福谷章子のまちづくり

さまざまな役割を持ちながら暮らす中で、日々出会い触れ合う人々、街、文化、自然、出来事についてつづります。

地域の歩みと生活の変化を学ぶ

2018年03月08日 | おゆみ野の歴史


おゆみ野は1984年に街びらきをしましたが、開発の計画は1966年ごろからありました。
当初計画1000ha、最終的に605haの大開発によって生まれたのがおゆみ野です。

1校の学校も無かった台地や谷が、あっという間に今のような街になりました。

開発前にもおゆみ野には二つの集落がありました。
開発以前の人々の生活はどんな様子だったのでしょうか。
駅までの道は?
学校にはどうやって通ったの?
子どもたちの日常は?
どんな習慣や風俗がこの街にはあったの?
そんな疑問が次々と湧きます。

そこで、開発前からおゆみ野に住み、これまでの様子をつぶさに見て書物にされた、鈴木毅さんにお願いして、おゆみ野の歴史について生活者の視点でお話をしていただくことになりました。

おゆみ野は、縄文時代から息づいている地です。
1度のお話しで全てが聞けるわけではありません。
そこで、来年度に向けて連続歴史講座を予定しています。

今回は、アートタウンおゆみ野主催で開催しますが、共催の仲間が増えるといいなと考えています。
一緒に企画してくださる方も募集中です。

まずは、3月10日(土)午後3時から5時まで。
鎌取コミュニティセンター2階の会議室にお越しください。


想像を膨らませ、語り合える場になるといいね♪

2017年12月19日 | おゆみ野の歴史


加曽利貝塚にまたしても行ってしまいました。
初めは行かねばならなくて行ったのですが、その魅力に引き込まれて11月中旬から3度目です。

今日は暖かくて、お散歩日和です。
12月も下旬に差しかかろうとしてるのに、ボランティアガイドさんに誘われて歩いているグループが複数ありました。

私も時間があったので2施設を見学しました。
いずれも北貝塚ですが、住居跡を発掘してそのまま残した施設と貝層の断面をそのまま残した施設です。
  

あらためて眺めると、こうして残されているのは凄いことなのだと思います。

縄文時代の人たちがどのような生活をしていたか、どのような文化を持っていたのかなど誰にも確かなことはわかりません。
わずか7%の発掘調査の結果や、近隣地区の発掘調査結果からの推論やこれまでの研究成果などを総動員して、
「加曽利ではこうだった、のではないか」
という壮大な議論が始まっています。

加曽利貝塚は広大な地形が現存し、遺跡もそのままの形で保存され、市民の手で守られて来ました。
ボランティアガイドさんも活躍しています。

知識を学びに来るだけではなく、現地を感じてボランティアガイドさんとともに当時に思いを馳せ、あれこれ語り合ってみるのが面白そうです。
身体中で感じ体験が出来る場として、千葉市民のアイデンティティを揺さぶる場としてあってほしいと思います。




おゆみ野歴史愛好会でおゆみ野を語る

2017年03月21日 | おゆみ野の歴史


1か月ほど前に
「1時間半ほど時間があるので、何でもいいから語ってくれないか」
という依頼を、おゆみ野歴史愛好会から受け、とても困っておりました。

というのは、この会は発足して10年ほど経過していますが、その間、かなり詳細に地道に歴史に関する学びを続けています。
さらに、構成しているメンバーの人生の歴史も長い方々が多く、とても見識が高いのです。

そもそも専任講師がいて、それは元泉谷中学校の校長先生だった本保弘文さん。
その専門性の高さは、房総史譚というブログをご一読ください。

このように様々な観点で身近な歴史を学び続けている方々にお話しできることとは・・・?

悩んだ末に、学んでこられた歴史を踏まえて、今、まちづくりに踏ん張っている状況をできるだけ客観的にお話しし、未来に向けて意見交換をする場にしようと決心しました。
「歴史」に切り込むのではなく「住民自治」を柱に据えてはどうか、という入れ智恵をいただき、ピンとひらめいたのです。

泥縄ではありますが、おゆみ野を開発した事業者がまとめた報告書を読みあさり、10年以上前にまとめた研究紀要に使うために作成したおゆみ野の団体活動年表をリニューアルしてみました。

すると、昭和41年から昭和59年までの、公的機関が開発に関わりまちを作って来た時代と、昭和59年の街びらき以降の住民組織が上からや下からやと次々生まれて活動を展開してきたまちづくりの時代との対比が興味深い形で現れました。

おゆみ野は、縄文時代、平安初期、そして今という3回のニュータウン時代があった、ということも今回準備する中で知りました。

後半の意見交換も活発でした。

折しも、千葉市が産業誘致を発表した明大農場が当初のおゆみ野の開発計画に含まれていたことから、明大農場の今後のことが話題になり、
高齢者が一時的に飛び込める相談場所がどうあるべきかということに話題が移り、
最後まで活き活き暮らしたいと思っても、移動が出来ないので福祉的な輸送をなんとかしようではないか、
などと、議員時代にしばしばやっていた対話会のようになりました(^^;

