探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

大井氏 ・・様々なる小笠原支流

2014-03-31 22:40:59 | 歴史

    様々なる小笠原支流

  大井氏  ・・様々なる小笠原支流

 

*江戸の学者・平賀源内が大井一族であるなら、        

                 源内もまた小笠原一族であるか?

 

大井氏
松皮菱
(清和源氏小笠原氏流)

以下、「戦国 武家家伝大井氏」からの引用による ・・・

『大井氏は清和源氏小笠原氏の一族で、信濃国佐久郡大井郷を名字の地とする。すなわち、小笠原長清の七男朝光が大井庄の地頭となり、岩村田を本拠にし大井氏を称するようになったという。大井氏の系図については、『小県郡史』『尊卑分脈』『系図纂要』『群書類従』など、各本伝わっているがいずれも史料に照らして正しいものはない。
 大井氏の祖とされる朝光は、承久三年(1221)五月の「承久の乱」に幕府軍に従って、小笠原長清父子らと甲斐・信濃の軍勢五万を率いて東山道より上洛し、宇治川の合戦で功を挙げ、戦後、その功により大井庄を賜ったという。朝光の子光長は、鎌倉幕府四代将軍藤原頼経、五代藤原頼嗣、六代宗尊親王の三代に仕えた。七人の男子があり、嫡子時光は大室に、二男光泰は長土呂に住し、四男の行氏は耳取、五男宗光は森山、六男光盛は平原に住し、七男の光信は僧になり、大井法華堂を開基したと伝える。そして、大井氏の家督は三男の行光が継いだ。・・行光のとき、同じ佐久郡内伴野荘の地頭で小笠原家惣領職にあった伴野氏が「霜月の乱」によって一族誅滅にあうということが起こり、以後、佐久郡は大井一族が繁栄することになった。

南北朝内乱期の大井氏
伴野氏が没落すると、小笠原惣領職は京都小笠原氏の長氏に移った。元弘の乱に際して、長氏の子宗長、その子貞宗らは、はじめ幕府軍に加わっていたが、後醍醐天皇方に寝返った足利尊氏の書状によって天皇方に加わった。建武二年(1334)信濃の諏訪氏を中心とする神氏一党が北条高時の遺児時行を擁し、鎌倉に攻め上った。いわゆる「中先代の乱」が起きると、小笠原貞宗は後醍醐天皇から信濃守護に任ぜられ、信濃国内の北条与党の討伐を命じられた。・・北条時行から鎌倉を奪回した足利尊氏は、天皇からの帰京命令に応じずそのまま鎌倉にとどまり、信濃守護の小笠原貞宗に勲功の賞として住吉荘など三ケ所を与えた。このような尊氏の態度に対し、後醍醐天皇は足利尊氏討伐を決定し、新田義貞を大将に命じて東海・東山両道から大軍を発した。小笠原貞宗・信濃惣大将村上信貞らは尊氏方となって、信濃武士を率いて東山道軍を佐久郡大井荘大井城に迎え撃った。当時の大井荘の地頭は行光の子朝行で、同じ小笠原一族という関係からも信濃守護小笠原貞宗に従い、貞宗からもっとも信頼されていた。のちに、朝行の甥にあたる大井甲斐守光長が貞宗の子政長の守護代を勤めており、両者が固い結合をもっていたことがうかがわれる。
 さて、官軍に包囲された大井城は、一万余騎の敵を迎え撃ちよく戦った。足利直義の檄文を受けた小笠原貞宗・村上信貞らも兵をあわせて大井城を救援した。両軍、激しい戦いを展開したが大井城は落城した。大井城を落とした東山道軍は関東平野に出て、新田義貞の東海道軍と呼応して鎌倉へ攻め込もうとした。しかし、義貞軍は箱根竹ノ下の戦いに大敗して総崩れとなり京都に退却してしまった。尊氏軍は義貞軍を追って京都に攻め上り京都を占領した。これに対して後醍醐方の陸奥鎮守府の北畠顕家が攻め上って尊氏軍と戦い、尊氏を京都から追い落とした。敗れた尊氏は九州に落ち、九州南朝方の雄菊池軍と多々良浜に戦い、辛うじてこれを破って戦備を整え直した。そして、九州・四国・中国をその勢力下におさめ、ふたたび京都に兵を進めたのである。
 上洛する尊氏軍は、五月、迎え撃つ新田義貞・楠木正成の軍を兵庫に戦って、摂津湊川に正成を討ち取り義貞を敗走させた。この敗戦により、後醍醐天皇は京都を捨て、比叡山に逃れたが尊氏に降伏、ついには吉野に落ちていった。一方、尊氏は光巌天皇をたてて北朝を樹立し幕府をひらいた。以後、日本全土に南北朝の内乱が続くことになる。この間、大井城合戦に敗れた大井朝行は大井城の復旧をしながら、小笠原貞宗に属して、信濃国内の北条残党の討滅戦に参加していたようだ。
 その後、信濃には後醍醐天皇の皇子宗良親王が入部し、滋野一族らの支援によって宮方勢力の地盤を築いていた。一方、大井氏が割拠する佐久地方は、大井氏が武家方としてその勢力を保っていた。正平二十四年(1369)十月、信濃守護上杉朝房は鎌倉公方足利氏満の命を受けて、信濃に進発、宗良親王の籠る大河原城を攻めた。戦いそのものは目立った戦はなかったが、この行動によって、信濃では南朝方の組織的な反抗はやみ、文中三年(1374)親王も吉野に帰っていった。

信濃守護代大井氏
その後、大井氏は光長が惣領となったようで、大井光長は信濃守護小笠原政長の守護代をつとめ、正平五年(1350)信濃国太田荘大倉郷の地頭職について、金沢称名寺と島津宗久跡代官との争いをやめさせ、称名寺の地頭職をまっとうさせるよう足利直義から厳命を受けている。・・光長の子光矩も、小笠原一門として重きをなしていた。応永六年(1399)信濃守護に任ぜられた小笠原長秀は大井光矩を伴って佐久に着き、光矩と信濃支配について相談した。そして、大井氏の館で旅装を整えた長秀は都風に美々しい行列をつくって善光寺に入り信濃統治をはじめた。しかし、国人たちは長秀の統治を承服せず、村上氏らを中心とする国人勢力と小笠原勢は次第に対立を深め、ついに応永七年(1400)九月、両者は川中島篠ノ井付近で大合戦におよんだ。いわゆる「大塔合戦」である。・・合戦は国人方の優勢で、小笠原軍はついに敗れて大塔古要害に逃げ込んだ。光矩は守護小笠原氏の一門として微妙な立場に立たされ、中立を保って途中まで事態を静観していたが、小笠原長秀に危険が迫ると両者の間を調停した。これによって、長秀はかろうじて京都に逃げ帰ることができた。しかし、責任をとらされて信濃守護職を罷免されたことはいうまでもない。
 光矩のあとをうけたのが持光で、持光は芦田城の芦田下野守と争った。芦田氏は足利幕府の奉行人となり、評定衆に登用された者もあった。そして、南北朝争乱に際して依田川東岸に勢力を拡大して芦田方面に進出、芦田城を築いて芦田氏を名乗った。その結果、川西地方に勢力を拡大していた大井氏と衝突することになったのである。・・持氏の謀叛は不発に終わったため、永享八年二月、幕府は政康に芦田征伐を命じた。政康は軍を発して千曲川を越え、小県郡祢津を攻め、別府・芝生田・南城を攻め落とした。ここに祢津・海野氏らは降伏し孤立した芦田氏も守護軍に降った。以後、依田氏は戦国時代に至るまで、大井氏の家臣となり執事職をつとめた。かくして大井氏は依田長窪に進出して長窪城を築いて依田支配の拠点とし、大井氏の勢力は佐久郡内に大きく伸張した。

鎌倉公方家の滅亡
文安三年(1446)の『諏訪大社上社文書』に「此年丙寅佐久平賀乱あり」とある。佐久平賀乱とは、文安三年、平賀氏と大井氏が戦い敗れた平賀氏が滅亡したことをいい、平賀郷は大井氏が支配するところとなった。さらに大井氏は、小諸氏領も支配下におさめるなど、佐久地方における大井氏の所領は飛躍的に拡大した。・・大井氏の全盛時代は大井持光のときであり、持光時代の所領は六万貫といわれ、伴野氏・望月氏等の超地を除く佐久郡のほとんどと小県郡の依田窪上城を支配し、上州・武州にも所領を有し京都参勤には一千騎を率いたといわれている。・・永享十年(1438)永享の乱が起こり、幕府群の攻撃を受けた鎌倉公方足利持氏は降伏したが許されず、翌年、自害して果て鎌倉府は滅亡した。このとき、足利持氏の遺児三人は鎌倉を脱出し、春王と安王は宇都宮に、永寿王は乳母に抱かれて岩村田の持光を頼ってきた。永享十二年、下総結城城主の結城氏朝が春王と安王を擁して幕府に対して兵を挙げた。これに岩村田の持光も応じ、かくまっていた永寿王を結城城に送りとどけた。・・幕府は上杉清方を総大将とする結城城攻略軍を発したため、持光は結城氏朝に応じるため碓氷峠を越えようとしたが、上杉勢によってさまたげられ果たせなかった。翌嘉吉元年(1441)結城城は陥落し、春王と安王は捕らえられ京都に送られる途中の美濃国で殺害された。永寿王丸は「足利系図」に「成氏、結城没落の時六歳、永寿王と号す。越前守持光信濃国にかくす」と記されているように、大井持光は永寿王を扶育しのちに永寿王は成氏を名乗って鎌倉公方家を再興したが、その実現には持氏の力が大きく寄与していたといえよう。・・持光のあとは刑部少輔政光が継承し、鎌倉公方成氏を支援して関東に出陣したり諏訪信満とともに甲斐へ侵攻するなど、大井氏の武威をあらわした。・・大井氏は、文明元年四月、九月と二度にわたって甲州に乱入し、文明四年五月には信州大井殿が甲州花鳥山に侵入して武田勢と戦い、九月には信州勢が塩山向嶽庵を焼いたことが、『妙法寺記』などに記されている。これに対して甲州勢は、文明九年四月、信州に攻め入ったが、「アイキ中シウに討たれ」「同五月中シウ黒石にて討死」などとある。これらの記録から、大井氏らの信州勢が甲州武田氏と再々戦って、勝利をおさめたことは疑いない。

大井氏の盛衰
享徳三年(1454)、鎌倉公方成氏は幕府寄りの管領上杉憲忠と対立してこれを討ち取ってしまった。「享徳の乱」の勃発であり、幕府は関東に乱を起こす者として成氏追討を命じた。以後、関東は公方方と管領上杉方の二派に分かれて大乱となった。・・政光は成氏を支援し関東に出陣したが、幕府に命じられた今川上総介が鎌倉を攻め落とし、成氏は下総古河に逃れた。以語、成氏は後古河公方と称され、上杉-幕府軍との対立姿勢を強めたため、関東の戦乱は止むことなく続いた。大井政光にとって成氏が古河への敗走したことは強力な後楯を失うことになり、関東の所領を維持することが困難となった。さらに、文明年間(1469~86)に甲州へ兵を出したことで大井氏の勢力にも翳りが見えるようになった。・・
 文明十年(1478)持光のあとを継いだ政朝は、岩村田城主となって初めて諏訪上社の御射山頭役を請けた。このとき、伴野氏の代官鷲野伊豆入道が、同頭役の右頭を請けている。翌十一年七月、大井・伴野両氏は諏訪上社御射山祭の左頭・右頭として頭役を勤めた。その一ヶ月後の八月、大井・伴野両氏は大合戦をして、大井政朝は伴野方の生捕となり、大井氏の執事相木氏は討死をするという大敗北を喫した。・・生捕となった大井政朝は佐久郡から連れ出されたが、和議が成立して政朝は岩村田に帰ることができた。この合戦において、伴野氏方には大井氏からたびたび侵略を受けていた甲斐の武田氏が、大井氏への報復として加担していたようだ。政朝は失意のうちに文明十五年(1483)若くして死去した。跡は弟の安房丸が継いで大井城主となった。・・この代替わりを狙って、坂城の村上政清が大挙して大井城を襲撃した。大井氏はすでにこれを撃退する力はなかった。そして、大井城は落城「城主没落にあいぬ」「この節大井殿は小諸へお越し候え在城なされ蹌踉」とある。かくして、大井朝光が大井城に居住してからおよそ二百六十余年、城は落ち、再びたたなかったと記録に残されている。ここに、大井宗家は滅びたが、岩尾・耳取・芦田・相木など、各地に居住する一門・家臣の所領はそのまま存続して、大井城主には、甲斐武田流の永窪大井氏の大井玄慶が入って継ぐこととなった。

