものがいいかしら。そうだ、なんとかいうお医者さまが書いた本、おもしろかった」

「じゃあ小説よりは、エッセイみたいなのがいいですね」

心があたたかく軽くなるような本を数冊、私は選んでみた。



「ああ、これはいいわ。うんうん、きっと楽しいわね」


その方は微笑んで、そして

「25日までここにいます。その間に娘が死んでしまったら、もう来ることはないかもしれません。

でも死ななかったら、きっとまた来ることになるでしょうね」


と言った。

子供が自分よりも先に死ぬということが、どれだけのことなのか、私には想像もつかない。

かなしいとか、辛いとか、そういった言葉では言い表せないことに違いない。



私は思わず、その方をきつくきつく抱きしめた。

泣かないようにするのが精一杯だった。

この方が泣いていないのに、どうして私が泣けようか。



「あらあら・・・ありがとう・・・」

その方は、最初は驚いて、でもすぐに強く抱きしめ返してくれた。




この人に、すべてのよいことが、できるだけたくさん起こりますように。

かみさま、この人に、できるだけたくさんの天使を派遣してください。





「ご家族は、こちらに?」

その方は私に聞いた。



「いえ、日本にいます」

「からだを大切にね。それがいちばんの、しあわせなこと。誰にとっても」



つらい人がいたら、力になりたいと思う。

0.05%でも、つらい気持ちが減るような何かができたらいいと思う。

けれども、とても私の手におえないようなこともたくさんあって、

なにもできない自分がもどかしく思う。

子供の頃からそうだった。

私はうまく、人を慰めることができない。


こんな状況にあって、国語辞典を買うだとか、本を読もうという気持ちになれるまで

どれだけのものを乗り越えてきたのだろう。




「気晴らしに、また寄ってください」


「ありがとう」


その方は、そんなとんちんかんなことを言った私を笑顔で包み込んでくれた。






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ラテン弁護士 その2

2015-01-22 21:48:59 | 人生で出会った人々
別居したまま、離婚話はいっこうに進まなかった。

あるとき、私は着替えなど荷物を取りに自宅に行った。

すると、洗面所のタオルが入っている棚の上に、広げた紙が乗っている。

それは相手が書いた「遺書」だった。


動転した私は、ある友人に電話をかけた。

電話をもつ手が震えた。

友人は私の話を聞くと冷静に言った。

「その紙を元にあったところに戻しな。それで何も見なかったことにして帰りな」

「だってもしも本当に死んだら?」

「あのね、遺書ってのは死んだあとで引きだしの奥のほうからひっそりと出てくるもんだよ。

そうやって広げて置いておくのは、遺書にみせかけて遺書なんかじゃない。脅しだよ」

「でも、もしも・・・」

「死ぬ、死ぬ、て言って死んだ人なんかいないよ。離婚なんかでいちいち死んでいたら

日本中死人だらけじゃん。」

「そりゃそうだけど・・・」

「仮に、万が一そういうことになったとしても、それはアンタのせいじゃない。」

「ひえー、やっぱり可能性はあるってことじゃん」

「もしそうなっても、アンタのせいじゃないって、私が思わせてあげる」



私はその紙を元の場所に戻し、何もさわらずに家をあとにした。

別の友人とランチをすることになっていたので、待ち合わせの場所に行った。

先の友人との電話で、少し勇気が出たものの、とても食欲なんかなかった。

帰り道、とりあえず話しておこうとラテン弁護士事務所に電話をした。

弁護士は出張で九州にいたのだが、そこまで追いかけて電話をかけた。




「そうですかー、そんなもんがありましたかー!うひゃひゃ」


電話を耳から離したいぐらいのデカイ声が響く。

「で、私はどうしたら・・・」

「や、何も見なかったことにして、それでいいんじゃないですかぁ」

「もしも本気だったら・・」

「離婚の案件はいーっぱいやってますけどね、死ぬ死ぬ、と言う人はいますけど、

死んだ人はいませんよ」

どこかで聞いたようなせりふだ。


「だけど万が一、ってことが・・・」


するとラテン弁護士は、さらに声を張り上げて言った。


「上等上等。死んでもらえばいいじゃないですかぁー。あははーーー!!」


そして少し間をあけて

「でもそれはあなたのせいじゃないですから。法律的にも、人間的にも」




私一人だと呼吸が浅くなって、悪いほうへ悪いほうへと際限なく考えが転がってゆく。

ラテン弁護士は、そんなパンパンになった私のガスを抜いてゆく。


そのあとも、何度か事務所で会い、電話もしたいときにした。

2回目からは料金を払ったけれど、ほんのわずかしか受け取らず、

いくら電話をしても、その料金はいっさい取らないのだった。



結局弁護士をたてるようなことにはならなかったけれど、

あのラテン弁護士にどれだけ救われたかしれない。

それをいうなら、現場から電話した友人にも、

ラテン弁護士を強引に紹介してくれた友人にも。


さらには、突然現れた「新しい人」がいなかったら、情にほだされて

私は離婚をすることができなかったのではないかと思う。



出会うべきときに、出会うべき人に出会う。


それは紛れもない真実。


なんと多くの人の助けがあって、今の自分があるだろう。










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ラテン弁護士 その1

2015-01-21 16:15:11 | 人生で出会った人々
人との出会いは、まさに絶妙のタイミングで、

