探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

諏訪大社・・・上社の歴史 第五章 戦国期 武田との攻防

2013-12-25 02:49:07 | 歴史

・・第五章 戦後期 武田との攻防

以後、信濃の戦国時代、武田との抗争が続く

信濃の隣国甲斐では、武田一族の内訌が続いていたが、信虎が家督を継ぐと国内統一を果たした。そして、その鋭峰を信濃に向けてきた。信濃で武田氏によって最初に侵攻された諏訪郡は、交通の要所であり、信濃侵略の基地として格好の条件を備えていた。しかも、諏訪氏は一族の内紛のあとで不安定な政情にあった。

享禄元年(1528)武田信虎は下社金刺氏を押し立てて諏訪に侵攻したが、頼満はよく武田軍を神戸で撃退し、逆に享禄四年には韮崎に出兵した。その後も小競り合いが続いたが、天文四年(1535)に両者は和睦した。

信濃は守護職をつとめる小笠原氏が最大の勢力を持っていたが、一族の内訌で勢力は後退を余儀なくされていた。府中小笠原氏を継いだ長基によって一族の内紛は克服されるが、守護大名から戦国大名へと発展する機会を逸しており、その支配領域も中・南信三郡であった。北信には村上義清が勢力を築き、その支配圏は小笠原氏をしのぐものがあった。この小笠原・村上の二氏が信濃を代表する勢力として、それぞれ戦国大名領国制を展開しようとしていた。

この二大勢力の間にあって、諏訪氏は諏訪郡を一円支配し伊那郡南部にも進出しようとする勢力として、戦国大名領国制を展開していたのである。頼満は天文八年(1537)に死去したが、嫡孫の頼重が家督を継いだ。翌年、頼重と信虎の娘との間に婚儀が整い、諏訪氏と武田氏とは姻戚関係に結ばれたのである。武田氏との同盟関係を背景に、頼重は小県郡へ進出し、天文十年(1541)五月には、武田信虎・村上義清らとともに海野・祢津氏らを破り所領の拡大を図っている。

諏訪惣領家の滅亡・・・天文十年六月、甲斐でクーデタがあり、信虎は嫡男晴信と晴信を擁する重臣らによって駿河に追放されてしまった。晴信が武田家の家督を継ぐと強硬策に転じ、諏訪頼重に対する侵攻作戦が進められた。翌年六月、晴信は伊那高遠の諏訪高遠頼継や下社の金刺氏を味方につけ、二万の大軍をもって諏訪郡に侵攻した。これに対する諏訪勢は「おかしき馬に乗候者共に百五十騎、徒者七・八百にて」と記録されているように、武田軍と諏訪氏の軍事力の差は圧倒的であった。諏訪勢は戦々恐々として戦意はあがらず、上原城は自落し、諏訪頼重は桑原城に退いて抵抗したが、七月に武田氏に投降、開城した。甲府に連行された頼重は晴信の強制により自刃して果てた。ときに二十七歳であった。この頼重の死によって古代以来の名族、諏訪氏の惣領家は滅亡した。

惣領家滅亡後、諏訪は武田氏と高遠諏訪氏に二分され、西側を領した高遠頼継は甲州兵の守る上原城を攻め落し、さらに下社を占領して、一時は諏訪全域を手中におさめた。しかし、武田氏の反撃によって高遠氏は敗れ、諏訪一円は武田氏領となった。このとき、諏訪惣領家に近い一族である諏訪満隆・満隣は武田方に味方している。その後も、高遠頼継は武田氏に抵抗を続けたが、天文十四年、居城高遠城を攻め取られ高遠氏は没落した。


諏訪頼満と武田信虎・・・
文明12年(1480)頃に入ると、諏訪大社の上社と下社の対立が激しくなってり、下社の金刺氏は府中(松本付近)の小笠原氏と結び、上社の諏訪氏は伊那郡の小笠原氏と結び、夜毎、戦闘を続ける動乱の時代となる。上社の諏訪氏の惣領家と大祝家の内紛により一時的に優勢になった下社の金刺昌春は、社殿等を焼かれたり萩倉砦を落とされたりして、甲斐国の武田信虎を頼って落ち延びた。これが甲斐国の武田信虎の諏訪郡への侵攻の口実となった。・・・信虎の信濃侵攻は、南の今川、東の北条と幾度かの戦火を交えながらも、決定的決着とならず、3者鼎立の膠着状態となった。

・・・信虎の経歴・・信虎は明応3年(1494)に誕生した。永正4年(1507)2月14日、病弱であった父信縄が病死する、享年37であった。信虎14歳で家督を継いだが、叔父の信恵が有力国人衆を誘い反旗を翻した。 翌永正5年、内戦に勝利し守護大名としての地位を守った。『高白斎記』によれば、永正16(1519)年には、甲斐をほぼ制圧し、それまでの武田氏歴代の居館があった石和より西へ移り、初めは川田に館を置き、後に府中に躑躅ヶ崎館を築き、城下町を整備し家臣を集住させた。現在の甲府の始まりであった。

・・・大永5年(1525)4月1日、「諏訪殿」に甲府で住居を与えている。「諏訪殿」とは、甲斐国の武田信虎を頼って落ち延びた、金刺昌春とみられる。。大永6年(1526)6月19日、将軍足利義晴は信虎の勢威が盛んであることで期待して、上洛を要請した。その際、関東管領上杉氏、諏訪上社大祝諏訪氏、木曽親豊に信虎の上洛に協力するよう命じている。この年信虎は、北条氏綱と籠坂峠の麓、富士裾野の梨木平で戦い大勝している。しかし、互いに決定的勝利とならず抗争は続いた。このため上洛は実現できなかった。・・・同年信虎は今川と和睦した。信虎は東を北条氏、南に今川と大国が固め侵出できなかった。その全く逆方向の大国でありながら、諏訪氏、小笠原氏、村上氏、木曽氏等の小大名が分立する信濃に、矛先を向けるのは、信虎としては当然の帰結であった。信虎は一代の英傑であって、武田騎馬軍団を育て、その戦法の基本を確立した。その果実を晴信が継承し、類希なる謀略を駆使し、稀代の戦国大名として成長した。・・・甲斐と信濃は国境を接し、当時両国を結ぶルートには2通りあった。八ヶ岳の東を抜け佐久郡に至る道と、甲府盆地に隣接する諏訪地方への道である。信虎は、小豪族同士がひしめき合う佐久郡への侵入を試みたこともあったが、これは思うに任せなかった。享禄元年(1528)からは、諏訪地方を治める諏訪頼重と足掛け8年にわたる戦いを続けてもいた。しかし、天文4年(1535)には頼重と和睦し、後には娘を嫁がせて諏訪家との同盟を締結し、信濃侵攻の方針を諏訪地方攻略から再び佐久攻略へと軌道修正した。

天文7年(1538)7月9日、諏訪頼重は、大門峠を越えて葛尾城の村上義清・信虎と共に海野幸義を討ち取り、矢沢氏・禰津氏を攻め破っている。天文10年(1541)7月、海野氏が逃れて頼った関東管領山内上杉憲政が碓氷峠を越えて海野平に攻め込んできた。頼重はまたも大門峠を越えて長窪で対陣した。関東軍はこの時突然、軍を引いた。おそらく7月17日に、積年戦い続けてきた北条氏綱が55歳で、小田原城で病没したことと関係してるものと考えられる。・・・頼重の祖父諏訪頼満は、のちに諏訪氏中興の英主といわれたが、文明15年(1483)に、時の大祝・諏訪継満によって前宮の居館で騙まし討ちにあって殺された惣領家・政満の子で、5歳で惣領家を継いだ。諏訪頼満は惣領家を継ぐと、父死後の内紛を鎮圧して、東の武田、西の小笠原に対抗し、その戦略戦術の才を遺憾なく発揮した英邁な主君であった。そして永正15年 (1518) 40歳の時、下社・金刺昌春を破り、ここに名族・下社大祝金刺氏を葬り去り、諏訪郡の領国主となり、その後の勢いは、武田信虎と拮抗するものとなった。 

享禄元年(1528)8月22日、信虎は逃れてきた先の下社大祝・金刺昌春をたてて諏訪を攻略しようとして蘿木郷の先達城を拠点として諏訪に侵入した。その時築造された先達城は、その小東にあった新五郎屋敷を城に取り立てたという。当時は甲斐と諏訪の国境は富士見町の御射山神戸の南の堺川で、ここが合戦の舞台となった。新五郎屋敷は信虎が諏訪侵攻の前線基地として築いた砦である。しかし新五郎屋敷がどこにあったのかは特定されていない。
諏訪頼満は嫡子頼隆を伴い青柳の下のシラサレ山城に陣を張る。「神使御頭之日記」に「此年甲州武田方ト執合ニ付テ、8月22日に武田信虎堺へ出張候テ、蘿木ノ郷ノ内小東ノ新五郎屋敷ヲ城ニ取立候、同26日青柳ノ下ノシラサレ山ヲ陣場トシテ、安芸守頼満・嫡子頼隆対陣ヲ御取候テ」とあり、続いて同晦日に神戸・堺川で合戦になったことが記されている。 8月晦日、御射山神戸での朝の戦いでは諏訪方が負け、朝方の勝利に油断する武田勢を急襲した夕方の堺川では、諏訪方が萩原備中守他2百余人を討ち取るが、千野孫四郎が討ち死にしている。この2度の決戦でも、信虎は堺川が越せなかった。戦国時代の甲信国境は「堺川」と呼ばれた川と推定されるが、堺川を名乗る河川は現存していない。諸説あるが最も地形的に説得力があるのが両国国境の立場川で、川幅の広さと地形から頼満と信虎の軍事的接点と成り易い。すると現在の富士見町の南半分は、甲斐の領国であったことになる。・・・享禄3年(1530)4月18日、嫡男諏訪頼隆が頼満に先立って31歳で急死した。享禄4年(1531)正月、甲斐では浦信本、栗原兵庫等の国人衆が再度反抗した。諏訪頼満は彼らの依頼により、甲斐に侵入し韮崎に陣を敷く。4月12日、再度、甲州に討ち入り、塩川の河原で大井、栗原氏らを敗死させ勝利した。しかし、同年、甲斐の国人領主らを支援した河原辺合戦では敗退している。この合戦は守護武田信虎の支配圏拡大を嫌う大井氏、今井氏らの国人衆に、諏訪頼満が荷担したのが発端であったが、次第に国人衆を圧倒する信虎による国内統一が進んだ。翌天文元年(1532)9月、浦信本は再度頼満の助勢を得て、浦城を拠点にして今井信元らの蜂起を誘うが、信虎に攻められ落城する。今井信元も降伏した。こうして信虎の甲斐統一が完成した。


信濃国では守護小笠原長秀が国人衆に敗れ、群雄割拠となり、信虎の次代・武田晴信に各個撃破され蚕食された。天文3年(1534)、諏訪頼満は嫡孫の頼重に家督を譲って出家して碧雲斎と名乗る。天文4年(1535)には信虎と和睦する。信虎の娘を頼重に娶らせると、頼満は、天文6年府中小笠原長棟を塩尻に攻め、その勢力を伊那の北部まで拡大する。しかし天文8年、背中の腫瘍の悪化によって、12月9日67歳で逝去する。

 天文4年(1535)9月17日、諏訪頼満と武田信虎は堺川北岸で会見して和議をした。この年の6月、信虎は今川氏の駿河に侵攻した。8月、今川を救援する北条氏と都留郡の山中で戦い敗れている。信虎は西隣する諏訪氏との和睦が緊要となっていた。諏訪氏にしても文明14年以降、高遠継宗との攻めぎ合いが続き、当時の当主高遠頼継も、高遠氏積年の野望である諏訪氏の当主に返咲く野心が強かった。諏訪氏にしても大門峠を越えた小名が群拠する佐久には魅力があった。その結果の天文9年(1540)11月30日の輿入れがあった。信虎の姫・祢々御料人を娶った。祢々御料人は14歳、頼重25歳。12月9日、諏訪頼重、甲府に婿入り。信虎同月17日、上原城を訪れる。頼重には既に小笠原氏の家臣・小見氏との間に一女があった。当時9歳で、後の諏訪御料人・本名梅であり、勝頼の母、この時、人質交換の意味もあって甲府に送られた。

*諏訪御料人・本名梅・・・は、後に小説になった「武田信玄」(新田次郎)、「風林火山」(井上靖)では湖衣姫、由布姫として登場している。・・・本名知らずとなっている。梅・・・この出典については確認が取れていません。”梅”の名前が浮上した背景は、建福寺にある「諏訪御寮人」の墓に彫られた戒名(法名)に、「乾福寺殿梅厳妙香大禅定尼」とあり、戒名を付ける時の習わしが、生前の名前を一文字使ってつける、と言うのがあって、そこから「梅」の文字が出てきたのでは、と推測します。可能性は”大”ですが、確定は出来ません。

・・・祢々御料人は輿入れの際、化粧料として境方18か村を持参する。以後甲斐との国境が現在のように東に寄る。その18か村とは、稗之底・乙事・高森・池之袋・葛久保(葛窪)・円見山・千達・小東・田端・下蔦木・上蔦木・神代・平岡・机・瀬沢・休戸・尾片瀬・木之間村である。甲六川と立場川の間の領地を持参した。・・・甲六川は、長野県諏訪郡富士見町と山梨県北杜市小淵沢町地区の境を境界線に沿って流れる県境の細い河川で、小淵沢町地区・白州町地区の境目にある。国道20号の新国界橋の橋の下で釜無川に合流する。

・・・諏訪頼重は天文3年(1534)に惣領家を継ぎ、天文7年(1538)、叔父の諏訪頼寛から弟・頼高に諏訪上社大祝を継承させた。諏訪頼重は郡主になると直ぐ、大門峠を越え小県・佐久に侵入。天文7年(1538)7月9日には、長窪城を攻め取り、さらに海野平の海野幸義を追放し、矢沢城・祢津城を取り、上田の東の台地総てを手中に治めた。同9年11月、武田信虎は娘を諏訪頼重に娶らせ、同盟関係を強化した年であったが、それに先立つ5月、佐久郡を攻略して一日に36城を落とすという怒涛の勢いを示した。頼重も信虎に呼応して長窪を領有している。芦田城を芦田信蕃に預け、7月諏訪に戻る。翌10年は5月、頼重は信虎と村上義清と共に小県郡に出兵、海野・禰津氏ら滋野一族を攻めてこれを上野に追放した。13日、頼重は尾山を制圧し、翌年海野平で禰津元直を敗走させた。同年7月、関東管領・上杉憲政は海野幸義の願いを入れ、兵3千余騎で碓氷峠を越えるが戦わずして去る。

そして、同年6月武田家で無血クーデターが起きた。・・・武田信虎の長男、晴信が父信虎を追放したのだ。当然、諏訪家当主諏訪頼重は、妻が信虎の娘であったから不快であったであろう。・・・そして、晴信も諏訪家に対して態度が豹変させた。それは、晴信が信濃を攻略するためにはどうしても諏訪を攻め落とさなければならない事態が生じた。村上義清の台頭であった。義清は天文10年(1541)、滋野三家の嫡流・海野家の当主海野棟綱を没落させ、真田幸隆を小県から敗走させた領地を奪った。村上義清が晴信にとって信濃侵攻を阻む難敵に成長して来た。そのころ、諏訪の一族である高遠頼継も諏訪惣領家を乗っ取ろうとしていた。・・・頼継は諏訪氏と対抗してきたが、諏訪頼満が諏訪を統一すると、その傘下に入った。後に頼満の娘を妻に迎えている。だが依然として諏訪惣領家の地位を狙っていた。


上社の祢宜矢島満清は神長官と仲が悪かった。享禄2年(1529)、諏訪頼満の6男頼寛が大祝に即いた時、その師匠役をめぐって、両者は激しく争った。このときは、惣領家の嫡子頼隆の調停で、神長官家が禰宜家に譲って事なきを得た。天文6年(1537)冬、新たに大祝として頼隆の子豊増丸(後の頼高)が立つことになったが、その大祝の即位式をめぐって、再び神長官頼真と禰宜満清の間に激しい紛争が生じた。大祝の即位に際して師匠の役があり、師匠の役とは大祝となるべき幼児に山鳩色の装束を着せ、神道の大事を授ける名誉ある役であった。この役は神長官家に伝わる所職であったが、勢力を強めてきた禰宜家がこの職に割込むようになり、大祝の即位のたびに両者は激しく争った。双方とも、惣領頼満の調停を受けないばかりか、禰宜満清は西方衆4郷の力を背景として圧力をかけ、自己の望みを達成しようとした。これに怒った諏訪頼満は禰宜満清を勘当し、神長官を師匠役として即位式を行った。

・・・こうした諏訪社内の紛争に際して高遠頼継は、憤懣やるかたない禰宜満清および西方衆4郷の一族と結び、諏訪惣領家攻略のための布石を打っていた。 下社の一党も、その計画に乗せた。・・・ 諏訪は天文年間のはじめから天災地変が多く、凶作続きで、天文8年12月9日、諏訪頼満の死後直後、14日から2日間豪雨となり、諏訪郡内の橋の悉くが流出した。とりわけ9年がひどかった。8月12日、暴雨風の猛威で磯並社の宮木が40本が根ごと倒木、その後の大洪水で大町は甚大な被害を受け、山野は荒廃し、さらに7百年来の疫病の大流行があり死者が続出して、困窮を極めた。その最中での度重なる佐久.・小県への出兵であった。諏訪の人心が頼重から離れるのは当然だった。

 この状況は甲斐でも同じであった。多年の内乱と自然災害が重なり、生物の不作が続いた。家督を継いだ晴信は、天11年(1542)6月24日突如として諏訪へ攻撃を開始した。それは領土的野心もあったが、食料獲得の経済行為でもあった。


上原城の攻防・・・天文11年(1542)4月4日、諏訪頼重と祢々御料人との間に嫡子寅王が誕生した。その年6月24日夕刻6時頃、武田信玄が堺川を越えて、諏訪に軍勢を進めているという報告が、諏訪頼重に入る。更に高遠頼継と下社方残党も同心している事が知らされた。しかし、諏訪頼重は武田との姻戚関係に安心し過ぎていたようだ。天文4年(1535)に武田信虎と和睦し、天文9年(1540)、信虎の三女・祢々御料人を妻に迎えているのになぜと、応戦の準備を怠った。6月28日、諏訪頼重は、武田勢の侵攻が、容易ならざる事態とと知り、夜10時頃、ようやく法螺貝を吹き鳴らし召集をかけた。そして近習ら30人とともに、上原城に入る。上原城は典型的な山城の為、平時は麓の館などに住んでいて、普段は使っていない。神長守矢頼真も慌てて具足を着けて参集した。後に、一族・家臣も駆け付けて来た。当時の諏訪氏は君臣共々、随分と軍紀が弛緩し切っていたようだ。・・・6月30日武田信玄が、御射山に陣を張る。2千騎に雑兵2万という大軍であった。信玄は、既に高遠勢を南から杖突峠を越えさせ、下社勢を西から挟撃させる手配をしていた。さらに祢宜満清を内応させていた。 諏訪勢はようやく矢ケ崎原に7月1日に対陣。その軍勢150騎で800弱しかいなかった。その騎士も「やうやうおかしき馬」 に騎乗していたと記されている。多年に亘る出兵と災害で、村代神主が貧窮している様子が窺える。甲州勢は長峰まで侵入。 7月2日、諏訪勢は早朝、ようやく城下の犬射原の犬射原神社まで進む。ここは、上原城下と言える。甲州勢は木落し下の筒口原まで押し寄せる。 その距離数100m。しかし、この時高遠頼継の軍は、杖突峠を越え安国寺に到着し、ここの門前の大町を焼き払い側面から攻撃してきた。諏訪軍は武田勢と高遠勢に挟撃にされることになった。 7月3日、諏訪頼重は仕方なく上原城に火を放って後方の桑原城に退いた。