戦国時代の大井氏
戦国時代の大井氏のなかでは、玄信が知られている。平賀城に居城していたことから、大井玄信というよりは平賀玄信の名で知られる。・・天文十五(1536)年十二月、甲斐の武田信虎は、平賀玄信(源心とも)の守る海ノ口城に来攻してきた。玄信は城を固く守って、甲斐勢を寄せつけなかった。攻防は一ヶ月になろうとし、信虎はひとまず甲府へひきあげることにした。このとき、信虎の嫡子で初陣の晴信(のちの信玄)は、殿軍を務めたいと信虎に申し出てその許しを得た。・・一方、武田軍が兵を引く様子を見た玄信は、兵を帰し、わずかに残った配下と酒を酌み合して武田氏との攻防戦の疲れを癒さんとしていた。まさに油断をしていた海ノ口城へ、晴信が二百名の兵を率いて襲撃してきたのである。玄信は七十人力といわれる剛の者であったが、不意をつかれたうえに守備兵も少なくついに討死した。後年、信玄その玄信の武勇を感じ、大門峠に石地蔵を建立し其霊を祀る」と「寛政重修諸家譜」にある。・・その後、玄信の孫政継は信濃国耳取城を攻め取り、そのあたりを知行していたため耳取大井氏とよばれていたらしい。その後を継いだのが政成で、武田信玄・勝頼に仕えたが、武田氏滅亡のとき、家康に降り、葦田(依田)信蕃の手に属して大井の惣領職および本領信濃国佐久郡耳取の地三千貫文を安堵されている。関ヶ原の合戦には東軍に属し、信濃の道案内として秀忠軍に属したが病気となり、代わりに子の政吉がその任を務めた。政吉は徳川忠長に属し、本領として信濃国佐久郡の内を与えられている。
 また、系図上で玄信の兄弟としてみえる岩村田城主貞隆が信玄に仕え、弟の貞清は勝頼に属して長篠の戦で戦死したことが知られている。』

武田信玄に滅ぼされた平賀玄信(源心)の一族が西国へ逃れ、その子孫が源内と名乗り、江戸の出て学者になったという。各方面に、博学鬼才で、名を成した”平賀源内”である。
この系流の真偽は明らかではないが、そうだとすれば、平賀源内もまた、小笠原一族である。


伴野氏 ・・様々なる小笠原支流

2014-03-31 21:50:50 | 歴史

    様々なる小笠原支流

  伴野氏  ・・様々なる小笠原支流

 

伴野氏
松皮菱
(清和源氏小笠原氏流)

以下、「戦国 武家家伝伴野氏」からの引用による ・・・

『中世、信濃国佐久一帯に勢力を張った。小笠原長清の六男時長が佐久郡伴野荘の地頭として入り、地名に因んで伴野氏を称したことに始まるという。伴野氏の系図は『尊卑分脈』『信濃国伴野氏家系』など各種伝わっているが、それぞれ異同があり、必ずしも明確ではない。

霜月騒動で挫折
弘安八年(1285)十一月、鎌倉幕府に一大クーデターがおきた。幕府執権の時宗死去後、十四歳でその後を継いだ執権貞時を擁して、北条氏御内人の筆頭・平頼綱が、御家人の最有力者かつ貞時の外祖父の安達泰盛・宗景父子を急襲し、安達一門と与党の御家人たちをことごとく滅ぼしてしまった。・・・「霜月騒動」。
霜月騒動に安達氏与党として討滅されたものは、安達氏一族、分流大曽祢一族、泰盛の母の実家、小笠原流伴野長泰一族、三浦前司・足利三郎・南部孫二郎ら守護クラスを含む有力御家人で、その自殺者は五十人を越え、事件は全国各地におよんで、泰盛派の有力御家人も五百人以上に討伐された。さらに、評定衆の宇都宮景綱、長井時秀父子らも失脚した。霜月騒動は、鎌倉後期の幕府政治史上のもっとも重大な事件であった。・・この騒動で小笠原氏の惣領、佐久伴野荘の伴野長泰は、弟の泰直、嫡子盛時、二男長直ら父子・兄弟四人が殺された。まさに一族誅滅にあった。騒動後、佐久伴野荘の所領は没収され、北条氏一族の所領となった。伴野氏一族は、他国に去り、あるいは在地に潜んで、復活の機会をうかがうこととなった。伴野氏の没落後の小笠原惣領職は、京都小笠原氏系の長氏に。長氏の孫貞宗は南北朝期に信濃守護となって活動し、その子孫は信濃小笠原氏として繁栄した。
このとき、長泰の子泰房は、安達氏の旧領三河国小野田荘に逃れて、住んで三河小笠原氏の祖になった。泰行の子長房は在地に潜んで、出羽弥三郎と称して、父祖伝来の伴野荘地頭職奪還の機会をうかがった。

復活と勢力伸張

 その機会は元弘三年(1333)、後醍醐天皇による鎌倉幕府の滅亡というかたちで訪れた。建武新政から南北朝期において、伴野弥三郎長房は京都大徳寺と伴野荘地頭職をめぐって争った。すなわち、伴野長房は京都大徳寺の伴野荘地頭職を乱妨して、しばしば大徳寺から訴えられている。そして長房は足利尊氏の執事高師直にはやくから接近して、在地に代官をおいて、長房自身は師直軍に属して京都方面で活動していたようだ。
 延元四年(1339)八月十六日、後醍醐天皇が亡くなった。すでに天皇と袂を分かち、北朝方天皇を擁立していた足利尊氏はさすがに哀悼恐懼して天皇の恩徳を謝し、その怨霊を鎮めるため京都に天竜寺を造営すると、興国六年(1345)天竜寺落慶供養の儀を執り行った。
 この盛儀の先陣随兵のなかに小笠原政長、後陣随兵のなかに伴野出羽前司長房がいた。室町幕府を支える有力部将のなかに小笠原惣領信濃守政長とともに、伴野出羽前司長房が列していることは、当時に室町幕府内における伴野長房の地位をうかがわせるに十分なものである。
 その後、尊氏と弟の直義の間に、高師直兄弟がからんで幕府内に深刻な対立が起こり、ついに尊氏と直義の兄弟が生死をかかえて争う「観応の擾乱」がはじまった。正平四年(1349)八月、高師直兄弟は直義を討とうとして京都に入った。この師直軍のなかに信濃守護小笠原政長、伴野長房らが加わっていた。対して、直義は南朝方と結ぶなどして擾乱が続いたが、直義は尊氏に降参し、正平七年正月、尊氏とともに鎌倉に入り急死した。一説、兄尊氏によって毒殺されたともいわれる。  伴野長房は南北朝内乱のなかで一貫して尊氏方に属し、高師直と結んで次第にその力を伸ばして、伴野荘の地頭職を掌握するに至ったようだ。そのことは、足利尊氏が長房にあてた「御判御教書」の写からもうかがうことができる。正平八年(1353)、旧直義党が南朝軍と合して六月京都に攻め込んだ。この時、尊氏はまだ鎌倉にあり京都は義詮が守っていた。この戦いに義詮は京都神楽岡に陣をとり、伴野長房は義詮に属して戦い討死、敗れた足利勢は近江に退いた。


伴野氏、二系に分かれる
 長房の討死後の長房系伴野氏の動向については明らかではないが、長房が戦死してから三十九年後の元中九年(1392)八月、将軍足利義満の相国寺落慶供養にの先陣随兵に伴野次郎長信の名が見出せる。この伴野長信を若狭守護代小笠原長房とする説もあるが、おそらく長房の子にあたる人物とであろうかと考えられる。
 ついで、相国寺落慶供養から七十三年後の寛正六年(1465)、信州伴野弥四郎貞棟が将軍足利義政に上総介受領を願いで出て、受け付けられて、同人から礼物が差し出されたことが、室町幕府政所代蜷川親元の『蜷川日記』に記されている。この貞棟こそ長房の系統を継いだ者と思われ、伴野氏の嫡流は在京して奉公衆を務めていた。一方、伴野荘の在地における伴野氏の活動をみると、伴野上総介貞棟と同時代に、前山城主伴野光利がいたことが知られている。
 前山城は伴野時長の子長朝が築き、数代続いて時長十代の孫伴野光利が相続し、子孫相続して戦国時代に至ったことが『洞源山貞祥寺開基之由」に記されている。そして、前山城主伴野氏は時直─長泰系とは別で、時直の弟で佐久郡跡部に住した跡部長朝系ということになる。これによれば、室町時代には伴野荘に、長房系と跡部長朝系の二人の領主が存在していたことになる。
 文明三年(1471)信州国人伴野上総介貞棟が将軍足利義政に太刀一腰・銭十貫文を贈っているが、これは上総介推挙に関する謝礼であろう。また貞棟は松原神社に寄進をしており、十五世紀中期において伴野荘に勢力を持っていた人物であることは疑いない。そして、この貞棟と同時代に伴野荘に存在した前山城主光利との関係の位置付けが困難となっている。先述のように光利は跡部長朝系と思われ、伴野長泰・長房系の貞棟とは系統の異なる伴野氏であった。室町時代の伴野荘には、二系統の伴野氏が存在していて、貞棟は野沢館に住していたものと考えられている。

大井氏との抗争
文明の八月、大井・伴野両氏は大合戦をして、大井政朝は伴野方の生捕りとなり、大井氏の執事相木氏は討死をとげた。この戦いに勝利を得たのは、前山城主の光利・光信父子と思われ、甲斐の武田信昌は先年の大井氏の甲斐侵入に対する報復として伴野氏に味方している。・・鎌倉後期の霜月騒動で勢力を失い、南北朝期において勢力を盛り返した伴野氏は、光利の時代に至って伴野荘のほとんどを回復し、境を接する大井氏と所領を争う存在になったのである。

武田氏麾下に属す
永正六年(1509)、将軍足利義尹(義稙)は関東管領上杉顕定に命じて、伴野六郎と大井太郎の争いを和解させている。しかし、伴野氏と大井氏の争いはその後も続き、この両者の対立を利用して武田氏が佐久郡を制圧することになるのである。・・大永七年、甲斐の武田信虎が伴野氏に頼まれて信州に出立したが、信州方が一つになって大井氏を応援し、伴野氏は行方不明になったことが『妙法寺記』などから知られる。・・この事件は、大井貞隆を中心とする信州の諸将が伴野方に反撃したとき、武田信虎は伴野氏を支援するかたちで、佐久郡侵攻を目論んだものであろう。天文九年(1540)、武田信虎は板垣信形を大将として佐久郡へ侵攻を開始した。伴野氏は武田軍の侵攻に協力して前山城に武田氏を迎え入れたようだ。そして、武田氏は前山城を根拠地として佐久郡を制圧していったのである。伴野氏と武田氏とは親睦関係を築き、それを背景に、武田氏は佐久郡に侵攻してきた。伴野氏は武田氏に属するようになったいた。
 
伴野氏の滅亡、その後
伴野氏は前山城主として武田氏に仕えたが、天正元年、武田信玄が病死し、あとを継いだ勝頼は天正三年、三河国長篠で織田・徳川連合軍と戦って壊滅的敗北を喫した。以後、武田氏の勢力は急速に衰退し、ついに天正十年、織田軍の甲斐侵攻によって滅亡した。織田信長に接収された武田氏領は、信長の部将に分け与えられ、佐久郡・小県郡は滝川一益が与えられた。同年六月、織田信長は明智光秀によって京都本能寺で殺害されたため、甲斐・信濃の織田諸将は領地を捨てて上方へ去った。以後、甲斐・信濃は後北条・徳川・上杉の草刈り場となってしまった。・・後北条氏は氏直に七万の大軍を率いらせて上州に軍を進め、家康は、依田信蕃に命じて甲斐の旧知の武士たちを味方に付けさせ甲斐へ送り込んだ。信蕃のもとには三千の甲斐武士が集まり、信州小諸へ入った。一方の後北条氏は碓氷峠を越えて信濃に入り依田信蕃と対決せんとしたが、信蕃は蓼科山の山中に入って要害を構え、後北条軍は小諸を押えて大道寺政繁を城主とした。真田氏、望月氏、阿江木氏らは後北条方に従い、岩村田城主の大井氏、相木・岩尾らの大井一族、そして前山城主の伴野氏らもこれにならった。・・ これは、同じ武田氏遺臣である依田信蕃が徳川家康に属して佐久統一をすすめているのに対し、もともと大井氏の家臣であった依田氏の下風に立つのを快しとしなかったためであった。そのような伴野信守に対して依田信蕃は前山城攻略の軍を進め、信守は父子君臣ともに城を死守して抗戦に努めたが力尽きて自害した。ここに小笠原伴野氏は滅亡した。・・『寛政重修諸家譜』に、伴野時長六代の孫貞元を祖とする伴野氏がおさめられている。旗本伴野氏は、武田氏滅亡後徳川家康に属し、家康の関東入国ののち上野国に采地を賜っている。慶長五年(1600)、家康の上杉征伐に加わり、関ヶ原の合戦にも参陣している。その後、家康の命によって信濃国上田城を守備した。子孫は数家に分かれて徳川家旗本として続いた。』


信濃守護所の変遷

2014-03-29 23:09:31 | 歴史

信濃守護所の変遷

この場合の守護所とは、守護の在所を意味し政務が行われたであろう所を指し、現在の県庁所在地の意味と、若干異なる。特に幕府に認可された、と言うような書類は見つかっていない。ただその時々の政治の中心を探るには、正確な比定は、時々の勢力の変遷を探る意味で重要に思う。今回、松山宏氏の論文を読んで、整理する必要を感じ、書き留めておく。
        ・・・・・「信濃国の守護と国人の城下町」・松山宏(・奈良大学史学会)

