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「ジュネーブアカデミーの当時の学生名簿はありますか?」
と尋ねると、司書さんは「ある」と応えました。
「内部を観たいのですが・・」というと、自らの手で(鹿嶋には触らせないで)開いて見せてくれました。
+++
カルヴァンはある時、自らのプロテスタント神学を欧州の若者に伝えるべく、ジュネーブ共和国に神学校を設立しました。それがジュネーブアカデミーです。
彼はそこで育成した若者を、全欧州に放ちました。
<長老派教会国教に>
英国の卒業生たちは、英国スコットランドでカルバン神学を広め、教会を設立していきました。それが長老派教会と呼ばれるようになりました。
彼らは英国教会が国教だった英国において、これと戦い長老派教会をスコットランド地区の国教にまで仕立て上げました。英国の北半分が、カルヴァン主義教会を国教にするようになったのです。
<オランダ独立運動>
オランダではカルヴァン神学思想は、独立戦争を引き起こしました。
当時この地域は、カトリック宗主国スペインの属領になっていました。これにたいして人々は80年間という気の遠くなるような長期にわたり、カトリック勢力と戦い続けました。
この根気はどこからやってくるのでしょうか?
昔のカトリック軍隊は、ブッチャー(屋)ともいうべき存在で、異教徒を魚を料理するように殺していきました。あちこちで大殺戮を受けながら、オランダ人はとうとう独立を勝ち取りました。その理念の種は、ジュネーブアカデミー卒業生がまいたものでした。
カルヴァン派の教会は、オランダではオランダ改革派教会、と呼ばれるようになりました。
<ユグノー戦争>
フランスでも、カルバン神学は卒業生たちによって広められ、改革派の教会が各地に出現していきました。これを絶滅させようとしてカトリック軍隊が動き、宗教戦争が始まりました。
フランスのカルヴァン派は「ユグノー派」と呼ばれました。それでこの戦争は「ユグノー戦争」とも呼ばれています。
フランスでは、カトリック勢力が強固で、途中二転三転しながらも、最後はカトリックが支配権を手中にしました。けれどもジュネーブアカデミーがこの国で巻き起こした渦は、やはり強烈なものがありました。
それは後のフランス革命の理念地盤になっていきます。
<気宇の大きい人物だった>
一般に、「ルターはドイツにプロテスタント運動を開花させ、カルヴァンはそれを全欧州に拡散させた」といわれます。まさに彼の働きは人類史船の舵をぐいと切り変えるものでした。
インク手書きの名簿には、入学生の名前と出身国が列挙されていました。初年度からかなりの数の留学生を受け入れ、2年目にはその数は二百数十名に達していたように記憶しています。
これには春平太は驚きました。
普通、新しい学校を始める時我々は、「小さく産んで大きく育てる」というようなことを考えます。でも、カルヴァンにはそんな観念は毛頭なかったようです。
自分の寿命の残っている間に、全欧州に宗教改革を根付かせねば、と考えたのでしょうか。最初からすごい数の学生を受容していった。どうやって面倒みたのだろうか、その費用の捻出は? 鹿嶋のような凡人は考えてしまいます。
カルヴァンは気宇の大きな人物だったんですね。大物官僚の器。
手書きの名簿は当時の空気をなまなましく発散し、またしても唖然と口を開ける春平太でした。
「ジュネーブアカデミーの当時の学生名簿はありますか?」
と尋ねると、司書さんは「ある」と応えました。
「内部を観たいのですが・・」というと、自らの手で(鹿嶋には触らせないで)開いて見せてくれました。
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カルヴァンはある時、自らのプロテスタント神学を欧州の若者に伝えるべく、ジュネーブ共和国に神学校を設立しました。それがジュネーブアカデミーです。
彼はそこで育成した若者を、全欧州に放ちました。
<長老派教会国教に>
英国の卒業生たちは、英国スコットランドでカルバン神学を広め、教会を設立していきました。それが長老派教会と呼ばれるようになりました。
彼らは英国教会が国教だった英国において、これと戦い長老派教会をスコットランド地区の国教にまで仕立て上げました。英国の北半分が、カルヴァン主義教会を国教にするようになったのです。
<オランダ独立運動>
オランダではカルヴァン神学思想は、独立戦争を引き起こしました。
当時この地域は、カトリック宗主国スペインの属領になっていました。これにたいして人々は80年間という気の遠くなるような長期にわたり、カトリック勢力と戦い続けました。
この根気はどこからやってくるのでしょうか?
昔のカトリック軍隊は、ブッチャー(屋)ともいうべき存在で、異教徒を魚を料理するように殺していきました。あちこちで大殺戮を受けながら、オランダ人はとうとう独立を勝ち取りました。その理念の種は、ジュネーブアカデミー卒業生がまいたものでした。
カルヴァン派の教会は、オランダではオランダ改革派教会、と呼ばれるようになりました。
<ユグノー戦争>
フランスでも、カルバン神学は卒業生たちによって広められ、改革派の教会が各地に出現していきました。これを絶滅させようとしてカトリック軍隊が動き、宗教戦争が始まりました。
フランスのカルヴァン派は「ユグノー派」と呼ばれました。それでこの戦争は「ユグノー戦争」とも呼ばれています。
フランスでは、カトリック勢力が強固で、途中二転三転しながらも、最後はカトリックが支配権を手中にしました。けれどもジュネーブアカデミーがこの国で巻き起こした渦は、やはり強烈なものがありました。
それは後のフランス革命の理念地盤になっていきます。
<気宇の大きい人物だった>
一般に、「ルターはドイツにプロテスタント運動を開花させ、カルヴァンはそれを全欧州に拡散させた」といわれます。まさに彼の働きは人類史船の舵をぐいと切り変えるものでした。
インク手書きの名簿には、入学生の名前と出身国が列挙されていました。初年度からかなりの数の留学生を受け入れ、2年目にはその数は二百数十名に達していたように記憶しています。
これには春平太は驚きました。
普通、新しい学校を始める時我々は、「小さく産んで大きく育てる」というようなことを考えます。でも、カルヴァンにはそんな観念は毛頭なかったようです。
自分の寿命の残っている間に、全欧州に宗教改革を根付かせねば、と考えたのでしょうか。最初からすごい数の学生を受容していった。どうやって面倒みたのだろうか、その費用の捻出は? 鹿嶋のような凡人は考えてしまいます。
カルヴァンは気宇の大きな人物だったんですね。大物官僚の器。
手書きの名簿は当時の空気をなまなましく発散し、またしても唖然と口を開ける春平太でした。
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