鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

ヨハネ伝解読、Vol.322 『真理を求めて』(8章31~2節)

2011年10月09日 | ヨハネ伝解読


   久方ぶりに、「ヨハネ伝解読」をいたします。
本日は、前の方の聖句に戻ります。イエスの言葉です。

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「もし諸君がわたしのことばにとどまるなら、諸君はまことの私の弟子になる。
そして諸君は真理を知り、真理は諸君を自由にするよ」(8章31~2節)
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 真理って何でしょうか?
英語のtruthを邦訳した言葉です。そしてtruthは「変わらざるもの」という原義をもっています。
「もの」ですから、事物のすべてに当てはまります。たとえば「不変の物差し」があれば、それは真理です。
それは他のものの長さを、「絶対の正確さ」でもって測ります。
でも、現実には物差しは金属や竹などの物質でできています。物質は温度によって伸縮しています。
だから絶対の尺度は、頭では考えられても、現実には存在しないわけです。

 だが、ここでは知識ないしは理論をさしてイエスは言っています。

                    

<「真理」とは不変の知識>

「変わらない理論」とは「究極の理論」でもあります。
人間がみずから物事を観察して得る知識・理論は変わっていきます。改善されていくと言ってもいいです。

 宇宙に関する知識を振り返ってみましょう。
 望遠鏡が出来る前には、人間の観察出来る頭上の空間は肉眼で見える範囲のものでした。
それだけの情報のもとでは、地面が平らで動かず、天がそれを取り巻いて回っているという風にしかみえません。
だからみな天動説という理論が正しいと信じて疑いませんでした。

 ところがガリレオが望遠鏡を発明して観察できる空間が拡がると、事態は変わりました。新しく見えてきた天文事象が天動説では説明が難しくなった。そこで地球も含めた惑星が太陽の周りを回っているという風に理屈を変えると、新事象も矛盾無くつながってくれた。こうして地動説の方が正しいことになりました。

 このように人間が正しいと思う理屈は観察できる範囲が広がるにつれて変わっていきます。
改善されていくと言ってもいい。これは変わる可能性のある理論でして真理ではない。
仮説(仮に設定した説)といって、改善・修正される余地を持つ理論にすぎません。

 変わらない宇宙知識をうるには少なくとも空間にある全存在が観察されつくしていることが必要です。
もうこれ以上観察空間は広がらない、だから理論は変わらないという状況が必要だ。
その上でこの「全存在のありかたに正しく対応している理論」そういう究極の知識が真理となるのです。

                    

<人間の知識は皆「仮説」>

  だけど存在するものの全てを認識することなど人間の力でできません。
いま空間についてみましたが、それだけでも限りなく果てしなく拡がっています。
対して人間は限られた有限の範囲しか観察できません。

 地動説だって、太陽とそれを巡る惑星だけの空間、いわゆる太陽系だけが観察できた上での理論です。
だが、宇宙は果てしなく広がっていますよね。
パップル望遠鏡やペースシャトル技術によって宇宙にはその他に一千億個の銀河系があるらしいこともわかった。
けれどもそれだって限られた空間です。さらに宇宙だって有限の空間ですよ。宇宙の外は無限に拡がっているはずだ。
その全てを観察するなど、人間にはとうてい出来ません。
だから究極の理論、もうこれ以上改善されないという知識などは人間には作れないのです。

                            

<唯一の例外事態>

   となれば「真理を知ること」は人間にはできないことになります。残念だが仕方がない。だが、例外事態もあります。
もしもすべての存在(万物)を創った創造者がいるならば、その方はすべてを観察できていますよね。
テレビを造った人間がその存在目的も仕組みも全て知っているように、万物の創造者は自分が創った全存在を知っているはずです。

   そしてもしも、この創造者が人間に全存在の有り様をふまえた啓示を与えてくれて、人間がこれを受信して言葉に記録したとすればどうか。
だったらその言葉は人間にとって究極の知識、真理を知るという夢を実現する手がかりとなるはずでしょう。

 そして「自分がその手がかり集だよ」と自ら述べている書物がこの世に存在している。
そのつまるところの真偽は確かめられねばなりませんが、ともかく、そう自称している書物が存在しています。
それが聖書で、広くいえば旧約、新約を含めた全体がそうですが直接的には旧約聖書です。

                    

