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徒歩旅行、世界一周、3万4千キロ

過去の世界徒歩旅行の記録を紹介

世界一周、徒歩旅行、総集編-1037

2016-06-23 10:03:36 | 世界徒歩旅行
発展した時代、昭和に生きた若者の徒歩+ヨット旅日記
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世界徒歩大旅行記3万4千キロを終え、ヨットまで
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日本、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの約15,000kmを歩き終わり、1983年10月10日から1985年9月27日まで約2年間シンガポールからポルトガルのヨーロッパ大陸最西端であるリスボン近くのロコ岬まで約19,000km徒歩で横断。
その後、ポルトガルからヨットに乗るストーリー

15、旅でのいろいろ総括 – 656

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インド、バラナシのインダス川の川辺。洗濯、沐浴、トイレ、水葬すべてが同時に進行している。


6、さまざまな水事情

水溜りから飲んだことも

 日本は水の国といわれ世界でも数少ない水の美味しい国である。
他の国々ではさまざまな味、色、重い、軽い感じの水などがあり、また苦労もした。

 「これは雨水だから美味しい、飲め!」とオーストラリアではよく言われた。
この国の田舎には水のパイプラインで水を得ることが出来るが、その水がまずい。
それは鉄や砂が水に入っていて、重い感じの味がするのであった。また、この国の井戸は塩水が多い。
だから、ボウフラがわこうが、ゴミが入ろうが雨水は貴重なものであった。
屋根に降った雨水をトイを通し、タンクに溜めているのであった。
砂漠の中では屋根とタンクだけの非常時のための施設もある。
その水を何年も置いておいても大丈夫なのは、砂漠で病原菌が少ないからであろう。
他にこの砂漠ではにわか雨が降った時に道路わきに溜まった水を飲んだこともあった。

 またこのオーストラリアではこんなことがあった。
「もう、この国の一番苦しい砂漠は越えた。」と思ってメイン路から離れた田舎道を歩いていた時だった。
前もって、地図に名前があるので、ここでは水と食糧が手に入るか確認の意味で人に聞いた。
その答えが「はい」だったので、何の用意もなく昼にその町で水と食糧を手に入れるはずであった。
そこに着いて見ると、そこには壊れたコンクリートタンクがあるだけで、影さえもなかった。
ショックで目の前が真っ暗になってしまった。
次の町までは30km、温度は40度を超えていると思うとショックが大きかったのであった。
地図を見ると「Creek」(小川)の印が書いてあった。
雨が降った時の小川であることが分かっていても、そこに水があることを期待してしまった。
そこまで歩いたが、水がないことが分かると、舗装されていない道に座り込んでしまった。
そこに本当にたまに通った車が来た。私の横で止まり「さあ早く乗れ!」と言う。
「それは出来ない。」と私が言った。「とにかく水を飲め!」と車の人が言った。
その時、貰った水だけを飲み、その後の30kmを歩くことが出来た。本当に水をくれた親切な人ありがとう。

 食堂で水を飲んでいると、隣のインド人旅行者が店に文句を言っていた。
「この水は汚い。」と言っているのだった。私はもうすでにその汚い水を飲んでいたのであった。
私の飲んでいる水を見るとインド人が言うように底が見えないくらいに濁っていた。
この会話はネパールのあるドライブインでのことであったが、私自身も自分にあきれてしまった。
私もこの国々を歩いている内に現地に慣らされてしまったのであった。

 インドのバラナシは聖地で有名だ。
水葬、洗濯、沐浴、トイレ、その聖水で口の中まで清める。何でもこのガンジス川で行う。
これと同じ様にバングラデシュにも聖水として家の横にため池がある所があった。
洗濯の泡がある横で、その聖水でそこの人は口をゆすいでいた。

 インドの井戸では井戸端で洗濯、水浴び、皿洗いをしているから、その水がまた井戸の中に入って行ってしまう。
私は暑いからその横でバケツからくみ上げた水を嫌だと思いながらも、飲んでいたのであった。
その他、インドでよく泊まったドライブインでは飲む時に使う水差しを何処にでも置くのであった。
汚い地面でも平気で水差しを置いて、水を溜めてある水ガメからそのままじかに水を汲むのであった。
水差しの底についたものはすべて水ガメで洗い落とされるのであった。
こんなことが気になるようでは私はあまりにも神経質なのかもしれない。
この様に気にしながらも、水を選んでいられない状況だから、どんな水でも飲んだ。
しばらくすると透明でない水を飲んでも気にならなくなったのであった。