武田勢は、諏訪氏落城と知り城下に侵入し、回りに火を放った。天文11年の「守矢満実書留」に「五日町、十日町、上原まちほりまわり」が放火された記述がある。当時、上原町には堀が廻らされ惣構えとなっていた。その内部には、諏訪氏家臣や諏訪氏直属の商工業者で居住していたが、一般庶民も幾分混在していた。


桑原城の攻防・・・武田軍はこの火を見て一挙に攻め入り、上原の城下町を焼き払って、3日早朝桑原城の高橋口まで押し寄せた。諏訪勢も城を出て迎撃奮戦した。一時は敵を上原まで押し返している。 信玄は、上原に武田勢の備えを置き、武田軍別働隊と高遠軍を大熊城へ進軍させ、守備陣地に残っていた千野伊豆入道とその弟千野南明庵を討ち取る。 千野兄弟は高齢のため足軽20人ほどと城内にいた。武田軍と応戦して4~5騎を討ち死にさせ、湯の上まで押返した上での敗死であった。

・・・この夜は酉の刻(午後6時)から大雨で、桑原城の麓一帯は大洪水に浸たった。諏訪頼重は、明日に備えて状況を調査しようと城を出て、尾根伝いに足長神社に下って行った。これを見た家臣達が大将の逃亡と勘違いして、我先にと城を出てしまった。・・・この夜、諏訪頼重が城に戻ると、弟の大祝・頼高、幼い弟3人と近習の侍など20人足らずがいたのみであった。翌日の朝、茶臼山や大和に落ち延びていた家臣達は、頼重が桑原城に戻っているのを知り、慌てて城へ戻ろうとしたが、武田軍は既に桑原城下一帯に満ち、武津に迫っていた。その上、諏訪湖との狭隘地赤羽根から武津に掛けて民家に火を放ち、殆どの者が城に戻れないようにした。神長官・守矢頼真も、武田軍に道を塞がれ、真志野に迂回しようとするが、それも果たせず、諏訪湖西岸を右往左往するだけといった状況だった。・・・7月4日、諏訪頼重は、弟頼高と共に討ち死覚悟で出撃しようとするが、武田軍は城壁まで押し寄せ、和睦を迫る。板垣信方の策で、武田信繁を介して「協同して高遠氏を討つ」との条件で開城を要求してきた。頼重は、ひとまず武田の軍門に下り、機を見て諏訪家を再興しようと思い、城を明け渡した。それは敗軍の将としての言い訳であった。

・・・7月5日 和睦の条件どおり諏訪頼重が甲府に送られる。諏訪の人たちは頼重が送られても、諏訪大社の大祝・諏訪頼高が残ったので安堵していた。ところが、上社祢宜矢島満清に預けられていた諏訪頼高も9日に甲府へ送られた。 この後の武田氏と高遠氏の戦いでは、信玄は諏訪頼重の子・寅王を掲げて戦う。また上原城・城代として板垣信方が就き、諏訪の郡代となる。・・・諏訪頼重は甲府に連行され、板垣信方の屋敷に捕らわれの身となる。その後、武田晴信に会う事もなく、甲府市、妙心寺派臨済禅の東光寺山内に監禁され、7月20日の夜自害を迫られた。・・・ 頼重は

おのずから 枯れ果てにけり 草の葉の 主あらばこそ またも結ばめ・

と辞世を残し弟・頼高と共に自害した。ときに頼重は27歳であった。 介錯もなく脇差で十一文字に腹を割き、返す刀で胸を突き刺したという。祖父・諏訪頼満の死後、3年しかもたなかた。しかも頼重は凡庸な将ではなかった。晴信の父信虎が見込んで娘婿とし、現在の諏訪郡富士見村の所領を引き継いだ価値ある戦国領主であった。

・・・このようにして、数百年続いてきた大祝家のうち惣領家は滅亡し、諏訪家は武田の地下となった。しかし、大祝は諏訪神社の祭祀にたずさわる大切な神官であるので、そのまま認められ、諏訪頼重の父頼隆の弟諏訪頼隣(満隣)が受け継ぎ、さらにその子頼忠へと引き継がれていった。

・・・尚、頼重の妻・祢々御料人は、諏訪氏滅亡の天文11年(1542)、4月4日に、寅王を出産していた。寅王は後に甲府で千代宮と名を変る。祢々御料人は、天文13年(1544)1月19日、甲府で僅か16歳の生涯を閉じる。・・・


寅王の姉諏訪姫が晴信の子・四郎勝頼を生んだ後(天文15年)、天文16年の夏、寅王6歳、昼寝中の晴信を刺そうとして失敗、その咎で寺に入れられ僧・長笈(ちょうきゅう)の侍者とされた。その後も成長するにつれ、姉の諏訪御料人にも反抗するようになり、晴信は刺客に殺害を命じた。寅王と従者・小見某はかろうじて追っ手を逃れて、深志(松本)から北に向かい上杉兼信に頼ったと言う説がある。・・・春日山城下の古図に、本丸近くに諏訪屋敷の一画が見られる。 
                                          
諏訪の信玄時代・・・諏訪頼重歿後の諏訪氏は、大祝の継承と安国寺の住職の地位は認められるが、武士たちは諏訪先駆け衆として、上原城の城代・板垣氏の軍令に従った。下社系の武士も少なからず武田の軍団に組み込まれていた。兵農分離がなされていない時代の武士は、知行地で農耕を営む大百姓でもあった。彼等の本領は信玄に安堵されたようだ。それぞれ知行を得、身代に応じて騎馬か歩卒として働いた。・・・諏訪頼重歿後、諏訪は宮川を境にして東が武田氏、西が高遠氏と領土を分断された。諏訪下社一党も武田方であったが、それは名ばかりで、衰微しきっていて兵を出す事ができず、領地は与えられなかった。天文11年(1542)9月10日、高遠頼継は、諏訪上下明神権と諏訪全郡を手中にしょうとして、藤沢頼親と結び禰宜太夫・矢島満清と図り、上原城を攻め奪うと、直ちに上社・下社も支配して積年の念願を果たした。 信玄は、甲州にいた頼重の遺児・寅王を押し立てて、諏訪頼重の遺命と称し、高遠氏打倒の軍を進める。この時、諏訪は割れる。寅王を迎えて、諏訪宗家復興のかすかな望みをつないで武田氏に味方したのは、頼重の叔父・満隆・頼隣、矢ケ崎大炊守・千野伊豆入道・小坂兵部・有賀紀伊守・諏訪能登守等と諏訪頼重の近習20人、社家では、神長守矢頼真・権祝花岡氏・福島平八等、そして山浦の地下人達であった。一方高遠方は、上社祢宜・満清、有賀遠江守、有賀伯耆守、権祝、頼重の近習衆等であった。

・・・新大祝諏訪頼隣は武田方の守備兵と茶臼山(諏訪市)にたてこもり、高遠勢に備えた。『高白斎記』によると、武田軍の先発は板垣信方が率いて、9月11日に府中を出陣した。19日信玄も府中の躑躅ヶ崎館から本隊と共に出立した。9月25日上川の南、宮川沿いの安国寺ヶ原で、両軍ほぼ同数の2,000同士で激突するが、上伊那軍の箕輪衆・春近衆を率いる高遠方は大敗北、高遠頼継は高遠に逃げるが弟・蓮峰軒頼宗は討ち死に、禰宜満清は行方不明となり、満清の子は討ち取られている。武田勢はさらに高遠勢を追撃し、杖突峠を越えた片倉で800人近い兵を討ち取っている。26日藤沢集落に火を放った。

こうして・・・9月末、諏訪全郡が武田の領土になる。以後40年、武田氏の支配下に入る。 諏訪を領有した信玄は、西上の志をいよいよ強くし、その通路にあたる伊那谷の攻略に着手した。天文11年(1542)9月末、信玄の命により駒井高白斉は伊那口に侵入、藤沢集落に放火しこれを攻めた。さらに晴信は板垣信方に命じて上伊那口に兵を発し、高白斉とともに上伊那諸豪族への示威運動を繰り返した。 ・・・天文12年、信玄は伊那攻略と同時に、海ノ口から佐久・小県に侵入して長窪城を陥落させ、城主大井貞隆を捕えた。貞隆は武田氏や諏訪氏と敵対し、天文9(1540)年諏訪頼重に長窪城を奪われていた。 天文11(1542)年、頼重が信玄に殺されると、それに乗じて長窪城を奪回していた。信玄は佐久・小県の諸城を陥落させると、遂に北信濃の雄・村上義清の居城葛尾城に対するようになった。

天文13年、晴信は本格的に伊那郡攻略に着手、『高白斎記』に「信玄は天文13年10月16日に甲府を出発して、11月1日荒神山を攻め、26日に上原城に帰った」とある。信玄は10月に甲斐府中を出陣した。一方、武田軍の侵攻に対して藤沢頼親は箕輪の北方平出の荒神山に砦を構え、伊那衆とともにこれを守り武田勢を迎え撃った。武田勢は武田信繁を大将として有賀峠を越えて伊那郡に入ると、11月1日荒神山を攻め破った。このとき、信玄は下諏訪に陣していたが、藤沢氏に決定的な打撃を与えないまま甲府に帰陣している。・・・翌年4月、晴信は再び兵を率いて甲府を出陣し、14日には上原城に入った。まず高遠頼継を攻め、17日これを落とした。ついで箕輪に軍を進る。これに対し、天竜川湖畔の要害、箕輪の福与城には、城主藤沢氏に同心し、武田の伊那侵攻を阻止せんとする伊那の国人衆も籠城していた。この守備は固く、武田方の攻撃も思い通りに進まず、部将の鎌田長門守が討死するほどであった。・・・福与城の創設は鎌倉時代、幕府に仕えた藤沢氏が箕輪郷を中心に、ここを拠点にして威勢をふるっていたと伝えられる。藤沢頼親は上伊那衆を結集し、深志小笠原長時、下伊那衆の小笠原、知久氏らの援軍を得て抵抗した。信州守護・小笠原長時は、頼親の妹婿でもあり、兵・1500を率いて駆けつけるが、その助勢も空しく福与城は6月10日陥落した。そして城は放火破壊され、そのまま廃城になった。信玄は逃げる小笠原長時を追い、桔梗が原に進軍して熊井城を獲得、さらに伊那・筑摩も忽ちにして席巻した。『小平物語』 には、こ伊那攻略に多くの諏訪衆が先鋒を務めた、と記載がある。。天文15年(1546)9月、信玄は諏訪上社に寄進状を納めている。伊那の広垣内、百貫文の土地を社領とした。伊那侵攻の際における、諏訪衆の戦功への褒賞と解される。

この藤沢城の戦いの時・・・松本の小笠原長時は藤沢頼親を支援しようとして龍ケ崎城(辰野町)に陣を布いた。また長時の弟で鈴岡小笠原家を再興した信定も下伊那・上伊那の諸豪族を率いて、藤沢氏を支援するため伊那部に着陣した。福与城の支城で藤沢頼親の養子木下重時が在城した箕輪城の守備も固く膠着状態が続いた。対する晴信は攻囲戦が長期にわたり、軍兵の疲労もあり藤沢氏との和を講じた。そして、その誓約として頼親の弟権次郎を人質として差し出させた。ところが、藤沢氏らが開城したと同時に箕輪城へ火を放ってこれを焼き払ってしまった。下伊那から来た小笠原信定も、府中の小笠原長時も、箕輪城の開城により一戦も交えず兵を引き揚げた。こうして、和議とはいいいながら箕輪城を焼かれた頼親は、実質上、敗北を喫して晴信に降った。

       
武田信玄は高遠城を伊那地方への進出の拠点とするため、天文16年(1547)、山本勘助、秋山信友に命じて大規模な改築を行ない、秋山信友を城主とした。永禄5年(1562)には諏訪勝頼が城主となったが、元亀元年(1570)、武田信玄は勝頼を自分の後継者として甲斐国に戻らせ、信玄の実弟の武田信廉を城主とした。・・・信玄亡き後、高遠城は重要な軍事拠点として、織田家からの甲斐進攻の最終防衛基地の役割を担い、天正9年(1581)には勝頼の実弟の仁科盛信が高遠城主となったが、翌天正10年(1582)2月、織田信長は本格的な甲斐進攻を企て、長男の織田信忠に6万の大軍を与えて高遠城に迫らせた。高遠城に籠もる城兵の数は3千、織田信忠の降伏勧告を退けて、仁科盛信を先頭に奮戦するもむなしく、凄惨な戦いの末、最後には全員が玉砕して落城した。高遠城の落城により、武田家は瓦解。9日後に武田家は滅亡した。・・・この全員玉砕の部分は疑問がある。


 
武田家の諏訪信仰・・・ 治承4年(1180)7月27日、源頼朝が挙兵し、9月になると甲斐源氏の武田太郎信義と一条次郎忠頼父子が、頼朝の命により信濃国の平氏を討伐するために諏訪郡に進出してきた。伊那郡の平家の将・菅冠者を討つ途中であった。その時、「東鑑」に詳しく記されている諏訪明神の神験に奮い立ち進軍したところ、菅冠者はその勢いに圧倒され戦わずして、城を焼いて逃げた。頼朝はこの神恩に報いるため上社へ平井弖(ひらいで)・宮処(みやどころ)を、下社には龍布(たつにふ・辰野)・岡仁谷(おかにや)を寄進した。この4ケ所は、皆かつては牧であった。

 
武田家は信玄の曽祖父の代から諏訪大社を武神として崇め、その信仰は篤かった。信玄は天文11年(1542)7月、諏訪氏を滅ぼし、その後諏訪一円を領有したが、10月、諏訪上社神長官守矢氏の神官の地位を保証し、諸役を免除している。天文15年9月、伊那郡にある百貫文の地を上社に寄進している。天文17年8月には、神長官守矢頼信に「御頭・造営・神領・諸宮公事・造立、其外の諸祭礼、悉く往古を守り、成敗せしむべし。少しも相違あるべからざるものなり。件の如し。」と書状を送り、諏訪社の祭事が失われていくのを恐れ、大祝・神長官に古来よりの神事を調査し、再興することを命じている。 信玄も作戦ごとに諏訪大社に戦勝祈願をして、その後必ず願果たしの寄進を惜しまなかった。また軍中には常に、「諏訪南宮上下大明神」の大幟がひらめいていた。

永禄8年(1565)と9年に、「諏訪上下宮祭祀再興次第」という11軸に仕立てられた下知状で、具体的な内容の祭事指示を出している。これが「信玄11軸」といわれたものであった。諏訪上下社の大祝及び5官祝や祠官、宮奉行等に、退転した上下社の年間神事祭礼、諸宮造営、公事等の再興執行と、神領・神田の増加、頭役・郷役や郷村の造営銭の負担割当等を命じた。信濃国内は、鎌倉幕府滅亡後の長い動乱期、各地の豪族が割拠し、その勢力を拡張するため神社仏閣の土地と特権を押領してきた。諏訪大社も同様で、祭祀の執行が困難となっていた。信玄は7年に1度の御柱祭も信濃国中に指図してとり行わせている。 こうして諏訪大社は、久しく途絶えていた伝統行事の復活がなされた。

中世に信濃の国一宮の諏訪社に対する奉仕は、信濃全域でなされていた。いわば諏訪社は信濃全体の氏神様のような役割を担ってていた。 信玄が侵略してきてから暫くの間、信濃国は戦乱下にあり、諏訪社祭祀の御頭役を勤められる状況ではなかった。約20年に亘って、それに関係する史料が残っていない。 信玄が永禄2年(1559)が3月9日に、諏訪上社神長の守矢頼真に宛てた書状には、

・・・「当社御頭役、近年怠慢のみに候か。しからば、一国平均の上、百年已前(いぜん)の如く、祭礼勤めさすべきの由存じ候ところに、十五箇年已来兵戈止むを得ざるにより、土民百姓困窮す。殊には嶋津・高梨等今に令に応ぜず候間、諸事思慮の旨あって、これを黙止し畢(おわ)んぬ。必ず嶋津・高梨当手に属さば、それがし素願の如くその役を勤るべきの趣催促に及び、難渋の族に至っては、先忠を論ぜず成敗を加うべく候。抑(そもそも)毎年三月御祭のことは、たやすき子細に候条、当時分国の内へ堅く下知なすべく候」・・・

と記されている。これは実行された。永禄3年(1560)2月2日、武田信玄は諏訪上社の造営を信濃国中の諸役によってするようにと命じた。おそらく松本平の郷村も、この時には造営の負担をしたものと推察される。これを皮切りに、武田氏が命令を下す形で諏訪社祭の御頭役が復活した。 永禄7年(1564)12月13日、山家郷等に諏訪社上社の明年の御頭役を定めている。翌年の永禄8年3月15日、諏訪社上社の三月会御頭役を山家郷等に負担させた。このように諏訪社から求められる御頭役は、以前は負担する郷の領主が就いたが、戦国時代になると直接郷にあてて文書が出されるようになり、地域の領主の名前が記されていない。この間に郷村の自治が進展し、武田氏はそうした郷村を基礎に支配を進めたものと考えられる。

永禄8年11月1日、信玄は諏訪社の祭祀を再興させた。これ以降の諏訪社の神事再興の下知状が「諏訪上下宮祭祀再興次第」で、「信玄の11軸」と呼ばれる諏訪大社上社に現存する古文書である。11軸の内訳は上社が9、下社が2軸で、下社金刺氏滅亡後の状況を反映している。下知状の意味は深い。もとより諏訪大社祭祀の復興にあったが、信玄はこの下知状に従わせることにより、信濃国人衆や郷村民の信玄忠誠の証とした。

以上が、諏訪の乱を中心とした信濃の中世の歴史であるが、戦神を自覚し主張していった経緯の流れであり、その特異性は解明できたのであろうか、いささか不安もある。また、複雑に絡み合った、小笠原守護家の解析は、ほぼ従来どうりで、ほとんど深掘りが出来ていないのが実情、今後機会があれば、そちらも読んでみたい。

これ以降の武田家の歴史は、よく分析している書が多いので、解説等は他者に任せる。

 


