福谷章子のまちづくり

さまざまな役割を持ちながら暮らす中で、日々出会い触れ合う人々、街、文化、自然、出来事についてつづります。

アーカイブおゆみ野 未来に伝えたいこと

2014年11月24日 | アート・文化
2日間の文化祭が終わりました。
今年は、アーカイブおゆみ野という企画にどっぷり。
映像班、聞き取り班、展示班という役割分担で、私は聞き取り班を担当しました。

「思い出話をお聞かせください」と呼びかけたとろ、
語り始めのポツリポツリとした口調が豊かな物語に変わったり、
居合わせた人たちそれぞれの記憶が結びついて旧知の仲のように盛り上がったり。
その一方で、個人的に背負ってきた貴重な体験談も伺うという、予期せぬことも起きました。

アーカイブの部屋には、50代以降と思われる方々が多く訪れ、滞在時間も長めで、じっくりDVDを見たり地図を覗き込んだりしていかれました。
定年を過ぎて2人で過ごしていると、地域に出る機会がなかなか無いとのことです。
後期高齢&一人になる前に地域のことを知り、関わり方を模索する必要があるらしい・・・ということが分かったのは、アーカイブの副産物でした。


さて、次のような思い出話を伺いましたが、皆さんの記憶と一致するでしょうか。
・鎌取駅は請願駅で、昭和20年代に住民が駅舎を作って停めてもらうようになった。当初のホームは50メートル。一部の車両にしか乗れなかった。現在の駅舎は三代目。
・まちには季節ごとの匂いがあった。秋は、味噌作りにための大豆を煮る匂いや、田畠の肥料にするためにモミを焦がす匂いが漂っていた。
・昭和53年頃の畑には、土器の破片や人骨がゴロゴロしていた。
・ショッピングセンターラピアの開店には、ビートたけしが来た。
・おゆみ野の南方面の交通手段はバスで、農業試験場経由で誉田に出るか、椎名崎経由で千葉に出るか。鎌取駅に出る道はなかった。
・六通や大金沢町からは、椎名小➡︎誉田中へ進学した。ある時期からは生浜中へ。
・買い物は、雑貨屋さんがあり、そこが宅配をしてくれていた。
・おゆみ野駅の南側にため池があったような記憶がある。
・畑では、麦と落花生の二期作をしていた。
・落花生のボッチを、子どもの頃は小人のお家と呼んでいた。


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