 アジアでは大きいのをした時にトイレットペーパーの代わりに水を使った。
大変清潔でいい。インドなどでは「大便がしたい」と私が言うと水差しをくれて、広い田んぼを指差すだけであった。
その意味するところは、その水差しを持って何処でもいいからして来い、、、、ということであった。
だから、朝は人々が手に手に水差しを持ちながら田んぼに向かう姿を見かけたのであった。

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筆者は現在、韓国に在住して、以下の様な韓国ビジネスサポートをしています。韓国に関して聞きたいことがあれば、そのホームページをご覧になり、お聞きください。
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世界一周、徒歩旅行、総集編-1036

2016-06-10 09:52:26 | 世界徒歩旅行

発展した時代、昭和に生きた若者の徒歩+ヨット旅日記
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世界徒歩大旅行記3万4千キロを終え、ヨットまで
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日本、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの約15,000kmを歩き終わり、1983年10月10日から1985年9月27日まで約2年間シンガポールからポルトガルのヨーロッパ大陸最西端であるリスボン近くのロコ岬まで約19,000km徒歩で横断。
その後、ポルトガルからヨットに乗るストーリー

15、旅でのいろいろ総括 – 655


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お世話になったスイスの家。右のおばあちゃんが親切にしてくれた。私は一番左。
私が着ているのは私の持っている唯一の服であった。


5、旅先でのトラブル

忘れられぬ多くの親切

 砂漠には何もないはずなのに、オーストラリアの砂漠にこれほど蝿がいるとは思わなかった。
私の担いでいるバックパックを置くと、それが真っ黒になるほどの蝿の数であった。
しかも、歩いている速度は蝿がついて来るのに丁度いい速度なのだ。
砂漠には蝿がたかるところが少ないからか?私に蝿が集まって来た。
主に、蝿は水分がある私の目と口を狙って来るのだが、やはり顔に来るのは嫌なものだ。
原住民を見かけたときに彼らの顔に蝿がついても気にしていないようだった。だから、彼らがうらやましい。
その嫌な蝿を撃退する為に、初めは蝿が飛ぶ方向を予測して手と手で叩き潰していた。
それではあまり当たらないので、次に顔に止まった蝿を手で叩いていた。即ち、手と顔で叩き潰していたのであった。
だが、それを続けているうちに顔がヒリヒリするし、潰した蝿が臭うように思うので閉口した。
とにかく、絶対数が多いので、潰しているだけでは何の対策にもならない。

次に考えたのが、虫除けのスプレーを顔にかけることであった。
それをしたら、その薬が汗で流れ、目に入った時には目が痛かった。

また、その次に考えたのは 窓に虫が入らないようにするスクリーンを帽子に着けた。
これでは蝿は防げるが思ったより風通しが悪いので、暑くて耐えられなかった。
結局もとに戻って、「気にするからいけない。これも自然が課した訓練だ。」と思うことにした。
そう思うと顔に止まった蝿もしばらくすると飛び立っていくのであった。
蝿の存在は人間の訓練のためなのかとも思ったのであった。

 オーストラリアの砂漠では家がない所が多く、食糧を確保しなければならなかった。
ある時に3日分のハンバーガーの肉を焼き、それに合う数のパンも持って行った。この砂漠では野菜が手に入らなかった。
そして、初めて開いた昼食にそのハンバーガーの肉を見ると無数に動く物が見えるのであった。
それはよく見るとウジであった。
前日に肉を準備した際、熱いので冷やすために肉を何も覆わずに置いていたから、蝿が集って卵を産んでいたのであった。
その昼食を食べる前そのウジを必死で取ったのだが、、、、、、まあ、、ウジもハンバーガーの栄養を取っているのだから、汚くないかと思ってハンバーガーを食べたのであった。
その次の夕食、残っている肉を見たらやはり、まだウジがいたのだ。その上、驚いたことにそのウジが大きくなっているではないか????
また、仕方なく、うじを取って食べたのであった。。。
次の日もウジはまだ残っていて、同じように大きく成長しているのであった。。。。

 このオーストラリアではアリにも悩まされたものだ。
アリに噛まれたり、テントに穴を開けられたり、食糧の中に入ったりであった。
食糧の缶詰の中に入ったアリなどを食べたことから、アリにもいろいろな味があることを知った。
ミントのような味のアリもあったのであった。
また、砂漠で少しの影を見つけて休んでいても、足を伝わってアリは上って来るのであった。そして、男の大事なところまで来て咬むのには閉口した。