諏訪大社・・・上社の歴史 第四章 室町時代 内訌時代へ

2013-12-23 05:07:04 | 歴史

・・第四章 室町時代

 内訌時代へ 諏訪家の内訌と小笠原家の内訌

 ・・・・・内訌 一族間の棟梁・覇権を争う内乱、領地分割相続から長子相続に変化した室町中期におこる

小笠原家の内訌・・・信濃国は守護小笠原氏による権力が確立されたが、嘉吉二年(1442)守護小笠原政康が死去したことをきっかけとして「嘉吉の内訌」が起った。小笠原氏は伊那と府中に分かれて相続争いを繰り返し、さらに伊那では鈴岡と松尾に分かれて、小笠原氏は三つ巴の骨肉相食む内乱となった。その結果、守護権力は弱体化し、国人層も複雑な動きをみせるようになり、信濃一国は内乱状態に陥ったのである。

諏訪氏の二重構造化・・・

 ところで、諏訪氏は古代以来、祭政一致の統治形態をとり、神を祀る大祝家は政治権力の掌握者でもあり、その身は現人神(神霊の肉体的表現)ともみなされ聖なる身として神域である諏訪から外に出ることをタブーとされてきた。諏訪上社祭祀体系の頂点に立つ大祝は、諏訪氏一門が惣領家の幼男もしくは一門の子弟を奉じて実現するもので、いいかえれば幼児というべき年頃であった。そのため、諏訪氏が武士団として戦乱の打ち続く中世を生き抜くためには、幼い大祝に替わって惣領が戦陣の指揮をとり、諏訪地方の領主として領地の経営にあたったのである。
 そして、神事運営に際しては大祝を頂点として、神長官・祢宜大夫・権祝・擬祝・副祝が実務官僚的祠官として存在し、大祝は惣領とともに前宮の神殿にいたのである。このようにして、諏訪氏は聖なる世界の権威である大祝と、諏訪一門の棟梁である惣領という二重構造を強めるのである。
 とはいえ、大祝が幼児の間は権力を行使することもなく、惣領の支配体制を脅かすことはなかった。しかし、大祝の地位に長くとどまって成人になると、祭政一致の体現者という意識がややもすれば強くなり、権力への志向をみせるようになった。そして、ついには惣領と大祝の間に対立が生じるようになるのである。
 諏訪氏は中先代の乱後、大祝頼継は朝敵ということで大祝職を失ったが、南北朝の内乱期は南朝方として足利尊氏に抵抗しながらも、大祝職は惣領家の系統である信嗣・信貞・信有・有継と伝えられてきた。しかし、有継以後の大祝は惣領家から出ず、ほとんど傍系から輩出するようになった、その結果、惣領家と大祝家の系統が分離し、在位期間も長引くようになった(平均十一年)ことで大祝の力が高まり、ともすれば惣領家と対立するようになった。
 その背景には、南北朝期の内乱からその後の中世争乱のなかで惣領制的な分割相続から嫡子(惣領)による単独相続へという変化があった。惣領への権力集中がいちじるしくなると、惣領への就任志向が高まり、一族・被官を巻き込んだ相続争いが各地で頻発するようになった。その一事象が信濃守護小笠原氏の内訌であり、諏訪氏もそのような時代相と無関係ではなかったのである。

諏訪社の内部対立・・・
諏訪社の内部対立は、まず上社・下社の間に起こった。・・・宝治2年は、・・諏訪大社造営の年度に当たる、その年に上下社間に本宮争いが生じた。下社大祝の金刺盛基が、その解状で訴えた。しかし上社の諏訪氏は、鎌倉幕府の得宗家御内人であり、且つ重臣である。幕府の裁可は当然、「去年御造営に下宮の祝盛基は、新儀の濫訴を致すによって」として裁下し、「上下両社の諸事、上社の例に任せ諸事取り仕切る」とした。・・ しかし、(翌宝治3年(1249))・下社大祝盛基は、この幕府の下知に納得せず、上宮は本宮ではないと再度申し立てた。大祝信重解状は、それに対する長文の反論で、「進上御奉行所」として幕府に訴えた。
 その内容は7ヵ条で  一、守屋山麓御垂跡の事、一、当社五月会御射山濫觴の事、一、大祝を以て御体と為す事、一、御神宝物の事、一、大奉幣勤行の事、一、春秋二季御祭の事、一、上下宮御宝殿其外造営の事
 鎌倉中期以前の諏訪大社の鎮座伝承、神宝、祭祀、神使御頭(おこうおとう)、大明神天下る際の神宝所持、御造営等、詳細に上社が本宮である由来を記述して、先例通りの恩裁を請願している。・・・

この時の下社大祝は金刺盛基、対する上社大祝は諏訪信重、鎌倉幕府に訴状合戦をしている。・諏訪大社造営のこととは、神事運営の事か?。時は北条得宗家の時代に移り、上社諏訪家は得宗家と御身内の関係の親密さを増している時、裁定は上社有利に下される。
・・・「大祝信重解状」・諏訪家側の訴状のこと、神長守矢家に永らく秘蔵されていた。・・・

この対立は、下社の経済的衰退が根にあり、下社は対策するようになる。下社の領域とするところは、下諏訪、岡谷、辰野の一部、洗馬(塩尻)であるが、洗馬は府中小笠原家と木曽家から、辰野は木曽家と同族の上社から脅かされる状態だった。その為に、幕府に庇護の質を、上社より有利か同等にするように訴状を提出する。この対立は、上・下社の訴状合戦で終わり、下社の敗北に終わったようだ。そして武力衝突には到っていない。南北朝終盤の頃の桔梗ヶ原の合戦の時に変化は起こった。それまで南朝側に付いていた下社は、参戦を保留し、守護小笠原側が有利になるように動いた。結果は守護側の勝利で、以後信濃に於ける南朝勢力は急速に衰退する。この戦いは、途中で仁科氏を始めとする神党が戦線を離脱している。この戦いの以後、下社と府中小笠原家は同盟し、諏訪一族の対立と小笠原一族の対立が入り組んで絡み合い、様相を複雑にしていく。

次ぎに起こったのが、諏訪氏の内訌の予備選・・・
康正二年(1456)大祝伊予守諏訪頼満とその兄で惣領安芸守諏訪信満が争ったことが、「此年七月五日夜、芸州・予州大乱」と『諏訪御符礼之古書』に見えている。争いの原因は不明だが、頼満とその子頼長とは永享(1429~40)以来、大祝の位にあって勢力を拡大し、惣領である兄信満に対抗するようになったのであろう。乱そのものはそれほど大きなものではなかったようだが、この争いを機に惣領信満は上原に移住し、大祝頼満は前宮に残って、大祝家と惣領家とは分裂状態となった。
こうして、諏訪上社内でも 、大祝と惣領家の間で対立が起こった。これは内訌と呼べるほどの規模でないにしても、同族内の勢力争いで、戦国時代突入の前触れであった。

文明の内訌・・・前触れ・・
文明十一年(1479)、伊那の伊賀良庄に府中小笠原氏が侵攻し、諏訪氏は伊賀良庄の小笠原政秀(政貞)を支援するため、大祝継満は高遠信濃守継宗とともに出陣した。下社の金刺氏が府中の小笠原家と同盟したため、対抗上松尾小笠原家の番頭を任じる坂西孫六を通じて、上社大祝は松尾小笠原と手を組んでいた。坂西孫六は、上社の敬虔な信者であった。府中小笠原氏は下社および下社系の武士団と結んでおり、諏訪氏は対抗上伊賀良庄の伊那小笠原氏と結んでいたのである。翌十二年になると、伊那の小笠原政秀と叔父光康が争い、光康は府中の小笠原長朝を味方に付けたため、諏訪氏は政秀に援兵を送っている。この年、小笠原長朝は仁科氏を破り、さらに諏訪氏の保護下にあった山家氏を攻撃した。これに対して翌十三年四月、諏訪惣領政満は仁科氏・香坂氏らと協力して小笠原長朝を討つため府中に攻め入っている。以後、諏訪氏の惣領政満は、甲斐にも出陣するなどして伊那・筑摩郡にまでその勢力を及ぼした。しかし、台頭いちじるしい大祝継満との関係から微妙な立場におかれていた。継満は大祝の位にあること二十年におよび、伊那小笠原氏を支援して出陣もしていた。年齢も三十歳を越えており、惣領政満の指図にも従おうとはしなくなった。

文明の内訌・・・本格化

文明十四年(1482)、諏訪氏一族の高遠継宗と代官の保科貞親とが対立し、大祝が調停に入ったが不調に終わった。その結果、保科氏には千野氏・藤沢氏らが同心して、笠原氏らの支援を受けた継宗と笠原で戦い高遠方が敗れた。その後、保科氏は高遠氏と和解したが、高遠氏と藤沢氏とが対立し、惣領政満は藤沢氏を支援した。さらに府中小笠原長朝も藤沢氏を支援する立場をとり、小笠原・藤沢連合軍は高遠継宗配下の山田備前守が守る山田城を攻めたが失敗するという結果になった。ここにいたって、諏訪上社の対立構造は鮮明になった。上社の大祝と惣領家の関係は修復不可能になった。大祝と同盟を組んでいた高遠家は大祝の妻の兄であった。さらに諏訪上社の棟梁たる自負を持っていた。・・・・かって、諏訪頼重が、鎌倉に出陣後、大祝を継いだのは、時継の子・頼継であった。このため朝敵となった頼継は神野(諏訪神領の山岳か)に隠れる。尊氏は大祝の継承を、大祝庶流の藤沢政頼に就かせると、頼継の探索を厳しく命じた。頼継は、わずか5,6人の従者を連れて、神野の地をさ迷うが、諏訪の人々による陰ながらの援助で逃れる事ができた。そして隠棲して、後に出来たのが高遠家である・・・

文明の内訌・・・大祝継満は高遠継宗および小笠原政秀との連係を強め、一方の惣領政満は藤沢氏とともに府中小笠原長朝と通じるようになった。ここに、諏訪氏の分裂と小笠原氏の分裂とがからみ合うという、複雑な政治状況となってきた。そして、翌十五年(1483)一月、大祝継満は惣領政満父子を居館に招いて殺害し、惣領家の所領を奪って千沢城に立て籠るという一挙に出た。一気に上社の支配権を掌握しようとしたのである。これに対し、矢崎・千野・小坂・福島・神長官らの各氏は、大祝のとった行動を支持せず大祝の籠る千沢城を襲撃した。大祝継満は父頼満をはじめ一族に多数の犠牲者を出し、高遠継宗を頼って伊那郡に逃れ去った。

・・諏訪氏の戦国大名化・・・諏訪上社の内乱に対して、諏訪下社の金刺氏は継満に味方して挙兵した。下社は永年にわたって上社と紛争を起こして衰退の一途にあったが、上社の内訌を好機として頽勢挽回を図ろうとしたのである。金刺氏は継満の一派とともに高島城を攻略し、上桑原・武津を焼いた。対する諏訪勢は矢崎肥前守らを中心として出撃し、下社勢を討ち取り、下社に打ち入ると社殿を焼き払い一面の荒野と化したのである。金刺興春は討ち取られ、金刺氏は没落し、下社は一時衰退してしまった。
翌年五月、小笠原政秀の援助を受けた大祝継満は、高遠継宗・知久・笠原ら伊那勢を率いて諏訪郡に侵入し、上社近くの片山城に籠城したが小笠原長朝に攻められて退去した。十二月、さきに継満に殺害された政満の二男頼満が上社大祝職に就き、以後、祭政を一つにした諏訪惣領家が諏訪郡を支配するようになった。しかし、継満は滅亡したわけではなく、十八年には大熊に新城を築き、十九年には継宗が諏訪に攻め入るというように、諏訪氏と継満一派との戦いは繰り返されたのである。

この一連の抗争は「文明の擾乱」(=文明の内訌)と称され、大祝と惣領家の激突によって諏訪氏内部における二重構造が解消されるという結果になった。こうして、文明十五年より天文八年(1539)に至るまでの約五十六年間、頼満が惣領として君臨し、その間、下社の金刺氏を攻め滅ぼし、諏訪地方に大名領国制を展開するようになった。

こうして頼満は諏訪氏中興の主とよばれ、戦国大名としての諏訪氏は、頼満の代に始まった。しかし、その実態は諏訪の在地領主・小領主連合を従属下におく盟主的存在から離脱するまでには至らなかった。頼満の治世に関しては、史料も少なく実態は不詳。

 

この間の様子を、戦記物語風に、以下に記述する・

・・・・・諏訪の乱・・

国衙が後庁(現長野市南長野町・後町)にあった時代に、中御所守護館は、現在の長野市中御所2丁目に置かれていた。南北朝期から室町期の信濃国の守護所である。その漆田原(長野市中御所の長野駅付近)在地領主漆田氏の館跡が漆田城とも言われ、守護館の北西から西北西の方向に東西約254m、南北118mに漆田城を構えた。源頼朝が建久年(1197)8に善光寺に参詣した際にこの辺りの有力者である漆田氏の館に泊まったとある。

中御所守護館は文安3年(1446)漆田原の合戦のあと廃止になった。小笠原宗康が父の小笠原政康から相続したが、宗康の叔父の子持長(府中)といとこ同志で守護職と惣領をを争うようになった。宗康(松尾)は、持長との争いに敗れて討ち死にしたら光康(鈴岡)に跡目を渡す約束で、合力(援軍)を依頼した。宗康は漆田原で持長軍と戦い傷死したが、持長は戦勝しながら、家督を承継出来ず、その対立が後代にも及んだ。文明11年(1479)9月、伊那郡で松尾の小笠原政秀(政貞とも;宗康の子)と鈴岡の小笠原家長(光康の子)が争い始めた。ここに、小笠原家は3家に分裂し混乱した。諏訪上社大祝諏訪継満は政秀を助勢するため伊那郡島田(飯田市松尾)に出兵した。

 文明11年(1479)7月、佐久郡内の小笠原一族、大井・伴野両氏は諏訪上社御射山祭の左頭・右頭として頭役を勤めていた。佐久岩村田の大井氏の当主は政光の後嗣、若い政朝であった。ところが、その1か月後の8月24日の合戦で、大井氏は前山城の伴野氏との戦いに大敗し、政朝が生け捕りとなり、大井氏の執事相木越後入道常栄を初め有力譜代の家臣が討死した。この戦いには、伴野氏方に、大井氏に度々侵攻され劣勢にあった甲斐の武田信昌が、報復として加担したといわれている。生け捕りとなった政朝は佐久郡から連れ出されたが、和議が成立して政朝は岩村田に帰ることができた。以後、政朝は勢力を回復できぬまま、文明15年(1483)若くして死去した。・・・佐久地方を拠点としていた小笠原家の別家筋の衰退である。翌年、村上氏の軍勢が佐久郡に乱入し、2月27日、岩村田は火を放たれ、かつて「民家六千軒その賑わいは国府に勝る」と評された町並みは総て灰燼に帰した。大井城主は降伏し、大井宗家は村上氏の軍門に下った。

 翌文明12年2月、下社大祝金刺興春が、上社方を攻め安国寺周辺の大町に火を放った。3月には西大町に火を放つ。興春には諏訪一郡の領主権と諏訪大社上下社大祝の地位獲得の野望があった。同年7月、伊那郡高遠継宗が鈴岡の小笠原家長に合力し伊那郡伊賀良へ出陣し、松尾の小笠原政秀と戦い、8月には上社大祝継満が小笠原政秀と共に伊賀良の鈴岡小笠原家長を攻めている。
 一方、高遠継宗は同じ8月、伊那郡高遠の山田有盛と戦っている。文明13年の『諏訪御符礼之古書』に記される明年御射山御頭足事条には「一、加頭、伊那,山田備前守有盛、御符礼一貫 八百、代始、使四郎殿、頭役六貫文」とあり、山田有盛が頭役を勤仕している。山田氏は山田地内の山上に居城を構えていた。翌14年6月、高遠継宗は藤沢荘の高遠氏代官として仕えていた保科貞親と、その荘園経営をめぐって対立し、大祝継満・千野入道某らが調停に乗り出したが、継宗は頑として応ぜず不調に終わった。継宗は笠原、三枝両氏らの援軍を得て、千野氏・藤沢氏らが与力する保科氏と戦ったが、諏訪惣領政満が保科貞親の助勢に加わると、晦日、高遠継宗の軍は笠原で敗れた。以後も保科氏との対立は続き、さらに事態は混沌として複雑になる。同年8月7日、保科氏が高遠氏に突然寝返り、連携していた藤沢氏が拠る4日市場(高遠町)近くの栗木城を攻めた。この時、上社惣領家諏訪政満は藤沢氏を助け、その援軍も共に籠城している。15日には、府中小笠原長朝の兵が藤沢氏を支援するため出陣をして来た。17日、府中小笠原氏と藤沢氏は退勢を挽回して、その連合軍は高遠継宗方の山田有盛の居城山田城(高遠町山田)を攻撃したが、勝敗は決しなかった。守矢文書によると、「府中のしかるべき勢11騎討死せられ候、藤沢殿3男死し惣じて6騎討死す」とある。

諏訪氏も小笠原氏同様、一族間の内訌が絶えなかった。諏訪惣領家・諏訪大社上社大祝家・高遠諏訪家、そこに下社大祝金刺家が加わる争乱となる。この戦国時代初期、諏訪氏は多くの苦難を乗り越える事で、戦国武将として成長しつつあった。諏訪氏は、下社金刺氏を圧倒し郡内を掌握する勢いであり、杖突峠を越えて藤沢氏を支援し、一族高遠継宗の領域を脅かしつつあった。大祝継満も大祝に就任して20年近い、年齢も32才に達している。諏訪家宗主としての誇りと、度々の郡外への出兵で、軍事力を養ってきた。そして、諏訪大社御神体・守屋山の後方高遠に義兄弟の継宗がいる。彼らは、自ずと連携し、そこに衰勢著しい金刺氏を誘い、「諏訪上社を崇敬すると自筆の誓紙」を差し出した伊賀良の小笠原政貞とも同盟した。


文明15年(1483)正月8日、

・・・大祝諏訪継満が惣領諏訪政満とその子宮若丸らを神殿で饗応し、酔いつぶれたところを謀殺した。・・・

しかし継満の行為は諏訪大社の社家衆の反発を招き、2月19日、神長官守矢満実・矢崎政継・千野・福島・小坂・有賀ら有力者は継満を干沢城に追い詰め、更に伊那郡高遠へ追いやった。・・・これが文明の内訌である。

