探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

保科正直君の生涯・・・物語風10

2013-08-30 14:19:27 | 歴史

保科正直君の生涯・・・物語10

保科正直、高遠城奪還から多古城城主まで

この章は、保科正直が高遠城を奪還して以降、小田原の役の後、家康の関東移封に伴い、多古城の城主となるまでの、矛盾と辻褄を考えたいと思います。1582年から1590年までの8年間の出来事です。

まず、高遠城奪還以降を時系列に追って見て見ますと、

・天正十年(1582)家康が甲斐に進軍し北条と対峙する時、徳川に味方を、酒井忠次を通じて告げ、家康より感状を受け、伊那の半郡の二万五千石の御朱印で、高遠領主。
・・・・この時、多くの歴史書に、保科家が高遠城を奪還と記しています。過去に保科家が高遠城城主であった歴史は観ていませんが、何故か地元では違和感がありません。調べてみると、蕗原拾葉の古書に、”高遠一揆衆は、協議の上諏訪家より城主を迎えた”とあります。高遠頼継より3,4代前の頃の話です。これを信じると、高遠頼継の系譜は、借り物、飾り物と見ることも出来ます。この高遠一揆衆の筆頭は、保科家であったようです。

・その後、藤沢頼親が家康に反旗する時、頼親を滅ぼす。
・・・・天正十年(1582年)、藤沢頼親は、上洛して三好長慶に仕えたいたが、長慶の没後に旧領箕輪に帰り、田中城を築いて居城としていた。武田氏、次いで織田信長が滅ぶと北条氏直翼下を企図するが、小笠原貞慶が松本を回復せんと三河国より伊那郡に入ったとき、これに従軍し、貞慶は松本城に入った。一方、保科正直は高遠城を奪ってこれに拠り、酒井忠次を取次として家康の旗下に属そうとした。そして、藤沢頼親にも向背を共にせんと勧めたが、頼親はこれに応じなかった。結果、天正十年(1582)頼親は徳川氏の先鋒となった保科氏に城を攻められ、落城、藤沢氏は滅亡した。

高遠城を取り戻した保科正直は、まず焼け落ちて荒廃した城の再建を計ったと見て良い。同時に離散した保科家の家臣の呼び戻しに、注力したと考えるのも当然である。だが、ここの部分の記述を資料から見つけることはできない。城の再興と家臣団の再構築が、不完全ながらなる頃、正直は、家康から直参として三河への出仕を命じられる。また高遠城再構築の天正10-11年に、正直の妹の嫁ぎ先の大日向家より嫁を貰って、正重が生まれている。・・大日向源太右衛門女=法名光寿院。後に家康から正妻多古姫を娶ることになり、側女で一生を終わる。保科正重(1583?-1636)・・生年は不確実。

保科正直は、家康の命じられて、三河に出仕するわけだが、時期は天正十一年(1583)から天正十二年始めにかけての頃と思われる。出仕に伴い、屋敷と領地が与えられたと言われる。・・安城市山崎町大手(正法寺)。この時松平元康麾下にいた。
・・この頃の家康の動向を見てみると、天正十一年(1583年)4月、秀吉は近江賤ヶ岳の戦いで、信長次男の信雄を擁立して、柴田勝家に勝利したが、やがて信雄と秀吉の関係は険悪化し、信雄は徳川家康と同盟を結んだ。これを機に、信雄と家康は秀吉と対立するようになり、実質的には秀吉と家康との戦いとなる。これが小牧長久手の戦いと呼ばれる。
保科正直は、この小牧長久手の戦いの戦闘準備で呼ばれたと考えて良さそうだ。実際に小牧・長久手の戦いが起きると、家康は正直や諏訪頼忠、小笠原貞慶ら信濃衆を秀吉側にいた木曾に派遣したが木曾攻めは充分な成果を上げれず、正直を抑えに残して撤退した。
・・天正十二年(1584)家康より多却姫を正室に迎える。多却姫は家康の妹。・正直は多却姫との間に二男四女をもうける。多却姫は正直より11歳年下。
・・・栄姫(大涼院)・1585年生まれ。黒田長政室。
・・・清元院。安倍信盛室。
・・正貞(1588-1635)。上総飯野家初代藩主。
・・・貞松院(1591-1664)。小出吉英室。
・・・高運院。加藤式部少輔室。
・・北条氏重(1595-1658)。北条氏勝の養子で後に相続。