 アジアでは原因不明の熱が出た。
そんな時には暑い気候でも冬に使う寝袋をかぶって無理に夜の間に汗を流してでも野宿をしたものであった。
次の日はふらふらしながらとにかく病院があるだろう町まで歩こうと自分に言い聞かせながら歩いていると不思議と治るのであった。
 インドではよく微熱が出て、食事をしたら下痢をした。
普段、元気な時には一回も休むことなく20km~60km歩けるのであったが、それができなかった。
不思議と2~3km歩いたら、息切れがして休まなくてはならなかったのであった。それほど体の調子がよくなかった。
そんな中、やっとデリーに着き、いろいろな情報を集めて、原因を解明すると回虫と肝炎ではないかというのであった。
回虫はその後、薬を飲み3日目に20~30cmの回虫が出て治まったが、肝炎はその後また、熱が39度以上の日がしばらく続いた。
これらの原因は生野菜をそのまま食べたり、現地の食器をそのまま使っていたからであろう。
幸いなことに、肝炎は慢性ではなかったので、デリーで2週間、現地の薬を飲み、汗を出したら治った。
歩けるようになってからも少しは疲れたが、その内にもとのように歩けるようになった。
この病気の期間はインドの食事が安いのにもかかわらず、インド料理が食べられないので、自炊をして食べた。

 他にも砂漠では乾燥し日差しが強く、唇から血が出た。普通、このように日差しが強いのであれば、白い色のクリームを塗り日焼けの予防をするのであるが、そのような準備はしていなかった。白人などは鼻のところに紙の帽子を被せることもある。
他の旅でのトラブルは大晦日に浮浪者と酒を飲み換金したばかりの現金をとられたりもした。
その他にも数え切れないほどのトラブルがあったが、それは私にとって良い経験であった。

 トラブルも良い経験なのだが、何と言っても人々からの多くの親切は忘れられないし、それによって歩くことが出来たと思っている。
今まで知らなかった人が宿泊させてくれ、食事をくれ、洗濯をしてくれ、おまけに破れたズボンを縫ってくれた。
それらの親切の前に私は嘘をつけないのだ。屈服せざるをえない。
だから、チャンスがあればいつか彼らに恩返しをしたいと思うのである。
人の親切に敏感でいるためにも、親切を期待してはいけない。
自分で最善を尽くして努力しているとき、人の親切を実感するのだ。
その点、今の世の中ではあまりにも人の親切に期待をしているのではないだろうか?
例えば、ヒッチハイクのことである。私も学生時代にお金がなくなりヒッチハイクをして実家まで帰った。
これは一度してみたいと思ったからであるが、このヒッチハイクというのは旅をする出発の時点で、考えが「乗せて行ってくれ、助けてくれ!」ということだ。
親切をおねだりしているのだ。
アメリカでは何かを必死に行っているときに、「お前は何をしているのだ。」と人が興味を持ってくれる。それで、共感してくれたら協力してくれることがよくある。
この様に人は何か全力を出し行っている姿に「助け」があるべきではないかと思うのである。
何も始めていないのに「助け」を期待してはいけないように思うこのごろである。


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筆者は現在、韓国に在住して、以下の様な韓国ビジネスサポートをしています。韓国に関して聞きたいことがあれば、そのホームページをご覧になり、お聞きください。

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世界一周、徒歩旅行、総集編-1035

2016-05-23 09:32:29 | 世界徒歩旅行

発展した時代、昭和に生きた若者の徒歩+ヨット旅日記
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世界徒歩大旅行記3万4千キロを終え、ヨットまで
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日本、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの約15,000kmを歩き終わり、1983年10月10日から1985年9月27日まで約2年間シンガポールからポルトガルのヨーロッパ大陸最西端であるリスボン近くのロコ岬まで約19,000km徒歩で横断。
その後、ポルトガルからヨットに乗るストーリー

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ギリシャの街でどこでも寝ている怠惰な犬達。

4、犬との“戦争” 

