ポートアリーナで開催された千葉市の成人式に出席しました。
2004年から出席していますので、今年で7回目。
千葉市の成人式、何とかならないものかと、毎年考えさせられますが、今年も雑駁な感想は例年同様です。
新成人の自覚を問い、開催方法に疑問を呈し、誰のための成人式なのだろうかと悩む・・・。
今までの率直勝手な感想については、以下の成人式のカテゴリーご覧いただければ幸いです。
http://fukutani.blog.ocn.ne.jp/blog/cat6614912/index.html
さて、今年は・・・。
【二十歳だからといって大人とは限らない】
今年の千葉市の新成人は9023人で、昨年より約300人減少です。
例年の出席者は7割前後とのことなので、会場には約6000人の二十歳が集まっていたことになるのでしょうか。
もちろん、その全員が式典会場に入場したわけではありません。
さて、会場内には大人も子どももいました。
まずは、ステージを注視し、成人の日を受け止めようとする思いが感じられる新成人の姿。たとえば、最後の大地讃頌でも、起立していた姿が大半です。一人の社会人として歩んでいこうという思いを新たにしている表情があちらこちらにあります。
一方、参列してはいるものの、ざわざわとおしゃべりに夢中で、ステージで行われていることには我関せずという姿もあります。社会の通過儀礼とは無関係・・・といった態度です。
そして、もう一つのタイプは、自らをアピールすることで、式の流れや、場の雰囲気を壊す「子ども」のままの若者。何か考えがあってアピールしているわけでも無さそうなので、子どものまま社会とつながっていたい若者たち・・・とでも表現したらいいのでしょうか。
【成人の日とは何を祝う日?】
6000人もいればさまざまなタイプの人間がいますから、それを排除するものではありませんが、そういった若者たちを一堂に集めて今日のような式典をすることに、いったい千葉市には行政としてのどんな義務があるのだろうか?と沸々と疑問です。
二十歳を祝うのではなく、大人になったことを祝う式典ではないのだろうか?
他者の参加の権利を奪っていることに気づかないような「子ども」を、果たして大人として祝福しなければならないのか?
そう思って、改めて法律を調べてみたら、
成人の日は、「おとなになつたことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」日であることが、「国民の祝日に関する法律」に明記してあります。
であるならば、18歳でであろうと、30歳であろうと、そういう思いに至った若者に手挙げ方式で参加してもらい、それを心から祝福する・・・というものでOKではないか、と考えたくなってしまうのです。
【子どもを大人にする仕組みを失った社会】
でも、そんなことをしていたら収拾がつかなくなるので、二十歳で自覚を促そう・・・ということなのでしょう。
いや、二十歳になる頃には、自然とそういった自覚が出来ていた、そんな子育ちを促すような社会であったものが、今では子どものままでも過ごせるような状況になってしまっているのでしょう。
成人式のこの現象は、彼らへの20年間にわたる社会(家庭から学校、地域までを含めた広義の意味です)からの働きかけの成果であって、一朝一夕にこうなったものではありません。
至れり尽くせり・・・そんな言葉が思い当たります。
子どもたちのためにと、あれもこれもと先回りをして手配してしまう大人社会。
転ばぬ先の杖はたくさんあっても、転んだ後の対処の蓄積が無い社会。
すなわち失敗を恐れ、それを許さない息苦しい社会となり、そんな中で若者たちは大人になることを拒んでいく。
このままいくと、圧倒的な子どもを少数の大人が支える精神的に未熟な社会となり、ますます社会の子ども化が進むのではないかと危惧します。
【一自治体に出来ること】
成人式に話を戻しますが、成人式だけのありようを見て「情けない・・・」と嘆くのは誰にでもできます。
しかしそこで終わっては、大人としての知恵がない。
千葉市として、未来を担う子どもたちを、二十歳までに自覚を持ち社会と繋げるためには、これからどんな施策を打てば良いのか。
これは、大きな問題であると考えます。
未来を作るのは子どもたちだからと、子どもの参画を明確に打ち出した熊谷市政には、この点に関して希望を持っています。
子どもが大人になるための仕組みは、計画や事業をいくら挙げ連ねてもそれだけでは不十分なのです。
子どもたちに関わっている大人は現在どんな大人なのかを分析し、何が欠けているかを明らかにし、その欠けた部分こそこれから行政が担っていくべきものとして、早急に把握する必要があります。
待ったなしなのです。
【今後の成人を祝う会について】
最後に、今年の成人式は、例年の二部構成から一部構成に変更となり、式典の部だけになりました。
それはそれでいいと思いますが、例年通りの式次第にどれほどの新成人の参画があったのでしょうか。
今日の式典こそ、自らの門出として苦労して作り上げるプロセスがあってもいいのではないかと思います。
あるいは、先輩の成人式を祝うために、後輩の参画もあって良いかもしれません。
しかし、それがなかなか出来ないのは、彼らとともに考え行動する大人の人材が準備されていないからではないでしょうか。
これだけの式典を準備した労力は、相当なものであったでしょうから、それだけに新成人の心に響かないことが残念です。
例年考えていることですが、数千人規模の式典では大きすぎる。
現状は中学校の同窓会のようなもの(それでいいかどうかも問題ですが)なので、区で開催出来るくらいの力量を、各区がつけることも一案だ、ということを最後に加えておきます。
6000人集まれる会場であったのでしょうか?
