鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

教理は真理になりうるか?

2021年04月03日 | キリスト教の正しい学び方
 最終権威は聖句にあって、その解釈は複数通りできる。そこからできあがる教理の正しさは、相対的なものだ・・・・前回それを示した。
 そういうと、では教理には真理はないのか、だったら聖句解読〔解釈)なんてする意義あるのか? そういう疑問が心に湧くだろう。
 
<真理という日本語>
 
 これについては、真理という日本語の意味を、改めて考えねばならない。
 
 この英語はトルース(truth)で、その原義は「変わらざるもの」であり、多くの場合それは「変わらざる理論」をいっている。
 「変わらざるもの〔理論)」という概念は、幕末までの日本にはなかった。
それは聖書の中だけにある言葉だった。
 
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 初の聖書邦訳者ヘボン先生は、これには頭を悩まされた。
どう訳したら、日本人はわかるだろうか。
 
 思案のあげく、真実の「真」という語と「理(筋道、理論)」ということばを組み合わせて「真理」の語をつくった。
そしてこれに「まこと」というふりがなをつけた。ヘボン先生苦心の造語であった。
 
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 だから、真理の真意は「変わらない理論」だ。
それは「究極的に正しい」理論を意味する。
そういう理論があるならば、それはもう、修正して変えられることなく存在し続けられるだろう。
けれども、そんな理論知識に解読者はたどり着けるだろうか?
 
<科学の経験>
 
 それには科学の知識が参考になる。
 科学というのは、「認識対象を五感で経験認知できる範囲に限定」して行う、認識のやりかただ。
そこには、誰もが納得できる五感経験によって、確実な認識を得よう、という志がある。
 
 その科学において、発見される事象のつながり、筋、は理論で表される。
だが、科学者はそれを決して真理とは呼ばない。素晴らしい発見も皆「仮説」という。
 
 仮説とは「仮に設定した説〔理論、理屈)という意味だ。
仮だから、常に、新しい事実がわかったら修正される余地を持っている。
 
<聖句の論述範囲>
 
 一方、聖書で記述されている世界はどうか。
それは五感認識界に加えて、五感では経験できない領域も含めた広大な世界だ。
これを認識対象にして言葉で記述されているのが聖句だ。
 
 その聖句の間に発見される理論が、修正余地のない真理になりうるはずはないだろう。
みな仮説以上のものになり得ない。
 
<真理は遠望して探求され続けるべきもの>
 
 聖句を解釈して得られる理論、すなわち、教理というのは、みな仮説なのだ。
もちろん解釈努力している人は、真理を希求して行っている。
その気持ちは痛いほどわかる。
 
 だが、現実には究極普遍の教理には、人間はたどり着けない。
究極の真理は、科学と同様に、永遠に憧れ遠望して追求し続けるべき存在なのだ。
 
 これに気づくと、バイブリックという思想は、人間の現実に沿った、着実な思想であることがわかってくる。
 
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