ここまでで、なにが不思議で矛盾し、なにが語られていないか見えてきます。三河の郷土史家も、高遠の郷土史家も語っていません。勿論筆者が知らないだけかも、の危惧はありますが、
・正直が三河に出仕の間、誰が高遠城を守っていたか。
・多却姫は、安城市山崎町に住んだ後、どこに住んだか。高遠には来た形跡がありません。
・多却姫と正直の子らもどこに住んでいたのか。
・正直の側女になってしまった大日向源太右衛門女と正重は、どうなっているのか。

資料が見つからないのであれば、想像でこの部分を繋いでいきます。
・正直の出仕中、高遠城は引退していた父の正俊と、子の正光が城を守ります。壮健の保科家臣団は、当然正直に付き添い随行していたと思われます。小笠原貞慶が高遠に攻撃をかけるが、保科正俊が鉾持除の戦いで退けたことを考えると、その可能性はあるように思います。正光は、小田原北条征伐には、父とともに参陣していますから、それまでは高遠にいたと思われます。
・多却姫は、高遠城にも多古城にも、いた形跡が残されていません。三河安城に住めなくなっていたので、正直江戸屋敷に、子供と一緒に住んでいたと思われます。
・大日向源太右衛門女と正重は、高遠・多古・高遠と保科家及び家臣団とともに行動していたと思われます。正重の室は、正俊の子の正勝の娘です。大日向の家系の系譜が、保科家から抹消されるのは、保科正光が、将軍の子の正之を養子に迎えてからのことです。嫡子の痕跡を消すことをされますが、経済的に放り出された訳では無いようです。正貞の場合と少し違う様です。
・・・・・この項は、想像をもとに組み立てています。

十三年(1585)上田の真田昌幸を攻めるが落とせず退却。
・真田昌幸は、家康と後北条の講和で、真田領の沼田を、家康が勝手に後北条側へ渡すことを約定し、家康側から離反して反旗を翻します。家康は、これに懲らしめの出陣です。保科正直は家康に従って出陣しますが、仲間で親戚の真田への攻撃は、かなり複雑だったと思います。この上田戦役は、多勢に無勢の、少数派の真田が頑強に抵抗し、家康は兵を引きます。

この年十二月三日、小笠原貞慶が高遠城を攻める。*軍役で留守をしていた正直に替わり、隠居していた正俊が無勢ながら防戦して打ち破った。鉾持除けの戦い。
・石川数正が徳川家から出奔したのを機に松本の小笠原貞慶が12月3日に高遠城に攻撃をかけるが、父保科正俊が鉾持除の戦いで退けた。

天正十七年(1589)に豊臣秀吉が京都大仏を造営するに当たり、家康の命令で富士山の木材伐採を努めた。

と、ここまでが本項の主旨ですが、関連があるので高遠城帰還まで簡略に記します。

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天正十八年(1590)小田原の陣。
・真田の沼田領を巡っては、真田と家康との間に不和を生じ、更に後北条からの圧力があったため、真田は秀吉に訴えて、秀吉が調停した後、さらに後北条が、真田の沼田領を押領しようとしたため、秀吉は小田原攻めに踏み切ったという。保科正光はこの時参陣したという。

同年(1590)家康の関東入部。
保科正直、家康に伴って下総国多胡に1万石の領地を与えられた。

天正十九年(1591)九戸の一揆に参陣する。

文禄元年(1592)、文禄の役(朝鮮出兵)九州へ出兵。この時正光(当時32歳)も同行。
この時正直は体調を崩して、正光に家督を譲り決意をし、井伊直政に相談し、家康から相続を許される。