小石を投げて対抗

 どの国も田舎では家を守るために番犬を飼っていた。
だから、家の横や囲まれている土地の横を過ぎ去るとき、歩きであるがゆえに、この犬との問題を離れることが出来ない。
どの犬も飼い主に忠実である。主人の土地を外敵から守るすばらしい動物である。
その犬の性格を利用しアメリカの田舎では放し飼いにしている。その数が1匹や2匹ではなかった。しかも、その犬たちは大きいのであった。
私が家の前や飼い主の土地に近づくと犬たちがやって来て私を取り囲むのであった。
前から2~3匹で吠え後ろから隙を狙いて噛み付くのであった。彼らは計画的だ。
この時から犬との戦いが始まった。
この犬とかコヨーテ、熊、悪人などのために鉄砲でも持とうかとも思ったことがあった。
しかし、鉄砲を持つと悪人などは本気だと思いそれだけ見ただけで、相手が先に発砲するだろうと思った。
また、鉄砲は重たい。だから、鉄砲を持つことをしなかった。

 ところで犬を観察すると、私自身の気持ちに非常に敏感に反応をする。
強気でいると遠くで吠えるが、犬の数が多く私の方が弱気になると見るや犬は容赦なく咬み付こうとした。
また、通り過ぎた後、私が気を緩めた後ろ姿を犬は狙った。
他にも、犬は威嚇をして相手を知ろうとする。彼らにとって苦手なことは石を投げられることである。
そんな訳で私は威嚇の一呼吸後、石を持てば何とかなるし、犬との距離が近ければその石で犬に当てる可能性が高いことが分かった。
しかし、砂漠や雪の中では石を見つけることが出来ないので困ったが、そんな時は絶対に負けないと思い込むだけであった。
その気迫が大抵の犬に伝わるからだ。

 トルコで毎日のように犬に吠えられていたある日、咬まれることはもうないと思っていたが、2匹の犬が突然、威嚇なしにストレートにやられた。
それで私の右側の足の付け根を咬まれたのだ。その後、その犬の飼い主の家まで行き、薬を簡単に付け、治療を受けたが、彼らが悪いことをしたという感じではなかった。
形だけの消毒とお茶を出してくれただけで、破れたズボンを縫ってくれるわけでもなかった。
破れたズボンを見せたら、針と糸を私に渡しただけであった。どうなっているのだこの人たちは???
こんなことでこの国は先進国ではないなと思ったのだった。

 そこで後でどうして咬まれたのか考えてみると、飼い主の子供が私を見て咬むように命令したのではないかと思うのだ。そうでなければ犬は忠実なので威嚇もなく人を咬むことはないのだ。そう思うと本当に犬とは忠実な動物なのだ。

 そんな犬でも飼い主のないものはかわいそうであった。
犬は飼い主のいる小さな犬に大きな犬でもイジメられ、そのような犬はどことなく元気がないのであった。
その飼い主のいない犬が私を見つけるとシッポをおもいっきり振ってついて来た。
それは主人ほしさのためであろうが、私はそんな時に困った。
何故なら、私について来ても私は犬に餌をあげるわけにもいかず、何もして上げられないからであった。
そう思うとシッポを振りながらついて来る犬を可愛がることなく冷たく見放すのであった。
その犬がガソリンスタンドまでついて来て、そこで新しい主人を見つけた時はホットするが、私についてくるがために、交通事故に合った犬がいた。
私はその時、自動車の行き来が多い幹線道路を歩いていた。道路の横にはフェンスがあり、人が入ってこれないようになっていた。だから反対に道路から外にどこからでもは出れないような所であった。そこに主人のいない犬がついて来たので、私の目の前で跳ねられ、死んで行ったのであった。可愛そうに!!!!
そんな時はどうして、前もって、もっと気持ちを冷たくし、石でも投げて追い払わなかったのだろうかと、死骸を道路の片すみに片付けながら思うのであった。

 話は変わってヨーロッパではこんなことがあった。
ヨーロッパのドイツやスイスなどでは公園にペット用の糞をする所まである。そこでのことであった。
近くを通り過ぎようとした時にヒツコク犬が吠え、咬み付こうとしたのであった。
それで日頃から犬には欲求不満なところがあるから、当たるとは思わなかったが、蹴ったのであった。
それがその都会の中で育った犬にはよけることが出来ずに綺麗に当たったのであった。
これほど気分がいいことはなかった。今までの恨みをすべて晴らしたように思ったのだ。
ところが、そこには飼い主がいて、何だカンダと言うのだった。これが今までとは違い文明国というものなのだ。
この国でトルコのように私が咬まれていたら、病院に行き、ズボンを弁償して慰謝料までもらえたのであろう。
とにかく、飼い主には「自分の犬をチャンと管理しろ!」と日本語で言ってやった。