下社大祝金刺興春は、上社大祝諏訪継満に同心していて、諏訪家の総領の不在を好機として3月10日、高島城を落城させ、さらに桑原武津まで焼き払い、上原に攻め込もうとした。神長官守矢満実らは、敵の攻撃に備えて高島屋城に総領家一族と共に立て篭もっていた。守矢満実の子継実・政美は、矢崎、千野、有賀、小坂、福島などの一族と共に逆襲に転じ、逆に金刺興春の軍を破り、勝ちに乗じて下社に達し、その社殿を焼き払い、興春の首を討ちとった。その首は諏訪市湖南にあった大熊城に2昼夜さらされた。興春亡き後、諏訪下社大祝は子盛昌、孫の昌春と代を重ね、上下社間の争闘は続くが、このころから下社方の勢力は衰微する。・・・この時府中深志の小笠原長朝は、神長官守矢満実・矢崎政継らに味方し、下社領筑摩郡塩尻・小野などを押領した。・・・高遠に逃げた継満は、義兄の高遠継宗と伊賀良小笠原政貞、知久、笠原氏の援軍をえて翌年の文明16年(1484)5月3日、兵300余人率い、杖突峠を下り磯並・前山に陣取り、6日には諏訪大社上社の裏山西方の丘陵上にあった片山の古城に拠った。その古城址北側下の諏訪湖盆を見晴らす平坦な段丘には、古墳時代初期の周溝墓がある。極めて要害で、西側沢沿いには、水量豊富な権現沢川が流れ地の利もよい。惣領家方は干沢城に布陣したが、伊那の敵勢には軍勢の来援が続き増加していく。 ところが小笠原長朝が安筑両郡の大軍を率いて、片山の古城を東側の干沢城と東西に挟み込むように、その西側に向城を築くと形勢は逆転した。その向城こそが権現沢川左岸の荒城(大熊新城)であった。伊那勢は両翼を扼され撤退をせざるを得なくなった。 継満も、自らの妄動が家族に残酷な結果をもたらし、却って諏訪惣領家を中心とした一族の結束を強め、下社金刺氏をも無力にし、ここに始めて諏訪平を領有する一族を誕生させたことを知った。以後の継満には諸説があり、各々信憑性を欠くが、いずれにしても継満一家は歴史上の本舞台からは消えていく。 惣領家は生き残った政満の次男頼満に相続され、同時に大祝に即位した。このとき5歳であった。

諏訪上社大祝諏訪頼満と下社大祝金刺昌春の戦が繰り返され、昌春の拠る萩倉要害が自落して、大永5年(1525)、金刺昌春は甲斐国の武田信虎を頼って落ち延びた。

これより先、文明10年12月、深志の小笠原清宗が、享年52で没した。子の長朝が後継となったが若年と侮られ、長朝が不在中に鈴岡の小笠原政秀が深志に侵攻してきた。小笠原長朝は諏訪氏と金刺氏同族間の戦いに介入にし、それに乗じようとする伊賀良の小笠原と戦い、その一方、筑摩と安曇地方で勢力を広げようとしたため周辺の豪族と争乱を繰り広げていた。長朝は、安曇地方の北部の雄族仁科氏とも争うことになる。長朝は、戦線が拡大し手薄になった府中を、諏訪惣領家政満による攻撃を受け形成が次第に不利になっていた。鈴岡の小笠原政秀が諸所に転戦する長朝の不在をついてきた。家臣団は防ぎきれず、長朝の母と妻子らを守護し、相伝文書を携え更級郡牧城の香坂氏を頼って逃れた。やがて長朝も寄寓してきた。府中の小笠原家存亡の危機に至った。小笠原政秀は長朝の本拠地林館(松本市)を奪い、深志にとどまり安筑(あんちく)2郡を合わせて領有し、名実共に小笠原惣領家たらんとした。しかし安筑2郡の国衆は反発し治政不能の争乱状態となった。やむなく長朝と和睦し、家伝の文書を譲り受け、代わりに、長朝を養子とし府中に返した。香坂氏は長朝と同盟関係となり、延徳元年(1489)8月、府中へ出兵し長朝に助勢している。

数年後、松尾の小笠原定基(光康の孫)が鈴岡の小笠原政秀父子を誘殺し伊賀良を掌握した。定基は勢いのまま、伊那地方制覇に奔走する一方、しばしば伊勢宗瑞(北条早雲)から要請され三河国に出兵し、更に遠江の大河原貞綱にも頼られ出陣している。その度重なる動員で、主力兵力の伊那地方の農民社会が崩壊し貧窮化する。そこへ府中の小笠原長棟(長朝の子)が3年間に亘って執拗に介入し、天文3年(1534)小笠原定基はついに降伏した。こうして信濃の小笠原氏は府中の小笠原家に統一され、長棟は次男の信定を松尾城に配して、府中から伊賀良までの完全支配を達成した。

この数年後、小笠原長棟の跡を継いだ小笠原長時が、甲斐国から侵攻してきた武田晴信と戦うことになる。

 

 

 


諏訪大社・・・上社の歴史・第三章・付記・・ 南北朝の対立 その後の物語

2013-12-21 17:01:31 | 歴史

第三章・付記  ・・ 南北朝の対立 その後の物語

1、宗良親王が桔梗ヶ原の戦いで敗れ、南朝再興の夢破れて吉野に戻りますが、南朝吉野に宗良の居場所が無く、再び信濃の戻ったという説が存在します。この説と宗良親王の終焉を以下に掲示します。

・・・文中3年(1374)宗良64歳の時、吉野へ帰ります。
だが吉野は顔見知りであった、後村上天皇も、北畠親房も、四条資も、洞院実世もなく未知の顔ばかりであったという。長慶天皇も初対面であり、昔物語や歌会を頻繁に催して過ごしたが、寂しさは消えなかったという。
この間、南朝側の和歌を集めて「新葉和歌集」を編纂し、また自分の書きためた和歌を整理して詞書きをつけて「李花集」を編纂している。これで3年を費やし、天授3年(1377)信濃国大河原に帰る。
以後の消息は不明というのが定説であった。

なお、没地は大河原だろうというのが以前は一部の学者に支持されていた。
根拠は三宝院文書という資料に基ずくという。
戦国時代の天文19年、宗詢が文永寺で、宗良親王の和歌を書き写したものの詞書に「大草と申(もうす)山の奥のさとの奥に、大河原と申所にて、むなしくならせ給とそ、あハれなる事共なり」と記され、ここが親王の終焉の地とされています。この宗詢の詞書きも三宝院文書を基にしていると見られます。

昭和15年に、黒河内の溝口(現在伊那市、長谷溝口)より宗良親王に関する遺物と資料が発見されます。これにより、宗良な亡くなった場所がここではないか、と注目され始めます。また、幻の城とされてきた「大徳王寺城」も同時に脚光を浴びてきます。

伊那市教育委員会の資料を以下のそのまま記載します。

常福寺は永禄二年、来芝充胤大和尚を開山とし、高遠町勝間龍勝寺末寺として曹洞宗になる。以来六人の監寺(かんす、住職に替わる)をおき、明治になってから龍勝寺大願守拙大和尚(だいがんしゅせつ)を勧請開山(かんじょうかいさん、師を開山とした)として今日に至り、正住職五代目となる。
 以前のことは詳らかではないが、高遠領内寺院開基帳によれば溝口には松風峰大徳王寺と呑海和尚開創による真言宗常福寺の二ケ寺があったと記されている。現在の常福寺はこの二ケ寺を合祀したものと思われる。大徳王寺とは鎌倉時代末期、新田義貞により鎌倉を追われた執権高時の子時行が籠城し、足利尊氏方と四ヶ月に渡り対峙した「大徳王寺城の戦い」(1,340年)として伝わる難攻不落の寺城と言われている。
 興国5年(1,344年)信濃国伊那郡大河原(現在の大鹿村)に入り、約30年間にわたりこの地を拠点とした後醍醐天皇第八皇子宗良親王が南朝方諏訪氏と連携をとるため、秋葉街道を通い、当城を利用したとされる。明治の中頃、常福寺領「御山」と呼ばれる小山北側から円形の無縫塔(僧侶の墓塔)が見つかり、これには正面に十六弁菊花御紋章(南朝の紋)と宗良親王法名「尊澄法親王」と刻まれていた。その後昭和6年には当寺位牌堂から新田氏一族の位牌が発見された。昭和15年5月12日、常福寺本堂屋根改修中、屋根裏から僧形座像の木像が落下し、胎内から青銅製の千手観音像とともに、宗良親王終焉の様子と、宗良親王の子尹良親王が当地に御墓を作られ、法像を建立されたこと、親王に随従して山野に戦死した新田一族を弔うことが、大徳王寺住職尊仁によって記された漢文文書が発見された。すなわち「御山」は宗良親王の尊墓であり、この地が宗良親王終焉の地であると考えられている。御尊像はお袈裟から天台宗のものであり、宗良親王は天台宗の座主であったことから、宗良親王像と伝えられる。

大平城が危機に陥っている六月二十四日、時行は信州伊奈谷に旧臣を結集し、大徳王寺城に挙兵した。信濃守護・小笠原貞宗の対応はすばやく、数日にして城を包囲した。苦しい戦いを続ける時行のもとへ、宗良親王が訪れた。援軍を連れて来たわけではない。居城であった大平城が陥落し、保護を求めてきたのである。親王を迎え、城兵の意気は上がった。だが、現実は動かしようもなかった。北朝軍は、大軍をもって城を囲み、隙を見ては攻撃をかけ、時行を確実に追い詰めていったのである。落城が迫っていることを悟った時行は、親王を脱出させた。そして、籠城四ヶ月後の十月二十三日、大徳王寺城は落城した。

尊澄法「宗良親王」御木像

       指定  伊那市文化財(有形文化財)
           平成3年9月20日
       所在地 伊那市長谷溝口

  われを世に 在りやと問わば 信濃なる いなと応えよ峯の松風

 後醍醐天皇の皇子「宗良親王」は齢十余歳で尊澄と名付け天台坐主となるが、南北朝の争いのため還俗して宗良と名を改め、信濃の国を中心に戦いしかも長く住んでいたので信濃宮とも称せられ、父帝より征東将軍に任ぜられていた。しかし「不知其所終」という悲劇の皇子であった。
 昭和15年5月12日、当寺本堂の屋根修理中、屋根裏から大音響とともに厚い煤におおわれた僧形坐像の木像が落下してきた。像の背部には彫り込みがあり、その中から青銅製の千手観音と古文書が現れた。
 古文書の終わりの方には、元中8年に至り、尹良親王は大徳王寺に来り、父「宗良親王」のお墓を作られ法像を建立された。法華経を写してお墓に納め、また新田氏一族の菩提を弔うため金2枚をお寺に収め、桃井へ帰られたと記してある。
 御尊像が天台坐主であることは、お袈裟からも一目瞭然である。
伊那市教育委員会


御山の遺跡

          指定  伊那市文化財(史跡)
              昭和49年3月1日
          所在地 伊那市長谷溝口

 古来この丘を「みやま」と呼び、明治中頃までは老杉が生い繁っていた。御山に登ると足が腫れるといわれていたので、ここに近づく者はなかったという。 明治の中頃、御山北側の小犬沢で頭の丸い石碑とその近くにあった臼形の台石らしいものとを、沢に近い家の人が発見した。常福寺の住職に相談したところ、円形だから僧侶のものだろうといって寺の墓地に安置した。
 昭和6年5月20日、郷土史家「唐沢貞次郎」「長坂熙」の両氏が詳細に調査したところ、墓石正面に十六弁の菊花御紋章があり、その下に「尊澄法親王」その左側側に「元中二乙丑十月一日尹良」と刻んであるのを判読した。尊澄法親王は宗良親王の法名であり、尹良は宗良の王子であることが明らかにされた。
 その後区民は宗良親王の遺跡であると信じ、毎年春秋二回ねんごろに法要を営んでいる。
 御山の遺跡関連資料は常福寺本堂内に展示されている。
伊那市教育委員会

この発見された宗良親王に関して、歴史家の市村咸人氏は年代と資料の紙質などで若干の疑問を呈している。が、概ねこの発見で「大徳王寺城」と「宗良親王の終焉地」の長谷溝口説が有力になりつつあることが確認できる。
さらに、この溝口周辺が宗良親王の知行地の可能性が出てきている。・・資料は確認できていない。

以下は推論である。
宗良親王が「知行地」を持っていたとするならば、大変興味深い。今までの謎の多くが解明できるかもしれない。大草城に拠点を持ち、家族や子を持ち、小笠原守護に対峙して宗良の第一の随臣の桃井宗継の桃井城を前衛に、諏訪族の溝口を右翼に、知久家を左翼に、背後を香坂家に配した布陣の城は強靱であり、30年余の長きにわたり武家方(小笠原守護)に耐えたのは頷ける。また、各地に度々の合戦のため出陣するに都合の良い交通の、連絡にも都合の良い地点でもある。宗良の子の尹良親王が、宗良崩御のあと4年後に大徳王寺で法要し桃井に帰った、とあるが、この時桃井城はまだ健在であったのだろう。この後尹良は桃井宗継を伴って各地を転戦する・・浪合記。諏訪家か諏訪一族の誰かが溝口周辺を、知久家が生田を、香坂家が大草を割譲し、大草を中心に「知行地」か類する「疑似知行地」になった可能性は、かなり高くなる。これを認識すると、後醍醐天皇の他の皇子達と違った宗良像が浮かんでこないだろうか。各地に南朝の勢力拡大のために流転転戦して各豪族の城に入っても、所詮食客であり仮の宿りであろう。各地に出陣し戻り、また出陣しては戻れたのは、大草が、仮ではない拠点であることを本人が自覚していたのではないだろうか。文中3年(1374年)宗良64歳の時、吉野へ行きます。そして、和歌集を二つ編纂した後信濃へ戻ることは、大草か大河原かは別として、ここが自分の「故郷」だということを意識した結果だと思われます。他皇子と比べ長命であったこと、南信濃に30年余居続けたこと、などの疑問が解けた気がします。さらに言えば、知行地、領国の経営とは税の徴収と警察権の行使ですが、戦士の他に行政官が必要になります。この行政官が全員戦地に赴くことは到底考えられないので、宗良亡き後、この文官(行政官)達はこの地に散在して残ったと想像することは極めて当然に思えます。後にこの地に数多く残った伝承が物語っています。
大草、生田、長谷、大河原は宗良親王の歴史の宝庫です。
この地を現在の地名に直せば、中川村、松川町、伊那市長谷、大鹿村になります。
宗良親王が「知行地」を持っていた、とする資料は
「正平より元中年間まで黒河内の諸村は宗良親王の御領であった」・・「本邦武家沿
革図考」に基づく説であります。この文章は高遠町誌上巻(P351)にあり、偶然見つけました。南朝年号の正平は1346年から1369年までを指し、元中は1384年から1392年までを指します。宗良親王の没年が元中2年(1386)頃と思われます。


以下、気になっていて解明できていない点を列挙

至徳2年余年(1385)宗良親王崩御 中川村四徳との関係 至徳と四徳の関係

「南ア・赤石岳の大聖寺平」
赤石岳南麓には高貴な方の伝承が多い。南朝の宗良親王は伊那の奥地に幽居したという。また赤石岳北方の大聖寺平は良月親王を埋葬した場所とも伝えている。一説には親王の御守刀の大小(刀)を埋めたから大小寺平であるという人もあるという。そういえば大聖寺平は大小寺平とも書くという。
・・良月親王は宗良の子か?母は?


宗良親王の甲斐より諫訪に入り給ひしは此の道なるべし。次に御所平あり。これまた親王御駐輦所の口は正に其の中央に位す。溝口より東背 ... 然れどもそれを以て親王御終焉の地もまた大河の前望を上蔵の背後より宇津木峠の北方に展開するも可なるべし。
・・宗良親王の住まいと終焉の地は別所、地図上での確認

大徳王寺城址
 興国元年(1340、南北朝時代)に、北条時行(鎌倉幕府の執権北条高時の子、南朝側)がこの地に立てこもり、足利氏方の小笠原貞宗(北朝側)と4ヶ月にわたり対峙したと伝えられています。
 この城は山を背にし、三方を深い谷に囲まれ、容易に切り崩すことのできない難攻不落の城といわれていたのですが、遂には兵糧が尽き開落し、時行は後方の山中に逃れました。
・・北条時行の終焉の地は?

釜沢から小河内川を上った御所平は親王隠棲の御所と伝え、現在その供養塔である宝篋印塔が残り、「李花集」の詞書に「信濃国大川原と申し侍りける深山の中に、心うつくしう庵一二ばかりしてすみ侍りける…うんぬん」とあるのは御所近くのことと推定されています。

大河原ノ岳は、西麓信州側の大河原集落からの名前だそうです。南北朝時代、南朝の後醍醐天皇の皇子宗良(むねなが)親王が、南朝勢力挽回のため、北条時行、諏訪頼継、高坂高宗などを従え、しばしば赤石岳山頂に登って、足利氏調伏を祈願したという。

この地区の伝承を複雑にしている原因は、北条得宗家の遺子、時行の遺跡を御所と呼び、宗良親王の遺跡も御所と呼ぶ重複があり、さらに二人ながら同時代の同地区をを生きた足跡であるから、だと思います。
そしてこの時代、信濃では有力領主を四大将と呼び、小笠原、村上、諏訪、木曽がそれにあたり、室町前半・中盤は小笠原・村上と諏訪が、室町後半(戦国期)は諏訪・小笠原・村上と武田が対立し、震源の多くは諏訪神党が中心であった。

諏訪社の守矢文書では、度々「大草香坂」の名が見られます。大河原香坂でないことが気になります。
この項の締めは、幕末の志士、坂本龍馬が好んだという、宗良の和歌(李花集)を載せておきます。
・・「君のため 世のためなにか 惜からん、かぎりある身の いのちなりせば」


2,宗良親王の子尹良(・ユキヨシ)親王が幕府と対立関係にあった新田勢の残党に担がれて、各地を防戦しながら転戦したという説が存在します。この説は、新田勢の残党が、室町期を主に愛知県で生き残り、祖先の系譜と尹良親王と戦歴を伴にしたという戦記「浪合記」に記されています。「浪合記」の資料価値は、年代の不整合、地理名の距離の辻褄や誤記、親王という皇位継承権のある官名の裏付けの無さなどから、信頼性は乏しいものになっていますが、信濃南部、三河北部に残る伝承の多さから、実在は確かですが、経歴、事歴等の装飾や誇張は不確かなものとされているようです。そんな中で、宮内庁は、信濃浪合にある尹良親王の墓を、正式なものと認めましたが、、まだ疑問が多いことから、これを認める歴史学者は数が少なそうです。・・・以下に、当ブログの「浪合記」の現代語訳を掲示します。

