続・知青の丘

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高田獄舎「瘴気の子」を読む 竹岡一郎 (『We』9号より)

2020-03-18 11:21:07 | 俳句
             
高田獄舎「瘴気の子」を読む
                  竹岡 一郎

艇庫に寝れば燃える哺乳類くだらん夢
陽炎賛美の眼にゴキブリは乱れる虫
金星下に便所を崇め酒宴凍る
俺を嘲る中年の眼に孔雀が棲む
箱のなかに妊る王子らだれも燃えず

「瘴気の子」から、五句挙げてみた。皮肉、嫌悪、嘲笑の句だが、言葉の結びつきは緊密である。ごつごつした細い鉄の、彫像というにはあまりに惨いものが佇んでいる。
しかし、世界が惨くなかったことなど一度も無かった。ならば、これらの句が、昆虫の複眼のような視点から描いた客観写生でない、と言い得る俳人はいるだろうか。
これらの句を一々解析しようとすると、その悪意に疲れる。疲れる、とは誉め言葉だ。これらの惨さと悪意の発するエネルギーを只満喫すればよいと思う。堪能するに足る緊迫感を蔵している事は、誰にも否定できまい。しかし、どうしても解析したくなる句はある。次に試みよう。

天上へ繭のつらなり濡れながら

これが連作の冒頭である。何と美しい句だろう。繭は余剰の糸によって互いにつらなり合っているように見える。濡れているのは雨意を含んだ高空の大気によるのか。それなら、天は雲を蓄えて、鈍く重いだろう。それとも繭自身が羽化直前の蠢動により、体液を滲ませるのだろうか。
繭はつらなり濡れることにより、天から雨を誘い出そうとしているのかもしれぬ。どうも夕づく空を繭たちは昇りゆくように見える。白い繭には茜色が良く映えるからだ。
蒸発した地に孔雀が売られ棺照る
「孔雀が売られ」は判る。生には華美が好まれる。「棺照る」も判る。立派な棺は、死者の一生を讃えて艶良く輝く。問題は「蒸発した地」で、核爆発か隕石の衝突で、地ごと抉られ気化したと読むのが妥当だ。では、売買や葬りの営みは何だ。人々が己の死に気付かず、商ったり、今一度死んで棺を得たりしているのか。土地自体が霊で、そこに忙しく有る一切は、実は土地の記憶だ、と観る事も出来よう。

熱い花と泥がみだらな朝の交番

カルメンとホセの逢瀬を思う。身近な権力を誘惑する者の、その熱い念だけを、花と泥に仮託して描き出す。朝だから、一層良い。清澄な明るさにたじろがぬ誘惑者の大胆さが見えるからだ。「朝の交番」の寂しさが、微かな憂愁を与えている。憂愁といえば、次の三句もそうだ。

旅の髪に蝶語りかけ銀の谷
苦しむまえ夏鳥くび振る暗い学園
群衆疲れ時雨が青馬のみを濡らす

先に挙げた交番の句と比べれば、一読、情景は明白である。作者には珍しく、言葉の配列が柔らかいからだろう。
だが、作者の真骨頂は次に挙げてゆく句群である。

楽器砕かれ天明の窯に蛇の静止

天明といえば、浅間山の大噴火、みちのくの大飢饉、江戸や大坂の打ちこわし、京都大火と、まさに祟りの時代であった。この「天明」が最大の手掛かりである。
蛇を、地のエネルギーがそのように観えたという意味で、地祇と読んでみる。窯が何を焼くか明示されていないが、句の様を見るに、江戸の陶磁器の綺麗さではなかろう。炭か。炭の硬い黒色なら、この句に相応しい。焼成や溶錬の為の、結界の場を窯と呼ぶなら、窯の前後の語である「天明」「蛇」とあいまって、窯は霊的なもの、天明の怨みや古よりの祟りを、精錬し実体化する場とも読める。
燃える窯に、蛇、即ち地祇が、抜刀の如く動かんとする間際の「溜め」を、「静止」と、緊張感を以て詠う。楽器は、うたうものである作者自身だろう。砕かれる今際、楽器の発する音は、炭を撃ち合わせた如く鋭く澄むか。その音色に、蛇は静止するのか。

