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伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

信濃守護所の変遷

2014-03-29 23:09:31 | 歴史

信濃守護所の変遷

この場合の守護所とは、守護の在所を意味し政務が行われたであろう所を指し、現在の県庁所在地の意味と、若干異なる。特に幕府に認可された、と言うような書類は見つかっていない。ただその時々の政治の中心を探るには、正確な比定は、時々の勢力の変遷を探る意味で重要に思う。今回、松山宏氏の論文を読んで、整理する必要を感じ、書き留めておく。
        ・・・・・「信濃国の守護と国人の城下町」・松山宏(・奈良大学史学会)

信濃国の守護所は、鎌倉時代より始まったとする。守護所自体は、幕府の地方統治の機構の役名・守護から生じた在所・政務所であるから、鎌倉時代以前は、同様の機能は違う名前で呼ばれていた。それは律令時代に生まれた、国司・国衙がそれに当たる。鎌倉時代初期は、国司・国衙が機能不全になったにも拘わらず、残滓は残っていただろうし、始まったばかりの守護も機能していたのかどうかも分からない。

信濃国では、鎌倉時代初期には

・塩田平・守護所説?がある。
・・・鎌倉初期の信濃国守護は、頼朝の側近・比企能員がなった。能員は、鎌倉から離れることなく、部下の惟宗忠久を代行として地頭に任じた。塩田への赴任である。惟宗が守護代であったかは、定かではない。しかし、塩田が、鎌倉幕府とかなり深い関係があったことは確かで、引退した足利義政は、隠棲の場所に”塩田”を選びここを居館とした。義政の子・国時は、守護代となった・・・一志茂樹氏の塩田守護所説の論拠。しかし、足利国時の守護代の拠点は善光寺の説もあることから、通説にはなっていない。

・善光寺守護所説?
・・・加賀美遠光(小笠原家の祖)が信濃国・国司に補任された・・国衙とは無関係。
・・藤原定家が、国司に補任され、善光寺の国衙に赴いた。
当時の、国衙領分の荘園は、奥春近荘(長野付近)、近府春近荘(松本付近)、伊那春近荘(伊那付近)であり、時代の変わり目に、国衙を守護所とする発想はありえる、と思われる。南北朝期に、国衙跡の守護所が南朝に襲撃されている事実もある。

・船山守護所
・・・場所の比定は、戸倉町と更埴市の境界線あたり、小舟山という山がある。船山守護所に、北条基時と高時が詰めていたという記録があるそうだ。この二人は、守護の記録はないので、守護代だったのかも知れない。より確実なのは、南北朝時代、諏訪神族の諏訪直頼は、北条時行を奉じて、船山守護所を襲い放火している・・・中先代の乱。その時の守護代は、小笠原弥次郎で、府中放光寺に在所していたと言われる。弥次郎は、信濃守護・小笠原貞宗の守護代であった。

国府の変遷
信濃国・国府は、松本 → 善光寺 → 松本 と変遷したようだ。二度目に松本に国府が戻った時、松本は、府中という地名に変わったと見られる。鎌倉時代まで、律令時代の”残滓”のような国府が、機能を薄めながら、残存していたようだ。

建武の新政・南北朝の頃・・・
足利直義に味方した諏訪神族(諏訪隆種)は、挙兵して、船山に侵攻して守護所を焼いた。時行と隆種の軍勢は、府中在所の鎌倉御家人を補充して進撃した。この頃の府中は、幕府側の小笠原貞宗野勢力下にあったとは到底思えない。
その後、新田義貞が、北陸で没落すると、1331年、小笠原径義(守護代・小笠原兼径の弟)は府中に攻め込んでいる。これで府中を制圧したのち、小笠原兼径は守護代として、府中放光寺を居館とした。

・守護所・府中放光寺
・・・放光寺 松本市蟻ヶ崎にある曹洞宗の寺院。松本では兎川寺、牛伏寺と並び最も歴史のある寺院。所在地: 〒390-0861 松本市蟻ケ崎1283 
貞和三年(1347)小笠原貞宗は、戦功により、塩尻・島立・近府春近の半分を宛行され、経済基盤も整い、府中守護所が確立された。この時、貞宗が府中に常駐したのか、兼径が代行したのか、定かではない。別書に拠れば貞宗の常駐は京都であり、各所の戦役に赴き、隠棲するまでは各所を飛び回っていたようである。
南朝と時行の連合軍・北条残党が、大徳王寺の戦いで敗北すると、時代の趨勢は変わり、信濃国人衆は、守護家・小笠原に靡いたと思われる。

