聖書を探求し始めてしばらくすると、その解釈を巡って信徒や牧師さんが互いに攻撃し合うのが目についた。そのとき、「学び合い」は消滅している。各々が自分の解釈にしがみつくのみだ。
これがなくならないと、聖書は知力向上に役立たない。どうしたらなくなるか? この問題意識は長期の間、解決されないままで私の中に留まった。
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解決は、現場を体験することで発見できた。米国南部、サザンバプティスト地域の教会で行われている、聖句自由吟味主義とでもいえる聖書への取り組み方〔メソッド)を実施している現場だ。
教会メンバーは、まず個々人が聖句を自由に解読する。そして日曜礼拝の前に、数人の小グループで自由吟味会を開く。礼拝での牧師のメッセージも、牧師の個人的解釈であることを大前提に、なされる。
この聖書処遇の姿勢を、彼らはバイブリック(Biblic)と言っていた。
そういう英語は辞書にない。サザンバプテストのあいだだけで使われる用語なので、英語の辞書にはまだ掲載されていないのだ。
邦訳すれば、「〔常に)聖句それ自体を最終権威として」といったところか。
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ということは、いかなる解釈にも最終権威は認めない、という姿勢だ。
実はこの姿勢は、初代教会で採用されていたスタンスだ。
そして、それが予想外の恩恵を人類に与えていた。
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筆者の場合それは、現場の教会に参加することで、はじめて認識できたことであった。
これを現場体験のない人に説明するには、多くの言葉の追加が必要になる。
だが、それを順を追ってやっていくのは大変だ。
では、いくつかの断片を、打ち上げ花火的に、記したらどうか?
そんな開き直りのような気持ちになってきている。
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