慶長五年(1600)関ヶ原の合戦。保科正光参戦。
同年、保科正光、旧領の高遠城主で帰還。25000石の徳川大名になる。

慶長六年(1601)保科正直高遠で逝く。享年六十六歳。高遠建福寺で眠る。

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不思議なのは、保科正俊が、鉾持除けの戦い以降、歴史資料から忽然と消えます。保科正直とともに、多古城にいった資料はありません。行ったとも思えません。戒名も無ければ墓もありません。会津藩の資料に、正俊と正則の死亡の期日がありますが、年齢を推定して考査すると資料の偽造の可能性が感じられます。このことを”フレイムワーク”と言いますが、何のための”フレイムワーク”なのか見当もつきません。

それとともに、保科家に翻弄された、安曇野の大日方家の人達が、頭の隅に強く焼き付いています。

これで、高遠城奪還から、家康関東移封に伴った多古城主までの、保科正直の空白は、少し埋まったのではないかと思っています。

保科正直君の生涯・・・物語風9

2013-08-26 23:20:00 | 歴史
今回は、保科正直と全く関係が無いわけではないが、正直と離れる。


武田勝頼

武田軍団の棟梁になった武田勝頼が、どう思われたかに的を絞る。どうも嫡子として生まれ、嫡子として育てられたとは、到底思えない。

確かに、信玄の子として生まれた勝は、まず四男であった。母は通称諏訪御料と呼ばれていた。本名は不詳。信玄に滅ぼされた惣領家、諏訪頼重の娘である。生まれたのは天文十五年(1546)の事である。元服して諏訪四郎勝と名乗った。名前には武田家の棟梁の通字の”信”の文字はない。そして、諏訪家の通字”頼”の文字は入っている。
勝の生誕を喜んだのは、、諏訪大社の関係のものと、諏訪郡と上伊那の豪族であったらしい。とりわけ、諏訪神族は、諏訪頼重の死亡により、そのままでは、崩壊の危機に瀕していた。勝の生誕と育成は、そのまま諏訪神族とその周辺の、安泰を意味する。と、この様な背景があった。

元服を終えてから、勝は、初陣で上野に出陣する。相手は長野家が守る箕輪城。前哨戦で、長野業盛の部下の藤井友忠と一騎打ちをして首を取る。またこの時秋山紀伊守と二人で、敵軍に飛び込み、一人を討ち取った。永禄六年(1563)の戦役での事である。
この時、勇敢さを称えるものも多かったが・・・・・、
武田の重臣の飯富虎昌は、彼の”将”としての器を危ぶみ、「匹夫の勇」と評したと伝わる。

武田義信騒動が起こります。義信は、かって信玄の継承順位一位の子息であった。正室は今川義元の娘でした。信玄が、父の信虎を追放したのは、今川の手を借りてやったことです。信玄と蜜月だった今川は、信長に滅ぼされます。状況の変化で、勝が高遠城主になります。今川義元の天敵の信長に、信玄は縁組み等して急接近です。これで、武田義信は、反旗を翻します。その結果、幽閉されて死亡します。この時、直接義信に味方した義信派もおり、また心情的に義信を応援したものもいたようです。

信玄と信長の接近は縁組みをなして、勝と信長の姪に信勝が生まれます。信玄は、この信勝を跡継ぎに決めて、勝に後見を命じています。後に信玄と信長が対立するまで、信玄の頭には勝の跡目の相続はなかったと思われます。こんな流れの引き算で、武田勝が、盲目の兄もいましたが、武田家の棟梁の道を確かなものにしていきます。

このように、信玄の後継足るべき継承権を持ったものが、、次々と状況変化で脱落してゆくという引き算で、盟主に躍り出た勝であったが、諏訪四郎勝の名が示すように、武田ではなく、諏訪という傍流は、古参の武田家臣には、どうしても正統とは写りません。ここで武田の重臣に不満が残っていきます。

三河の奥平貞能は、武田軍にあって信玄の死を知り、家康に寝返ります。家康は奥平貞昌に長篠城を守らせます。この寝返りに怒った勝は、奥平と家康征伐で、長篠に軍を向けることになります。奥平と家康と対決することに限定した15000と言う兵力です。ここには信長を想定していません。当時の信長は西日本と本願寺派に手こずっていました。武田の重臣達は、信長が背後にいる戦いには消極的でありました。勝は美濃の明智城や遠江の高天神城を攻め落として自信が付き、強引でありました。重臣の諌めも聞かず、軍を退くのを恥として前進したようです。この時の徳川戦の反対派は馬場信房や内藤昌豊らの重臣でした。また、負けるのではないかと思っている消極的反対派がほとんど占めたと言われています。そして、合戦では武田一族の多くが初めから離反し、ほとんど戦いに参加することなく無傷で帰国しています。馬場信房や山県昌景は、無謀な戦いに、諦めて、ここを死に場所と決めていたようです。

