福谷章子のまちづくり

さまざまな役割を持ちながら暮らす中で、日々出会い触れ合う人々、街、文化、自然、出来事についてつづります。

親子三代夏祭りにて 祭りと役割について思う

2017年08月20日 | アート・文化


今日は千葉市の親子三代夏祭りに午後から約束もなくふらりと一人で行ってみました。

実は、どんなお祭りにしても、用事もなく目的もなく誘われもしないのに行くことは滅多になく、これまで参加したお祭りは、必ず何か役割があり義務的な理由があって参加していました。
たとえば今回の親子三代夏祭りであれば、10年以上前は地域婦人団体に属してバザーのテントを出したり、ある年は夜の踊りながらの練り歩きに参加するため、ある年は子どもたちとともに活動の宣伝をするために出店したり、ある年は開会式への出席など、「ねばならぬ」参加でしたがそれなりに楽しい経験でした。

考えてみたら、自由にお祭りを楽しむ習慣が私にはないことに気づきました。
そもそも身動き取れない雑踏が苦手で、立ったまま飲んだり食べたりするのが下手で、あっちからこっちから聞こえてくる音が落ち着かないのです。

というか、そもそもお祭りというものは無目的に行くものなんだろうか?
ここで楽しもう、遊ぼう、という積極的な思い無くしてはワクワク感は湧いてこないことに気づきました。
同時に、祭そのものも何かしら目的があるから続いているものなんだろう、と思います。

ちょうど到着した時間は中央公園のステージで、蓮池のおかみさんたちが中心となって、三味線の演奏をしていました。
以前、蓮池のお店で三味線を聞いたことがあります。
路地にそんな音色が流れるしっとりした街っていいだろうな・・と思いました。

大きな道路はブロックに分けて、さまざまな団体がパフォーマンスを披露し、人々が円陣を作って楽しんでいます。
こういった表現の場として、そして観衆とのコミュニケーションの場としても祭りが活かされています。
   

お神輿も練り歩いていました。
そうだ。神事としての祭りは古来からあり、だからこそ人々は大切に守ってきたはずです。

周辺の公共施設でも、さまざまなサービスを提供していました。
私は、千葉市美術館まで足を延ばしましたが、そこでは、鞘堂ホールで縁日気分と題して様々なワークショップが行われ、美術館の企画展と連動していました。
きぼーるでも、加曽利貝塚のイベントが行われていたそうです。
行政としても、日頃縁遠い市民にも、取り組みを知って楽しんでもらえるようなものになっています。

こんな風に千葉市親子三代夏祭りにはさまざまな目的が詰め込まれています。
身近な地域の祭りはどうだろう?
どんな生い立ちで何を大切にしてるものなのかということを考え、その思いを地域で共有すると何らかの役割を担いたいという人たちも増えてくるかもしれない、などと思いながら歩いていました。

途中、知り合いにばったり会い、お互い近況を報告し合うと何だか急にテンションが上がりました。
祭りは出会いの場でもあり、普段なかなか会えない人同士が近況を確かめ合うコミュニケーションの役割も果たしていると感じました。

流れ歩いてたどり着いた千葉市美術館の企画展は、「URAGAWA うらがわ」というテーマです。


この世の「うら」を覗いてみようと、妖怪の世界や、人の気持ち、物の内側などを表現する作品が並んでいます。
草間彌生、宮島達男、須田悦弘、小川信二など現代から、歌川国芳など江戸時代の作品までが楽しめます。
夏という季節感と祭りの高揚感とがしっくり合っているような気がして、楽しい時間となりました。


私が好きな須田悦弘さんの作品は2点あり、一つの芙蓉は説明者付きのわかりやすい展示となっていますが、あと1点は、ひっそり置かれています。
もしかしたら気づかずにやりすごしてしまうかもしれません。
探してみてくださいね。

ということで、祭りもその本質、言い換えれば「うらがわ」ともいえるかもしれませんが、そこについて今日は少々考える機会となりました。
それにしても、親子三代夏祭りのような大きな盛りだくさんのお祭りを、担ってくださる方々のご苦労に思いをいたし、また機会があったらお手伝いしたいと思いながら帰途につきました。


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