 アメリカの自然の中の山道、アパラチアマウンテントレイルえお歩いている時のことだった。
そこでは冬眠から覚めた熊が出るということで、寝る時には食料は体から離し、木の上につるように言われていた。そのような状況で、昼に前から何か動く動物がいるのを感じたのであった。すごく緊張し、熊であれば、死んだふりをしなければならないかと思っていた。そして、その動く動物が近くに来てよく見たら、野生の鹿であった。目が優しく人を襲う動物でないことで安心して歩き続けた。
 よく自然の中では人間を襲うと言われている動物、アメリカでは熊、狼、イランでは狼で気を付けるように言われていた。
ところが、私はそれらは別に怖いと思ったことがなかった。彼らも人間が一番怖いことを知っているからだ。
動物は本当にどうしようもなく腹が減った時以外は人間を襲うことがまずないからである。
とにかく、自然のルールを知れば、自然の中は人間の社会より楽な気さえするのであった。

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筆者は現在、韓国に在住して、以下の様な韓国ビジネスサポートをしています。韓国に関して聞きたいことがあれば、そのホームページをご覧になり、お聞きください。

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世界一周、徒歩旅行、総集編-1034

2016-05-19 07:44:13 | 世界徒歩旅行

発展した時代、昭和に生きた若者の徒歩+ヨット旅日記
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世界徒歩大旅行記3万4千キロを終え、ヨットまで
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日本、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの約15,000kmを歩き終わり、1983年10月10日から1985年9月27日まで約2年間シンガポールからポルトガルのヨーロッパ大陸最西端であるリスボン近くのロコ岬まで約19,000km徒歩で横断。
その後、ポルトガルからヨットに乗るストーリー

15、旅でのいろいろ総括 - 653

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トルコの村を過ぎる時に注意をしなければならない子供達、だが、良い子供達もいる。

3、強盗にあったこと

トルコでは子供が集団で

パキスタンのバルチスタン(Baluchistan)砂漠では人がどこからともなく湧いて来る。人が湧いてくるという表現は適切ではないが、何もない土色のところから、突然人が現れるのである。
ある時は道もないところを歩いていると、どこからともなく、8~10歳ぐらいの子供がどこから現れたかわからないがついて来た。
私に何かを話しかけてくるのだが、はじめは無視をして歩いていたが、あまりにもうるさくついてくるので、その子供の話を聞いて見ることにした。
彼はパキスタン語で話すのでよくわからないが、よく聞いてみると「金を出せ」と言うのであった。
貧しい国を旅行すればこのようなことが日常茶飯事であるから、子供なので相手にしないで歩き続けていると、また現れて自分の背丈ほどもある農業で使う鉄のクワを持って来たのであった。
それで、その子供は私に襲いかかろうとポーズを取るのであった。
その様子を見て彼は必死で金を取ろうとしているのだと分かり、私は冷や汗をかいた。
もちろん、そのクワは簡単に取り上げることは出来たが、後で恐ろしくなったのであった。
それはこのクワは貧しい農民にとって生活必需品だ。それが無くなったら、子供の親がきっとそれを取り返しに来るだろう。
その親は子供にあの様な教育をするのだから、平気で人を殺すかもしれないと思ってしまったのであった。
この砂漠では隠れることも出来ない。親が私を見つけることはたやすいであろうなどとさまざま思いをめぐらすのであった。
また、子供から奪った重いクワをすぐに捨てたら、そのクワでまた子供が追ってきて襲われても困るし、クワを必死に探しに来られても困るので、適当な距離を置きクワを捨てた。
その後はよく後ろを振り返ったものであった。

 またその様な砂漠で突然、警察官が車でやって来て、アフガニスタンからの難民が観光客を襲うから、歩いてはいけないと言うのだ。
その警察の話では「この前も観光バスが皆殺しに遭った。」と言うのだ。
しかし、私はここで旅を止めるわけにはいかない。私自身の責任で歩くのだということを一筆書き歩かせてもらった。
そうは言ったもののやはり、人影や人々の目には注意を以前より強めたが、恐怖は隠せなかった。
 その後、前に倒れても倒れないぐらいの強い砂嵐の中、砂だらけになって国境に着いた。
そこで、無事に着いたことを警察に伝えると大変喜んでくれて泊まる所と食事を奢ってくれた。