・・・浪合記 訳文
浪合記は尹良(ユキヨシ)親王とその子良王の二人が主人公の戦記物語です。
時代は、朝廷が南北に分かれてから約60年経った応永四年(1397)の頃の物語です。新田一族の世良田正義は桃井宗綱と相談して、宗良親王の御子の尹良親王を上野の国(群馬県)に迎えました。
尹良親王は、(*1)信濃の国大河原の大草城で生まれた。母は香坂高宗の妹で、育ての乳母は知久敦貞の娘であります。。それから、尹良は吉野に行っては元服まで育ち、中納言・征夷大将軍・親王におなりになりました。
元中3年(1387)8月8日、尹良親王は源の姓をお受けになった。
その後、上野の新田、小田、世良田、桃井をはじめとし、遠江や三河の南朝に味方する人達が相談して、桃井貞識(サダモト)を吉野への使者として遣わして、尹良親王を上野の国へ迎えに行った理由であります。
尹良親王を吉野からお供した武士は、大橋貞元、岡本高家、山川重祐、恒川信規の四人であり、この四人を新田家の四家といいます。吉野からお供してきた公家庶流は、堀田正重、平野業忠、服部宗純、鈴木重政、真野通資、光賀為長、河村秀清の七人で、この七人を七名字と号します。南朝側の武士は、この計11家を吉野11党と呼んだのであります。この11党の人々は心から忠心し、その後ずっと、尹良親王を守護したのであります。
まず、西遠江の井伊谷井伊家、天野遠幹、秋葉家の兵たちがご旅行の間を警護し、駿河の国、富士谷・宇津野(富士宮市内野)の田貫の館(富士宮市猪之頭字長者原、田貫神社)に住んでいただいたのであります。
この田貫の館は田貫次郎のもので、もと富士浅間神社の神主だった人で、その神職を長男の左京亮に譲って宇津野に閑居していたが、次郎の娘が新田義助の妾だったので、その誼(ヨシミ)で親王を招き入れたのでした。
井伊道政は親王を宇津野・田貫に送ったあと、警護の兵を残して本国へ帰りました。
富士十二郷の者たちは新田義助に厚恩を受けていました。郷の者のうち、鈴木正茂、鈴木正武、井出正房、下方三郎、宇津越中守たちが、みんなで尹良親王を饗応して歓迎しました。

柏坂の戦い・・・
元中5年(1388)、宇津野を出発し、上野の国へ向かう途中、(*2)柏坂(足柄上郡山北町柏坂)で、北朝側鎌倉の軍勢が、宮様を襲いました。これに対し、富士十二郷の者の兵が宮を守り戦いました。尹良親王は鈴木越後の丸山の館(湯河原宮上丸山)に入り、桃井和泉守と四家七党が中心となり宮を守りました。敵は4日間丸山の館を取り巻いて攻撃したが、南朝側に、地方豪族が加勢味方するものが多かったといいます。桃井和泉守は500騎を連れて、北朝・鎌倉の大将である上杉重方と嶋崎大炊助の陣に攻めかかった。上杉軍は5000余騎あったが、真っ只中に切り込まれて追われ、途中上杉軍の長野安房守が討ち死にし、退却しました。桃井軍は深追いして上杉軍を追ったが、別動隊の嶋崎軍が桃井軍の背後を突こうと移動すると、桃井軍は上杉追撃と嶋崎防衛に勢力を二分せざるを得なかった。少数になった桃井軍の不利を知った南朝の大橋、岡本、堀田、平野、天野は200騎で急遽、桃井を助けに駆けつける。嶋崎軍は徐々に兵を退いて山浪?まで後退する。上杉軍は200騎を失い上一色(河口湖の旧名)に陣を敷いたので、桃井軍も丸山の館に戻りました。
丸山の館で、井出弾正少弼は鈴木越後に「新田一族の働きには、目を見張るものが有り、私も十二郷のものも驚かされました」と語りかけました。
越後守は「年寄りの言葉として、失礼を許してもらうなら、寺尾城へ行くという大事な目的があるなら、その為の守護護衛なのだから不必要な危険は避けたほうがいいのではないですか」と言いました。
それを聞いていた桃井和泉守は「鈴木殿のおしゃっている事は尤もです」「大人気なく、この桃井が鎌倉方に戦をしないのも無念に思い、また敵が逃げるのを面白がって深追いしました」と反省しました。
尹良親王は丸山を出て、甲斐の武田信長の館(韮崎、日の出城)へ向かいました。
その時の護衛に、宇津越中、下方三郎、鈴木左京、高橋太郎の軍のうち280騎を付けました。
そこから、さらに、上野の国の寺尾の城(高崎市茶臼山城 別称寺尾城)に移りました。
尹良親王が来た寺尾城に新田、世良田その他の豪族が集まりました。
応永19年(1412)4月20日、上杉憲定の軍が寺尾城に向けて来て、世良田政親を攻撃しました。政親は数回の戦闘のあと傷を負い、長楽寺(群馬県大田市世良田)に逃げ込み、そこで自害しました。次男の世良田親氏は、どうにか新田まで逃げました。
同年6月7日、北朝側の木賀秀澄は25人の農民に姿を変えた部下を連れて、底倉(箱根町底倉)に蟄居していた新田義則を夜陰に紛れて攻撃しました。義則は長く防戦していたが、耐えられずついに討ち死にしました。

上杉禅秀の乱・・・
応永23年(1416)上杉禅秀は名月ことよせて新御堂満隆のもとを訪れ、北朝の鎌倉方への謀反を勧めました。同時に武蔵、上野、下野の豪族に廻文を送って、鎌倉叛旗を促しました。時を待っていた新田、世良田、千葉、岩松、小田の各豪族は次々と反旗の旗を上げました。
桃井宗綱は上杉禅秀側に加わり、北朝の鎌倉方を攻撃し、江戸近江守を国清寺(伊豆・韮山)で打ち取り、荏原の矢口(東京都荏原、矢口)に高札を立てて、その首を晒しました。
高札・・
・・・「このたび、相州鎌倉国清寺に於いて、江戸近江守を討ち取った。その首を新田義興に奉るものである
・・・・応永23年丙申10月10日 桃井右京亮源宗綱」
実は、かって江戸遠江守は矢口の渡しで、船のみの「のみ」を抜いて新田義興を溺死させました。江戸近江守はその時の江戸遠江守の子であります
翌年応永24年(1417)1月10日、新御堂満隆と持仲の親族と上杉定禅の家来170人が北朝との戦いに敗れて、ことごとく自害する。
同年5月13日、武州入間川で、岩松大輔は中村時貞に捕まり殺害される。
桃井宗綱は剃髪して、下野入道宗綱と名乗るようになる。
(*3)応永30年(1423)、小栗満重が北朝鎌倉に背き、下総の結城に立て篭る。小栗に味方して桃井入道、宇津宮持綱、真壁義成、佐々木入道が合戦にくわわった。
しばらく経った8月13日に桃井は下野の落合(群馬県藤岡市上落合城山)に帰った。

宗良親王、信濃へ・・・

応永31年(1424)尹良親王を信濃の国にお連れすることになりました。

今までの四家七党に、上野、下野、武蔵から新田義一、世良田政義、世良田親季、世良田政親、桃井宗徹、大江田安房守、羽河景康、羽河景国、宇津宮一類、大岡重宗、宇津道次、大庭景平、熊谷直郷、児玉定政、酒井忠則、鈴木政長、天野遠幹、天野家道、石黒越中守、上野主水正、山内太郎左衛門、土肥助次郎、小山五郎左衛門尉が加わって、上野を出て、4月7日に千野頼憲の嶋崎城(岡谷市、別称岡谷城)にお着きになりました。
(*4)信濃国南朝側は、小笠原政季、千久祐矯ほか香坂、滋谷の一族が嶋崎城に来て尹良親王の旅の疲れを癒し慰めました。
ここで、尹良親王の子の、良王のことが話題になりました。四家七党のものと世良田、桃井の13人で良王を戦いの旅から外して上野の落合に返そうということになり、ここの13人と熊谷弥次郎、同弥三郎、桃井左京亮、宇佐美左衛門尉、開田、上野、天野、土肥、上田、小山らがお供して、落合に帰ることになりました。
8月10日、尹良親王は千野を出発し、三河に向かうことになりました。
ここで、尹良親王は和歌をお作りになっています。
・・「さすらへの 身にしありなば 住み果てん とまり定めぬ 憂き旅の空」
尹良親王はこの和歌を千野伊豆守に贈り、千野家では、家宝にしたと言われています。
尹良親王が以前三河に行ったとき、吉良の郷は、桃井義繁に恩のあるものたちが西郷正康をはじめ多く、三河の地で南朝側を集め、落合の良王と示し合わせて、宮方の残兵も集合させて、合戦しようと相談しました。
それで、千野の嶋崎城を出発し、三河に向かうことになりました。三河からは、久世、土屋など大勢が迎へにやってきました。
(*5)13日、飯田に向かう途中、杖突峠で賊徒が道を塞ぎ財宝を奪おうと集まり、あちこちの山より矢を放ちました。小笠原、千久の兵は、尹良親王を護り賊を破りました。

飯田から三河へ向かう・・・
浪合合戦・・・大野村(阿智村智里大野、現在の昼神温泉近く)から大雨が降り、道路が大河のように水が流れていた。夜半から風雨がさらに強くなり、あたり一面は全くの暗闇でした。
そこへ、駒場小次郎と飯田太郎という野武士が現れて、尹良親王に襲いかかりました。
下野宗徹、世良田義秋、羽河景康、同景国、一宮伊予守、酒井貞忠、同貞信、熊谷直近、大庭景郷、本多忠弘以下が懸命に防戦しました。賊は、いくら討っても斬っても、ここの地理に詳しく離散集合し、水の中や丘をを飛び回り、畦道などから矢を放ってくる。味方は天難もあり、運もここに窮まって、尹良親王を避難させることも不可能になりつつあった。大井田、一井も賊に討たれてしまいました。
下野入道と政満は山麓の民家に尹良親王の御輿を入れて、もうこれまでと自害をお勧めしました。
宮は残った者たちをお集めになり、「これまでの忠義は後世まで忘れません」とここまでお供した者たちに感謝を言って、ご自害なされました。
同時に、入道を始め主従25人も、各々自害し、家に火をかけ、ことごとく火中に亡んで行きました。
政満は遺言を守り持って、この難中を逃れ上野国に帰りました。

尹良親王 自害・・・
時は往永31年(1424)8月15日
(*6)信濃国浪合にて尹良親王自割。
この場所を宮の原と呼ぶ。
討死の死骸を埋めた塚を千人塚と呼ぶ。
ここは、信濃国浪合の(*7)聖光寺にある。

合戦討死名と法名・・・
大龍寺殿一品尹良親王尊儀(後醍醐天皇孫)
大円院長(一字ヌケ)宗徹大居士(桃井入道宗綱)
智真院浄誉義視大居士(羽河安芸守景庸)
依正院義傅道伴大居士(世良田義秋)


良王伝・・・
良王の父は尹良親王で母は世良田政義の娘で、上野国寺尾城でお生まれになりました。そして、正長元年(1428)に寺尾城から下野国三河村の落合城(前橋市三河)に移りました。
永享5年(1433)良王は寺尾城を出発して、信濃国に向かう途中、笛吹峠で北朝の上杉軍が追ってきて合戦になりました。良王は木戸河内守の城に立てこもり、防戦します。
同年5月12日、木戸の城を出て、木曽の金子の館(?不明)へ行ってしばらく滞在します。そのうち、千久五郎が迎えに来て、伊那の千久城(知久城、飯田市下久堅知久平)にお連れします。
同年冬、世良田政義と桃井貞綱は四家七党とも相談して、良王を尾張の津島にお連れすることを決めます。
同年12月1日、まず三河に向かい、途中浪合に到着します。

浪合合戦2・・・
浪合では、先年尹良親王との戦いで、駒場小次郎と飯田太郎が討死しており、飯田や駒場の一族郎党が「宮方は親兄弟の仇、討ち取って供養にしよう」と待ち構えて、良王を取り囲みました。
桃井貞綱、世良田政親、児玉貞広らが浪合の森から反撃し、賊徒130人くらいを討ち取ったが、戦闘は終結しませんでした。
翌日も朝から夕方・夜半(酉刻から亥刻=PM6:00~PM12:00)まで戦いは続き、その間の良王を合の山(平谷?)まで避難させました。激闘は宮方にも被害が多く、桃井貞網、児玉貞広、野田彦次郎、加治監物以下21騎が戦死しました。
3日目、桃井満昌が合の山にいた7、8人の子供に「浪合の合戦はどうなったのか」尋ねたところ、
子供の一人が「自分は浪合近くの村に住んでいますが、昨日浪合近くの民家に武士が大勢駆け込んで腹を切りました。大将も腹を召されたそうです。」と答えた。
満昌が続いて「その腹を切った者たちの遺骸はどうなったか」尋ねると、
子供は「武士たちは切腹したあと、家に火をかけました。」「風が烈しく吹いていたので、浪合の街は焼け失せてしまいました。」「今朝近くを通ったら、一文字の笠印、一番の笠印や樫木瓜の紋をつけた兵たちが、焼け跡を探して、鎧や太刀の焼けた金具を拾っているのを見ました。」「可哀想なことです。」と語ったといいます。
満昌が良王に報告すると、良王は早速大橋修理を呼んで、満昌とともに、平谷から浪合まで出向いて、討死の者たちを弔わせた。満昌と定元(大橋)は、ともに涙を流し、同朋を悲しんだといわれています。
ちなみに、一文字は世良田の、一番は山川の、木瓜は堀田の紋であります。
ある家の蔀(しとみ=跳ね上げ式格子戸)に世良田政親の辞世の歌が置いてありました。
・・「思いきや 幾世の淀も しのぎ来て この浪合に 沈むべきとは」 
定元は、討死の死骸を集めて、浪合の西の寺の僧に頼んで埋葬し、夕暮れに平谷のの陣所の戻った。満昌は、敵の首を晒した。良王は政親の辞世に涙を流し、お供の者たちも慟哭し、声は天地を揺るがした。
5日、三河国鳴瀬(=成瀬)村につくものの、村人が疑ったので村に入れなかった。
そこで、満政の領地の坂井郷に行き、正行寺を頼り、良王はここに45日居て、尾州津島にある大橋定省の奴野城に行くことになる。

良王君 没・・・
明応元年(1492)3月5日、逝去。御年78歳。瑞泉院と号す。同3年3月5日、天王社の境内に社を建て、御膳大明神と名前をつけて、祀る。

以下は、尹良親王と良王に伴って、各地を転戦した者たちの、その後を記した記録と逸話であるため、省略する。

追記、愛知県津島市津島神社に、天王祭という祭りがあります。この天王祭の祭りの由来故事に、良王と四家七党の出来事があり、始まったとされています。

参考  

南北朝動乱期の抹殺された宮将軍・尹良親王 - ucom.ne.jp




参考・異説
(*1)尹良親王の生誕と没年を書から推定すると、官名などを貰ったときが元服の時とすると、1387年(元中3年)で、15年前が生誕で1372年、没年は1424年(応永31年)で52歳の生涯と言うことになる。宗良親王が井伊谷に住んだのは、1338年から1340年の2年間であり、これを記す書は複数であることから、34年余の差は不自然であり、「遠江の国井伊谷の館でお生まれになりました。母親は井伊道政の娘でございます(*異説が多い)」は支持しがたい。もちろん井伊谷で子供が生まれていた説は否定しないが、この子が尹良親王の可能性は、ほぼない。だが、宗良親王は、1374年から1377年まで吉野に戻って新葉和歌集など編纂している。宗良親王64歳の時の吉野帰還である。宗良親王の62歳の時の子供というのも多少無理もあるし、「親王」の認知官名も多少無理がありそうで、疑問。以上を踏まえた上で、一番辻褄のあう説に書き換えてある。
(*2)迦葉坂?との説もあるが、足柄上郡山北町柏坂のほうが理に叶う、丹沢ダム付近。
迦葉坂は駿河と甲州を結ぶ富士川沿いの街道で、付近に丸山に地名はない。また一色(河口湖)村へは直線距離で50Kmになり、まして箱根の険の山岳道で、戦ったあとの退却ではたどり着けない。
(*3)これは、有名な結城合戦とは、発生年代と参加者名簿が違うことから、異なっているようです。
(*4)小笠原政季、千久祐矯、は小笠原家系図、知久家系図ともに見えない。さらに、知久氏はともかく、小笠原家は、ガチガチの尊氏派・北朝側であり、別流の小笠原家の存在が確認されないところから、信憑が薄い。
(*5)ここの場所は、諏訪神社の御神体山の守屋山で諏訪神党の聖域であり、本来は南朝の勢力圏で、秋葉街道(一部杖付き街道)で、一ノ瀬氏(南朝側)、香坂氏(南朝側)、知久氏(南朝側)と続く南朝の道と呼ばれています。少し不自然に思えます。
(*6)文中は大河原だがこれは誤記、浪合とその周辺に大河原の地名はありません。大河原と浪合はともに長野県下伊那郡内ですが、北東の端と南西の端で地図上の直線で約60km、赤石山中と木曽山中に分かれます。当時の装備と歩行では2日以上かかります。
(*7)聖光寺は存在しない。
浪合に堯翁院(ギョウオウイン)がある。もと浪合宿の南町裏にあったが、戦国時代に戦火で移転し現在の地に移った。正式には尹良山(インリョウザン)堯翁院と称す。山号は尹良親王に由来する。建立年は1577年だが、これは移転した年である。
尚、尹良親王の遺跡は浪合神社として宮の原にある。
(**)同じ場所で、親王親子が、同じように賊に二度も襲われたことに疑問を持つ研究者がいます。良王のお伴で討ち死にした者を葬った場所・寺(西の寺)は確認されていません。

あとがき・・・
浪合記は偽書とされることが多い。理由は、歴史の事象で確認されている年代と違っていることが多い点、地名が辻褄にあわない箇所散見される点、中世の当時の政治状況で説明が無理な点、などであろう。
読んで明らかなことは、南朝の宗良親王、尹良親王、良王に忠臣した、四家七党の忠誠心の証明と彼らの一族の正当性を、語り継がれた伝承をもとに、後世に戦記化したというのが、本当のところだろう。
尹良親王は実在した可能性の方が高いが、吉野朝から親王を認められたかは、証拠もないし可能性は低い。
このことを踏まえたうえで、戦記ものとしての価値はあると思う。良王は浪合記以外の書では確認できていない。

なお、この文は、発見されている事跡から合理的とおもわれる説に、自称の官名を可能な限り外して人名としたこと、多少文脈から前後を入れ替えたことなどで、読みやすくしてあります。  

なお、この時期と重複する、結城合戦(1440)の時の「結城陣番帳」に記載されている小笠原守護下の豪族の名前を確認すると、南朝の主力部隊を構成した名前がかなり多い。この時点では既に、反幕府から幕府側=小笠原守護家の組下になっていたと思われる。主なところでも、諏訪信濃守、香坂氏、知久氏、藤沢氏、保科氏、海野氏、井上氏などが南朝側から離反していたことが覗われる。

・・・当ブログ、「伊奈忠次(関東代官頭)の伊奈の由来!?・・・」参照

 

なお、尹良親王を奉じて、各地を転戦した、新田義貞の一族の残党、世良田氏は、元は上野(群馬県)の新田荘(太田市)の利根川沿いの世良田地区の出であろうと思われるが、三河の山岳に逃れて松平家の養子になり、やがて勢力を蓄えて徳川と名を改め、天下を取った家康に繋がると言われる。