信濃国の守護所は、鎌倉時代より始まったとする。守護所自体は、幕府の地方統治の機構の役名・守護から生じた在所・政務所であるから、鎌倉時代以前は、同様の機能は違う名前で呼ばれていた。それは律令時代に生まれた、国司・国衙がそれに当たる。鎌倉時代初期は、国司・国衙が機能不全になったにも拘わらず、残滓は残っていただろうし、始まったばかりの守護も機能していたのかどうかも分からない。

信濃国では、鎌倉時代初期には

・塩田平・守護所説?がある。
・・・鎌倉初期の信濃国守護は、頼朝の側近・比企能員がなった。能員は、鎌倉から離れることなく、部下の惟宗忠久を代行として地頭に任じた。塩田への赴任である。惟宗が守護代であったかは、定かではない。しかし、塩田が、鎌倉幕府とかなり深い関係があったことは確かで、引退した足利義政は、隠棲の場所に”塩田”を選びここを居館とした。義政の子・国時は、守護代となった・・・一志茂樹氏の塩田守護所説の論拠。しかし、足利国時の守護代の拠点は善光寺の説もあることから、通説にはなっていない。

・善光寺守護所説?
・・・加賀美遠光(小笠原家の祖)が信濃国・国司に補任された・・国衙とは無関係。
・・藤原定家が、国司に補任され、善光寺の国衙に赴いた。
当時の、国衙領分の荘園は、奥春近荘(長野付近)、近府春近荘(松本付近)、伊那春近荘(伊那付近)であり、時代の変わり目に、国衙を守護所とする発想はありえる、と思われる。南北朝期に、国衙跡の守護所が南朝に襲撃されている事実もある。

・船山守護所
・・・場所の比定は、戸倉町と更埴市の境界線あたり、小舟山という山がある。船山守護所に、北条基時と高時が詰めていたという記録があるそうだ。この二人は、守護の記録はないので、守護代だったのかも知れない。より確実なのは、南北朝時代、諏訪神族の諏訪直頼は、北条時行を奉じて、船山守護所を襲い放火している・・・中先代の乱。その時の守護代は、小笠原弥次郎で、府中放光寺に在所していたと言われる。弥次郎は、信濃守護・小笠原貞宗の守護代であった。

国府の変遷
信濃国・国府は、松本 → 善光寺 → 松本 と変遷したようだ。二度目に松本に国府が戻った時、松本は、府中という地名に変わったと見られる。鎌倉時代まで、律令時代の”残滓”のような国府が、機能を薄めながら、残存していたようだ。

建武の新政・南北朝の頃・・・
足利直義に味方した諏訪神族(諏訪隆種)は、挙兵して、船山に侵攻して守護所を焼いた。時行と隆種の軍勢は、府中在所の鎌倉御家人を補充して進撃した。この頃の府中は、幕府側の小笠原貞宗野勢力下にあったとは到底思えない。
その後、新田義貞が、北陸で没落すると、1331年、小笠原径義(守護代・小笠原兼径の弟)は府中に攻め込んでいる。これで府中を制圧したのち、小笠原兼径は守護代として、府中放光寺を居館とした。

・守護所・府中放光寺
・・・放光寺 松本市蟻ヶ崎にある曹洞宗の寺院。松本では兎川寺、牛伏寺と並び最も歴史のある寺院。所在地: 〒390-0861 松本市蟻ケ崎1283 
貞和三年(1347)小笠原貞宗は、戦功により、塩尻・島立・近府春近の半分を宛行され、経済基盤も整い、府中守護所が確立された。この時、貞宗が府中に常駐したのか、兼径が代行したのか、定かではない。別書に拠れば貞宗の常駐は京都であり、各所の戦役に赴き、隠棲するまでは各所を飛び回っていたようである。
南朝と時行の連合軍・北条残党が、大徳王寺の戦いで敗北すると、時代の趨勢は変わり、信濃国人衆は、守護家・小笠原に靡いたと思われる。

・守護所・井川館
府中小笠原家は、放光寺から、井川に居館を移し、ここを本拠地にする。
守護は、貞宗・政長・長基と続く

・平芝守護所?
貞治四年、管領・上杉朝房が信濃国守護になる。
至徳元年、斯波義種が信濃国守護になる。
・・・この時期、北信の国人衆は、寺社領や荘園領を押収し、小笠原家では統治不能になる。
・・斯波家の二宮氏康が、守護代として、平芝に入る。出張陣屋なのでうまく行かない。
荒れる北信の対策は、集中的地域限定的に、必要であったようだ。

松尾小笠原から幕府に勤めた長秀は、再三の陳情の末、信濃国守護に補任され、松尾に戻った。将軍義満は、大内家が乱を起こしたため長秀に出陣を命じる。伊賀良荘から出陣した長秀は、参戦した後、荒れる北信の鎮静で、佐久を経て、善光寺に入る。ここで、押収した寺社領や荘園を既成事実化したい犀川沿の国人衆や村上一族は反抗する。この戦いで長秀は敗北し、京に帰る・・・大塔合戦(大文字一揆)。
・・・この間の、守護所は比定できない。また、府中小笠原家の祖に、長秀を据えている書も多いが、経緯を見れば、納得出来ない。長秀は、府中に行ったことが無いのだ。

幕府は、長秀を守護から解任した後、管領・斯波義将を信濃守護にする。幕府の信濃の位置付けは、関東管領管轄もたまにあるが、三河や美濃との隣接の関係を重視して、斯波家に任せる場合が多いのが見て取れる。松尾や鈴岡などの伊賀良荘は、信濃の中で一番京都に近い。小笠原家も、当然そのことを意識していたのではないか。もしそうなら、貞宗、政長、長基と続く守護の系譜は、宗家を松尾とし意識し、府中は出先機関とか出張所の思いがあったのではないかと推定できる。そう解釈すると、いくつかの疑問が氷解する。

斯波義将が守護の時、代官(守護代)は始め細川氏だったが、直ぐ長秀の弟の政康が守護代に任命される。政康は、実力を発揮し、上杉禅定の乱などで功績を挙げ、やがて守護に補任される。政康ははじめ松尾にいたが、問題の北信の平定のために府中にも居を移す。この場合も、守護所がどっちなのか、比定は難しい。さらに、長将の子・持長が、京にあって畠山持国の権力を後ろ盾に、家督を主張し始める。持長と政康の対立は、京都幕府間の対立を、そのまま信濃の持ち込み、国を二分する戦いに発展していった。持長と政康の対立は、ついに漆田原の戦いで衝突し、勢力の勝る政康は、流れ矢に当たって戦死する。

守護所・松尾小笠原家・光康
持長は以後府中を根拠にして、松尾小笠原家と長い抗争に入る。しかし、守護を継いだのは、松尾小笠原の光康であった。この時代、諏訪神社の諏訪家でも、一族間の内乱が起こった。宝徳元年、光康支持の細川勝元が管領を辞任し、畠山持国が変わった。持国は持長の後見であり、直ぐに守護は持長に変わった。しかし畠山持国の権力は続かず、一年持たず、細川勝元が再任し、それに伴い、光康が守護に返り咲いた。京都育ちの持長には、荒れる北信を鎮定できるノウハウもないと見られた点もある。

守護所・鈴岡小笠原家・政秀
持長の子・宗清は、父同様伊賀良小笠原へ反抗した。政秀は、府中に侵入し宗清を討ち取り、宗清の子・長朝が反抗すると、再度府中に侵攻して長朝を追放した。政秀は、暫く府中にいたが、反抗する府中小笠原の残党に手を焼き、長朝を、秀政の養子にすることで、府中に置き、自らは鈴岡へ戻った。

以後、暫く府中は安定する。
安定すると、府中は、急速に城下町としての集積を整え始めた。周辺の、山家氏などの反抗勢力も従えて、一番戦国大名の資格を整え始め、力を蓄えていった。一方、伊賀良小笠原家は、鈴岡と松尾が反目し、城下町どころではなく、やり手の松尾の定基は、小田原北条家や斯波家からの援軍の要請も多く、鈴岡家との抗争には勝ったものの、勢力の蓄えは無くなっていった。鈴岡家が無くなった後、今度は、下条家との抗争中、下条家に援軍した、府中の長棟に敗れて、武田家へ逃亡する。

守護所。府中小笠原家・長棟
これで長く続いた、小笠原家三鼎立の抗争は、最後府中の勝利となって終結する。
しかし、小笠原家が一族同士、相続争い、勢力争いを繰り返している間に、甲斐の武田家は、信玄によって戦後期大名の雄となって、矛先を信濃の向けてきた。
長棟・長時・信定は、今度は信玄と覇を競うようになる。

以上は、松山宏氏の論文をもとに、守護所の変遷をまとめたものである。


南部氏 ・・様々なる小笠原支流

2014-03-28 15:53:18 | 歴史

    様々なる小笠原支流

  南部氏  ・・様々なる小笠原支流

南部氏  資料は、多岐にわたり、いまだ不明な点多く ・・・

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南部氏 、家紋 南部鶴
本姓 清和源氏河内源氏義光流
家祖 南部光行
出身地 甲斐国
主な根拠地 陸奥国糠部郡、盛岡、八戸
東京都
著名な人物 南部師行、南部晴政、南部信直
八戸藩主家、七戸藩主家

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南部氏は、陸奥の武家で本姓は源氏。本貫地は甲斐国南部郷で家祖は南部光行。南部氏初代の光行は、平安時代の清和源氏の河内源氏 源義光や、黒源太清光の子孫、甲斐源氏・加賀美遠光の流れを汲む。

略史

平安時代末期に起きた前九年の役や後三年の役では、清和源氏の棟梁・源頼義父子が現在の盛岡に来歴したが、頼義の系流の清光の子孫は甲斐源氏と称されて武田氏、加賀美氏、安田氏、浅利氏などの諸氏族があり、加賀美氏からは、南部氏、秋山氏、小笠原氏などが別れている。
奥州南部氏の始祖、南部三郎光行は、清和源氏義光流(甲斐源氏)の系譜に連なる、加賀美二郎遠光の三男とされ、甲斐富士川西岸の南部郷を領し南部三郎を名乗ったが、父の官途信濃守から信濃三郎とも称された。
光行の子息は、『尊卑分脈』によれば、太郎朝光、二郎実光、三郎行朝、小四郎実長の四人で、「秋山系図」は、行朝を太郎、実長を「南部破切の六郎」と、五郎行連を加える。そのうち、光行の嫡子実光とその子時実の名はしばしば『吾妻鏡』にあらわれ、将軍の供奉を務める御家人で、かつ北条時頼の側近として登場している。・・文治五年(1189)秋の奥州平泉攻撃に、加賀美遠光父子四人が頼朝の本陣に従軍、藤原泰衡軍との合戦に功を立て、その功によって南部光行は奥州糠部郡の土地を給され、建久二年(1191)の末 家臣数十人とともに入国したと、家伝では伝えられている。・・南部氏は南北朝時代から戦国時代にかけて急速に勢力を伸ばし、はじめは三戸(三戸町)に居城を構えていたが、豊臣政権を後ろ盾として九戸政実を鎮圧、九戸城を福岡城(二戸市) と改め移転した。さらに前田利家らの仲介により豊臣秀吉から閉伊郡、和賀郡、稗貫郡の支配も認められると、本拠地である三戸が領地の北側に大きく偏ることとなった。

南部光行 ─ 

       ┌・・・・・ 行朝   一戸氏の祖

├ 実光 三戸南部氏の祖

├ 実長 根城南部氏・波木井氏・(伊勢南部氏?)の祖
├ 朝清 七戸・久慈氏の祖
├ 宗朝 四戸氏の祖
└ 行連 九戸氏の祖

・南部宗家の始祖は、南部光行の嫡子・実光の系譜が後の三戸南部氏となり、
・庶家には実光の弟で、後の八戸南部氏の祖となる波木井実長がいる。波木井家初代実長・二代実継・三代長継のあと、嫡家三代時実の子政行の次男師行が長継
・七戸家は八戸南部信光の弟政光の子孫である。

鎌倉・南北朝時代前期まで
源義光の玄孫の光行は甲斐国南部の河内地方にあたる巨摩郡南部牧(南部町)に住んでいたことから南部氏と称したが、平安時代末期の奥州合戦の頃に奥州糠部の地に土着したという。また『奥南旧指録』によれば、承久元年(1219)の暮れに南部光行が家族と家臣を連れて由比ヶ浜から出航し、糠部に至ったという。

光行には6人の息子がおり、
長男の行朝は庶子のため一戸氏の祖となり、
 次男の実光は三戸南部氏の祖となり、
 三男の実長は波木井南部氏や根城南部氏の祖となり、
 四男の朝清は七戸氏の祖、
 五男の宗清は四戸氏の祖、
 六男の行連は九戸氏の祖、にそれぞれなった。

