教理を作ることを聖句を「解釈する」ともいう。そして聖句解釈は一つしか出来ないのではなく、基本的にいろいろにできるものだ。
一人の人間の人格を他者がいろいろに解釈できるように、聖句解釈もいろいろ出来るのだ。
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だが解釈している当人は、正しい解釈をしたいと思って出発している。
言い換えれば「真理を求めて」スタートしている。
だから一つの正しい教理を得ようと思って、解釈を試みる。
そして出来た解釈を最も正しいと思う傾向を持つ。
「最も正しい」という思いは「正統」とも表現できる。
この言葉を使うと、「正統な解釈」、あるいは「正統な教理」ということになる。
Aさんは、自分の解釈を正統と思いがちなわけだ。
これは自然の情であろう。
それはBさんも同じで、自分が到達した解釈を正統と思いがちだ。
<正統論争>
そこでどちらが正しいかをめぐって、論争が起きる。
でも決着は基本的につかない。
やってみるとわかるが、そもそも解釈はいろいろに出来るものだからだ。
ときには口争いに留まらず、つかみ合いのけんかになることもある。
それが人情だ。
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前々回に述べたBiblicという思想は、このどうしょうもない状況を避ける一つの知恵でもある。
「そもそも教理というのは、最高の権威を持つものではありませんよ。聖句こそが教理に勝る権威を持っているのですよ。それを認めましょう」とこの思想は言う。
「認めると、あなたの作った教理も、その妥当性を常に聖句に照らして吟味されるべき存在と考えられるようになりますよ」とバイブリック思想はいうことができる。
こうやって、一つの教理〔解釈)を絶対視しないで相対視するのを可能にしてくれるのだ。
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