6000人が一同に会しお話を聞くことのできる場だったんですか?
よくわかりませんが、区ごとの成人式というのは
できないものなんでしょうか?
身近なところで、身近な人が祝い、かつて知り合いだった身近な人達とともに一緒に大人になったという自覚をもってもらう、そんな成人式がよいと思うのですが・・・。
開催されたのは、千葉市ポートアリーナです。
場所を明記せず不親切でした。早速、加筆しておきました。
成人式のあり方、お考えに私も賛成です。
公共性が強くなるほどに、形式的でよそよそしくなりますが、子どもたちを大人として自立させるというのは、社会が担う基本的かつ重要な役割ですから、イニシエーションとして「公」が成人式を行うことに意味があるのでしょうか…。
広場はその後なくなりましたものの、あの日の青空を、今日を待たず非命に倒れた方たちにささげたいと、この時季いつも祈っております。 淡青の空たかく。
この日の為に晴れ着の準備に追われた両親も多かった事でしょう。
開催の方法も一考されるべきで、先日の新聞で見たのですが、近くの
学校で、恩師も交えての同窓会みたいな、成人の集まり・・・其処には
聞きたくもない来賓挨拶などはなく、家庭てきで和やかな雰囲気を感じました。地域性もありますが、多くの人数を集めて、如何にも式典らしく
進行する方式は、主催者の自己満足で終わるのでは?・・・・・
1969年は、大きな意味のある年でしたね。
「フランシーヌの場合・・・」はというメロディーが脳裏をめぐります。
この日を待たず非命に倒れた方たちのためにも、彼らの分までしっかり貪欲に生きて欲しいと思います。
無粋な蛇足かもしれませんが、土井たかこや小沢一郎が初当選したのもこの年だったとか。 ハマコーも・・・。
地域によって、成人式はざまざまなやり方があるようですね。
千葉市の6000人強の式典も、重要な人生の節目として、何らかの思いを持ったり、子どもから大人への気持ちの切り替えの動機になってくれている・・・とは思っているのですよ。
市民ネット推薦の一見、優等生市民市長だから?
きぼーるで子供達を洗脳している成果の見本として?
うわべ人気の勘違い利用はかえって足を引っ張っている感。
同館で~~す・・・・
いろいろな見方、考え方があるのですね。
私は、今の子どもたちが必ずしも良い状況にあるとは思えないので、まずは、彼らが身近な地域で社会とつながるために努力をしています。
また、市政にも視野を広げて欲しく、市長は、きぼーるに限らず子どもたちと積極的に関わって彼らの声にも耳を傾けながら子どもの参画を進めるべきだと考えています。
それを実行している熊谷市長を支持するのは当然のことですが、だからといって無条件に何もかも受け入れているわけではありません。
過去の賛否をご確認いただければと思います。
顔写真については、ご指摘を受けて、ナルホド!と思いました。
モニター画面の、
「次の時代を担う若いみなさんの英知と活力が必要です」
という言葉に、注目して欲しかったのですが…。
しかし言われて見直してみると、この写真はいつもより写真写りが良いですね。
冗談はさておき、子ども若者施策についても、同士?さんのご意見をうかがえれば嬉しいです。
同館とは、ドウカンがえたら良いの・・・?