なお、光行の兄・小笠原長清は巨摩郡小笠原荘に住み、小笠原氏の祖となっている。
『吾妻鏡』よると、光行、実光、南部時実の三代が将軍家随兵として記されているが、弘文元年(1261)および同 3年の実光、時実は北条時頼の御内人扱いであった。これは本領の南部領が得宗領の駿河国富士郡と隣接し、また宝治合戦(三浦氏の乱)後に、糠部郡総地頭職が得宗領となったことによるものであった。
後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒未遂事件の1つ、「元弘の乱」1331(元弘)元年では、実長の子の南部実継は護良親王・尊良親王両親王とともに河内の赤坂城で戦ったが、親王とともに捕らえられ討たれている。新田義貞の鎌倉攻めでは南部氏宗家の南部右馬頭茂時や南部孫二郎、南部太郎らは幕府側についたのに対し、甲斐南部氏の南部義行の嫡子、義重や、南部時長・奥州の南部政長らはそれぞれ新田軍に加わり、時長は北条一門伊具土佐孫七を討ち取る等武名を挙げている。

南北朝時代中期まで
鎌倉幕府崩壊後、後醍醐天皇による「建武の新政」が始まると元弘三年(1334)8月、奥州鎮撫を目的とした義良親王(後の後村上天皇)を奉じた北畠顕家に従い、伊達行朝・結城宗広・葛西清貞らと共に南部師行も奥羽に下向する。
同政権下、足利尊氏が離反敵対すると尊氏と新田義貞は対立するに及び、建武二年(1335)11月の矢矧の戦いから伊勢南部氏が従う直義軍は、義重が参陣した尊良親王・新田義貞の尊氏追討軍を迎え撃った。元弘三年(1336)1月、第一次西上の顕家の軍と楠木正成の軍が加わった新田義貞を始めとする足利追討聯合軍に破れた尊氏の軍勢は九州に落ち延び、多々良浜の戦いの後、建武政権に不満の九州などの武士を集め、京を目指し東上を開始した。
[建武十三年(1336)5月25日、湊川の戦いに敗れた義貞の軍勢は尊氏が京に入ったため、後醍醐帝らとともに叡山に立て篭もり、反尊氏の武士や奥州からの顕家の軍勢を待ったが、顕家の軍勢の出立は1年以上遅れ、叡山で戦っていた後醍醐天皇は[建武十三年(1336)10月、若宮の東宮を新田義貞に預け尊氏と和睦、京に向かった帝の一行は幽閉や殺害されたが、義貞は若宮を伴い北国へ落ち延びた。
一方南部師行ら、顕家の第二次西上の南朝軍は東北から尊氏の傘下にあった京都を目指して進軍し戦勝を重ねていたが、京都の目前で、高師直率いる北朝軍と交戦、師行らは顕家とともに一族が戦死している。日蓮宗関係の史料によれば引き続き甲斐の河内地方に居住し続けている複数系統の南部氏一門はおり、南朝方に属していたと伝えられる。
このように南部氏一門には師行の根城南部氏の他、義重も参陣した尊良親王・新田義貞の尊氏追討軍を迎え撃った矢矧の戦いから直義軍に属していた伊勢南部氏や、「観応の擾乱」(1350-1352)の足利一族の騒乱の中、正平一統を機に新田氏の一翼として南朝支持から離れ、尊氏軍に就いた甲斐南部氏や、陸奥地方では北畠顕信の南朝軍の一角から直義派の吉良貞家に下った三戸南部氏の南部信長と推定されている南部伊予守などがいる。貞和五年(1349)以降,甲斐国が鎌倉公方の足利基氏の支配下になると、甲斐の南部氏一門は観応二年(1351)頃から足利氏に就いて戦っている様がに記されている。
南部宗継・同次郎左衛門尉兄弟の兄宗継は、矢矧の戦い以降「多々良浜の戦い」などで足利尊氏に従い、康永四年(1345)8月29日には天竜寺供養の髄兵などとして、また弟の次郎左衛門尉(宗冶)は根城南部氏の南部信政が戦没したとの説がある「四条畷の戦い」貞和四年(1348)1月5日から、兄と共に高武蔵守師直の手勢として南遠江守、南次郎左衛門尉と、南姓に変わり,に少なからず登場する。
また南部為重の嫡男とみられる波切遠江守は「薩埵山の戦い」観応二年(1351)12月27日に今川勢と参じている。観応三年(1352)2月25日には同じく、南部義重の子とされる南部常陸介は「笛吹き峠軍」・・観応三年2月25日に登場している。

南北朝後期から室町時代
鎌倉時代末期から南北朝時代初期に甲斐を本拠に奥州の糠部で活躍、その最後には北畠顕家に従った南部師行の奥州の勤王勢力とは別に、南部義重の後胤なども垣間見ることが出来る。南部宗継の弟の次郎左衛門尉宗冶は「観応の擾乱」の際に北陸に向い、今の富山県の砺波市に逃れて八伏山城を築いたことが地元に伝わるが、伊勢・北陸の両南部氏とも戦国時代に滅ぶが子孫は今に伝わる。南部宗継から二世後の頼村は伊勢南部氏を実質的に起こした武将。
なお南北朝合一の元中九年(1392)頃、将軍足利義満の密命を受けて、南部守行が南朝を支持する根城南部氏の南部政光の元をたずねて降伏勧告を行う。波木井にいた南部政光は南北朝合一に際して奥州へ移住したとされる。以降、根城南部氏から三戸南部氏へ惣領が移ったとされる。
陸奥へ移住した後、南部氏は室町期になると陸奥北部最大の勢力を持つ一族に発展する。しかし一族内の実力者の統制がうまくいかず、そのために内紛が頻発して一時衰退した。

戦国時代
その後、北朝方に属していた義重系甲斐南部氏は戦国時代後期になると武田氏に属していた惣領家は騒動で没落、勢力を失い、波木井に居た波木井南部氏は駿河の今川氏に通じて武田氏に敵対したため滅ぼされている。その後、河内地方には武田一族の穴山氏が入部している。
陸奥では三戸南部氏の出身で南部氏第二十四代当主である南部晴政が現われ、他勢力を制して陸奥北部を掌握した。晴政は積極的に勢力拡大を図り、南部氏の最盛期を築き上げた。晴政は中央の織田信長とも誼を通じるなど外交を展開するが、家中では晴政とその養嗣子だった従兄弟の石川信直が対立するなど、内訌も存在していた。晴政の晩年には南部氏の一族とされる大浦為信が挙兵し南部一族同士の争いが勃発した。一見広大に見える南部氏の領地であったが、国人の家臣化と中央集権化はあまり進んでおらず、津軽地方の国人らは為信に各個撃破されていった。
天正十年(1582)に晴政、晴継父子が没し、南部一族内の家督争いの結果、石川(南部)信直が相続するが、その際に晴政親子は信直によって暗殺されたとする説もある。津軽地方、外ヶ浜と糠部郡の一部を押領した大浦為信は豊臣秀吉に臣従し所領を安堵されたために、三戸南部氏は元々不安定だった大浦南部氏の統制を完全に失うことになる。
天正十八年(1590)、南部氏第二十六代当主である南部信直は八戸直栄を随伴し、兵千人を率いて、豊臣秀吉の「小田原征伐」に参陣する。これは根城南部氏が三戸南部氏の「付庸」であることを認めて自らの小田原参陣を諦めた八戸政栄(直栄の父)に、南部信直が領内で対立する同族の九戸政実や完全に離反していた大浦南部氏への牽制を委ねることができたからである。信直はそのまま従軍し奥州仕置の軍を進める秀吉から宇都宮において、7月27日付で南部の所領の内七ヶ郡(糠部郡、閉伊郡、鹿角郡、久慈郡、岩手郡、紫波郡、そして遠野保か?)についての覚書の朱印状を得る。
翌年に九戸政実が起こした「九戸政実の乱」が豊臣政権の手で鎮圧され、失領していた津軽三ヶ郡(平賀郡、鼻和郡、田舎郡)の代替地として和賀郡、稗貫郡の二ヶ郡が加増され、南部氏は七ヶ郡十万石の安定した基盤を得ることとなる。

江戸時代
江戸時代を通じて三戸南部氏は盛岡藩として存続する。分家で大名とされた家には八戸藩と七戸藩(盛岡新田藩)がある。

明治時代
明治時代になると、盛岡藩主の南部氏および八戸藩、七戸藩の二分家は華族に列せられ、明治十七年(1884)に旧盛岡藩主の南部利恭は伯爵、分家の旧八戸藩主の南部利克および旧七戸藩主の南部信方は子爵とされた。八戸氏を称していた根城南部氏(遠野南部氏)は士族となり、明治二十九年(1896)に南朝の天皇への忠節を賞して特旨をもって華族に列せられ、当主の南部行義は男爵とされた。九戸政実の実弟の中野康実の系譜を引く中野氏は士族とされた。なお、八戸氏および中野氏は、江戸時代末期より南部を称することを盛岡藩主の南部氏より許され、以後、南部を称している。
南部利恭の長男で南部氏第四十二代当主の利祥は「日露戦争」で戦死し、利祥には子がなかったので、利恭の次男で利祥の弟の利淳が第四十三代当主を相続した。利淳には一男一女がいたが、長男の利貞は早世したために、長女の瑞子に公爵一条実輝の三男の利英が婿入りして第四十四代当主を相続した。
なお、鎌倉時代から明治維新まで同じ所領に居続けることができたのは南部氏のほかには薩摩の島津氏などごく少数で、所領が中央政権(幕府)から遠く離れていたのが理由と考えられている。

南部氏の各支族
根城南部氏も場合によっては三戸南部氏とほぼ同格の存在として見なされることがあり、戦国時代には九戸氏も南部氏一族の有力者として幕府に認知されていた。少なくとも室町時代から安土桃山時代にかけての南部氏には、宗家と呼べるような確固たる権力を所持する家が存在しない同族連合の状況であった。

 


石見小笠原家 ・・様々なる小笠原支流

2014-03-27 15:01:39 | 歴史

    様々なる小笠原支流

  石見小笠原家  ・・様々なる小笠原支流

石見小笠原家

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三階菱* (清和源氏武田氏流) *小笠原氏の代表紋。

長清(信濃守)・紀伊・阿波・河内三国の守護→
子・長経(阿波守護)→後裔・阿波小笠原氏→
長経の孫・長親(弘安の役の功)・石見国を賜り、移住して南山城を築く。→
長親の子孫・石見小笠原氏。

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以下、「戦国 武家家伝石見小笠原氏」からの引用による ・・・

『甲斐源氏の加賀見遠光の次子長清が甲斐国小笠原に拠り、小笠原を称したのに始まる。長清は源頼朝に従って戦功を挙げ、『吾妻鏡』にも小笠原長清・長経父子の活躍がみえる。長清はその功によって信濃守に任じられ、紀伊・阿波・河内三国の守護となった。

石見小笠原氏のはじめ

長経は阿波守護となって、阿波に下向し大西郷に住したが、のちに信濃に帰っている、その後裔は阿波に住み、阿波小笠原氏をはじめ、三好氏、安宅氏・大西氏などが出ている。長経の孫・長親は、弘安の役の功によって、石見国邑智を賜り、同地に移住して南山城を築き同城に拠ったとされ、以後、長親の子孫は石見に住して石見小笠原氏となった。・・長胤のとき、南北朝の内乱があり、長胤は武家方として宮方と戦い、邇摩郡三久須の戦いの功で、温湯・赤城の両城を賜り、以後、温湯城が石見小笠原氏の拠点となった。その子長氏も武家方であり、石見守護となった上野頼兼に属していた。・・上野頼兼を中心とした北朝方に対して、一族の小笠原長光は、福屋兼行・三隅兼連・吉見直頼・周布兼宗らとともに宮方に属し、激しい攻防を繰り返した。小笠原氏は惣領家と庶子家とが、南北に分かれて争乱の時代を生き抜いた。・・以後、石見国にあって、庶子家を分出しながら、着実に勢力を広げていった。十二代長隆は永正年中上洛、宮城守護をになった。周防の大内氏に従ったものと思われる。

乱世を生きる
戦国時代には、出雲の尼子氏に属して、大内氏・毛利氏と対立。天文十九年(1550)大内氏は陶晴賢の謀叛で滅亡。晴賢は大友氏から義長を迎えて大内氏の実権を握った。その後、弘治元年(1555)毛利元就は厳島に陶晴賢と戦って晴賢を敗死させ、周防・長門を領国に組み入れ、石見計略も進めた。同三年には、陶晴賢の擁する大内氏の支配下の石見大森銀山を占領した。・・これに対して、尼子晴久は出雲須佐高屋倉の城主本城常光を石見に派遣した。川本温屋城主の小笠原長雄は協力し、晴久も太田に出陣した。永禄元年七月下旬、忍原において毛利氏と戦い大勝した。・・「忍原崩れ」。これで晴久は銀山を奪回し、本城常光を城番として富田に帰城した。・・石見銀山は戦国の軍資金として名高く、尼子・大内・毛利の争奪の的となっていた。その争奪の歴史を振り返れば、・・天文六年尼子晴久奪回、・・同八年大内義隆奪取、・・同九年尼子方小笠原長隆奪還、・・同十年晴久の安芸遠征後、大内氏が奪い返した。のち、晴久が占領し、その後、陶晴賢に擁立された大内義長の手に入った。これを弘治二年毛利方の吉川元春が占領し、永禄元年晴久が奪回するというめまぐるしさであった。・・その後永禄五年、石見銀山城主の本城常光は毛利氏に降り、銀山は毛利氏の支配する。
さて石見銀山のこととは別に、永禄二年(1559)二月、吉川元春は一千騎を率いて安芸国を発して、小笠原長雄の拠る温湯城を攻めてきた。小笠原勢は、元春の猛攻を防いだが、同年五月、毛利元就・隆元・小早川隆景の父子が石見国に軍を進め、吉川元春もその一翼を担った。総勢一万二千騎の毛利軍が温湯城を囲むに至った。