 パキスタンの次の国、イランは石油産出国により国が豊かだからか、盗賊には襲われなかった。
しかし、知り合ったイラン人に戦争で人を殺した生々しい話を聞くと「死」は非常に近いものであると感じた。

 東側のトルコの厳冬は海抜が1500m~2000mということもありマイナス20度~30度の真っ白な世界であった。
そこは貧しいからかタカリや盗賊に遭うこともしばしばで、ある村を通り過ぎる時、12~15歳の子供10数人に「金を出せ」と言われたのであった。
彼らの中の一人はスキを狙い、ポケットに入れてあったマフラーを後ろから盗んだのであった。
そのマフラーはイランで寒くなるからと気づかって道路上、トラックの運ちゃんがくれた心のこもった贈り物であった。
そう思ったら、盗まれたということで諦めることは納得がいかなかったのであった。
私は20分ぐらい盗んだ子供を追いかけながら日本語で「それは必要なんだ」と言い続けた。
それを続けていたら、その子供達の中の一人が「止めてやれよ」というぐあいに盗んだ子供を説得し出すのであった。
その雰囲気が広まり、盗んだ子供は最後はあきらめて、私がマフラーを取り返しても抵抗を示さなかった。
この体験で集団の中にも必ずいい人がいるし、その人の心を動かせば皆が変わってくることを感じた。
それにしても人影を見ると恐怖を感じた。特に、他に誰もいない所では人が現れないか緊張をしたものであった。


 トルコのイスタンブールからはヨーロッパである。
ユーゴスラビアでは貧しいので盗賊に遭うかもしれないと言われたが恐怖を感じることはなかった。
 しかし、人の親切心につけこんで、お金を騙し取られたことがあった。
それは、フランスからの車の旅行者だという男がシンガポールから来たという女と車で旅行中、私にあったのであった。
旅行のためのお金がないから貸してくれというのであった。フランスに行ったら彼の住所のところに尋ねて行けば、お金を返すというのであった。日ごろ多くの人から助けてもらっていたので、騙されてもいいからとお金を貸してあげたが、現金を持っていなかったので、彼の車で銀行まで行きトラベラーズチェックを換えてあげた。もちろん、元いた場所まで戻り歩き出した。
この後この歩きの旅が終わり、フランスの住所の所はボルドーだったのでアルバイトも探すことを考えて、行って見たらやはりそのような住所はなかった。やはり彼はフランス人ではなく隣のイタリア人ではないかと思うのであった。イタリアではこのような詐欺をよくするからであった。

 ヨーロッパを歩いている時に感じたことは人々が心に壁をつくり、相手に出来るだけ触れず自分だけの世界にひたっていることであった。
それはヨーロッパではペットを多く飼っていることからも想像がついた。
自分の欲求不満をペットに代用しているのであった。
だからあまりヨーロッパでは刺激的なことは少なかった。
それでもスペインで知り合ったスペイン人とは親しくなり、ポルトガルまで徒歩を終えてからまた会い、よく遊んだ。そのような熱狂的なスペイン人に会った時に少しアジアを思い出したものであった。


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世界一周、徒歩旅行、追加:ヨット編-1033

2016-05-15 08:14:20 | 世界徒歩旅行

発展した時代、昭和に生きた若者の徒歩+ヨット旅日記
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世界徒歩大旅行記3万4千キロを終え、ヨットまで
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その後、ポルトガルからヨットに乗るストーリー

15、旅でのいろいろ総括 - 652

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パキスタンのバルチスタン砂漠。
砂漠の中にポツンと一軒だけあった食堂。

2、人種のるつぼアジア

“素足で大地に触れる感動”

アメリカ、アーストラリア、ニュージーランドを歩き終わった。そのすばらしい自然とそのごとく素朴な人々を後にした。
そして、もっと広くまた人種のるつぼであるアジアへいき、多くの人に会い多くの経験をしたかった。
ここでの問題は人が多いのでテントを張れなかったことである。
オーストラリアやニュージーランドでは自然が多いのでどこでもテントを張れた。ところがこのアジアは人がどこにでもいて行き来しているのである。したがって、どこでもテントを張ることができない。それで仕方なく、お寺、モスク(イスラム教の寺)、民家、食堂(レストラン)、学校、警察、安ホテルなどに泊まった。
おのずと人との触れ合いが多くなった。