歴史を語り、それをもとにして未来について考えるのは楽しい事だと実感します。

尊敬していた今は亡き考古学者が、「歴史を学ぶのは未来をよりよく生きていくため」と仰っていたのを思い出しました。

おゆみ野歴史愛好会で講演する機会をいただき、わが居住地おゆみ野の極めて近い現代について情報収集できたので、もう少し詳しく調べて見たいと思います。
良い機会をいただいたことに感謝しています。




歴史愛好会の平安時代考察

2008年11月04日 | おゆみ野の歴史

イベント三昧の3連休が終了し、きょうからまた通常の日々が始まりました。

『福谷章子の街づくり通信』が出来上がり、ただいま、事務所をあげて緑区内に配布中です。

ボランティアのみなさんによる手配りですから、行き渡るまでに少々時間がかかりますが、実に多くのみなさんにお世話になっています。

今日は早速、区民の方から街づくり通信の内容について、事務所に電話で問い合わせがありました。私が使用した言葉の意味についての確認のお電話でした。

細かく丁寧に読んでくださったことがありがたく、とても嬉しく思いました。

緑区ネットのページには、過去の通信も掲載していますので、是非ともご一読下さい。

http://www.chibanet.jp/midori/kouhou.html

最新号の掲載については、ただいま準備中。今しばらくお時間をいただければと存じます。

さて本日、午前中は「おゆみ野歴史愛好会」に参加してお勉強。

午後は、泉谷中学校に出向いて、土曜日に開催する泉谷中学校区青少年育成委員会理事会の打合せ、事務局会議でした。

おゆみ野歴史愛好会は、さくらツアーの余韻を楽しみつつ、本日のテーマは「おゆみ野の平安時代」です。

前半1時間は、みなさん、先生の講義に聞き入っていますが、後半は各自の思いのたけや質問の連発で、先生が発言する間はほとんどありません。参加者主体です。

「何故だろう・・・?」という謎解きのリレーで、聞いていてもワクワクします。しかも、謎解きが楽しめるほどの豊富な知識と経験を持っているところが、なんとも凄いのです。

私は相変わらず聞き入るばかりです。

本日、印象に残ったのは、

  • 教科書の歴史は中央の歴史であり、その財力を支えるために米を送っていた人たちの歴史ではない。
  • 武士のおこりは荘園を守るために武装した農民であった。
  • 今話題の、論文を書いて定年退職をすることになった自衛隊航空幕僚長と類似思想の持ち主は、フランスで言えばナポレオン、ドイツではビスマルクであろう。

・・・・などという事柄ですが、はてさて、おゆみ野の平安時代はどこにいったのでしょう・・・?


佐倉への歴史ツアー

2008年10月21日 | おゆみ野の歴史

Pa210001 おゆみ野歴史愛好会が主催する歴史の香りを嗅ぐバスツアーの第2弾に参加しました。

今回の香りは佐倉シリーズですが、5月の銚子とはまた趣が異なります。

現地に出向くことの楽しさを知ったリピーターや、今回始めて参加という方など総勢35名のツアーとなりました。

Pa210061 今回も日ごろ活動場所としているおゆみ野公民館が集合解散場所で、利用したバスは

千葉市が誇る高齢者バス、その名も『長寿号』です。

このバスは、一定年齢以上のメンバーで構成された団体であれば、1年に2回まで千葉市が無料で貸し出してくれます。

ご推察の通り、歴史愛好会のメンバーも歴史深き方々が多いのですが、本日参加してくださった方々も、豊かな歴史をおもちの方々が多く、『長寿号』の名に恥じないメンバー構成となりました。

Pa210010 コースは、順天堂、堀田邸、武家屋敷、歴史民族博物館の4箇所で、堀田邸の坂道や、歴博の広大な歩行距離にはちょとヒヤヒヤしましたが、まったくの老婆心でした。

順天堂は、日本にオランダの医学を導入し、外科手術をいち早く取り入れましたが、当時の料金表や、医学生の禁止事項を示した文書など、なかなか興味深いものがあります。

麻酔無しの手術など、想像を絶しますが、当時は行われていたのですね。

Pa210021 堀田邸の周囲は、デイケアセンターなどの老人施設が取り巻いており、将来はこういうところに入所したい・・・という参加者もいらっしゃいました。

なるほど、日々の散歩が堀田邸の庭園というのは、確かに魅力的ですが・・・。

Pa210037 武家屋敷は、3棟建っていて、上・中・下の階層別。石高によって広さや規格が決められていて、藩が建てて武士に住まわせていたのだそうです。

要するに、現在の公務員住宅ということですね。庭ではお茶や野菜が作られていたようです。

Pa210060 さて、最後の歴博にたどり着いたのは12時も大きくまわった頃です。

バスの運転手さんからは、「3時15分には出発しないとダメ!」と言い渡されました。

まずお昼をすませ、大急ぎでまわりましたが、縄文時代から始まり、第5展示室まで駆け抜けても、2時間ではとても足りません。

結局江戸時代までで時間切れです。

ここは、もっと時間をかけてゆっくり見学したいところです。

ただし、広すぎて疲れてしまいますから、体力のあるうちに・・・。