毛利氏に降る
長雄は、尼子晴元の救援を恃んで、温湯城周辺の赤城、青岩庵などの支城に兵を配置して毛利軍の攻撃に備えた。元就は温湯城を攻めるため本城に迫って笠取山に陣し、六月には温湯城周辺の城をすべて落した。この間尼子晴久はしばしば兵を出して温湯城救援を試みたが、毛利軍の包囲網は固く、救援は実らなかった。・・そして七月十九日、長雄は恃みとした尼子氏の軍勢が太田まで退いたことで力尽き、小早川隆景を頼んで降伏した。このとき、隆景は一挙に小笠原氏を滅ぼすよう進言したが、元就は長雄の死を免じて隠居させるに留めた。そして小笠原氏は、川本をはじめ江ノ川南岸の所領を没収され、代わりに江ノ川北岸の旧領と、すでに元就に帰属していた石見国衆福屋氏の所領から同国伊田・波積を新給地として宛行われ、以後、甘南備山城を居城とした。・・永禄十二年、尼子再興を目論む勝久が出雲に乱入すると、長雄の嫡男・長旌は毛利軍の先陣を勤めたが、小笠原氏の宿老たちは吉川元春の三男経言を長旌の養子にして、旧領の川本の返還を目論んだが、この計画は輝元の反対され、生まれたばかりの嫡子・千代童丸(長郷)が家督を相続した。』

その後・・・秀吉・家康の時代になり・・・どこの家臣にもなら(/れ)ず、小笠原の姓を棄てたとも聞く。

 

 


三好家 ・・様々なる小笠原支流

2014-03-27 02:46:07 | 歴史

    様々なる小笠原支流

  三好家  ・・様々なる小笠原支流

三好氏

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三好氏
家紋 三階菱に五つ釘抜
本姓 清和源氏 (河内源氏系義光流)
家祖 三好義長
出身地 阿波国三好郡、主な根拠地 四国東部、畿内
著名な人物 三好之長、元長、長慶、実休、笑岩、長逸、政康、政勝

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三好氏は、日本の氏族の1つ。家系は信濃源氏で鎌倉時代の阿波の守護小笠原氏の末裔。室町時代は阿波守護代を務め、戦国時代に阿波をはじめとする四国東部のみならず、畿内一円に大勢力を有する戦国大名となった。

鎌倉時代のはじめ、阿波守護職は佐々木氏であったが、佐々木氏は承久の乱で宮方に味方して没落した。そのあとに、幕府方で活躍した小笠原長清が阿波守護職に補任され、阿波国に入部したのである。のちに六波羅奉行に任じられた長清は、子の長経を守護代として阿波の支配を委ねた。長経は阿波麻殖保をめぐって平清基と争論したことや、土佐に配流される土御門上皇を阿波に迎えたことなどが『吾妻鏡』にみえている。その後、長経は弟長房に阿波守護職を譲り、みずからは信濃に帰っていった。

歴史
本姓は源氏。清和源氏の名門小笠原氏(信濃源氏)の庶流とされ、鎌倉時代に阿波守護であった阿波小笠原氏の末裔。阿波三好郡を本拠にしたことから三好氏を称した。
鎌倉時代後期には既にその名が阿波国内で散見されるようになる。南北朝時代の初期は、南朝方として活動しており、北朝方の細川氏と対立してた。しかし南朝が不利になり、細川氏が室町幕府内で勢力を拡大し強大化するとそれに服した。阿波は細川家の庶流の阿波細川家が代々守護をつとめたが、三好氏は、この阿波細川家の被官として勢力を伸ばす。

三好之長と細川澄元
明応の政変
長禄二年(1458)には、智勇兼備の良将と謳われた三好之長が現れる。之長の諱は、阿波細川家の成之に偏諱を受けたもので、之長は、管領細川勝元に従い応仁の乱に東軍として参加。勝元の子細川政元の養子に阿波細川家から澄元が迎えられると、これを支えて転戦して武功を挙げ、畿内にも大きな影響力を持った。政元から細川京兆家の直臣に望まれ、これを受けた。これ以後、三好氏は京兆家の重臣。細川政元は、十代将軍・足利義材(後に義尹、義稙)を追放し(明応の政変)、十一代将軍・足利義高(後に義澄)を擁立し「半将軍」と呼ばれる程の実力者であった。・・永正四年(1507)、細川澄之と香西元長は、細川政元を殺害し、細川京兆家を継承する(永正の錯乱)。三好之長と細川澄元も襲撃され近江に逃れた。澄之は細川一族の高国や尚春、政賢らの反撃を受けて討たれ、之長らは近江から帰洛し澄元と共に権勢を掌握した。

細川高国・大内義興との戦い
しかし同年11月、周防に流れていた前将軍足利義尹が大内義興に擁立されて上洛戦を開始する。 細川澄元は大内義興との和睦を画策したが、細川高国が大内方に寝返ったため決裂し、足利義澄、細川澄元、三好之長は近江に逃れ、大内義興は上洛を果たし、足利義尹は十代将軍職に復帰した。・・永正六年(1509)、細川澄元、三好之長は、京都に侵攻したが、逆に高国と義興の反撃を受けて敗北し、阿波に逃走する(如意ヶ嶽の戦い)。・・永正八年(1511)7月、細川澄元、三好之長は十一代将軍・足利義澄、赤松義村と連携し共に堺に上陸し、深井城の合戦に勝利し京都を奪還する。しかし同年8月、足利義澄が死去し、三好之長らは、再起した細川高国と大内義興との船岡山合戦に敗れ、阿波に落ち延びた。大内義興は上洛を果たし、管領代に任命された。・・永正十五年(1518)8月軍事力では主力であった大内義興は、出雲の尼子経久の勢力が拡大し石見、安芸、周防を脅かし始めたため、帰国してしまう。大内義興の在京期間は十年に及んだが、軍事力の中枢を失い細川高国の基盤は揺らいだ。

細川高国・六角定頼との戦い
永正十七年(1520)1月に細川澄元・三好之長が、細川高国の領国である摂津に侵攻し下田中城主・池田信正の協力を得て、瓦林正頼が籠もる越水城を攻略した。すると十代将軍・足利義稙も澄元に通じため、細川高国は単独で近江坂本に逃れ、三好之長は京都を奪還した。・・しかし同年5月、細川高国は六角定頼と内藤貞政の援軍を得、上洛戦を開始する。これに対して澄元・之長らは兵を集めることができず、之長は等持院の戦いで敗北し捕らえられて自害し、摂津伊丹城に居た澄元も阿波に敗走した。同年6月、細川澄元も阿波にて病死した。六角定頼は上洛を果たし後に管領代に任命された。

三好元長と細川晴元
細川高国・浦上村宗・朝倉宗滴との戦い
永正十八年(1521)、細川高国と十代将軍・足利義稙の関係は険悪となり、義稙が境に出奔した為、赤松家の実権を握った浦上村宗の元にいた前将軍・義澄の子・足利義晴が第十二代将軍に補任された。足利義稙は、大永三年(1523)逃亡先の阿波で死去した。・・大永六年(1526)細川高国が、家臣の香西元盛を殺害して細川氏で内紛が起こると、三好之長の孫・三好元長は、細川政元の子晴元と、十二代将軍・足利義晴と同じく十一代将軍足利義澄の子で、船岡山合戦の後、阿波細川家で庇護されていた・足利義維を擁立し、大永七年(1527)に桂川原の戦いで高国を破り京都を奪還する。足利義晴は細川高国を伴い近江に逃れた。・・大永七年(1527)、将軍・足利義晴と細川高国は、朝倉宗滴の支援を受け上洛を果たすが、大永八年(1528)不和から朝倉宗滴が越前に帰国すると、京都は細川晴元と三好元長が奪還した。・・大永八年(1528)7月、三好元長はそれまでの功績により山城守護代に任じられたが、翌享禄二年(1529)には新任の柳本賢治らと折り合いを悪くした為、阿波に逼塞する。・・享禄三年(1530)に柳本賢治が播磨出陣中に暗殺されると、足利義晴と細川高国は、浦上村宗や北畠晴具と連携して京への上洛を果たす。・・享禄四年(1531)、細川晴元は堺公方府防衛のため三好元長を呼び戻し、浦上村宗の軍勢を止めることに成功、摂津中嶋にて戦線は膠着状態となった。 しかし突如、浦上氏の主筋である赤松政祐が細川晴元方に内応し、細川高国・浦上村宗軍を背後から攻撃し為、細川高国と浦上村宗は敗死した。細川晴元と三好元長は京都を奪還した。

木沢長政・三好政長との戦い
天文元年(1532)、仇敵・細川高国を討った細川晴元は足利義晴(十二代将軍)と和解を進めた為、足利義維を庇護してきた三好元長は仲違いを始める。更に畠山義堯の家臣である木沢長政が義堯を飛び越え細川晴元に接近し、元長の従叔父の三好政長も細川晴元に同調する。畠山義堯と元長からは二度に亘って木沢長政の居城の飯盛山城を攻撃したが、晴元の要請により蜂起した一向一揆が背後から元長を襲い、畠山義堯を自刃させ、三好氏の根拠地・和泉顕本寺も襲い、元長も自害に追いまれてしまう(飯盛山城の戦い)。

三好長慶と細川晴元
木沢長政・三好政長との戦い
三好宗家は元長の嫡男である長慶が継ぐことが許されたが、長慶は十歳という幼少のためか三好氏は一時的に後退した。義維も享禄・天文の乱の混乱に乗じた晴元らにより阿波に移され、義晴と和睦した晴元が政権を握り、晴元の側近として三好政長・木沢長政らが台頭した。しかし長慶は長じて智勇兼備の武将に成長し、河内守護代で畿内に強い勢力を誇った遊佐長教の娘を継室に迎え、自らも勢力を本国阿波のみならず摂津へ広げ力を蓄えると、弟の実休や安宅冬康、十河一存らと協力して、天文十一年(1542)、木沢長政ら父の仇の敵勢力を次々と破り、細川家中に父以上の勢力を築き上げた(太平寺の戦い)。・・
天文十八年(1549)、長慶は岳父・遊佐長教の援軍を得た上で細川高国の養子氏綱を擁立、細川晴元に反旗を翻し、晴元の勢力を軍事面で支えていた三好政長を摂津榎並で討ち取った(江口の戦い)。将軍・足利義晴と細川晴元は大津に逃亡し政権が崩壊した結果、長慶は戦国大名として名乗りを上げた。

細川晴元・六角定頼との戦い
天文十九年(1550)5月、足利義晴が死去。その子足利義輝は、六角定頼を烏帽子親として元服していたが、長慶と敵対していた。長慶は足利義輝と戦って近江に追い、畿内や四国と合わせて九ヶ国と播磨、伊予、土佐の一部を支配する大大名にまで成長した。

三好政権
足利義輝・六角定頼との和解
天文二十一年(1552)1月、三好長慶は細川氏綱を管領にするという条件で足利義輝と和睦し、義輝は京に戻った。翌年(1553)義輝は晴元と協力して長慶との戦端を開くも敗退。再び近江朽木へ逃れ、以降五年間をこの地で過ごした。なお、亡命中の同二十三年(1554)2月12日、名を義輝に改めている。・・永禄元年(1558)に長慶は足利義輝と和睦し、幕府相伴衆として十三代将軍・足利義輝を推戴し、足利義輝-細川氏綱-三好長慶という体制に移行した。とはいえ実権は長慶が握っていた。長慶は後に十五代将軍足利義昭を推戴した織田信長と同様に、上洛し都において室町将軍の役割である畿内地域の支配と地方大名の統制を間接的に担った、戦国時代初の天下人といわれる。

三好政権の拠点
三好長慶 (阿波芝生城→摂津越水城→摂津芥川山城→河内飯盛山城)
三好義興 (摂津芥川山城)
三好義継 (河内飯盛山城→河内高屋城→河内若江城)

隆盛と一族の死
長慶は連歌を愛好し禅を好み古典に親しむ風雅の士でもあり、キリシタンに対しても寛容なで、仏教・神道・キリスト教など幅広い宗教を認めた。そのため、仏教内部の対立は沈静化した。また有能な弟達を各所に配置し、大勢力を統治した。応仁の乱以降の長い戦乱で荒廃した都を復興し、堺の町を一大貿易港として整備するなど精力的に活動した。・・しかし、旧勢力の、河内・紀伊の守護で元三管領家の畠山高政、南近江の半国守護で細川晴元の従兄弟の六角義賢らは反三好で兵を構えた。彼等との戦いで、久米田の戦い(岸和田市)で弟の実休を失い、嫡男義興や自身の弟達・十河一存、安宅冬康にも先立たれ、自身も永禄四年(1564)に41歳で死去した。