長篠の合戦の後、勝は上野沼田城で勝利したりしているので、一挙に武田軍団が衰退したとも思えません。事実、駿河の武田の橋頭堡の高天神城は強固な籠城を誇り、家康の攻撃に耐えているし、一挙に崩れたわけではない。この間勝は、隣国の上杉と手を結んだり、後北条との同盟関係を強化しようと躍起になり、武田の領国の安泰に必死であった。この為、1580年頃まで、織田・徳川が武田の領国に侵攻出来るような状況ではなかった。

そんな中で、謙信亡き後の上杉家で内乱が起こり、その調停で兵を割かれた武田軍を見て、家康は高天神城に攻撃を仕掛ける。再三の要請にも応えず、勝は高天神城を見殺しにする。籠城戦で城を守った、律儀な勇将の依田玄蕃は、既に家康に降りていた穴山梅軒からの書状により、信玄の死を知り、ついに家康に降伏する。
この依田玄蕃の様は、武田軍団の常であったように思う。ここで決定的に、武田勝は、家臣の豪族から信頼を失ってしまった。信長は、これを”天下の面目を失った”と評したという・・「信長公記」。
この上杉家の内乱にかまけて、後北条に対応に拙さが出て、ついに後北条を敵に回してしてしまいます。

美濃と国境を接していた木曽義昌は、織田に内通して寝返ります。1582年の事です。これに激怒した武田勝は木曽に攻め込むが、織田と連携した木曽義昌は、これを撃退します。木曽義昌は、信玄より嫁を貰っている武田の重臣です。国境を接して、絶えず境界を脅かされていた義昌は、援軍の望みを失い、勝への信頼をなくしていました。三河の奥平信昌が家康に寝返ってから(1575)5年目です。

木曽義昌は、勝の攻撃を受ける時。織田信忠の武将、塚本三郎兵衛に書状を送っています。その中に”信忠に出陣が延びるのなら、「御近辺衆二三の輩を将と為し、伊奈郡之御人数を遣い立て被れ候者、諏訪・府中一変為す可く候事」”と進言しています。つまり、塚本の部下を大将に見立てて、伊那郡の武将数人に、調落の誘いをすれば織田方に靡き、諏訪や松本の武将も武田方から離れ、勢力の状況は一変するだろう、という木曽義昌の情況の読みが書かれています。義昌はこの地方の領主だったこともあり、地区に精通しています。これに対して勝の方は、「谷中過半撃砕令し候、然りと雖も、切所に構え楯篭り候之故、没倒遅々、無念に候。」と困難を極め、その間に下伊那の小笠原信嶺と国人衆が織田方に転じ遂に困窮します。”半撃砕令”は反撃砕令の誤字と思われますが、攻める側、勝軍は意気が上がってないようです。信濃の情勢は、義昌の読み通り、伊那衆のみならず安曇郡の古幡・西牧両氏は義昌に内通し、近郷の諸士と連携し大野田夏道(松本市安曇大野田)の砦に陣構えをしたり、岩岡佐渡・織部父子も深志城を離間し中塔小屋を拠点としりして武田からの離反が相継ぎます。ここで武田からの反撃もありますが、岩波平左衛門も武田氏を見限り、古幡・西牧両氏らに同勢して、信濃の状況は混沌とします。
木曽義昌の離反の直接の原因は、新府城築城の負担に耐えかねて、と言うものでしたが、これは各地豪族にも共通して苦しみ、勝への不信は広がるばかりでした。