ちなみに、三河は、足利高氏の守護国であり、同族の今川氏や吉良氏が守り、中先代の乱で、北条時行に敗れた足利直義が三河まで逃げ、ここで高氏の出場を待ち、兵力を増強して鎌倉へ反攻した拠点である。状況を眺めてみると、三河の平野部分が足利家の荘園で、山沿いの部分は南朝側だったようだ。

 


 


諏訪大社・・・上社の歴史  第三章 室町時代 南北朝の対立

2013-12-20 02:52:00 | 歴史

 

第三章 室町時代 南北朝の対立

南北朝時代・・・中先代の乱に北条派と結んだ武士たちは、南朝に帰順して信濃宮方として武家方=信濃守護と対立した。その中核になったのは、諏訪上社の諏訪氏・下社の金刺氏で、それに諏訪一族の藤沢氏、下伊那の香坂氏、祢津・望月・海野ら滋野一族らが加担した。以後、信濃国は南北朝の対立を軸とした新しい局面を迎えることになるのである。
大徳王寺城の戦い・・延元三年(1338)の秋、宗良親王が遠江に入り、これに呼応して北条時行が伊那郡大徳王寺城に拠って兵を挙げた。この挙兵には、諏訪頼継や伊那の武士たちも加わった。しかし、小笠原貞宗の攻撃を受けて城は陥落、この敗戦は信濃のみならず近隣諸国の宮方軍にとって大きな打撃となった。
康永三年(1344)、宗良親王は伊那に入り香坂高宗の拠る大河原に身を寄せた。以後、三十一年間にわたって大河原を拠点に宗良親王は活動を続けた。
桔梗ヶ原の戦い・・文和四年(1355)八月、桔梗ヶ原で守護方に決戦を挑んだ。この戦いに、諏訪・仁科氏ら信濃宮方も参加して奮戦したが、宮方勢は完敗して再起不能の状態に陥った。その後も宗良親王は大河原にあって頽勢挽回に尽とめたが、ついに文中三年(1374)、再起の夢破れ寂しく吉野へ帰っていったのである。桔梗ヶ原の敗戦によって信濃の宮方勢力は駆逐されたが、その後は次第に強まる守護の領国支配に抵抗する、国人領主たちと守護との対立が表面化してくるのである。 

信濃争乱の幕開け・・・南北朝時代は、国人たちが領主的発展を推進しようとして、荘園・国衙領を押領することが多かった。守護はこのような国人の荘園強奪を抑止し、国人を統制するため幕府=守護の支配秩序を確立しようとした。その必然的な結果として、守護と国人との対立関係をきたしたのである。その対立は武力闘争に発展し、しばしば国人と信濃守護との間で合戦が繰り返された。

もう少し、諏訪神党と信濃武士が関わる部分を見てみよう・・・

興国3/康永元年(1342)、南朝の北畠親房の拠点とする常陸で混乱が送った。この常陸国の戦いに、信濃守護小笠原貞宗が、尊氏の命を受けて、市川親房ら信濃武士を引き連れて、幕府軍の高師冬の軍に参戦している。この時南朝軍の北畠親房は脱出して吉野へ逃れ、関宗佑親子は戦死している。その後、吉野を出た宗良親王と北条時行は、伊勢から船で、東国へ侵攻したが嵐に遭い幸運にも遠江に漂着した。そこで遠江の井伊道政の井伊谷城を根拠地とするようになった。やがて、各地を転戦してあと宗良親王は信濃にたどり着く。信濃国内も南北朝の動乱が激化する。その中心人物が、南アルプスの麓の大河原に籠城した宗良親王であった。宗良は大河原で征夷大将軍任命された親王で、上野宮や信濃宮とも呼ばれていた。・・・宗良親王は、興国元年(1340)、井伊城に居たが高師泰の攻撃で落城した。北条時行は、それ以前に井伊城を去り東国へ向かっていた。

大徳王寺城の戦い・・・ところが、宗良は、同年6月24日、信濃国大徳王寺城(伊那市長谷)において時行と諏訪上社大祝諏訪頼継らが挙兵したと報らされ、そこへ逃げ延びてきた。「守矢貞実手記」は・・・「暦応三年(興国元年)〈戊/寅〉相模次良殿、六月廿四日、信濃国伊那郡被楯篭大徳王寺城、□大祝頼継父祖忠節難忘而、同心馳篭、当国守護小笠原貞宗、苻中御家人相共、同廿六日馳向、七月一日於大手、数度為合戦、相模次良同心大祝頼継十二才、数十ヶ度打勝、敵方彼城西尾構要害、為関東注進、重被向多勢、時□難勝負付、雖然次良殿、次無御方、手負死人時々失成ケレハ、十月廿三日夜、大徳王寺城開落云々」と記す。・・・ 26日、信濃守護小笠原貞宗は家人を率いて信濃府中から馳せ向かい、7月1日から城の大手を数度攻撃した。大祝頼継は弱冠12才であったが、数十回打勝ち、ために貞宗方は西尾城に要害を構え、鎌倉府に注進し援軍を願った。武家方の援軍が度々来着したため、時行も奮戦を重ねたが、元々寡兵で援軍もなく、次第に手負い死人が生じじり貧となり、10月23日夜、城門を開け落延びていった。高遠氏は、この時の大祝頼継の嫡男貞信(信員ともいう)を始祖とする。・・・これが、大徳王寺城の戦いの概容である。

そのあと、宗良親王は、越後国、越中国に落ち延びていったが、興国3年(1343)、再び信濃国に入り、翌年信濃の伊那山地深い大河原(大鹿町)を支配する香坂高宗に迎えられ反撃の準備を始めた。その頃信濃は、在所武士が荘園を浸食しており、北条氏の旧領の争奪も重なり、南北両朝諸勢力の争いが激化した。宮方は、諏訪上社の諏訪氏、下社の金刺氏、上伊那の知久・藤沢ら諏訪一族、下伊那の香坂氏、佐久・小県の祢津・望月・海野ら滋野一族、安曇野の仁科氏で、武家方は、松本・伊那が拠点の守護小笠原氏、更級・埴科・小県郡塩田荘の村上信員、水内・高井の高梨経頼、佐久の大井光長・伴野氏であった。

 宗良は信濃に南朝の一大拠点を築こうとした。大河原は山稜に囲まれた天然の要害で、以降宗良はこの大河原と大草(中川村)を拠点とし、「信濃宮」または「大草宮」といわれた。

 正平7/文和1年(1352)、足利氏の内訌・観応の騒乱に乗じて、南朝軍の武力行動が各地で激化、宗良は征夷大将軍となり、信濃国の諏訪氏、滋野氏、香坂氏、仁科氏らを率いて、越後国方面へ出陣し足利方の上杉憲将を追撃した。さらに足利尊氏が弟の直義を毒殺したのを受けて、東国に身を潜めていた新田義貞の子義興、義宗や脇屋義治、奥州の北畠顕信と共に碓氷峠を越え武蔵国へ進出した。鎌倉を攻撃し、一時占拠すると再び足利尊氏追討の旗を揚げた。しかし間もなく人見原(府中市浅間町)・金井原(小金井市前原)で尊氏に敗戦を喫し、小手指原(所沢市)でも敗れ、鎌倉を落ちて越後国に逃れた。

 正平8年(1353)11月、越後で宗良親王は新田義宗・義治と挙兵し和田義成と戦うが、小国政光に敗れている。翌年も宇賀城を攻めるが、和田義成・茂資に敗れた。正平10年(1355)、宗良は越後国を不利と判断して退去し、再び信濃国の諏訪に入り、南朝後村上天皇方(後醍醐天皇の後継)の再結集を計策した。その拠点信濃を固めるために諏訪氏、金刺氏、仁科氏を率いて府中へ進軍を開始した。幕府側との対決である。戦闘は桔梗ヶ原(塩尻市)で行われた。結果、宗良親王は守護小笠原長基と戦い敗れたため、以降信濃の南朝方は急速に衰退する。その後も宗良は信濃で体勢挽回を図るが、この敗戦は・・・諏訪下社の金刺氏の不参加、戦争途中で仁科氏などの離脱があったという。敗戦は信濃国南朝方には致命的となり、南朝軍の中核の諏訪氏なども、その後離反していった。後年再び信濃国で挙兵しようとしたが適わなかった。正平23年(1368)には、新田勢の義宗が敗死し、義治は出羽に逃亡して越後新田党が消滅している。応安7年(1374)、宗良はついに信濃国での抵抗をあきらめ、吉野に落ち延びていった。こうして30数年間に亘る信濃国を中心とした宗良親王の闘争は報われる事なく終わった。室町幕府は3代将軍義満の時代で盤石となり、もはや武家はもとより朝廷・山門といえども抗えようがなかった。

大塔合戦・・・応永七年(1400)、小笠原長秀が信濃守護職に補任。長秀は京都育ちの貴公子然とした人物で、信濃の在地情勢に対する状況把握も甘かった。都風な装いで善光寺に入った長秀は、挨拶にきた国人たちに不遜・尊大な態度で接し、おりから収穫期にあたる川中島に守護使を入部させるなどして国人たちの領主権を脅かした。このような守護長秀の態度に不満と不安を募らせた国人たちは、応永七年九月、村上満信・大文字一揆・高梨勢らを中心として蜂起した。・・国人連合軍と守護軍は篠ノ井付近で激突し、守護方は散々に敗れて、小笠原長秀は命からがら京都に逃げ帰り守護職を解任された。これが、「大塔合戦」とよばれる戦いである。この乱に諏訪氏自身は参加していなかったが、有賀美濃入道が、上原・矢崎・古田氏ら三百余騎を率いて国人方に参陣し、大塔古要害の大手口を攻めたことが『大塔物語』に記されている。・・・大塔物語

結城合戦・・・乱後、信濃は幕府直轄領となり、国人領主たちは自立化の道を進もうとしたが、幕府軍によって次々と制圧されていき、信濃国は室町幕府体制に組み込まれていった。その間、小笠原氏は勢力を回復し、上杉禅秀の乱」に活躍した小笠原政康が信濃守護に返り咲いた。そして、永享の乱(1439)後の「結城合戦」には信濃国人を率いて出陣、信濃国人は守護小笠原氏に属して結城城攻撃に加わった。この結城合戦に、諏訪氏も代官として諏訪信濃守を送っており、信濃一国は小笠原政康のときに守護権力による統一がなったのである。

 

 

 


諏訪大社・・・上社の歴史  第二章 室町初期 中先代の乱

2013-12-18 16:03:37 | 歴史

・・・諏訪大社・・・上社の歴史  

第二章 室町初期 中先代の乱

後醍醐は元弘3年 / 正慶2年(1333)隠岐島から脱出し、伯耆船上山で挙兵する。これを追討するため幕府から派遣された足利高氏(後尊氏)が後醍醐方に味方して六波羅探題を攻略。その直後に東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させる。

・・・後醍醐天皇像

・・・北信濃から鎌倉に出仕した保科氏は、御家人としてあったが、鎌倉信濃武士の棟梁としての諏訪盛重の存在が大きくなると、盛重に同調して行動するようになった。そして星霜を過ぎて得宗家滅亡の時が来ると、保科氏は諏訪盛高と一緒に、亀寿丸を隠して逃げ、諏訪にたどり着いた。以後、保科氏は、亀寿丸を隠して育てる当事者になる。その地域は上社神領の一部であり、その神領の一部は、亀寿丸の育ての経済の支えであった。亀寿丸が成人し時行と元服して中先代の乱の旗頭に成り、敗れた後大徳王寺の戦いで時行が逃亡して去ったあとは、保科はその頃同盟した宗良親王の庇護者になった。・・・白州松原の伝承や、時行や宗良親王の隠棲場所や、高遠家の祖の諏訪頼継と保科の関係性を想像すると、導き出されたストーリーは、あながち棄て去ることはできない。しかし全て状況証拠ばかりで、断定するには証拠が足りない。この保科氏は、正俊、正則、正光の系譜の保科とは別系流です。

このようにして諏訪氏は北条氏との関係を背景に勢力を築き、最後まで北条氏に忠節を尽くすことになった。そのことは、鎌倉幕府滅亡後も、神党は旧北条派の中心勢力として各地に転戦したことからも知られる。・・・中先代の乱、南北朝の内乱と続きます。

南北朝時代・・・元弘三年(1333)、北条氏の滅亡で、後醍醐天皇による建武の新政が開始。しかし、それは公家たちによる時代錯誤が多く、公正を欠き、多くの武士が反発した。そして、新政に対する反乱。・・・そのほとんどは北条氏が守護を務めた国とか、北条氏の旧領で発生した。そのなかで、最大の反乱が建武二年(1335)、「中先代の乱」である。しかし、信濃ではそれ以前から北信と中信で反乱が起こっていた。

信濃で北条残党の反乱が続出したのは、信濃国がかつて北条氏の守護任国であり北条政権の強力な基盤になっていたこと、諏訪氏を中心とした諏訪神党という有力な武士団が形成され北条氏に忠節を尽していたことが挙げられる。さらに、北条氏滅亡の際、北条高時の遺児時行が諏訪社大祝のもとに匿われてていたことがあった。

中先代の乱・・・北条得宗家の時代への復古を目指した戦い・・・建武二年(1335)、時行を擁して挙兵した諏訪頼重は府中に攻め入り、国衙を襲撃して国司を自殺させ、東信を経て上州に進撃。その間、各地から馳せ参じた武士団でたちまち大軍となり、その勢いで武蔵国に攻め入った。中先代軍は、女影原・小手指原・府中などで足利軍を撃ち破って鎌倉に迫り、足利軍を一掃して鎌倉を制圧した。しかし、中先代軍の鎌倉支配も尊氏の巻き返しで、わずか二十日間で瓦解した。以後、時行は連戦連敗して敗走し、諏訪頼重とその子の大祝時継らは自殺して中先代の乱は終熄した。
しかし、信濃ではその余波で、小さな反乱が続いたが、尊氏党の信濃惣大将である村上信貞によって鎮圧されていった。信濃守護小笠原貞宗も国内を東奔西走し、中先代軍の残党を掃討した。

この頃の大きな流れは、上記のようですが、諏訪大社の諏訪一族はどのように関わっていったのでしょうか。勿論、中先代の乱も、南北朝争乱も、諏訪一族はその中心にいました。一貫して反政府側、反幕府側で活躍します。信濃国に限れば、反守護小笠原家、反村上一族と言うことになります。その部分を具体的に掘り下げてみます。

・・・この頃諏訪上・下社領は、信濃一国中の荘公領に田地をもち、それぞれの大祝一族が、北条得宗家当主のもっとも信頼できる御内人として仕えていました。諏訪大社領全体が、得宗家の家領に組み込まれていたようです。社頭で催される流鏑馬は、信濃国内の地頭御家人が、こぞって勤仕することになっていました。上社に残る嘉歴4年(1329)の御射山祭の記録には、14、5番の流鏑馬が奉納されて、北条氏一門のみならず鎌倉中のの有力者も勤仕しています。この盛儀には、信濃守護重時流北条氏といえども、主宰者たりえず、他の御家人と共に流鏑馬の役を勤仕するだけです。・・・諏訪頼重も北条家御内人であり、親政の北条領地召し上げの政策で没落の危機にあり、これを打開する方法はただ一つ、幼少の亀寿丸を擁立して、北条家の復古を自らの手でおこなうことでした。亀寿丸は、10歳前後の身でありながら、諏訪神社を中心として信濃の武士団が結成する諏訪神家党に擁立され挙兵します。 この時、相模次郎北条時行と名乗っています。・・・これとは別に北条の系流の越中守護だった名越時有の息子・時兼は、北国の大将と称し越中、能登、加賀で軍勢を集めます。時兼は集めた3万騎を率いて京を目指します。しかし越前、加賀国境の大聖寺で敷地、上木、山岸らの国人衆が上洛の行く手を阻み、名越勢を殲滅します。しかしその波紋は信濃にも及びます。この北陸戦から、中先代の乱が勃発するのです。
 7月上旬、上社の前大祝諏訪頼重と子の大祝時継は相模次郎(時行)を押し立てて軍勢を招集し、信濃に幕府再興の狼煙をあげます。この時、北条氏系の佐久の諸氏や小県の諏訪氏系の望月、海野、弥津、滋野などの豪族が集結します。しかし幕府方の信濃守護小笠原貞宗は強軍を持っています。。諏訪頼重は北信の保科(弥三郎)、四宮(佐衛門)に小笠原軍の背後を襲うように要請します。 千曲川の大草原、八幡原で保科・四宮軍と小笠原軍は戦います。激戦は数日間。勝敗は決しません。この地方はかって得宗家の領地でした。保科・四宮両氏はその代官であったので、それで敢闘な交戦となったのです。・・・ 
 7月舟山郷の青沼周辺で、市河氏と北条方の軍勢が戦っています。 これにより戦機を得て、北条遺臣軍すなわち中先代軍は、まず北上し守護小笠原貞宗の軍を埴科郡内で敗走させ、府中で国司博士左近少将入道を自害させ、ほぼ信濃国の過半を支配下に入れ、信濃の諸族を参軍させると、その矛先を東に変え、鎌倉に向けて突き進みます。・・・小笠原貞宗は幕府側の信濃守護となり、北条氏遺領の伊賀良荘を守護領とし、建武年間、その居館を松尾(飯田)に置きます。後に府中南郊の井川(松本)に移し、小笠原氏発展の基を築きます。伊賀良の荘域は、最初は飯田近郊でしたが、その後拡大します。・・・
 以後、諏訪氏と小笠原氏との戦いは、長く執拗に続きます。 時行、頼重の軍は途中で諸勢力を糾合し、膨張して2万の大軍になります。上野国に入る際や武蔵国で幕府軍を破ります。・・・瞬時に、足利一族の建武政権軍を破った中先代軍は、破竹の勢いで鎌倉を奪還します。北条時行は、ついに祖先の繁栄の地に辿りつきます。
時行は正慶の年号を復活させ、幕府再興を宣言します。足利直義は三河国に逃れ援軍を待ちます。 諏訪頼重・北条時行の行軍は、新田一族の上野国の領地を縦断しているはずですが、新田勢の抵抗は全く見られなかったのです。つまり、京での新田義貞の微妙な立場は、そのまま上野の新田支族たちの立場でもありました。反北条ではあるけれど、現在鎌倉にいる足利家は、新田の上に君臨しようとしています。  そういう気持ちが、彼らに中立の立場をとらせたのです。足利と新田の対立が、頼重北条軍をここまで強くした要因でもあったのです。諏訪頼重の大軍は、3年前に新田義貞が挙兵し鎌倉を落とした進路と全く同じ道をたどり鎌倉を制覇したのです。のちに中先代の乱と呼ばれた戦いでした。・・・鎌倉幕府を先代、足利氏の室町幕府を後代と位置づけし、その中間ですから中先代。中先代は室町政権が確立された後に付けられた呼び名です。・・・

 