必要なときに、必要な人に出会えるようになっている。


10年余の結婚生活に突然疑問を感じたのは40才になろうかというときだった。

理由はありすぎるほどあった。

結婚したその日から、夫婦生活が1度もなかった。

相手はものすごく気難しい人で、喧嘩をすると何日も口をきかず、

私はそれが嫌なために、相手を怒らせないように細心の注意を払いながら生きていた。

くさいものには蓋をして、ひたすら波風がたたないようにしていた。

どうしてそんな生活が10年も続いたのか、そのほうが不思議なのだが、

その理由もいろいろあった。

もしも母だったら我慢するだろうと思ったし、こんなことに耐えられるのは私ぐらいしかいない、という方向に

気持ちのベクトルが向いていたから、

我慢すればするほど、私は自分がエラクなったような気がしていたのだと思う。



とにかく、ある日突然、これはおかしい、と思った。

いったん気づいてしまったら、気づく前には戻れない。

友人が、夫だった人が女性と腕を組んで歩いているのを見たよと教えてくれたとき

私は何の感情も沸いてこなかった。悔しくもなし、怒りもなし。

ああもうこれはダメだな、と思った。


ちょうどそんなとき、彗星のように「新しい人」が現れて、私たちは急激に惹かれあった。

私はさっさと古い結婚にケリをつけて、その「新しい人」と新たにやり直したい一心で

懇願する相手を振り返りもせずに家を出た。


そのあとは、離婚したい私と、離婚したくない相手との神経戦だった。


一人の友人が、弁護士を間に入れたほうがいい、と助言してくれたけれど

弁護士料もばかにはならないし、そこまでしなくてもいいと思ったので渋っていた。

友人はあきらめず、半ば強引に知り合いの弁護士を紹介してくれた。

「ただ話を聞いてもらうだけでいいんだから。お願い」

友人の熱意に押されもし、じゃあ話を聞いてもらうだけなら、とその弁護士のドアをたたいたのだった。



年の頃は50代半ば。

元気がよくて声が大きいその弁護士は、笑顔で私を迎えてくれた。

一通り、いきさつを話すと、その弁護士は開口一番言った。


「なんとまあ希薄でお粗末な夫婦関係ですなぁー」


その言葉が、ストンと腑に落ちた。

まさにそうなのだ。

結婚するまでに5年、結婚してから11年、つごう16年も私と相手は一緒にいたのに、

私たちは一切相手と向き合うことをしてこなかった。

それはそのまま、自分と向き合うこともしてこなかったのと同じ。



帰り際、お金を払おうとすると、弁護士はおおげさに両手をふって

「ま、今日のところはいいからいいから。次のときでいいからいいから。ぶはははーー!」

ひたすら明るく元気なラテン弁護士は、ドアまで私を送ってくれて、

両手でピースサインをしながら笑顔で見送ってくれた。




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フロリダのひと

2014-08-24 10:52:13 | 人生で出会った人々
フロリダの人 と私が勝手に呼んでいる日本人のお客様がいる。

80を過ぎた女性で、時々職場にいらっしゃる。

ハワイに来る前はフロリダに15年ほど住んでいて、

フロリダがどれほど湿気があって暑くて住みにくかったか、という話をしたのが最初だった。



家中の貴金属をみんな付けて来たんじゃ・・・という人はいるけれど

その人はそういうわけではない。

服装はカジュアルだけれど、どこかパリっとしていて、80過ぎの日本女性はしないような装いだ。

たとえば今日は、真っ白のサブリナパンツに、赤と白のピンストライプの、きっちりアイロンがきいた

カッターシャツ。

歩きやすそうな、でも老人靴ではない、しゃれた白いサンダル。

うっすらと紫が入ったメガネをして、ちゃんとお化粧もしている。

内側から、「豊かな感じ」がにじみでてくるような。



見えるたびに、少しずつ話をする。


日本で、外交官と結婚したのが最初で、そのあと離婚し、

アメリカ人と再婚した。

外交官時代は、いろんな国に住んで楽しかったけれども、気苦労も多かったこと。

アメリカ人と結婚してみて、夫にするならアメリカ人のほうがいいと思ったこと。

自分はフロリダよりもハワイがいいと思うけど、ご主人はフロリダに戻りたがっていること。

今はアラモアナ近くの、高層コンドミニアムに住んでいて、ワイキキの海が毎日眺められて癒されること。



けして饒舌ではなく、ほろりほろりといろんな話が出てくる。


「80過ぎたら、毎朝起きて、ああ今日も生きてる、と思うのよね。

ずいぶん自分勝手に生きてきたけれども、死ぬときばかりは自分勝手にはいかないわね」



10月に日本で同窓会があって、それに行きたいんだけどどうかしらね、と笑う。



フロリダの人に会うのを、とても楽しみにしている。

できることなら、1日中、彼女の80余年の人生を、じっくり聞きたいと思う。

私は自分が販売の仕事をするとは夢にも思わなかったけれど、

いろんな人に出会えるのはとても楽しいことだ。




「ここまで生きてわかったことって

私たちはなに一つ、抱えて死ぬことができないってこと。80年でたったそれだけ。

髪の毛1本だって、持ってゆけやしないのよ。そんなこと、若いときに考えたことなんかなかったけど」



私も、理屈としては知っている。

けれども、身にしみてそれがわかってはいないと思う。



今度、フロリダの人がみえたら、

この人生でよかったと思うかどうか聞いてみよう。

きっと、ちょっと目を見開いてみせて

「よかったもなにも、必死で生きてきただけよ」と言って肩をすくめるような気がする。







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