続いて、穴山梅軒も家康側に裏切ります。これは勝が、防御に不利な躑躅ヶ崎館を棄て、韮崎に新府城を築城し移転しようとしたためとされます。新府城を築城には、武田の重臣の多くが反対であったようです。穴山梅雪は、自身が裏切った理由を「親族などの諌めを聞かずに讒人を重用して政治を乱し、強制的な本拠地の移行による甲府家臣団の離反」だと述べています。

こうなれば、武田家臣団は、保身にはしり、皆各々になります。強固な団結の軍団は、見る影もなくなります。こうした状況になれば、流石に武田勝も、死に場所を決めなくてはなりません。出来れば、勝が育った高遠城か、武田の本拠地の躑躅ヶ崎館であれば、美学として成立しますが、頼った重臣の小山田信茂に裏切られて、田野で自刃します。

作家の新田次郎氏は、・・武田軍の攻撃決定は、勝頼ひとりが強引に決めたのでなく、勝頼以下諸将の合意の上だということを主張しています。武田信玄は、軍議を大事にし、諸将の総意を大事にしながら決定していったといわれています。和を大事にしたと言えるでしょう。だから、その武田家で、勝頼がひとり勝手な決定を下すことはできなかったというのです。
また、新田氏は、決定的な場面で、予備兵力であった御親類衆が動かなかったことが大きな敗因になったのではないかと書いています。
馬場、山県等の家臣達の多くは前線で最後まで戦い、戦死しています。それに比して穴山信君をはじめとする一族、御親類衆はほとんど戦死者がおらず、逃げ帰っています。
こう考えてみると、「勝頼と御親類衆の確執」という新田氏の主張も、一理あります。



保科正直君の生涯・・・物語風8

2013-08-24 17:18:39 | 歴史
高遠城落城で脱出し、その後高遠城を奪還した保科正直の足取りを検証したい。
その間約5ヶ月・・・天正十年3月高遠城落城。保科正俊同年8月、高遠城奪還。

巷で流布されている保科家の面々の動向・・・

・保科正光(正直の嫡男)は当時人質になっていた新府(韮崎)より家臣の協力で脱出し、妻とともに実家・真田昌幸のもとに身を寄せた。正光は当時22才。妻は真田昌幸の四女・・・。

・保科正俊(正直の父)は、娘の嫁ぎ先の松本の小日向家に避難する。さて?これがどこだか分からない。松本三才山の小日向を探索するが痕跡がない・・別ブログ参照。歴史書のどれもに、松本の小日向とあるのだが・・小日向(・・コビナタ)を”オビナタ”に置き換えると、大日方が出てくる・・・安曇野大日方源太左衛門直幸とある。歴史書の小日向源右衛門とは少し違うが、後に嫡子予定で保科に養子に来た小源太に通じるものを感じ、とりあえず、正俊の避難先は大日方家とする。
・・なお、この安曇野の大日方家は、小笠原家の別家筋に当たるという。検証の資料も可能性あり。・・安曇野生坂村あたり・・・

・保科正直は、高遠城落城後、何処ともなく去った、とある。これは文学的表現で、歴史家の怠慢以外の何ものでもない。脱出と逃亡なので、山中に隠れながら上野の箕輪城を目指し、弟の内藤昌月のもとに身を寄せる。

ここまでは、天正十年3-4月の二ヶ月間の保科家の動向である。

高遠城が落城したのは天正十年(1582)3月2日、この時籠城した三千の兵は全員討ち死にという説が流れているが、これも誤りの様である。
・保科正直は、織田武将の森勝蔵の調落の誘いの最中に、開戦してしまったという説もあるが、武田勝の妹の松姫(後の松月院)も、城中にいながら脱出している。このことを考えると、赤羽記に記述のある、「約半数の討ち死」説の方が説得力がある。
・これも証拠の一部かも知れないが、信長の猛将滝川一益が、信長の死を知って急遽上方に戻る時、反抗を恐れて連れ出した人質に、昌月の子亀の助、正直の子甚四郎、民部の子九十郎があり、救い出したのが保科家臣団で、大部分は健在であった。