三好長慶の死後
長慶の死後、三好氏の家督は長慶の甥で養子の三好義継が継いだ。しかし義継は若年で、三好政権は義継の後見人である三好長逸・政康・岩成友通ら三好三人衆と松永久秀による連立政権が樹立された。・・一方、長慶の傀儡の将軍・足利義輝は長慶の死を好機と見て、上杉謙信・武田信玄・朝倉義景など諸大名に上洛を呼びかけ、幕府再建を目指して積極的な活動を行なった。このような義輝の行動に危機感を持った久秀・三好三人衆らは永禄八年(1565)5月19日にクーデターを起こして、義輝を二条城で暗殺(永禄の変)。

内紛・政権崩壊
連立政権内の松永氏の勢力拡大を危険視した三好三人衆は、永禄八年12月、久秀に筒井城を奪われて(筒井城の戦い)放浪中の筒井順慶ら大和の国人衆らと手を結んで大和に侵攻し、久秀を討とうとした。これにより、三人衆と久秀の対立が先鋭化する。また久秀の弟長頼が荻野直正に討ち取られた。・・一方、義輝には弟・覚慶がおり、義輝の旧臣に擁立され、永禄九年(1566)2月に還俗し足利義秋と名乗り、同年4月21日には従五位下・左馬頭に叙位・任官した。これに対し三好三人衆は、阿波公方・足利義維の子の足利義栄を十四代将軍候補として擁立した。義栄は、永禄十年(1567)1月、左馬頭に叙任された。・・三人衆は松永久秀との戦いにおいて、三好家当主・義継を擁し、永禄九年(1566)9月には、阿波・讃岐の軍勢を率いた実休の子三好長治、その重臣篠原長房、三好笑岩、阿波細川家の細川真之、将軍候補・足利義栄も合流し、圧倒的に優勢であった。しかし永禄十年4月、当の義継が突如出奔、松永久秀に保護を求めた。これで久秀方は息を吹き返したしたが、やはり依然として劣勢であった(東大寺大仏殿の戦い)。 三人衆方の篠原長房は、松永方の摂津越水城を奪い、ここを拠点として大和ほか各地に転戦した。この時期の長房について、『フロイス日本史』に「彼ら(三好三人衆)以上に勢力を有し、彼らを管轄せんばかりであったのは篠原殿で、彼は阿波国において絶対的執政」と記されている。
永禄十一年(1568)2月、足利義栄は十四代将軍に就任した。

織田信長との戦い
三好政権内部が内紛中、永禄の変で細川藤孝・一色藤長らの援助を受けて逃亡していた足利義昭は、尾張・美濃の領主・織田信長の援助を受け、永禄十一年(1568)9月に上洛を開始した。・・内紛に明け暮れている三好政権は信長の侵攻を食い止めるため、六角義賢を味方につけて防衛しようとしたが、義賢は信長の侵攻を受けてあえなく敗れさった(観音寺城の戦い)。・・三好義継と松永久秀は信長と通じており、このため三人衆は敗走し、篠原長房も越水城を放棄して阿波へ撤退した。織田信長は上洛を果たし、足利義昭が十五代将軍に就任した。三人衆に擁立されていた足利義栄は9月に逃亡先の阿波で病死。・・永禄十一年(1568)9月、三好三人衆と三好笑岩は、阿波から足利義昭を急襲するが、寸前で失敗(本圀寺の変)。・・元亀元年(1570)7月、三好三人衆・笑岩らが阿波から再び上陸し野田・福島に兵を挙げると、信長はこれを五万の兵で攻めるが、本願寺の協力で、激戦の末信長は撃退され、近江にも戦端が開かれた為、同年9月に信長は撤退する(野田城・福島城の戦い)。この信長の撤退で、篠原長房が再び長治・真之を奉じ阿波・讃岐の兵二万を率いて摂津に上陸、摂津、和泉を席巻するが、信長は朝廷工作を実施し、正親町天皇より「講和斡旋を希望す」という言を得て、11月30日に話し合い、12月14日に和睦が成立し、近江における浅井長政、朝倉義景、六角義賢の撤兵とともに、長房も阿波へ軍を退いた。・・元亀二年(1571)5月には、篠原長房は阿波・讃岐勢を率いて、信長と結ぶ毛利氏の圧迫を受けていた浦上宗景の求めに応じ備前に上陸している(本太城合戦)。・・同年9月にも、長房は阿波・讃岐勢を率い摂津に上陸、荒木村重、中川清秀、松永久秀と共に和田氏の高槻城を包囲している(白井河原の戦い)。・・元亀三年頃には三好三人衆と足利義昭、三好義継、松永久秀が反織田信長で一致、元亀四年には三好家の勢力範囲は淀古城まで達した。

本拠地(阿波・讃岐)の崩壊
しかし元亀四年(1573)5月、篠原長房は主君の三好長治・細川真之により居城の上桜城を攻撃され、抗戦ののち7月に自害してしまう(上桜城の戦い)。これらにより三好家は統率力を喪失、讃岐の国人・香川氏、香西氏を始め、阿波の国人までもが三好家から離反し、本拠地阿波の援軍を得られなくなった三好三人衆・三好笑岩・三好・松永久秀は畿内で孤立してしまう。・・三好三人衆はなおも信長に抵抗したが天正元年末(1573)迄にはそれぞれ敗れ去り(第二次淀古城の戦い)、更には当主・三好義継までもが足利義昭を匿った為同年11月に信長に討たれ(若江城の戦い)、天正二年1月に松永久秀が降伏、天正三年(1575)4月には本願寺の支援を受けていた新堀城の十河一行、香西長信が敗死、高屋城の三好笑岩も降伏(高屋城の戦い)、ここに三好氏は畿内における勢力を完全に失った。
その後、阿波の三好長治は天正五年(1577)長宗我部元親の助力を得た細川真之と阿波荒田野で戦い敗死、長治の死後、讃岐・阿波を領有した十河存保も長宗我部元親の侵攻を受け信長に降った。

その後の三好家
・三好氏の生き残り・三好笑岩は信長の家臣となり、河内の一部に所領を与えられた。
・十河存保も豊臣秀吉に仕えて讃岐に所領を与えられ、家名は存続。しかし存保は天正十四年(1586)、戸次川の戦いで戦死、嫡男十河千松丸も秀吉謁見後に毒殺され、改易。
・笑岩は秀吉の甥・豊臣秀次を養子に迎えたが、縁組は解消され、以降消息不明。
・笑岩の家臣・三好房一も秀吉に仕え、関ヶ原の戦いの後は江戸幕府の旗本となり二千三百石を領したが嗣子なく廃絶。
・元和元年(1615)存保の遺児・十河存英や三好政康は大坂夏の陣で戦死。
・政康の弟・三好政勝は徳川氏に仕え、子孫も旗本として存続。
・・香川県に伝わる伝承・・本流である三好義継の嫡男義兼、次男義茂の兄弟は讃岐国伊吹島に逃れ、土着。義兼の孫・義浄は生駒氏より政所のお墨付きを授かり、代々作右衛門を名乗ったという。伊吹島の伊吹八幡神社には今も八十騎まで減った義兼主従が伊吹島に辿りつき、神宮に誓文を奉げている絵馬が残されている。


京都小笠原家 ・・様々なる小笠原支流

2014-03-26 00:01:55 | 歴史

    様々なる小笠原支流

  京都小笠原家  ・・様々なる小笠原支流 

 

京都小笠原家

小笠原氏には宗家の貞宗の弟の貞長の流れがある。貞長は新田義貞と戦って討死し、子の長高は京都に住んで足利尊氏の弓馬の師範であった(疑問もあり)。以後、幕府に奉公衆として仕えた。京都に住んだ貞長の系統は、兄貞宗の系統を信濃小笠原氏とするのに対して、京都小笠原氏と呼ばれる。
京都小笠原氏の一族は将軍側近の有力武将として重きをなすとともに、幕府初期から的始めなどの幕府儀礼に参加している。六代将軍の足利義教の頃には将軍家の「弓馬師範」としての地位を確立し、以後的始め、馬始めなど幕府の公式儀礼をしばしば差配し、当時における武家の有職故実の中心的存在となった。こうしたことから奉公衆とはいえ一般の番衆とは区別され、書札礼では「小笠原殿のことは、弓馬師範たる間、如何にも賞翫にて恐惶謹言と書く事、可然也」(『大舘常興書札抄』)とされた。
なお従来は、将軍家の弓馬師範は信濃小笠原氏が務めたとされたり、貞宗が後醍醐天皇の師範、長高が足利尊氏の師範を務めたなどの説が流布していたが、これらは後世の付会に過ぎず史料的裏付けに乏しい。小笠原氏が将軍家弓馬師範なる地位を得るのは足利義教の代で、それも信濃小笠原氏ではなく京都小笠原氏である。信濃小笠原氏が武家故実に関わるのは小笠原長時、貞慶父子の時代になってからである。
なお、小笠原政清は同じ幕臣であった伊勢盛時(北条早雲)に娘を嫁がせたとされており、彼女の所生とされる北条氏綱以降の後北条氏歴代当主は京都小笠原氏の血を引いていた事になる。

京都小笠原家の系譜

小笠原宗長-貞長(京に住む・戦死)-長高(奉公衆・京都小笠原家)-氏長-満長-持長-持清-政清-尚清-稙盛-・
  ・秀清流・秀清(細川家家臣)-長元-長之-長英-長知-長軌(長衛)-長宗-長頭-長視-長供-長厚 ・家老
  ・元長流・元長(後北条家家臣)-允康-元続-康広-長房-長真-・

京都小笠原・宗長以前・・・小笠原氏は京の都にも足跡を残している。
・初代小笠原の長清は、元服後は京の六波羅に居て、当時権勢だった平家の平知盛に仕えていた。また後年清水坂の下に長清寺を建てた。・・現在京都では確認出来ない。小笠原家の祖の縁の長清寺は、飯田と小倉に現存する。
・嫡子・長経は六波羅で生まれ、六波羅探題の評定衆となった。その子長房は長清の養子となって阿波国守護となり、三好氏の祖となった。
・小笠原貞宗・・京に足跡が多い。貞宗は鎌倉滅亡から室町成立までの戦乱を足利尊氏とともに行動。その結果貞宗は“信濃守護”となり信濃の松尾や井川を居館とした。康永三年(1344)、家督を政長に譲った後は、隠居して京の四条高倉に住んだ。貞和三年(1347)没・・法名「開善寺入道泰山正宗大居士」。・・辞世の句・地獄にて大笠懸を射つくして 虚空に馬を乗はなつかな・。家譜では「 射・御・礼の三道に達し、殊に弓馬の妙術を得、世を挙げて奇異達人と称す」・(笠系)。墓、京都の建仁寺の塔頭“禅居庵”。
・・建仁寺・・京都五山第三位の建仁寺は、日本に臨済宗を開いた明庵栄西が建立した最初期の禅寺である。後に曹洞禅を伝えた道元もここで修行した。・・この両者によって鎌倉時代に日本に伝えられた禅は、室町時代になって、禅僧が最新の知識人として公家に代わるブレーンとして将軍家をはじめとして武家と深くつながった。そのことにより、禅は礼法をはじめとする室町武家文化に決定的な影響を与える。・・政治的に公家と決別した側の糾法の宗家小笠原貞宗にとっても、禅は新しい時代の新しい発想をもたらしてくれた。 貞宗にとってその禅僧とは清拙正澄(大鑑禅師)である・・「禅と礼法」。そしてその禅師が住持を務めたのがここ建仁寺。
・・摩利支尊天堂・・その建仁寺の塔頭禅居庵は非公開だが、実際に墓があるのは禅居庵の中で公開されている摩利支(尊)天堂、入口が別で、参詣者の出入は自由。・・ここ摩利支天堂は、禅の修行場でなく民間信仰の場。・・実は貞宗も摩利支天を信仰していた。摩利支天とは、観音菩薩が人々救済で姿を変えた応化身の一つであるが、武家には武の神とされていた。貞宗は、鎌倉幕府滅亡・南北朝の動乱で活躍する武将の一人であり、その戦乱に参戦している。だから武の神の守護を期待していたのであろう。
・・小笠原家の礼書『仕付方萬聞書』・・「十月のいのこを祝ふ事…中略…猪は猛獣なり。摩利支天の使者と云。其上、子を繁昌するもの也。武家に祝うべきもの也」とあり、摩利支天より猪の方が信仰の対象だったかもしれない。・・小笠原氏の故郷の甲斐駒ケ岳は、その南面に「摩利支天」という怪峰がある。・・建仁寺に入った歴代渡来僧の最高格の清拙正澄(大鑑禅師)も、摩利支天を自身の守護神としていた。・・この摩利支天が貞宗と清拙正澄の縁を取り結んだのか。・・建仁寺禅居庵の摩利支尊天堂は、両者の結縁の場であり、貞宗が開基・清拙正澄が開山となっている。
・・貞宗の墓・・その摩利支尊天堂に貞宗が眠っているという。・・奥に石鳥居の立派な五輪塔が貞宗公の墓。・・貞宗の墓の隣に、同じ材質の石で形の変わった塔状の墓は、ここの開山の墓だという。清拙正澄(大鑑禅師)の墓でしょうか。・・貞宗が新たに武家礼法を構想できたきっかけは(弓法を知っていたからでもあるが)、禅の作法である清規を日本に伝えた清拙正澄の影響があったからだ。・・貞宗は建仁寺禅居庵に長清碑を建てたという・(未確認)。