諏訪大社・・・上社の歴史  第一章 平安期から鎌倉期

2013-12-14 23:49:31 | 歴史

諏訪大社・・・上社の歴史

 第一章 平安期から鎌倉期

諏訪大社という神社の内部対立のことを、諏訪の内乱と銘打って、内訌のこと、小笠原一族の坂西家のこと、下社の金刺家のこと、高遠家のことと分けて書いてきましたが、諏訪家の対立の通史を解析してみます。当然ながら、重複した箇所が出てきて、冗長になることは覚悟の上ですが、さらに付け加えるならば、小笠原家三家の対立の構造も片手落ちに成り、不完全なものになってしまうのは分かっています。この両勢力はある時期複雑に絡み合いながら歴史を進展させ、この対立の消耗戦は両系統の体力を消耗させながら、甲斐武田の軍門に下ることになっていきます。

さて、諏訪大社の上社と下社が明確に分離してくることから始めます。この部分は何度おさらいをしても、よく理解出来ませんが、平安時代の頃両者は別れてきます。

それは、下社の方から、金刺系図をもって登場してきます。その祖は金刺舎人という人で、この舎人の系譜にある貞継が始めて下社の大祝を名乗ります。この貞継は大祝になってから金刺宿禰姓を賜ったとあり、彼の兄は太朝臣の姓を賜ったとあります。そして源平時代に、源(木曽)義仲に従って活躍した手塚別当金刺光盛という人物が「平家物語」に登場しております。「金刺系図」によると、次ぎに出てくる大祝は盛継で、別名を「諏訪太郎太夫」とあります。続いて、盛重、盛高、重願、盛径と続きます。「尊卑分脈」をみると、源氏の系流の満快流の系図のなかに、手塚太郎信澄、その孫に諏訪太郎盛重、盛重の子に諏訪太郎左衛門尉盛高その弟諏訪三郎左衛門尉盛経が見え、この二つの系譜は重なっているようです。ここら辺は、よく理解が出来ない部分ですが、同じ人が金刺を名乗り、手塚も名乗り、諏訪も名乗っていた、と言うことのようです。更に清和源氏の満快流の系図にもなって、源氏との関係をもうかがわせるものとなっています。これを、無理矢理理解するとすれば、諏訪下社の神官の姓は金刺氏であり、木曽義仲に臣下して転戦した武家の方は、同族ながら手塚とか諏訪太郎とか名乗っていたのではなかろうか、と整理します。

・・・清和源氏満快流。源満仲の五男源満快を祖とする信濃源氏。満快の曾孫為公が信濃国を受領(ズリョウ)して伊奈箕輪の上の平に住む。この頃金刺家の大祝諏訪敦光と源為公の子が婚姻して、子の敦俊が知久沢に住み、知久を名乗る。以後この両者の系流は、伊奈を中心に地方に拡散し、武家の時は信濃源氏を名乗り、普段は諏訪神党を名乗る様になる。彼等は知久氏をを始めとして、中津乗氏、伊奈氏、村上氏、依田氏、片桐氏、大島氏、堤氏などに分かれ、主に南信濃を中心に勢力を持った。知久氏以外は諏訪家の血筋であるかどうかは不詳であるが、彼等は同族の意志を維持し続けて行動も共通するようだ。・・・

一方、上社の方はこの頃名乗る姓は見つけられません。上社の初見の大祝は乙頴で、名前は神子といい、また熊古ともいったと書にあります。恐らく読み方は、「くまこ」であろうと思われますが、苗字とは思えません。上社の方は、俗世とは別の世界にあるようです。
大祝乙頴は「隈志侶」・・くましろ・・とも呼ばれ、この頃は通常、神を「くま」と呼んでいたようです。
・・・やたらと「当て字」だらけで読み当てるだけでも一苦労です。

とにかく、上社・下社とも大祝が出現するのは(文字として登場するのは)、平安末期からのようです。従って上社、下社がお互いを主張し始めるのはこの頃からのようです。

諏訪氏の武装・・・
諏訪上社の大祝が諏訪氏を称し、武士化していったのは他の武士と同様に平安時代末期のころと思われる。諏訪大社は、この頃から軍神の扱いを受けており、諏訪神を祀る諏訪大祝と一族も武士団として成長していったものと思わます。先に見たように諏訪上社の諏訪氏は「神氏」で、下社の諏訪氏は「金刺氏」といわれています。先述のように、古代において金刺氏の名は見えるが、諏訪氏(神氏)の名は見えない。諏訪氏と一族は「神氏」とか「神党」などと称されるようになるが、鎌倉時代の後半で、文永八年(1271)『笠原信親證文目録』に「左衛門尉神信親」とあるものが初見で、以後、次第に神氏を称するものが増えてきます。諏訪社の神官の姓は、上社・下社ともに金刺氏であり、鎌倉時代以前は諏訪社の所領は「上下社領」であり、神社としては上・下に分かれていたが、所領は完全には共有であった。
それが、鎌倉時代に入ると、上社・下社に分かれた史料が増えてくる。『神氏系図』によれば、有員から十六代目とされる為信は子の為仲を「前九年・後三年の役」に源義家の軍に従わせたという。その後為信の子の代から庶子家が分出するようになり、のちに神党と称される武士団に発展していくことになる。また、上社諏訪氏では大祝は、諏訪郡の外に出ないという定めがあり、「保元・平治の乱」「治承・寿永の乱」の戦いには、子息や一族が大将となって出陣したという。

信濃の諏訪上社も、頼朝時代から将軍家領であった。社家諏訪氏が北条得宗の家臣(御内人)になり、続いて北条氏領となったようだ。北条氏の信濃支配の要点は、大祝をはじめとする諏訪武士団の家臣化である。

北条得宗家との関係・・・諏訪氏が大きく勢力を伸ばす契機となったのが「承久の乱」であり、その後の北条氏との密接な関わりであった。
・・『吾妻鏡』・上社大祝諏訪盛重は、嫡子信重を東山道軍に派遣した。
・・『承久記』・信重は「軍の検見役に指添えられ」たとみえ、信重は信濃国諏訪氏系武士団の統率者として派遣されたものと考えられる。
・・・乱後、諏訪盛重は大祝の職を退き、鎌倉に出向して執権北条泰時に仕えて活躍した。

諏訪社に関わらず一宮は、その造営・祭祀などに関して国衙に管掌される面が多く、東国では事実上は守護が管轄していた。こうした政治的な背景から、諏訪社の造営・祭祀などを仲介として諏訪氏と北条氏の主従関係が生まれたものと推測される。さらに、御射山祭(=御狩神事)は軍神としての背景を持ち、得宗家との特異な関係が成立する。

以後、諏訪氏は北条氏家臣団の最有力者として、北条氏の勢威が高まると、それに比例して諏訪氏の武威も高まった。その結果、諏訪氏のもとに信濃各地の武士が集まるようになり、諏訪氏を中心とした血縁あるいは地縁の武士が連合してできた党的な武士団が「神党」である。
・・構成員・小県・佐久郡方面から滋野姓を名乗る祢津・望月・臼田氏
    ・諏訪・伊那方面は、四宮・三塚・笠原・千野・藤沢・中沢・知久・香坂氏
    ・高井郡など広い範囲の武士たちが集まっていた。
北条氏はこうした諏訪氏を中心とした武士団を育成し、掌握していたのである。

一方、北条氏の信濃支配において、諏訪氏が大祝をつとめる信濃の諏訪社の祭祀組織が果たした精神的役割も大きかった。諏訪上・下社の神事奉仕は、十二世紀ごろから国衙の管掌のもと武士たちによって行われてきた。鎌倉幕府はこの制度をもって武士を統制しようとし、神事奉仕の頭番にあたった御家人は鎌倉番役を免じられるなど、多くの特権が与えられた。北条氏が幕府の実権を握るようになると、諏訪氏との主従関係を活かして、制度を積極的に編成し、信濃御家人を統轄する有効な手段としていった。

・・・以上が、北条得宗家と諏訪家の関係だが、ほぼ、この部分の解説は、諏訪家が北条家の御内人となって親密になったとしている。この部分は分かるようで分からない。御内人とは、一族の、親戚同様の身内人(御内人)という意味であろうが、命運を伴にする関係が見えてこない。御内人は、諏訪家だけでなく存在する。

そこで、諏訪家と北条家の関係を、具体的に追求すると・・・・・

まず、源氏と諏訪家が関係を持ったのは、木曾義仲の時、下社の金刺盛澄は義仲を庇護したという伝承が下社に伝わる。頼朝の挙兵に合わせて、木曽義仲が呼応して挙兵した時、金刺盛澄は次男の手塚光盛を義仲に付けた。手塚光盛は、義仲の連戦の時、中核として、腹心として奮戦した。やがて、義仲が敗れ、木曽軍が追われる立場になった時、弓の名手の手塚光盛を惜しんだ頼朝の重臣梶原景時は、光盛を、鎌倉幕府の御家人にして助けた。これを見ると、鎌倉幕府との関係を持ったのは、諏訪下社の方が先のようである。疎まれていた梶原景時はやがて失脚し、それに伴い、下社金刺家と鎌倉幕府との関係も薄らいでいったようです。

その頃から、諏訪大社は、頼朝からも北条からも尊敬を受けており、一定の庇護も受けていたようですが、最初は諏訪家が鎌倉へ出仕しても、御家人の立場でした。

承久3年(1221)5月、承久の乱が起こります。・・・後鳥羽上皇は、現在の京都市伏見区にある鳥羽にある離宮・城南寺の流鏑馬にかこつけて、畿内とその近国14ヶ国の武士1,700人を集めて、執権北条義時討伐の宣旨を諸国に下したのです。この時執権の北条氏は、都の軍を向討つべく、北条領の武士を招集して、軍を東海道、東山道、北陸道の3手から都へ進めます。 この時、諏訪の大祝盛重は、帰趨を迷い神託したと言います。その神託の結果は、”鎌倉につき直ちに出陣せよ”というものでした。そこで、大祝諏訪盛重は、長男の諏訪信重を総大将にして、諏訪一族を出陣させます。東山道ルートです。このルートは、後に信濃・甲斐を支配する小笠原、武田の祖の系流も参加していました。

この時の諏訪一族の戦いの様子は、他を抜きんでるものだったようです。それにもまして、諏訪神社の神託が勝利を決めたと言うことで、北条義時は大祝諏訪盛重に感状を送り、神領を寄進しました。参加した諏訪系の諸族にも、諏訪・伊那のみならず西国にも、論功行賞として所領が与えられました。ここに諏訪大社が、北条得宗家の軍神として、確固たる地位も確立しました。

大祝諏訪盛重は、北条義時の再三の要請で、鎌倉幕府に出仕することを決意します。まず、大祝職を長男の信重に継がせてから、鎌倉に出仕します。間もなく、鎌倉法華堂に火事が起こり、盛重は、民家を壊して延焼を食い止めます。この功績で、執権北条の隣接に屋敷を貰います。北条得宗家にもっとも信頼された、護衛の役職です。更に5代執権北条時頼から、長子宝寿丸(時輔)の傳役(もりやく)を、おおせつかります。この流れを見ると、親戚以上の信頼度です。こうして、上社の系譜、諏訪盛重は、御内人の中でも、北条家と特別な関係が出来上がっていきます。信濃からは、諏訪家の他に、藤沢氏や祢津氏や保科氏などが、鎌倉へ御家人として、出仕していました。諏訪家は彼等の棟梁的な役割も果たしていたと思われます。上社系の諏訪一族から、何人も鎌倉に出仕し、幕府の役職に就いています。小坂円忠もその一人で、学識豊かで、文官として働き、夢想国師に信頼されます。

この様にして、諏訪家と北条得宗家は、護衛の武官として、育ての親として、治世の文官として、祭事の奉行として、相談役として、様々な顔を持ちながら、やがて姻戚になり、北条と最も近い関係になり、北条滅亡の時は命運を伴にする関係になっていったようです。・・・・・


 


諏訪下社の御狩神事

2013-12-12 18:12:23 | 歴史

諏訪下社の御狩神事・・・霧ヶ峰・御射山神社のこと

・・・秋の御射山神社

諏訪大社は、御射山で御狩神事を行うことが、祭祀の大きな特色です。元来、神社の神事については、余りよろしくない頭脳では、何度読みかえしても理解に及ばず、ほとんどわからないままですが、この御狩神事が、諏訪神社を、全国でももっとも尊敬される”軍神”・いくさがみ・にしたのではないかと思っています。

諏訪神社は全国に25000社を数え、この御狩神事を行う御射山を背景に持つ諏訪神社もかなりの数を数えると言います。諏訪大社の御射山は”みしゃやま”と呼び、下社と上社は別々の御射山を持つようです。大社以外の諏訪神社は、御射山を”みさやま”と呼ぶことが多いようです。・・・狩り場から御射と名付けられた様ですが、嘘のような、御射・ミサを古代ユダヤのミサと関連づける説も根強く残っています。

・・・春の御射山神社

諏訪下社の御射山は、霧ヶ峰高原の車山近く、八島湿原近くに神社を持っています。現在諏訪下社の手を離れて、「霧ケ峯本御射山神社」として独立の神社に表記されていますが、諏訪大社の旧摂社という関係から(便宜上)「旧御射山社」を用いています。

まず、御射山の御狩神事の祭祀の規模を、次の2点から確認します。一つは、人間の手の入ったもの、桟敷跡と土塁ですが、八島湿原の池を囲んで、極めて広大です。桟敷跡を観覧席と見ることは、あまりに広大で不合理です。参加観覧人の簡易宿泊施設の建設地跡と見る方が納得がいきます。もう一つは下社武居祝家に伝わる「下諏方旧御射山圖武居祝家蔵本写」です。これは神事式の見取り図です。桟敷は、分類されて、甲州侍桟敷、侍桟敷、刺使御桟敷、北条殿・千葉殿・和田殿、社家桟敷、信濃侍桟敷、に分けられ、接待役と思われる根津、望月、海野の豪族名が書かれ、中央に神殿狩屋、脇に御供所と神楽所があります。

*神殿・・ごうどの、とよみます。

・・・下諏方旧御射山圖武居祝家蔵本写

また、桟敷跡から生活用品である鉄鎌・砥石・鉄釘・灰釉陶器・備前焼・常滑焼・青磁・摺鉢・内耳土器などが発見されています。

この御射山社祭神事は、8月26日から28日まで、3日間行われるそうです。昔は旧暦で、旧暦の7月27日が縁日とされ、5日間行われることもあったという記録が残っています。

霧ヶ峰のこの一帯は風景の美しいところ、、山岳の森林限界を示す場所でもあります。この様子を見ると人の住める環境とは考えられませんが、近くから黒曜石の矢尻などが出土されており、また桟敷跡から生活用品が発見されていることから、古くは狩猟民が、中世は神社関連の民が、生活していたのかも知れません。生活用品は種類と数が多く、臨時の住まいと片づけてしまうのはかなり無理がありそうです。

・・こちらの御射山図は、上社(茅野)の方のようです。・・・参考

御射山社祭神事の特色だけ箇条に記しますと
・穂屋・薄を使って仮屋の壁をつくり、簡易宿泊施設をつくる。
・鹿を贄として奉納する。
・八島湿原の池七島を星に見立てて占いをする。
・狩りをする。
・最後は酒が出て、どんちゃん騒ぎをする。
・最初は、武士と神官だけだったが、後期は一般見物人も多かった。
・後期は、出店もあったようだ。

これだけではよく分からない。そこで小坂円忠が作ったと言われる『諏方大明神画詞』の文を掲示して、様子を読み解くことにします。ただし、こちらは上社の御射山神事だが、式次第や神事の概容は、ほぼ同じだろうとして類推します。

 

『諏方大明神画詞』・・・該当文書と合致しませんが、イメージとして参考にして下さい。


 ・・・、御射山登(のぼり)まし、大祝(おおほうり)神殿(ごうどの)を出て、先ず前宮・溝上の両社へ詣でて後、進発の儀式あり、神官行粧(・・旅装束)騎馬の行列五月会に同じ、御旗二流の外、御札十三所(・・前宮の13神)神名帳銅の札を鉾に付けたりを加う、神長是をさす、先陣既に酒室の社(・・酒室神社)に至る、神事饗膳あり、又、神物・鞍馬・武具是をひく(・・引き出物)別頭役、色衆(・・当色・当日の役を務める神人)小頭に同じ、三献の後、雅楽大草薄穂をとる、群集の人数を算数する儀あり、
(絵是在り)
 酒室の神事畢て(終わりて)、長峯へ打ちのぼりて行々山野を狩る、必ず神事の法則に非ずと云えとも、鷹など据えて使う者もあり、禽獣を立てて射取る者もあり、漸く晩頭(・・日暮れ始め)に及んで物見ヶ岡(・・原村柏木)に至る、見物の緇素(しそ・・僧と俗人)群集す、さて大鳥居を過る時は一騎充(づつ)聲をあげてとおる、前官男女の部類、乗輿騎馬の類、前後につづきて櫛の羽(歯)の如し、凡そ諸国の参詣の輩、技芸の族七(・・ママ)深山より群集して一山に充満す、今夜参着の貴賤面々信を起こし掌を合わせて祈念す、諸道の輩衆芸を施す、又、乞食・此処に集まる、参詣の施行更に隙なし、都鄙(・・都と田舎)の高客所々に市をなす、盗賊対治(退治)の為に社家警護を至す(致す)、巡人の甲士(・・鎧を着た武士)昼夜おこたらず、・・・・・『諏方大明神画詞』

・こちらは上社御射山神社

前半は、神事の様子、まさにセレモニーだが、この部分はよく分からないし、あまり神事にこだわりを持つつもりはない。儀式が終わると、さあ・・・狩の始まり・・・神事の法則の狩りの方法はあるものの、それに拘っている様子がなく自由に狩を行っている様子。鷹をを使って獣を追うもの、猟犬で獣を追い出して射止めるものもの、そのように狩をする。夕暮れになると、次のイベント会場に移動する。見物の衆は僧もいれば一般人もいる。馬に騎乗した人は、一騎ずつ鳥居を声を上げて通過する。男女の社人や騎馬の人、輿に乗った人、前も後ろも三々五々で、全国から神事の参詣に来た人や、芸妓の人は、山深いところまで群衆と成って充満している。今夜ここに参集した貴人も貧しい人も皆手を合わせて祈願している。色んな芸人が芸を披露している。乞食や達も神事に参詣している。都や田舎から来た貴人達も市の周辺に集まっている。盗賊退治の社家警護の鎧武者は、昼夜を問わず周囲を巡回して警護をしている。

これで、ようやく御射山の御狩神事の概容が掴めました。上記の文脈から、狩は、鹿だけではなさそうで、猪や野ウサギやキジなども対象であったのかも知れません。夜の、無礼講のような様子から、狩った獲物を”さかな”に酒宴が開かれていたようにも思えます。一般人はともかく、ここに集った武士達は、武具を使用した狩という大運動会さながらのようです。この神事的な娯楽は、諏訪神を”いくさがみ”(軍神)とするには十分です。このようにして、鎌倉幕府と室町幕府に諏訪大社は庇護を受けるようになります。

 