・守護所・井川館
府中小笠原家は、放光寺から、井川に居館を移し、ここを本拠地にする。
守護は、貞宗・政長・長基と続く

・平芝守護所?
貞治四年、管領・上杉朝房が信濃国守護になる。
至徳元年、斯波義種が信濃国守護になる。
・・・この時期、北信の国人衆は、寺社領や荘園領を押収し、小笠原家では統治不能になる。
・・斯波家の二宮氏康が、守護代として、平芝に入る。出張陣屋なのでうまく行かない。
荒れる北信の対策は、集中的地域限定的に、必要であったようだ。

松尾小笠原から幕府に勤めた長秀は、再三の陳情の末、信濃国守護に補任され、松尾に戻った。将軍義満は、大内家が乱を起こしたため長秀に出陣を命じる。伊賀良荘から出陣した長秀は、参戦した後、荒れる北信の鎮静で、佐久を経て、善光寺に入る。ここで、押収した寺社領や荘園を既成事実化したい犀川沿の国人衆や村上一族は反抗する。この戦いで長秀は敗北し、京に帰る・・・大塔合戦(大文字一揆)。
・・・この間の、守護所は比定できない。また、府中小笠原家の祖に、長秀を据えている書も多いが、経緯を見れば、納得出来ない。長秀は、府中に行ったことが無いのだ。

幕府は、長秀を守護から解任した後、管領・斯波義将を信濃守護にする。幕府の信濃の位置付けは、関東管領管轄もたまにあるが、三河や美濃との隣接の関係を重視して、斯波家に任せる場合が多いのが見て取れる。松尾や鈴岡などの伊賀良荘は、信濃の中で一番京都に近い。小笠原家も、当然そのことを意識していたのではないか。もしそうなら、貞宗、政長、長基と続く守護の系譜は、宗家を松尾とし意識し、府中は出先機関とか出張所の思いがあったのではないかと推定できる。そう解釈すると、いくつかの疑問が氷解する。

斯波義将が守護の時、代官(守護代)は始め細川氏だったが、直ぐ長秀の弟の政康が守護代に任命される。政康は、実力を発揮し、上杉禅定の乱などで功績を挙げ、やがて守護に補任される。政康ははじめ松尾にいたが、問題の北信の平定のために府中にも居を移す。この場合も、守護所がどっちなのか、比定は難しい。さらに、長将の子・持長が、京にあって畠山持国の権力を後ろ盾に、家督を主張し始める。持長と政康の対立は、京都幕府間の対立を、そのまま信濃の持ち込み、国を二分する戦いに発展していった。持長と政康の対立は、ついに漆田原の戦いで衝突し、勢力の勝る政康は、流れ矢に当たって戦死する。

守護所・松尾小笠原家・光康
持長は以後府中を根拠にして、松尾小笠原家と長い抗争に入る。しかし、守護を継いだのは、松尾小笠原の光康であった。この時代、諏訪神社の諏訪家でも、一族間の内乱が起こった。宝徳元年、光康支持の細川勝元が管領を辞任し、畠山持国が変わった。持国は持長の後見であり、直ぐに守護は持長に変わった。しかし畠山持国の権力は続かず、一年持たず、細川勝元が再任し、それに伴い、光康が守護に返り咲いた。京都育ちの持長には、荒れる北信を鎮定できるノウハウもないと見られた点もある。

守護所・鈴岡小笠原家・政秀
持長の子・宗清は、父同様伊賀良小笠原へ反抗した。政秀は、府中に侵入し宗清を討ち取り、宗清の子・長朝が反抗すると、再度府中に侵攻して長朝を追放した。政秀は、暫く府中にいたが、反抗する府中小笠原の残党に手を焼き、長朝を、秀政の養子にすることで、府中に置き、自らは鈴岡へ戻った。

以後、暫く府中は安定する。
安定すると、府中は、急速に城下町としての集積を整え始めた。周辺の、山家氏などの反抗勢力も従えて、一番戦国大名の資格を整え始め、力を蓄えていった。一方、伊賀良小笠原家は、鈴岡と松尾が反目し、城下町どころではなく、やり手の松尾の定基は、小田原北条家や斯波家からの援軍の要請も多く、鈴岡家との抗争には勝ったものの、勢力の蓄えは無くなっていった。鈴岡家が無くなった後、今度は、下条家との抗争中、下条家に援軍した、府中の長棟に敗れて、武田家へ逃亡する。

守護所。府中小笠原家・長棟
これで長く続いた、小笠原家三鼎立の抗争は、最後府中の勝利となって終結する。
しかし、小笠原家が一族同士、相続争い、勢力争いを繰り返している間に、甲斐の武田家は、信玄によって戦後期大名の雄となって、矛先を信濃の向けてきた。
長棟・長時・信定は、今度は信玄と覇を競うようになる。

以上は、松山宏氏の論文をもとに、守護所の変遷をまとめたものである。



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