鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.136『聖書には総論と奥義が併存』(10章)

2006年04月22日 | ヨハネ伝解読

~~「ヨハネ伝解読」です。
前回、聖書の論理には総論と奥義とがある、と申しました。
今回、そのことを今少しはっきり考えておきましょう。前回と重なる部分も出てきますけど。

 総論は概論です。奥義はそこから更に踏み込んだ論理です。
 そして、そのどちらも間違いではない。
 これを知ることは大切です。

~~この知識がありませんと、自分が思いめぐらせたことのない領域の奥義的解読をのべられると、動転してしまうんですね。

 「こんなのに影響されたら異端者になるのでは!」「地獄に堕ちるのでは!」と。総論は総論、奥義は奥義。共に共存できるもの~~これを悟っていませんと、聖書に関する「自由な」思考など出来ません。奥義に触れたら、反射的に顔が引きつってしまいます。

~~聖書は創り主が霊界、物質界の双方にわたって解き明かすメッセージということになっています。だったらそれは、広大で深いものにならざるをえないでしょう。

 そういうものを受信する人間の理解は、まずは概論的、表層的なところから、となるしかないでしょう。そして、後に奥義に入っていくのです。
これは自然なことなんですね。聖書の論理に、総論(概論)と奥義が出てくるのは不思議なことではないのです。


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=聖句=
 「創り主の言葉を与えられたものを、創主は神々(gods)と呼ばれていることを我々は知ってるよね。だったらその創り主が選んでこの世に送られたこのわたし(イエス)が、『自分は創主の子だ』といったのが創主を冒涜することにどうしてなるんだ?」(10章35~6節)
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「創り主の言葉を与えられたものを、創主は神々(gods)と呼ばれている」というのは奥義を語る聖句です。
 ユダヤ教では、「ゴッドはお一人」というのが常識なんですね。ユダヤ教は旧訳聖書を教典としています。ところがその旧訳聖書の中に、「神々と創主(いと高き方)に呼ばれる人がいる」と言う聖句があるんですね。

 これは何だ? 聖書は矛盾を含む本なのか?
 そうではないんですね。「ゴッドはお一人」は、総論です。「概して言えば・・・」の論理です。
 「創主に神々と呼ばれる人間がいる」というのは、奥義です。
 両者は矛盾してはいないのです。

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 いまそれを、キリスト教のなかで示しましょうね。旧訳聖書はキリスト教の教典でもありますから、上記の聖句をそこで考えてもいいでしょうから。

 キリスト教だって総論は「創造主はお一人」ですよ。その際ゴッドは「父なる創造主」を言っています。

でも、一歩奥義にはいると、「ゴッドは三つ」となる。父なる創造主と、子イエスと聖霊です。そして、それらは「三つにして一つだから三位一体」ということになります。
 これだって難しいですから、通常人はそこまでだと思っています。

 ところが、もう一つ深い奥義があった。
イエスが本日の聖句であげている聖句はそれに相当するんですね。
人間でも、創り主の言葉が内に留まったものはゴッドである、という。

 どうしてそうなるか?
 聖書では創造主は常に被造物(この場合は人間や天使)の霊のあり方に関心を当てているという思想です。
 霊のあり方は思い、意識の状態で決まりますので、問題は意識だ。そして、意識は言葉に凝固しています。
 
 創主の思いは創主の言葉になっている(それが聖句だというのが聖書の思想ですが)。その言葉が内に留まっているというのは、創主の意識が内に留まっていると言うことです。そして、そうなれば、その人は“その分”創主と同質になっているという道理になる。それを言い換えれば、その分ゴッドになっている、ことになるのです。

 こういう原理が奥義です。聖句の奥の方に、そういう論理構造があるのですね。

 +++

 新約聖書の福音書では、上記の他にもその奥義をちらりと示す聖句がありますよ。
「マタイ伝」を開いてみましょう。

 「行って私の兄弟たちに言いなさい。ガリラヤに行け、そこで私に会えるであろう、と」(マタイによる福音書、28章10節)

 これは、十字架死した後に復活したイエスが、イエスの墓にやってきた女たちに言ったとされている言葉です。ここで「兄弟たち」というのはイエスの弟子たちのことです。イエスは、この時点ですでに弟子を兄弟と呼んでいるんですね。

 なにげなく読み流しがちですが、よく考えてみればこれは大変な言葉なんですね。イエスは「創り主の子」でしょ。で、その兄弟となれば、これもまた「創主の子」と言うことになります。イエスの使徒たちを、この時点で創主の子とイエスは扱っているんですね。

 どうしてそんなことになるのか。それは、創主の言葉を受け入れているからだ、という論理です。そういう論理の根拠が、すでに旧訳聖書の聖句(イエスが引用した詩編82章6節の聖句)にあるというわけです。

<「格」は違うが「質」は同じ>

 もちろん「創主の子」となってもイエスとは「格」は違うでしょう。弟子たちは「事後的に子となった」タイプの創主の子です。創主の懐から出て、はじめから子であったというイエスとは同列にはならないでしょう。

 けれども、創り主の言葉を与えられ受け入れている点では、イエスと同じなんですね。
人間ではあるが質的には同じ創主の子なのであります。

 そういう奥義を持ち出して、イエスは「だから私が自分を創主の子だと言ったって、それだけで創主を冒涜したことにはならない」と反論したんですね。


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