保科正直の高遠城奪還まで  

佐久小県より諏訪へ進軍の北条氏直の部隊に、北条に寄食していた保科正直・正光親子が同陣していた。高遠城落城の時、織田軍の調落で脱出を試みるが、開戦が始まったので混乱に乗じて逃走した。子の正光は、甲斐の新府にいたが、正直の逃亡を聞いて、家臣と新府を脱出した。
その後正直は、昌月の上野箕輪を訪ねた。父正俊は、安曇野(生坂村)の大日方源太左衛門直幸のもとに、子の正光は妻の実家の真田昌幸のもとに隠れた。正光は妻を伴ってきていた。織田の統治が始まっていたので、正光は箕輪の正直に合流する。この頃、弟昌月は、侵攻してきた滝川一益の旗下にいた。正直は不明。本能寺の変が起こると、北条は滝川を神流川で攻め、敗れた滝川は、佐久を経て上方へ向かう。滝川が去った後、上野に侵攻してきた北条氏の軍に真田昌幸があり、昌幸から連絡を受けていた父正俊も、ここで無事合流する。滝川退出後、上野は北条勢力下になる。内藤昌月も同じ。
ここで真田昌幸は、昌月には知らせず、正直に家康に付くように進言する。その上で、今は、偽装で北条に従って、弟より兵を借りて高遠城を奪うように策を進言する。昌月に、高遠奪還の兵を借りたいと相談すると、昌月は「高遠は北条氏直より、自分が城主になる朱印状を貰っている。今出陣中で人数が割けないが、悪いようにはしない。自分が高遠を取りに行くから付いてくればいいのではないか」という。
正直は、これには怒ったが、真田昌幸は「さっさと軍勢を借りて、高遠を乗っ取った後、自分の領地にしてしまえばいいんだ」という。
思い直した正直は、昌月と直談判して、友野十郎左衛門と昌月の部下500人を借りて高遠に出陣した。・・この時正直は正室の跡部氏娘を北条の人質に出したと言う説もあるが、正直の正室は高遠城で亡くなっている説もあり、これは疑わしい。
昌月と正直は、8月中旬まで、北条軍として諏訪まで同行したが、昌月と正直は、ここから北条軍と別れて、灰燼になっていた高遠城に向かった。無人の高遠城は、苦もなく手に入れることが出来た。内藤昌月は、北条氏直から甲斐参戦が命じられていて、兄正直に高遠城を預けて転戦することになる。
これで高遠城は、保科正直の手に入り、自立の機会を得た事になる。
天正十年3月に高遠城が織田に落とされ、天正十年8月に、実に5ヶ月で、保科の手に戻った。

この一々の流れは、極めて準備されていた様に写る。保科家臣団は、長篠の合戦の頃より温存され、高遠城の戦いでは、一族郎党の最小限の損傷に食い止め、絶えず次善の策をもとめて生き残り、ついには高遠城を取り戻したのだ。ここには、保科一族のしたたかさがあり、武田家への未練はない。これを支えた保科家の周りの地元の民は、寺門神門をを含めて、特に戦費の重税から武田への怨嗟が強く、これゆえに保科を匿い支えたと見るのは、無理のない、極めて自然な考えであろう。





保科正直君の生涯・・・物語風7

2013-08-22 15:30:38 | 歴史

本能寺の変 以後の勢力図の激変 

まず、年表を作って、時系列におってみます。

天正十年(1582)6月2日
・信長は京都の本能寺で家臣の明智光秀によって討たれた(本能寺の変)。
・・堺にいた徳川家康は伊賀越えにより脱出、穴山梅雪(信君)は木津川土民に襲われ落命。
(1582)6月4日
・・柴田勝家が魚津城の戦いで勝利した直後に撤退。
・・岡崎に帰還した家康が光秀討伐の軍を起こす。
・・家康は家臣を甲斐に派遣して梅雪遺領を掌握。
・・家康は信州佐久には旧臣の依田信蕃を向かわせ、小諸城に入城
(1582)6月6日
・・森長可が、上杉氏の本拠地、越後・春日山城近辺まで攻撃、のち撤退。
・・長可は信濃で蜂起した一揆を打ち破り、美濃へ帰還
(1582)6月15日
・・羽柴秀吉が中国地方から反転し、明智光秀を討つ。
(1582)6月19日
滝川一益は敵に転じた後北条氏の侵攻を受け、神流川の戦いで敗北。
・・一益は上野を放棄した後信濃を経由し、本領の伊勢に帰還。
・・河尻秀隆は徳川家康から協力を拒否。直後に起こった甲斐国人の一揆に殺害された。
・・日時不明、毛利長秀は小笠原信嶺の侵攻に人質を返して飯田城から逃亡。