初代小笠原の長清は、元服後は京の六波羅に居館を持ち活躍した。以後、小笠原家は、京の居館を拠点として活躍したと思われる。

貞宗公以降も小笠原氏と京都との関係は続く。・・貞宗の後では、明徳三年(1392)、長秀が義満の相国寺・落慶供養で、先陣隋兵の一番を勤めた。また長秀の兄長將の子持長は府中で惣領職を主張する前は、京で将軍の奉公衆だった。・・持長だけでなく小笠原氏には足利将軍の近習の家系がいた。信濃守護家の子弟は、幼年から青年まで幕府に仕えるものが多かった。

そのうち貞長が「京都小笠原家」を構えた。「京都小笠原氏」といい、貞宗の弟貞長が祖である。

 系譜・小笠原宗長-貞長(京に住む・戦死)・
 -長高(奉公衆・京都小笠原家)-氏長-満長-持長-持清-政清-尚清-稙盛-・

・・京都小笠原氏は貞長の子・長高を経て孫の氏長から備前守となる。
・満長を経て持長の時、永享二年(1430)将軍義教の"的始め"で剣を下賜された。
・持長は、京都小笠原家にもあり、同姓同名で混同されがち。
・その子持清は、嘉吉二年(1442)将軍義勝の弓術師範となる。“小笠原流礼法”の本家は京都小笠原氏だという説もある。
・そして元長、元清と続いて応仁の乱を迎える。
・乱後、幕府が衰微すると、元続は小田原北条氏に仕えるようになる。

・・・京都小笠原家の経済的基盤の所領は岡山にあった。・・備前国邑久郡鹿忍(岡山県牛窓町)・藤井庄(岡山県岡山市)を所領とする。
・・・室町幕府奉公衆京都小笠原氏の一門。京都小笠原氏は信濃守護小笠原氏の庶流家で、在京して将軍に仕えた。弓馬の実技・故実に精通し、伊勢氏と並ぶ武家故実の大家として名を得ている。嫡流家は代々民部少輔・備前守を称し、将軍の弓馬師範を務めた。備前国に地盤を得た一族は代々六郎・兵部少輔・播磨守を名乗り、戦国末期には関東の戦国大名後北条氏に仕えて名を残した。後北条氏滅亡後徳川家康に召し出され、旗本として近世を生き延びている

*小笠原元長 永享五年~文亀三年(1433~1503)。
六郎、兵部少輔、播磨守。入道して宗長を名乗る。実名「元長」。京都小笠原氏の宗家備前守持長の次男・・康富記。少年期より父や兄に従って幕閣周辺の犬追物に多数参加し、実技と作法(故実)を学んだ・・康富記・犬追物日記など。弓術を通じて諸国の国人と親交深く、陶弘護・小早川弘景・六角政綱・斎藤利綱らに弓馬故実を伝授。備前守護赤松政則の催した犬追物に審判として招聘されたこともある・・蔭凉軒日録。将軍の師範として幕府儀礼を主導した宗家と異なり、元長は地方武士への故実普及に大きな役割を果たした。鹿忍庄、藤井庄など備前国邑久郡沿海地域に所領を集積し、文明九年(1477)には藤井庄のことで幕府法廷に訴訟を提起している・・結番日記。幕府奉公衆として長享元年(1487)の足利義尚の第一次六角征伐、足利義材の第二次六角征伐ほかに参戦し、義材より備前国内で所領の加増を受けた・・長享番帳など。また、所領内に存在する大船山宝光寺(牛窓町)の大檀那として仁王門を寄進している・・宝光寺文書。文亀三年(1503)没。墓は宝光寺。七十一歳。法名は正見院殿久庵長公大居士


元長流・元長(後北条家家臣)-允康-元続-康広-長房-長真-・

その後北条氏だが、初代北条早雲(伊勢宗瑞)は小笠原元長(元続の祖父)の娘を妻に迎え、彼女は北条二代目氏綱の母となる。そして早雲は伊勢氏の出であり、京都で幕府の申継衆(取次役)をやっていて、妹を駿河の今川家にやり、自分も今川に仕えた。・・また今川義元の子氏真は、三代北条氏康の娘を妻にし、のち氏康を頼る。・・小笠原・伊勢・今川が当時の三大礼式家でり小田原北条氏はその三家の礼法を統合できる位置にあった。…司馬遼太郎も早雲を主人公にした『箱根の坂』で同様な事を述べている。

後北条家の小笠原氏・・・

小笠原允康
元長の子。六郎、兵部少輔を称す。実名「允康」は「備前本蓮寺文書」にみえる。長享元年(1487)足利義尚による近江守護六角氏征伐の際、父元長と共に参戦・・長享番帳。元長没後、家督と備前国内の所領を継承。永正七年(1510)、知行の備前国鹿忍庄で、代官職をめぐる浦上助秀と馬場長真の争いが発生している・・備前本蓮寺文書。永正八年(1511)に義澄が没すると、子の足利義晴に従って、播磨・備前・美作の赤松義村を頼った。

小笠原元続
允康の子。六郎、兵部少輔を名乗る。実名「元続」。幕府の衰退に加え、備前国での地盤だ不安定のことから、関東に下向。北条氏綱に弓馬師範として保護され、相模国飯泉郷(小田原市)を在宿料所として給与された・・北条五代記。以後、後北条氏のもとにあって伊勢貞辰と共に幕府とのパイプ役を務めた・・『大館常興日記』他。天文八年(1539)、将軍足利義晴が北条氏綱に大鷹を贈った。義晴は小笠原元続にも御内書を与え、元続から氏綱に幕府の意を伝えるよう命じている・・室町家御内書案。

小笠原康広 享禄四年~慶長二年(1531~1597)。
元続の子。六郎、兵部少輔、播磨入道を名乗る。実名「康広」。有名な『小田原衆所領役帳』・・永禄二年成立・・にみえる「小笠原六郎殿」は康広のである。。北条氏康に仕え、偏諱を与えられただけでなく、氏康の娘と結婚するなど準一門の待遇を受け、武者奉行を務めた。天正二年(1574)、子・長房に家督を譲渡したが、以後も活動。天正十一年(1583)徳川家康の娘督姫が北条氏直に嫁いだ際は、北条側の使者として徳川氏と応対。天正十八年(1590)の小田原開城後、北条氏直に随行して高野山に入った。氏直没後、加々爪政尚を介して徳川家康の臣下となる。

永禄の変の後、京都小笠原家の一部は、細川家に仕える者もいた。

・秀清流・秀清(細川家家臣)-長元-長之-長英-長知-長軌(長衛)-長宗-長頭-長視-長供-長厚 ・家老

子孫・・キリシタンの系譜

秀清の子息らは、細川忠興の近親などと縁戚を結び、家老職を歴任した。
・嫡男長元(長貞)には、忠興の姪で吉田兼治息女たまが嫁した。子孫は知行六千石。藩主一門と婚姻を重ね、備頭・家老などの要職に就いた。
・三男長良(宮内)には、藤孝息女で長岡孝以室であった千が再嫁した。キリシタンであったが棄教した。
・次男長定には、細川家重臣の加賀山隼人正興良の息女みやが嫁した。興良はキリシタンで、元和五年(1619)10月15日小倉で殉教。
・一族の玄也一家もキリシタンであり棄教を迫られ続けたものの、その後も長らく秘匿されていた。細川家の移封に従い熊本に移るが、長崎奉行への密告があって幕府に露見したため、寛永十二年12月22日(1636)、熊本禅定寺において家族・従者と共に殉教した。
・少斎が介錯したガラシャの嫡孫にあたる長岡忠春の正室には、少斎孫にあたる長之の娘三が選ばれた。
・第六代当主・小笠原長軌は、細川宣紀の娘・津與姫を妻に迎えている。

逸話・・・

小笠原秀清は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・故実家。室町幕府幕臣・細川氏家臣。一般には小笠原少斎の名で、細川ガラシャを介錯した人物として知られる。・・関ヶ原の戦い以前・・・16世紀中期、小笠原稙盛(稙清)の子として出生。生家の京都小笠原氏は、室町時代初期に信濃小笠原宗家から分かれ、代々京都で奉公衆として室町幕府に仕えていた。父の稙盛は足利義輝の近習であったが、永禄八年(1565)5月19日の永禄の変で義輝と共に討死した。秀清は変の後に浪人となったが、後年丹後国で細川藤孝の客分となり、500石を給された。後に剃髪して少斎と号した。・・慶長五年(1600)6月、細川忠興が会津征伐に従軍すると、家老であった秀清は、河喜多、石見一成、稲富祐直らとともに大坂屋敷の留守居を命じられた。7月16日、忠興正室・玉子(ガラシャ)の大坂城登城を促す石田三成方の使者が来るが、秀清らはこれを拒絶。ガラシャと相談の上重ねて要求のあったときには自害すると決定した。翌17日、石田方の兵に屋敷を囲まれると、秀清はガラシャの胸を長刀で突き介錯した。この後、秀清は屋敷に火をかけて、河喜多らと共に自害した。稲富は包囲方に加わっていた砲術の弟子の手引きで逃亡したため、後に忠興の勘気を蒙ることになった。

 


様々なる小笠原支流 ・・枝は分かれて

2014-03-24 10:30:09 | 歴史

    様々なる小笠原支流

  様々なる小笠原支流 ・・枝は分かれて

様々なる小笠原支流  

小笠原氏族      家紋、三階菱

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小笠原氏
本姓 清和源氏義光流、家祖 小笠原長清
出身地 甲斐国巨摩郡小笠原
主な根拠地 信濃国松本/伊那、京都、豊前国 など
著名な人物 小笠原長清、貞宗、政康、宗康、政秀、定基、長棟、貞慶、秀政、など
支流、分家 三好氏、伴野氏、跡部氏、赤沢氏、林氏、浅羽氏、大井氏、伴野氏など
小笠原(おがさわら)氏は日本の氏族。清和源氏の河内源氏の流れをくみ、武家の有職故実を伝える一族としても知られる。通字は、「長」・「貞」・「忠」など。
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出自・・

小笠原氏の家名のもとになった「小笠原」の地名は甲斐国巨摩郡に見られ、牧や庄があった現在の山梨県北杜市と、原庄があった現在の山梨県南アルプス市に居館があったとされる。
甲斐源氏の嫡流となった武田氏に対し、加賀美氏流の小笠原氏は庶流で、格式や勢力の上では決して武田氏に劣ることなく、全国各地に所領や一族を有する大族である。室町時代以降、武家社会で有職故実の家の伝統を継承していったことから、時の幕府からも礼典や武芸の事柄で重用された。これが今日に知られる小笠原流の起源である。煎茶道や兵法も小笠原流があるが、その起源は多様である。抹茶の茶道においては、江戸時代に千利休三世の千宗旦の高弟の山田宗徧の宗徧流茶道を保護したり、村田珠光の一の弟子の古市澄胤の後裔を迎えて小笠原家茶道古流を興した。
鎌倉時代から信濃に本拠を移し、室町時代には幕府から信濃の守護に任ぜられた。嫡流は信濃と京都に分かれ、庶流は信濃国内はもちろん、阿波、備前、備中、石見、三河、遠江、陸奥にも広がった。戦国時代には小笠原氏の宗家は武田氏に所領を奪われて没落するが、安土桃山時代に再興し、江戸時代には譜代大名となった。
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小笠原氏の祖の小笠原長清は、滝口武者として高倉天皇に仕えた加賀美遠光の次男として甲斐国に生まれた。長清は『平家物語』に「加賀美小次郎長清」の名で登場しており、遠光の所領の甲斐国小笠原を相続して小笠原氏を称した。南部氏の祖の南部光行は長清の弟である。平家が壇ノ浦の戦いで滅亡した元暦2年・寿永4年(1185)に、信濃国を知行国とした源頼朝によって遠光は信濃守に任ぜられたが、長清はこの地盤を受け継ぎ、小笠原氏は信濃に土着してゆく。なお小笠原氏の家紋である三階菱は、本来は加賀美氏の家紋である。・・・長清の子孫には小笠原氏が守護となった阿波に土着した者がおり、阿波小笠原氏となる。また、阿波小笠原氏の一部は元寇の戦功により石見に所領を得て石見小笠原氏となる。また、この頃信濃東信・佐久地方に分流した、伴野氏大井氏がある。伴野氏は、霜月騒動に連座して没落したが、大井氏は、小笠原守護家の別家として、東信で守護代を務めた。
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信濃小笠原氏  :記述済み、略