<真理を知る夢を含んだ書物>

   この、夢を含んだ書物の成り立ちはこうなっています。
今から数千年前、万物の創造者が人間に向けて啓示(メッセージ)を送っていると信じる民がいました。
啓示だから誰もが受信できるものではありませんが、霊感の飛び切り豊かな者は受信出来ると信じていた。

   この霊感人間を聖書では預言者といっています。「予」言者ではありません。
定期預金というように「預」は「あずかる」という意味です。
聖書では「万物の創造主からの啓示を豊かな霊感でもって受信し、言葉でもってあずかる人」となっている。
この預言者の受信記録を古代イスラエル人、いわゆるユダヤ民族は保存・蓄積し続けたのです。

  最初の預言者モーセから、以後千百年間にわたって出現した預言者たちの啓示受信集が旧約聖書です。

  これがホントに万物の創造者からのメッセージ記録なのか。預言者たちの単なる思い込みではないのか。そのあたりはただちにはわかりません。
ですけれど、真理という究極の知識を含んだメッセージ記録集かもしれない。そういう可能性、夢があることは筋として否定しきることはできません。

人間が考え出す知識は、可能性ゼロですよ。それは最初から可能性がない。
だけど、こちらの方法論でこられたら、完全否定はできないです。
だって、預言者の受信したメッセージが万物の創造者のもので「ない」、ということは証明できないからね。
創造者からのものと証明もできないが、そうでないとの証明もできない。

そういうものは、合理的にいって、出発点では可能性は五分五分です。
その意味での希望を持った書物、人類に与えられた唯一の「真理の希望の書」これが旧約聖書です。

                   

<イエスは「真理の書」であるとして説き明かした>

  後に登場したイエスは、これを「真理が含まれた書である」としました。
そしてそれを解読して「真理はこうだ」と説き明かしました。それが本日の聖句に繋がっています。

「諸君が私の言葉にとどまるなら・・・真理を知る」がそれです。
「まことの弟子になる」や「真理は諸君を自由にする」は後にして、
とにかく「イエスの言葉にとどまれば真理を知る」ということの意味はそういうことです。

                    

<イエスが説き明かして初めてわかる>

  「イエスの言葉にとどまれば真理を知ることになる」とは
「人間には旧約聖書の言葉そのままからは真理を読み取れない」「イエスの解き明かしによって認識できる」ということでもあります。

 で、その解き明かしが新約聖書に書かれていることになります。
でもイエスが直接的に明確に解き明かした旧約聖書の聖句はすべての旧約聖句ではありませんでした。
弟子たちを含めて後の人々が解読すべき聖句が大量に残った。
旧約に真理が埋め込まれているとしてもそれらしきものは一つではありませんでした。
無数にある存在の各々に関する真理が多数埋め込まれているはずだった。
人間に関する究極の知識、宇宙に関する究極の知識等々限りがない。
旧約聖書はそれらを含んだ究極の知識集、真理集らしかった。

 実際、弟子や信徒が旧約聖書を解読すると(イエスが語った言葉を手がかりにしながら)
どんどんと真理らしき知識がわかってきました(わかる毎に深い感動を得ました)。
そこでイエスが解き明かさずにおいておいた部分を、後の信徒たちは解読してきています。これが聖句の吟味・解読活動です。
そして個々人各々がわかっただけの真理が、その人の聖書とイエスへの信仰(信頼心)を形成していきます。
だから「キリスト教活動の神髄は聖句吟味にある」ことになるのです。

                   

<ヨハネ伝は記録と一部の解き明かし>

 イエスの伝記(福音書)にはイエスの言葉が記録されています。伝記は四本、新約聖書に収められています。
各々別の著者が書いています。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネです。
そのうちヨハネはイエスの側近として付き従いました。彼とペテロはイエスの鞄持ち、助さん、格さんでした。
だからイエスの言動を直接受信して書いている唯一の伝記著者です。
他の三人はイエスがいなくなってから取材して書いていますが、ヨハネは取材の必要がなかった。

 取材した情報には、不確かな感じが残ります。「・・・といわれている」という感じが残る。
ヨハネは直接見聞きしていますから、そういうことはありません。
それもあって、彼は記録だけでなく、それを踏まえた彼の解読、イエスという存在、その言動への解読をも記しています。

 「ヨハネ伝」はそういう、特別な福音書です。その福音書の解読を鹿嶋は創造的誤読を恐れず、自己流にやっているわけです。
気がついたら300回を超えていますね。


                    

 

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