続・知青の丘

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玄捨という名と辺見庸氏の文章

2011-01-14 13:33:11 | 俳句以外
それは、私の母の父、つまり私の祖父の名らしい。

らしいというのは、祖父はこの名を嫌って、
自分ではフカヨシと名乗っていたという。
祖父は新潟の貧乏寺の次男坊だった。

私は、この名の意味を時々考えることがある。
「玄捨」とは??
深く捨てる?
何を?煩悩を・・・・・?
でも、煩悩を捨てたら、生身の人間ではなくなるのでは?

ま、そう簡単に何もかも捨て切れるわけではないから
この名がつけられた・・・・・?

どろどろの人間を生きるのは時としてつらくきつい。

虚無や退廃、悪意、憂鬱などなどにまみれていることを意識した時は、
そういうものから遠いところにいる人に、
さらけ出して、懺悔したくなる。
そうして、浄化されて救われて和みたくなる。

去年はそういう自分がいたように思う。

辺見庸が1月9日の熊日新聞~「水の透視画法」に
塀の中に囚われの身の「男」に会いに行く話を
書いていた。

「わたしには眼にも声にもいく層にも悪意と翳りがあるというのに」、
「男」には、「すさみやずるさや嘘くささ」がなく、
その男と話していると、
「気持が落ち着」き、「凪ぐ」
というような文章が。
やはりそうだよなあ~・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

玄捨の話に戻ると、

今思うと、高校一年の時に母と伊勢に住む祖母と共に、
新潟にある母の父方・母方の寺に行ったのは、
祖父のお墓参りも兼ねていたのかもー。
私は、影の薄い祖父のことなど全く眼中になく、
ただの物見遊山だった!
それに何も聞かされていなかったし。

今になって、
理解できることや知りたいことが多すぎる。
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