花つばき流民か磐を断つものは

この句の要は「磐」だろう。磐とは磐座であり、磐州即ち磐城国(今の福島県東部)である。いわき市は、福島原発事故から約四十キロの地点。「流民」を原発事故からの避難民と読む事も出来ようが、強大な呪術を携え東北へ遁れた物部の民と読むも可能だ。そう読んだ時、「磐を断つ」に「磐座を断つ」の意が生ずる。断たれるのは、物部の磐座ではなく、大和以前の縄文の神、地祇神の磐座か。
では、「花つばき」を如何に解するか。椿は常緑であるため、榊や松と同じく、めでたい木、繁栄の木、邪を祓う木とされた。一方で、首が落ちることから、武家では不吉とされるという。(落馬を連想させることから、馬の名には用いない。)ここに椿は、背反しながらも実は表裏一体である吉凶を含む。例えば、技術による繁栄とその暴走による壊滅。更に掲句の椿は、真っ赤と想像する。福島原発事故を思えば、死の放射能を放つ燃料デブリを想起するからだ。ここに、国土千年の連綿たる惨たらしさを読み得よう。

白い草が不要な抵抗のための三列

白い草とは、惨い陽に灼け、乾いたまま、尚も地にしがみつく草だろう。「三列」が何を示すか判らないし、「不要な抵抗」も概念的過ぎて解らない。だが、語の置き方が緊密なせいで、概念語が、判らないなりにも実体を持つ語のように見えてくる。(3とは堅固にして最少の神秘数だ。)
この句の要は「抵抗」である。他の語は全て「抵抗」という概念を、その概念のままで、或る判別不能な手触りを生じさせる為、実体の重さを持たせる為にあるようだ。

自転する肺に万暗黒の種ふたたび

この作家の句は頑なに、往々にして概念的になるのだが、奇妙なのは、その概念語が、様々な語の緊密なコラージュの中に置かれると、概念ではなく或る実体を持った語のように錯覚され出すことだろう。この句など、その最も顕著な例で、「万暗黒」(ばんあんこく、と読むのだろうか、その方がリズムに強さが生じる)とは、何とも意味不明な概念語である。だが、惑星のように自転する肺の中にあって、更には「種ふたたび」と置かれる事により、万暗黒は繰り返す宇宙生滅の流れ全体を指し示すように思われてくる。それが「肺」の中で行われるのであれば、この肺は(恐らく作者の肺であろうが、)宇宙を内包する肺だ。
「怒濤岩を嚙む我を神かと朧の夜」と若き頃、虚子は詠った。これを自意識過剰と笑うのは簡単だが、それで終らせる者は、決して己が身の大きさ以上の句は出来まい。

火が雪となり枯草からは弱い歌

雪が火となる事はあるかもしれないが、火が雪となる事は先ず無いだろう。敢えて想像するなら、火の熱が地の水分を蒸気と化せしめて空に昇らせ、その蒸気がやがて雪となって降り来る景だろうか。火が生ずるとすれば、枯草からではないか。作者自身が火をつけるのか。「弱い歌」とは、雪が枯草を滑る音かも知れぬし、枯草がそよぎ抗しつつも徐々に雪に拉がれる音かも知れぬ。
枯草を、或いは枯草の昇る魂である火を、作者と読むなら、己が火の、悉く雪と変ずる様を仰ぐ絶望を、「弱い歌」と客観的に、または自嘲として詠ったとも取れよう。「火が雪となり」のフレーズ自体は力強い。この強さを逆説的に観て、再生のイメージを思い描くことは出来る。

晶晶と町黙契のため蟻を濡らし

「黙契」とは、無言の内に互いの意志が一致する事だから、町と蟻は互いに良く知り、互いに認め合っているのだろう。町が濡らすのだから、雨ではないように思う。町自体の液体であるなら、それが上水であれ下水であれ、町はもはや肉化している。たとえ雨であったとしても、それは町に降った時点で、町の所有に属する。堅固な領域を持つ町なのだろう。晶晶と、きらきらと、鉱物の結晶の如く濡れているのは、黒光る蟻でもあり、町でもある。
蟻は一匹だろうか、群れだろうか。いずれにしても、或る特別な一匹だけが、町と黙契しているなら、作者は自身をその蟻と重ねている筈だ。黙契を「沈黙の内に行われる契約」と拡大して解釈すれば、蟻は契約の為の生贄とも見え、だからこそ、町の晶晶たる様と趣を同じくする。濡れる蟻は、硬質に光る町の鏡像ではないかとも読める。

