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=聖句=
「私はよみがえりです、いのちです。私を信じる者はたとえ死んでも生きるのです」(11章25節)
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前回に示した四つのケースを検討していきましょう。
①「(肉体は)死んでも、(肉体は)生きる」
②「(肉体は)死んでも、(霊は)生きる」
③「(霊は)死んでも、(肉体は)生きる」
④「(霊は)死んでも、(霊は)生きる」
~~この四つでしたよね。
<①はないでしょう>
まず①の「肉体は死んでも肉体は生きる」は、ありえないでしょう。
肉体は死ねばその構成物質は分解して風化・発散していきます。
生きればそれは「まとまり、一体性(unity)」を持ちます。
「イエスを信じる者はたとえ肉体の構成物質が分解してもまとまりを持つ」ということは成り立ちがたいのではないでしょうか。実際、信頼者であってもその肉体は死にますからね。
もちろん、この11章でこれからイエスが生かすラザロの死体については、一旦死んだにもかかわらず生き返りますよ。だけどその彼の肉体だって、以後永遠に存続することはありません。100年の内に死んで消滅するでしょう。
一般的には、イエスを信じる人でも、肉体は死んで消滅してそれきりです。
<③もないだろうね>
同じ理由で③である可能性もないでしょう。
「たとえ死んでも生きるのです」の「生きる」の主語が「肉体」であるケースはありそうにないんですね。まあ考えてみれば、イエスが肉体の生死に焦点を合わせて話を結論するということは、そもそもありそうにないですしね。
この③についてもう少し具体的に言いますと「霊は死んでも、肉体は生きる」という解読が妥当になる可能性はない、といったらいいですかね。
霊がどうであれ、イエスを信じた人でも、一般的には肉体はみんな死んでいますからね。後に、イエスの使徒たちには殉教するものがたくさん出ます。彼らの肉体が、殺されてもまたぴょこんと生き返った、という話は記録されておりません。
もちろん、最後の審判の時に、その人も新しい身体で復活するということに、聖書ではなっています。実際、このイエスの言葉の直前に、ラザロの姉妹マルタは涙ながらにイエスにこういっています。
「はい、ラザロが世界の終わりの日に復活することを、わたしは知っておりまする・・・」(24節)。
だが、イエスはそれに対して、「あなたはよくわかっている」とか「ハイ、よくできました!」とか言ってませんよね。それはつまり、この解釈はここには当てはまらない、ということでしょう。
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いずれにしても「たとえ死んでも生きるのです」の「生きる」の主語は霊となります。つまり可能性のあるのは②と④のケースとなる。そのどちらだろうかを、次回に考えましょう。
この霊のことは、一般的な日本人にもわかりやすいと思いますが。どうなんでしょうか?鹿嶋さんのご意見をお伺いします。
心の癒し
わかるんじゃないかなぁ・・・。
霊のことを考えること自体に、恐怖しなければ。
霊についてあれこれ考えていこうとすると、恐怖に駆られたら、わからなくなる。
というか、わかるもわからないもなくなってしまうんですよね。
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恐怖というのは、「こんなこと考えてたら牧師さんに叱られるんではないか」とか、「そんな議論は**進学にはない」と神学校の先生に非難されるんではないか・・・とか、いろいろでしょうね。
ところで、鹿嶋さんご指摘のように、日本人は[霊]のことを扱うとき、すぐに「こわい」という先入観が働くようですね。頃は、よく夏にテレビや映画で幽霊モノが流行るように、いわゆる悪例の仕業なのかもしれません。また、一般的な日本人、ノンクリスチャンとしての話ですが、カミは「ばちがあたる」怖い存在なのでしょう。けれども、人間として当たり前のことで、それを悪用しているメディアがいけないんではないでしょうか?カミは怖くなく、基本的に親近感をもてる存在であることを、私たちクリスチャンが正しく説明していく必要があるでしょう。出ないと、いつまでたっても誤解の取れないままになってしまいます。
鹿嶋さん、霊のことについての本を書いていただけませんか?楽しみにしてますよ。
在主栄光
木
心しておきます。
そういう本作れるだけの
言葉と編集力が与えられるように
祈ってくださいね。
今まで、いろいろな「キリスト教入門」みたいな本を読みましたが、正直鹿嶋さんの本が一番なじみやすかったです。出来ます。主イエスがついていますよ。
改めて、「頑張ってください」とエールを送ります。僅かながら、お祈り申し上げます。
心の癒しより