諏訪大社の上社と下社の対立 ・・金刺家の没落

2013-12-07 23:29:36 | 歴史

 金刺氏の没落・・・

諏訪大社と金刺氏

傍から見ると、諏訪大社は、あたかも一つの神社に見えます。上下社・春秋宮併せて、本来なら一つの神社の筈です。でも、故あって歴史を調べると、鎌倉期以降、上社と下社の対立の時代がずっと続きます。それが内乱にまで発展してしまうのが、諏訪家の文明の内訌です。この内訌で、下社の金刺氏は滅亡してしまいます。その後、下社は係累の武居氏を祝にあて、下社を諏訪湖畔北側に移設しながら、上社との対立の火を収めながら、現在に繋がります。

諏訪大社の成立は、神話の時代に、天照大神と大国主命が”国盗り”を争い、天照大神の側の武甕槌命と大国主命の次男・建御名方命が相撲で決着し、敗れた建御名方命が諏訪に逃れた上社を造り、その妃・八坂刀売命が下社を造ったとされ、本来は一体とするのが習わしだったようです。
・・武甕槌命・タケミカズチノミコト
・・建御名方命・タケミナカタノミコト
・・八坂刀売命・ヤサカトメノミコト
天照大神は今の皇室に繋がり、大国主命は出雲系祭神で、確かにこの二大勢力は、”国盗り”で争ったのかも知れません。このことは古事記に記載された内容だが、日本書紀には記載されていません。

それでは、この金刺氏を追ってみます。神話の時代、神話の世界は得意ではないので、およそ鎌倉期よりの諏訪神社、上社と下社の”ありよう”から始めます。

治承四年(1180)甲斐の武田信義が、頼朝の挙兵に応じ、諏訪明神に祈って武勲をあげたとき、その奉賽として上社に平出・宮処両郷、下社に龍市・岡仁谷両郷を寄進しており、承久三年(1231)には幕府が越前国宇津目保を寄進している。すでに前九年の役(1051)の頃から、両社の大祝および社人は祭祀のかたわら武士としても活躍し、族党を結束して神家党と呼ぶ有力な武士団に成長していた。

・・・平出・宮処は現在平出・宮所、龍市・岡仁谷は現在辰野・岡谷として地名をのこしています。

・・・これを見ると、鎌倉時代初期に諏訪大社は”軍神”として、周囲に認知されていたことが覗われ、さらに”武士団”を形成していたことが分かります。

平安時代の後期になると、諏訪大社の上社・下社の神主系は、別流として独歩に系譜してきたことが顕著になります。上社の神主大祝は当初は神(ミワ)家後に諏訪家・諏訪一族として、下社の神主大祝は金刺家・金刺一族(当初は諏訪家)として、一族を主張し始めます。

この金刺氏の成立は、かなり不鮮明で、科野国造家から分かれて同化した説、あるいは、東征から戻った源氏の氏族が信濃に帰化・婚姻して金刺氏と同化した説などありますが、どうも外部からの有力氏族が金刺氏と婚姻を通して同化したのは確かではないかと思われます。ただし、資料が不足しているため、一族に伝わる伝承を根拠にしているため、定かではありません。

下社の金刺氏の祖は、金刺舎人と言うことになっているが、「金刺系図」によれば、貞継のとき下社の大祝となったことが記されているのをみると、ここまでにも混乱があったことが覗われます。『信濃史科』によれば、一族に諏訪・上泉・手塚の諸氏がある、と述べてあり、再び諏訪氏も同族であったことが記されています。

金刺氏の武士化・・・先述のように金刺氏は武力を蓄え、下社秋宮に隣接する地に霞ヶ城を築き武士化していった。金刺氏は手塚とも称し、手塚太郎光盛は木曽義仲に従って勇名を馳せた。光盛の兄盛澄は鎌倉の御家人となった。・・・

宝治2年(1248)、諏訪上社と下社との間で争いが起きます。小さな諍いは以前にあったのかも知れませんが、”争い”が歴史に登場します。

・・・宝治2年は、・・諏訪大社造営の年度に当たる、その年に上下社間に本宮争いが生じた。下社大祝の金刺盛基が、その解状で訴えた。しかし上社の諏訪氏は、鎌倉幕府の得宗家御内人であり、且つ重臣である。幕府の裁可は当然、「去年御造営に下宮の祝盛基は、新儀の濫訴を致すによって」として裁下し、「上下両社の諸事、上社の例に任せ諸事取り仕切る」とした。・・ しかし、(翌宝治3年(1249))・下社大祝盛基は、この幕府の下知に納得せず、上宮は本宮ではないと再度申し立てた。大祝信重解状は、それに対する長文の反論で、「進上御奉行所」として幕府に訴えた。
 その内容は7ヵ条で  一、守屋山麓御垂跡の事、一、当社五月会御射山濫觴の事、一、大祝を以て御体と為す事、一、御神宝物の事、一、大奉幣勤行の事、一、春秋二季御祭の事、一、上下宮御宝殿其外造営の事
 鎌倉中期以前の諏訪大社の鎮座伝承、神宝、祭祀、神使御頭(おこうおとう)、大明神天下る際の神宝所持、御造営等、詳細に上社が本宮である由来を記述して、先例通りの恩裁を請願している。・・・

この時の下社大祝は金刺盛基、対する上社大祝は諏訪信重、鎌倉幕府に訴状合戦をしている。・諏訪大社造営のこととは、神事運営の事か?。時は北条得宗家の時代に移り、上社諏訪家は得宗家と御身内の関係の親密さを増している時、裁定は上社有利に下される。
・・・「大祝信重解状」・諏訪家側の訴状のこと、神長守矢家に永らく秘蔵されていた。

この後、しばらく諏訪大社、上・下社のことは歴史資料に詳しくない。

元弘三年(1333)、北条氏が滅亡すると、後醍醐天皇による建武の新政が開始された。しかし、その政治は長く実務から離れていた公家たちによる時代錯誤なもので、公正を欠くことが目立ち、多くの武士から反発を受けた。信濃国はかつて北条氏の守護任国であり、北条政権の強力な基盤になっていたことから、鎌倉幕府滅亡後も、神党は旧北条派の中心勢力として各地に転戦した。

中先代の乱・・・とくに北条氏滅亡の際、北条高時の遺児時行が諏訪社大祝のもとに匿われ、諏訪氏の後援で建武二年(1335)挙兵し、鎌倉に攻め上り一時鎌倉を制圧した。
中先代の乱と呼ばれる争乱で、中先代軍の鎌倉支配は二十日間に及んだが、尊氏の巻き返しで時行は連戦連敗して敗走し、諏訪頼重とその子の大祝時継らは自殺して中先代の乱は終熄した。

南北朝時代・・・その後、中先代の乱に北条派と結んだ武士たちは、南朝に帰順して信濃宮方として武家方=信濃守護と対立した。その中核になったのは、諏訪上社の諏訪氏、そして下社の金刺氏らであった。
その後、信濃には宗良親王が入って南朝方の中核となった。しかし、情勢は次第に南朝方の頽勢に傾き、正平十年(1355)、宗良親王は信濃南朝方を糾合して守護小笠原氏に決戦をいどんだ。桔梗が原の合戦と呼ばれ、結果は南朝方の敗北に終わった。この合戦に上社諏訪氏は南朝方の中心として参戦したが、下社金刺氏は傍観的立場をとり、その後、幕府・守護方と親善関係を結ぶようになった。
結局、南北朝の争乱は北朝方=武家方の優勢に推移し、ついに明徳三年(1392)、足利幕府三代将軍義満によって南北朝の合一がなった。以後、足利幕府体制が強化され、信濃も守護権力が浸透するようになった。

鎌倉期晩期と室町期前期まで、諏訪大社の下社の金刺氏と上社の諏訪氏は、ともに北条側・南朝側に立って戦っている。
変化が起こったのは、桔梗ヶ原の合戦以降で、下社金刺氏は両軍に属さず、傍観の立場を取っている。

これを、小笠原守護を交えた立場から見て見ると・・・北条氏に代わり小笠原貞宗が信濃守護として入ってきたのが建武2(1335)年であった。小笠原氏は鎌倉に館を構える「鎌倉中」の有力御家人であった。ただ鎌倉末期には、「御内人」でもあった。しかし、北条氏を見限るのも早く、足利高氏に従い戦功を挙げ、それで信濃守護に補任された。
しかし信濃国内には、北条御内人の最有力者・諏訪氏をはじめ、北条守護領下、守護代、地頭、地頭代として多くの利権を有する氏族がいた。そこに北条氏を裏切った小笠原貞宗が、守護として侵入し、旧北条氏領を独占し、それに依存する勢力を駆逐していった。信濃国人衆旧勢力は、新政権を排除し自己の所領の保全・回復をめぐって熾烈な戦いをせざるえを得なかった。その北条氏残党の中核にいたのが諏訪氏であった。北条得宗家の重鎮でもあったため、信濃国人衆は諏訪氏を盟主として、「神(しん;みわ)」氏を称し、「神家党」として結束していた。それが建武2年7月に起きた中先代の乱であった。その乱以後の争闘が、後醍醐天皇の建武の新政を瓦解させた。・・・諏訪頼重・時継父子は、10歳前後の北条時行を擁して挙兵する。中先代の乱の始まりである。同月、船山郷(更埴市・戸倉町)の青沼とその周辺で、市河氏が守護方として北条方反乱軍と戦っている。船山郷の戸倉町には、当時、守護所があった。しかしこの戦いは、陽動作戦で、主力本隊は府中を攻め、国司博士左近少将入道を自刃させている。この勝利で信濃国人衆の過半を味方にし、鎌倉へ進撃ができる兵力を押さえた。7月には足利直義を破り鎌倉を制圧した。しかし京から尊氏が攻め下ると、金刺頼秀が討ち死に、8月には、諏訪頼重・時継父子とその一族が鎌倉大御堂で、全員が顔を切り自裁している。顔を切りことによって、北条時行も自害していると見せ掛けるためであった。諏訪頼重以下、300余騎がここで果てている。 時行は無事鎌倉を脱出している。
・・・この中先代の乱で、金刺頼秀が、時を追って諏訪頼重・時継父子が討ち死にしている。

そして南北朝時代へ・・・諏訪頼重が、鎌倉に出陣後、大祝を継いだのは、時継の子・頼継であった。このため朝敵となった頼継は神野に隠れる。尊氏は大祝の継承を、大祝庶流の藤沢政頼に就かせると、頼継の探索を厳しく命じた。頼継は、わずか5,6人の従者を連れて、神野の地をさ迷うが、諏訪の人々による陰ながらの援助で逃れる事ができた。その後も信濃の諏訪神家党、その他の国人衆は、足利政権の守護小笠原氏及びその麾下に与するに国人衆と、果てしない闘争を続けた。

・・・この上記の経緯の部分は、諏訪家の文明に内訌の原因になるところで、重要です。上社大祝諏訪頼継は、本来であれば正統に諏訪上社の棟梁であったが、朝敵であったため足利尊氏から追われる立場になってしまった。代わりに、上社大祝は、尊氏から同族とはいえ傍流の”傀儡”が立てられてしまった。山間を逃げ回った頼継は、高遠付近に隠棲所をつくり隠れ住んだが、自らが諏訪上社の正統な棟梁であることを誇っていた。頼継はこうして高遠家の祖になったが、高遠家の以後の嫡流も、頼継の意志を継いだものと思われる。高遠家最後の頼継は、祖の意志と名前を引き継ぎ、上社棟梁への意欲は相当に強いものがあったと思われる。ここの部分をきっちり押さえないと諏訪の内訌への関わりとその後の高遠家の動向が分かりぬくくなる。

・・・この隠棲場所の比定は、当時の状況証拠から、”荒神山城”の可能性が高い。また当時は、高遠城や高遠の地名は無く、この地方は木曽氏の系列の氏族が勢力を持っていたと思われる。このあと、高遠一揆衆の混乱もあり、高遠の地名と高遠城が出来、高遠満継のあたりから、高遠家は高遠城が居城になったと推測される。

・佐久の望月氏は、小笠原勢に城を破却されている。9月北条時行に味方した国人衆の本拠地が攻撃された。しかも小笠原勢に与する者は市河一族と村上信貞で、対して諏訪一族は徹底的に交戦を続け、その過酷な試練を乗り越えて、やがて戦国領主として生き残った。

以後諏訪直頼が一時、観応2(1351)年、直義方として尊氏方の小笠原と善光寺平で激戦を繰り返していたが、尊氏が南朝方と和睦し勢力を回復すると形成は逆転し、直義は翌年2月不自然死を遂げている。
諏訪直頼は観応3(1352)年南北朝期最期の大反撃をする。新田義宗や上杉憲顕と組み、諏訪・滋野氏を主力とする信濃勢が、宗良親王を擁して、金井原・小手指原で尊氏方と戦う。しかし敗退し親王は越後へ逃れたようだ。
文和4(1355)年春、宗良親王は越後でも南朝方が敗退すると、信濃に逃れる。諏訪氏・金刺氏・仁科氏も必死の結集に努め、再起をかけて8月府中の制圧にむかう。しかしその途中、桔梗ヶ原(塩尻市)で守護小笠原長基(政長の子)と激戦の末、敗退し、信濃南朝軍は瓦解していく。翌延文元年、信濃国境志久見郷(栄村)で、直義方の残党・上杉憲将も敗れている。この様にして、信濃南朝勢力は衰退していく。
 
上社との抗争 ・・・ 応永七年(1400)、守護小笠原氏に対して村上氏を中心とする北信濃の国人らが反旗を翻した。「大塔合戦」と呼ばれる争乱で、守護方の敗北に終わった。この戦いい上社諏訪氏は国人方に味方して陣代を送ったが、下社金刺氏は守護寄りであったようだ。
・・・下社金刺氏は、桔梗ヶ原の合戦以降、明かに心変わりしてきている。それに対して上社諏訪氏は、反守護の立場を一貫している。このような上社と下社の政治姿勢の相違は、相互の対立をよぶようになった。加えて、信濃守護で府中城主の小笠原氏が諏訪社の上社を牽制するため下社を後援したことから、上社と下社が対立し抗争が繰り返されるようになった。

さらに、従来上社大祝職には諏訪氏惣領が就いた諏訪氏宗家でも大祝家と惣領家とに分かれ、一族内紛の芽を有していた。このような状況のもとで、上社と下社の抗争が続き、その抗争は必然的に武力を伴うものであった。

文安六年(1449)、上社と下社は武力衝突し、守護小笠原宗康は下社を支援したが、戦いは上社勢が下社を攻め、社殿を焼き払うという結果となった。その後も、上社と下社の抗争が続いたが、おおむね下社の劣勢であった。

やがて、十五世紀なかごろになると幕府体制に弛緩が見えるようになり、時代は下剋上の様相を見せるようになった。一方で、中世争乱のなかで惣領制的な分割相続から嫡子(惣領)による単独相続へという変化があった。その結果、一族・被官を巻き込んだ相続争いが各地で頻発するようになった。信濃守護小笠原氏では、家督をめぐって内訌が起った。他方、武力によって下社を圧倒していた上社の諏訪氏内部でも大祝家と惣領家とが対立し、分裂状態となった。
・・・ 十五世紀なかごろから、対立構造に変化が起こってくる。それまでの上・下社の争いは、神事の運営方法や政治的な立場の相違からの対立だが、嫡子の相続権が絡む領土・経済戦争の戦国時代の内容の対立が顕著になってくる。諏訪大社で言えば上・下社に加えて惣領家と大祝の隠棲別家の高遠家の、四どもえの戦いに発展してくる。・・上社大祝と高遠家は、ほぼ共同歩調なので、三社対立(鼎立)という方が正確かも知れない。

戦乱のなかで滅亡 ・・・文明十二年(1480)頃になると、諏訪大社の上社の内訌が激化してくる。そして、大祝継満は高遠の継宗および小笠原政秀との連係を強め、一方の惣領政満は藤沢氏とともに府中小笠原長朝と通じるようになった。ここに、諏訪氏の分裂と小笠原氏の分裂とがからみ合うという、複雑な政治状況となってきた。

この諏訪上社の大乱に対して、諏訪下社の金刺興春は上社大祝・継満に味方して挙兵した。下社は永年にわたって上社と紛争を起こして衰退の一途にあったが、上社の内訌を好機として頽勢挽回を図ろうとしたのである。分明十五年、金刺興春は継満の一派とともに高島城を攻略し、上桑原・武津を焼いた。対する諏訪勢は矢崎肥前守らを中心として出撃し、金刺興春を討ち取り、下社に打ち入ると社殿を焼き払い一面の荒野と化したのである。

興春が戦死したのち、子の盛昌が継ぎ、ついで昌春が継いだ。一方、諏訪上社の抗争は頼満によって克服され、永正十五年(1518)、頼満は昌春の拠る萩倉の要害(山吹城)を攻撃した。上社大祝家に伝わる『当社神幸記』によれば、萩倉要害は自落して、一類の面々家風ことごとく断絶、没落したとある。ここに、金刺氏の没落は決定的となったのである。

社殿などを焼かれ、萩倉城を落とされた下社の大祝金刺昌春は甲斐国の武田信虎を頼って落ち延びた。これが信虎に諏訪郡侵攻の口実を与えるところとなり、享禄元年(1528)信虎は下社金刺氏を押し立てて諏訪に侵攻したのである。このときは、諏訪氏がよく武田軍を神戸で撃退し、逆に享禄四年には韮崎に出兵した。武田氏の力を借りて下社再興を目論んだ昌春は、享禄四年(1531)に飯富兵部らが信虎に反乱を起した時に戦死したと伝えられている。・・・下社大祝・金刺氏の滅亡。

かくして、代々下社大祝職を継いできた金刺氏であったが、戦国時代末期に至って断絶となった。その後、支族の今井氏が入って武居祝と称し祭祀を継承したが、大祝を名乗ることはなかった。

諏訪のその後 ・・・諏訪氏と武田氏の小競り合いは、その後も続いたが、天文四年(1535)に両者は和睦した。しかし、諏訪氏と武田氏の抗争は、のちの武田晴信の諏訪平定へと連鎖していくのである。
ところで、高遠の地は古来より諏訪上社の領地であったが、金刺昌春が甲斐国に落ち延びた頃、諏訪一族である高遠頼継が統治していた。高遠頼継は諏訪上社の惣領の地位を狙い、諏訪大社下社の金刺氏と結んで武田晴信の力を借りて諏訪氏を攻撃した。こここに出た金刺氏は、武居祝のことであろう。

その後、武田氏と高遠氏の両面攻撃にあった諏訪頼重は降伏し、甲斐に連行され幽閉の身となった。ほどなく、諏訪大社上社の大祝諏訪頼高と共に切腹させられ、諏訪惣領家は滅亡した。その後、諏訪の地は高遠頼継と武田晴信とが二分したが、それに不満を持った高遠頼継が、諏訪地方を武力制圧した。結果として武田晴信と対立、宮川の戦いに敗れた頼継は高遠に逃げ帰り、諏訪一帯全ては武田晴信の領有に帰した。