わが鼻欠け隕石のみが香る荒野

鼻が欠けているなら、香りを把握することは出来まい。つまり、ここに香るものは、作者が実際には嗅ぐことの出来ない匂いだ。隕石とは地球外から来たもので、その主成分がたとえ地球にありふれた鉄であっても(隕石は圧倒的に鉄隕石が多い)、やはり地球の鉄とは違う異質なエネルギーを放つものだ。(鉱物マニアなら納得されよう。)
そして「荒野」には「隕石のみが香る」、隕石以外の香りは死滅しているのである。しかもその香りを、鼻の欠けた作者は、嗅ぐことが出来ない。知覚できないものしかない荒野にあって、知覚から隔絶されている地獄を、嗅覚に特化して表現しているのだ。嗅覚は、脳の記憶の場と密接に関わっているという。作者は記憶においても隔絶されている、そう読めば、作者の孤絶感は如何ばかりか。

ビルに角笛燃えみなしごの悪さよなら

「角笛燃え」は、燃えるが如く高らかに響く、と読んだ。「悪」とは概念である。だが、「みなしごの」とつけたことにより、みなしごが生きのびる為に成さなければならなかった、ありとあらゆる行為を逆説的に「悪」と呼び、愛おしむようにも見える。次に来る「さよなら」の語が、哀切に句を締めるからだ。「さよなら」と、悪に、それとも、みなしごの人生に呼びかけているのだろうか。身無し子、身寄り無き児、属する処なく無力なる者とは誰か。その命終において寄る辺なく暗冥に流れゆく様を観るまでもなく、浮き草の世に生を営む殆どが、本来、身無し子ではないか。
己が無力さと対峙する時、抑え難い滾りが、無機質なビルに角笛となって燃え響く。寄る辺なき生が罪であるか、罰であるか、そんな裁定を遥かに超えて、燃え轟くその瞬間は遍く街を統べ、天をおびやかす。かつて悪魔は角を聳やかせ、「時よ止まれ、お前は美しい、と言った時、魂を貰う」と言った。角笛に凱歌は昇り、時を止めるだろう。魂は角笛として、世界に訣れを告げるだろう。

誰の忌か天上の鹿雨をもとめ

「瘴気の子」は、この句に締めくくられる。天上へと向かう繭に始まり、天上の鹿に終わる。繭が孵化して鹿となったのか。鹿が神の眷属なら、天上にあっても不思議ではない。雨をもとめるのは、「忌」であるからで、鹿は、自らの代わりに涙こぼすものをもとめているのかも知れぬ。
誰の忌か、と問われれば、数多の忌を想定し、なお作者の眼にしか見えぬだろう鹿が、天上に、嘆きの、慰撫の雨を求めるのであれば、作者にとっての世界の忌か。
全篇通じ、地獄を書き表さんとした句が多い。最初と最後に天上が顕われる事に、或る言葉を思い出す。あれはニーチェだったか。「梢が天に届く樹は、根は地獄に届いている」だが、根が地獄を貫くからこそ、梢は天にそよぐ。
将来、鉄塊の如き句を成し得る作家だと思う。騒がしく移ろう世間に目を遣らず、自らの地獄を観照し、孤独を豊饒と感ずるまで沈潜し、錬成し、蛇笏と鬼城の重さを学んで自家薬籠中の物とすれば、今よりも更に、類のない句を起ち上げる事が出来よう。獄舎よ大樹となれ、と祈る。

          *2020年3月8日の「週刊俳句」672号には、
           この分(We9号からの転載)と、
           「瘴気の子」以前と以後の3部作「高田獄舎レクイエム」
           がUPされています。
            ぜひ覗いてみてください。


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