 シンガポール、マレーシア、タイなど、この熱帯では果物や野菜など多くの植物が豊富であり それで人々には余裕があることからか?大変親切であった。
タイのある田舎の小学校に泊まった時には、私が英語で話したからか?英語の授業をすることになった。日本についてのいろいろな質疑応答を英語でするものであった。その中で日本の歌も歌い本当に良い先生の気持ちを味わった。
別れの時には生徒たちが涙を流してくれ、それを見て私は先生という職業に感動したものであった。

 バングラデシュ、インド、ネパール、パキスタンでは長い間の旅行でこじきのように見えたからだろうか?よく石を投げられた。
また、バングラデシュでは私の後ろに100人ぐらいの大人や子供がついて歩いたこともあった。
この辺の人々は何の楽しみもなく、それに自分より何かにおいて劣っている者を探し、優越感に浸りたいものなのだろう。
それでか?子供は歩いている私を見て「貧乏旅行者!バスにも乗れないのか!!」という具合に石を投げるわけであった。
それが分かっていてもこのことでよく腹を立てた。そのことから私もまだまだ修行が足りないと思ったものであった。
しかし、村の知識人に会い集まっている人の前で会話をして、私が目的を持って旅をしている人であることが分かるとその村の客人になる。そうすると人々の目は変わった。
それでも、その村を離れ数百メートル歩くと、人々は私を知らないので、また石が飛んでくるのであった。不思議であった。

この4つの国々は人々がゴムゾウリか裸足で生活していた。
特にネパールの人々は裸足で病人までも担ぎ、山道や砂利道を歩くのであった。
偶然、私も靴が壊れ、考えもしていなかったゴムゾウリで歩くことになった。
そればかりではくゴムゾウリの鼻緒さえも切れて仕方なく素足で山道や砂利道を歩くことになったのであった。
その時は足の裏の痛さに泣き出したいくらいであった。
その経験から現地の人々は自然や大地に触れているのだなと思うのであった。それは食物の感触までも食べる前に感じる素手で食べ、裸足で大地を感じ、大地に大便をし自然な水で拭く。彼らは本当に自然との接点が多いのだと思った。
それらから私は新鮮な感動を覚えたものであった。

 インドで数人の農民に呼び止められた。
「オイ!ネパール人、どこへ行く。」と彼らが話し、「私は日本人だ。」と私は答えた。
次に彼らは「その日本はネパールのどのあたりにあるのだ。」と言うのだ。ネパールから考えを離れることが出来ないのだ。
また、「それにしてもお前は国際語のヒンドゥー語をよく分からないようだな。」と言うのであった。
私は地面に地図を書き出し、インドの位置、東南アジアの位置、そして遠くに日本の位置を書いて説明した。
その時の彼らは何だか大きな世界を見たように驚いていたが、果たしてどれだけ理解できたのであろうか?

 この様にいろいろな国で多くの国籍の人と間違えられた。
アメリカではインディアンに「どこの種族だ。」とも言われた。
アジアではフィリピン人、ネパール人、中国人、韓国人、その他にもヨーロッパ人にまで間違えられた。
その中でも「ブータン人か?」と言われた時にはイメージが浮かばず思わず笑った。
私は地球人だ。

 パキスタンでの話である。
歩きの一日の終わりは人からいたずらされない様に見つかりにくい場所を探すのと距離を確保する為に必死であった。
その夕方の頃、小さな村の前を通り過ぎようとした時、村の人が話しかけてきたのであった。
私は言葉も分からず、気持ちに余裕もなく無視して歩き続けた。
この様なことが数回続いたその後で、そんな私を数人が腕ずくで村へ連れて行こうとするのであった。
私は「なぜ公道を歩いているだけで、止められ連れて行こうとするのだ。」と思いながら歩き続けようとした。
そうしたら彼らは本当に棒で殴って来た。血が出るほどひどく打たれて村に連れて行かれてしまった。
私はどうすることも出来ず、バックパックから私が世界を歩いているというウルドー語で書かれた新聞の記事を見せたら、何とか放してくれた。
非常に頭にきたが、後で考えたら、私も悪かったのかとも思った。
それは彼らにして見れば、私を見ておかしな人間が村の前を通り過ぎていると思ったのであろう。
だから、彼らは私の歩きを止めて聞いてみようとしているのに、無視して歩いているから無理やり捕まえたのだろう。
この様に、人とはいろいろなことがあった。

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