天正壬申の乱
(1582)6月20日頃から
旧武田領から家康と木曾義昌を除き、領主不在。事実上の空白地帯。
・・この機に上杉景勝・北条氏直が侵攻を開始、家康も防戦で侵攻。
・・家康に遅れて、上杉景勝は北信濃衆に安堵状を出す。
・・・木曽義昌や真田昌幸ら小領主も加わった混沌とした状況。
(1582)6月21日
家康は軍を返して浜松へ戻り、酒井忠次・奥平信昌に信州路を進ませる。
(1582)6月22日
・・上杉景勝は長沼城に入る。
(1582)6月26日
・・信濃は、北条氏直がそのまま碓氷峠を越え佐久郡の諸豪を臣従させた。
(1582)7月9日
・・家康は甲斐・甲府に進軍・到着。て国中から南信濃を確保。
・・後北条氏に真田昌幸が誼を通じる。

この頃、後北条は勢力優勢・・
上野方面が安定。北条勢主力は信濃・甲斐の掌握に傾注。
木曾義昌や諏訪頼忠に所領安堵状。信濃も半ば手中するかに見えた。
・・
そこに立ち塞がったのが上杉景勝であった。
長可を追った後も引き続き信濃に進駐していた景勝は、北条に対して合戦準備を進めていた。
・・北条・上杉両軍は川中島で対峙した。
・・北条氏直は北信濃4郡を景勝に渡す条件で講和し、小諸城に引き上げた

(1582)8月1日
・・家康軍の酒井忠次は、北条方となった諏訪頼忠が籠る高島城を攻城。そして甲斐に後退。
(1582)8月6日
・・北条は若神子に着陣、新府城の家康勢と対峙した。
・・・安房の里見義頼が北条軍を支援するために援軍を派遣する
(1582)8月12日
・・家康軍と北条軍が戦闘開始。家康軍が北条軍を撃退。以降、戦局は北条に不利になる

ここで、形勢は逆転し、家康が優勢になる。
(1582)8月22日
・・木曾義昌が家康側に寝返る。
(1582)9月
・・真田昌幸は信蕃に加勢するようになり、家康側に付く。
(1582)10月
・・真田昌幸が禰津某を討ち取る。
・・信蕃は小諸城を襲って北条の家臣・大道寺政繁を駆逐した。
・・家康側の小笠原貞慶が旧領である深志(現在の松本市)を奪還。他の領主らも家康についた。
・・・信蕃・昌幸のゲリラ戦も激しさを増し、北条の補給線を遮断。
(1582)10月29日
・・・北条は戦線不利と見て、家康との講和を決意し、講和が結ばれた。

講和の条件は以下のとおり。
・北条氏直に家康の娘督姫を娶らせる
・・甲斐・信濃は家康に、上野は北条にそれぞれ「切り取り次第」とし、相互に不干渉。
こうして大局的には合戦は終わった。

その後・・・
・・北部では家康に従う信蕃が戦死。
・・真田昌幸が新たに築城した上田城に拠り、景勝の援助を得て家康の支配を拒んだ。
・・・これは、先の和議の条件に、真田の沼田領が北条側に割譲されることへの抗議。

天正十三年(1585)
家康はこれに対して上田城を攻撃。真田勢の反撃で失敗に終わっる(上田合戦)。
天正十七年
・最終的には、豊臣秀吉によって決着が図られ、沼田周辺の真田領の多くが北条氏に。
・・しかし残された真田領を北条氏の軍が略取したために、小田原征伐へと発展する。

・・・この時、講和の使者だった井伊直政は、武田遺臣を抱え、赤備え「井伊軍団となる。


この年表は、平山優『天正壬午の乱』の年代を抜粋して作成しました。茶文字は、保科正直&信濃関連です。