京都小笠原氏
小笠原氏には宗家の貞宗の弟の貞長の流れがある。貞長は新田義貞と戦って討死し、子の長高は京都に住んで足利尊氏の弓馬の師範であったというが史実か疑わしい。以後、幕府に奉公衆として仕えた。京都に住んだ貞長の系統は、兄貞宗の系統を信濃小笠原氏とするのに対して、京都小笠原氏と呼ばれる。
京都小笠原氏の一族は将軍側近の有力武将として重きをなすとともに、幕府初期から的始めなどの幕府儀礼に参加している。六代将軍の足利義教の頃には将軍家の「弓馬師範」としての地位を確立し、以後的始め、馬始めなど幕府の公式儀礼をしばしば差配し、当時における武家の有職故実の中心的存在となった。こうしたことから奉公衆とはいえ一般の番衆とは区別され、書札礼では「小笠原殿のことは、弓馬師範たる間、如何にも賞翫にて恐惶謹言と書く事、可然也」・・『大舘常興書札抄』。小笠原氏が将軍家弓馬師範なる地位を得るのは足利義教の代で、それも信濃小笠原氏ではなく京都小笠原氏である。信濃小笠原氏が武家故実に関わるのは小笠原長時、貞慶父子の時代になってからである。・・小笠原政清は同じ幕臣であった伊勢盛時(北条早雲)に娘を嫁がせたとされており、彼女の所生とされる北条氏綱以降の後北条氏歴代当主は京都小笠原氏の血を引いていた事になる。

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その他の小笠原氏の一族
○阿波の小笠原氏は南北朝時代には南朝に属したとされ、その子孫の多くは室町時代には国人化して阿波の守護を務めた細川氏に仕えたとされる。代表は三好氏、一宮氏、大西氏、安宅氏などが挙げられる。

武田氏の混乱に乗じて一時甲斐を実効支配した跡部氏は小笠原氏の一族とされる。・・南北朝時代には信濃小笠原氏の一族の大多数は北朝に属したが、小笠原貞宗の四男で羽場城の築城者とも伝わる小笠原重次郎など、一部に南朝に属した者もいる。・・九戸氏の出自が小笠原氏という一説がある。

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戦国時代・安土桃山時代

信濃小笠原氏  :記述済みにつき以下略

京都小笠原氏
京都小笠原氏の一族は、嫡流は幕臣として続いたが、小笠原稙盛が永禄8年(1565)の永禄の変で将軍足利義輝とともに討死すると、稙盛の子の秀清(少斎)は浪人し、後に細川氏(後の熊本藩)に仕えた。秀清は関ヶ原の戦いの際に細川ガラシャの介錯を務め殉死し、秀清の子孫は江戸時代には熊本藩の家老を務めた。また、庶流の小笠原元続は将軍足利義澄の死去後に幕府を離れ、縁戚の後北条氏を頼った。元続の子の康広は北条氏康の娘婿となった。小田原征伐で後北条氏の嫡流が滅亡すると、康広の子の長房は徳川家康の家臣となり、子孫は旗本として存続し、江戸時代の歴代の当主は縫殿助を称した。

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その他の小笠原一族
○府中小笠原氏の一族(小笠原長棟の兄の長高といわれる)が小笠原氏の内紛を逃れて、やがて今川氏に仕え、高天神小笠原氏となったとされる。・・記述済み・略
○府中小笠原氏に敗れた松尾小笠原氏は府中小笠原氏の滅亡に先立って武田氏に仕え、武田氏の滅亡後は徳川氏に仕えた。・・記述済み・略
○阿波小笠原氏の子孫の三好氏
石見小笠原氏は、大内氏と尼子氏との間を転々とした末、毛利氏に仕えた。小笠原長雄などが居る。
小笠原貞頼が徳川家康に命じられ、南方探検に出た際、文禄二年(1593)に小笠原諸島を発見しているといわれている。しかし、小笠原氏の系図にはこの人物は存在しない。
○大浦氏の家臣に小笠原信浄なる人物がいる。信浄は小笠原氏の一族とする説もあるが、無関係とする説もある。
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江戸時代以降

信濃小笠原氏 記述済みにつき略

京都小笠原氏
旗本となった小笠原長房の子孫は家禄780石余、縫殿助を称した当主が多いため縫殿助家とも呼ばれる。長房の曾孫の持広は享保元年(1716)に将軍徳川吉宗の命により家伝の書籍91部と源頼朝の鞢(ゆがけ)を台覧に供した。これは吉宗が射礼や犬追物など弓馬の古式の復興に熱心で諸家の記録を調べていたためで、「世に稀なる書ゆえ永く秘蔵すべき」旨の言葉があったという。後に吉宗は近侍の臣らを持広の弟子として射礼を学ばせている。持広は弓場始(的始め)の式に伺候するとともに、小的、草鹿、賭弓、円物、百手的などを上覧に入れるなどした。
子孫も同様な役を勤め、幕末には小笠原鍾次郎が講武所で弓術教授を勤めたが、この家は維新期に断絶する。つまり、室町幕府以来最も長く礼法を伝える家系は現代には続いておらず、縫殿助家と共に徳川幕府の師範家となっていた旗本小笠原平兵衛家(赤沢氏)が現在では小笠原流(弓馬術礼法小笠原教場)宗家となっている。

 

 


府中・忠知系 ・・幕臣大名小笠原家の系譜 

2014-03-20 01:52:03 | 歴史

    府中・忠知系

  忠知系

 

小笠原忠知系(秀政三男)小笠原家

忠知系

小笠原忠知・・おがさわらただとも
生:慶長4年7月21日(1599年9月10日)
没: 寛文3年7月29日(1663年8月31日)
藩主:豊後杵築藩主、三河吉田藩の初代藩主。・・忠知系小笠原家初代。
父:信濃松本藩主・小笠原秀政の三男。
母:登久姫(松平信康の娘)。
正室:多賀光定の娘。
子:長矩、長敦、長定、長秋。
官位:従五位下、壱岐守。
幼名:虎松丸。

小笠原忠知
豊前杵築藩 4万5000石、三河吉田藩 4万石 譜代
忠知(ただとも)
役職:書院番頭・大番頭・奏者番・詰衆

小笠原長矩
三河吉田藩 譜代 4万石
長矩(ながのり)
役職:奏者番・寺社奉行

小笠原長祐
三河吉田藩 譜代 4万石
長祐(ながすけ)

小笠原長重
吉田藩譜代 4万石、武蔵岩槻藩 5万石 譜代
長重(ながしげ)
役職:小姓・書院番頭・奏者番・寺社奉行・京都所司代老中・西の丸老中
官位:従四位下・侍従、佐渡守

小笠原長煕
岩槻藩 5万石 、遠江掛川藩 6万石 譜代
長煕(ながひろ)
官位: 従五位下・山城守
正徳元年2月11日藩主就任 - 元文4年4月21日隠居

小笠原長庸
遠江掛川藩 6万石 譜代
長庸(ながつね)
官位:従五位下 山城守
元文4年4月21日藩主就任 - 延享元年7月6日死去

小笠原長恭
掛川藩 6万石、陸奥棚倉藩 6万5000石 譜代
長恭(ながゆき)
官位:従五位下 佐渡守
延享元年8月27日藩主就任 - 延享3年9月25日移封

小笠原長堯
陸奥棚倉藩 6万5000石 譜代
長堯(ながたか)
官位: 従五位下 佐渡守

小笠原長昌
棚倉藩 6万5000石 、肥前唐津藩 6万石 譜代
長昌(ながまさ)
官位: 従五位下 佐渡守、主殿頭
小笠原長堯の次男。

小笠原長泰
肥前唐津藩 6万石 譜代
長泰(ながやす)
官位:従五位下、壱岐守
出羽国庄内藩主酒井忠徳の子。

小笠原長会
肥前唐津藩 6万石 譜代
長会(ながお)
官位:従五位下、能登守
小笠原長保の次男。

小笠原長和
肥前唐津藩 6万石 譜代
長和(ながかず)
官位:従五位下、佐渡守
大和国郡山藩主柳沢保泰の九男。

小笠原長国
肥前唐津藩 6万石 譜代
長国(ながくに)
官位:従五位下、中務大輔
信濃国松本藩主松平光庸の次男。

*小笠原長行(ながみち)
官位:従五位下、図書頭 老中、号は明山。
長昌の子で長国の養嗣子。藩主に数えない場合がある。

**幕府の中の開国派・の論客**

*小笠原長行(ながみち)
江戸時代晩期の老中・・・江戸幕府の尊皇開国派の論客の中心

この秀才は、何をしたのか?賢人という名声の”春嶽”が、政権運営を投げ出し、困難極める江戸末期の”外交交渉”を、幕府閣僚のほとんどが尻込みをする中、長行に舵取りは任せられたが、・・・

老中就任まで
長行は幼少から明敏であったので、天保九年(1838)に江戸に出て、そこで朝川善庵に師事した。安政四年(1857)に長国の養嗣子になり、藩政にも携わって名声を高めた。図書頭と称する。文久二年(1862)には世嗣の身分のまま、奏者番から若年寄、9月老中格、そして間もなく老中となった。同年に生麦事件が起こったとき、事態を早急に終結させるために翌文久三年5月9日(1863)、幕府に無断で賠償金10万ポンドをイギリスに支払った。続いて大兵を率いて上京の途に、大坂滞在中に老中職を罷免された(。
慶応元年(1865)9月に再び老中格、さらに老中に再任される。慶応二年(1866)の第二次長州征討に際しては、総督として指揮を執っていたが、連敗を重ね、将軍徳川家茂の死の報を聞いて戦線を離脱。この失態のため、老中を罷免されたが、徳川慶喜の強い意向により11月には再任された。

維新前後・・・徳川慶喜政権においては、外交担当老中として欧米公使との折衝に当たり、慶應三年6月には外国事務総裁に任じられた。大政奉還の後に戊辰戦争が起こると江戸において徹底抗戦を主張し、箱館まで転戦して新政府軍に抗戦したが、敗戦後は潜伏して行方不明。明治五年(1872)4月に東京に戻り、新政府に自首したが、8月に赦されている。
辞世の句は・・・「夢よ夢 夢てふ夢は夢の夢 浮世は夢の 夢ならぬ夢」。
最後まで譜代の家臣として幕府に忠誠を誓った。新政府に最後まで抵抗したためか、長行を唐津藩の藩主として認めていない史料もある。

文久三年(1863)5月、小笠原は生麦事件の賠償金を「独断」で支払ったのち、イギリスより借り入れた二隻の汽船を含む五隻に、千数百名の兵を引き連れて海路上京した。このころ、将軍徳川家茂は京都で人質に近い状況に置かれており、この行動は当時京都政局を主導していた尊王攘夷派を一掃するため、京都の武力制圧を図ったものとされている。
小笠原一行は6月大坂に上陸するが、在京幕閣の猛反対にあい、家茂からも上京差し止めを命じられるて、上京計画を断念した。小笠原は9日に下坂、10日には老中職を罷免され、結果として家茂の東帰こそ実現したものの、計画自体は完全な失敗に終わった。一行には元外国奉行水野忠徳、町奉行井上清直ら、攘夷反対を強硬に主張していたグループが同行しており、一連の計画の首謀者は水野であったとも言われている。

 


府中・忠真系 ・・幕臣大名小笠原家の系譜

2014-03-20 01:48:24 | 歴史

    府中・忠真系

  忠真系

  

 

小笠原真方

忠真系

千束藩・・・千束藩(チズカハン)は、小倉藩の支藩。当初は小倉新田藩(コクラシンデンハン)と称した。寛文七年(1667)、小倉藩二代藩主小笠原忠雄の藩主就任時、弟の真方が一万石を領内に分与され立藩した。藩主家は参勤交代を行わない江戸定府の大名であった。明治二年(1869)、千束(豊前市)に陣屋を構え千束藩と改称した。明治四年(1871)、廃藩置県により千束県となる。のち、小倉県を経て福岡県に編入された。明治十七年(1884)、千束藩小笠原家は子爵となり華族に列した。

小笠原真方
豊前小倉新田藩(千束藩)
譜代 1万石 (1667年 - 1871年)
真方(さねかた)
官位:〔従五位下、備後守〕

小笠原貞通
譜代 1万石 (1667年 - 1871年)
貞通(さだみち)
官位:〔従五位下、近江守〕

小笠原貞顕
譜代 1万石 (1667年 - 1871年)
貞顕(さだあき)
官位:〔従五位下、弾正少弼〕

小笠原貞温
譜代 1万石 (1667年 - 1871年)
貞温(さだあつ)
官位:〔従五位下、近江守 若年寄

小笠原貞哲
譜代 1万石 (1667年 - 1871年)
貞哲(さだとし)
官位:〔従五位下、近江守〕

小笠原貞謙
譜代 1万石 (1667年 - 1871年)
貞謙(さだよし)
官位:〔従五位下、備後守〕

小笠原貞嘉
譜代 1万石 (1667年 - 1871年)
貞嘉(さだひろ)
官位:無し→小倉藩8代藩主・小笠原忠嘉となる

小笠原貞寧
譜代 1万石 (1667年 - 1871年)
貞寧(つねやす)
官位:〔従五位下、近江守〕

小笠原貞正
譜代 1万石 (1667年 - 1871年)
貞正(つねまさ)
官位:〔従五位下、近江守〕