探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

南部氏 ・・様々なる小笠原支流

2014-03-28 15:53:18 | 歴史

    様々なる小笠原支流

  南部氏  ・・様々なる小笠原支流

南部氏  資料は、多岐にわたり、いまだ不明な点多く ・・・

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南部氏 、家紋 南部鶴
本姓 清和源氏河内源氏義光流
家祖 南部光行
出身地 甲斐国
主な根拠地 陸奥国糠部郡、盛岡、八戸
東京都
著名な人物 南部師行、南部晴政、南部信直
八戸藩主家、七戸藩主家

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南部氏は、陸奥の武家で本姓は源氏。本貫地は甲斐国南部郷で家祖は南部光行。南部氏初代の光行は、平安時代の清和源氏の河内源氏 源義光や、黒源太清光の子孫、甲斐源氏・加賀美遠光の流れを汲む。

略史

平安時代末期に起きた前九年の役や後三年の役では、清和源氏の棟梁・源頼義父子が現在の盛岡に来歴したが、頼義の系流の清光の子孫は甲斐源氏と称されて武田氏、加賀美氏、安田氏、浅利氏などの諸氏族があり、加賀美氏からは、南部氏、秋山氏、小笠原氏などが別れている。
奥州南部氏の始祖、南部三郎光行は、清和源氏義光流(甲斐源氏)の系譜に連なる、加賀美二郎遠光の三男とされ、甲斐富士川西岸の南部郷を領し南部三郎を名乗ったが、父の官途信濃守から信濃三郎とも称された。
光行の子息は、『尊卑分脈』によれば、太郎朝光、二郎実光、三郎行朝、小四郎実長の四人で、「秋山系図」は、行朝を太郎、実長を「南部破切の六郎」と、五郎行連を加える。そのうち、光行の嫡子実光とその子時実の名はしばしば『吾妻鏡』にあらわれ、将軍の供奉を務める御家人で、かつ北条時頼の側近として登場している。・・文治五年(1189)秋の奥州平泉攻撃に、加賀美遠光父子四人が頼朝の本陣に従軍、藤原泰衡軍との合戦に功を立て、その功によって南部光行は奥州糠部郡の土地を給され、建久二年(1191)の末 家臣数十人とともに入国したと、家伝では伝えられている。・・南部氏は南北朝時代から戦国時代にかけて急速に勢力を伸ばし、はじめは三戸(三戸町)に居城を構えていたが、豊臣政権を後ろ盾として九戸政実を鎮圧、九戸城を福岡城(二戸市) と改め移転した。さらに前田利家らの仲介により豊臣秀吉から閉伊郡、和賀郡、稗貫郡の支配も認められると、本拠地である三戸が領地の北側に大きく偏ることとなった。

南部光行 ─ 

       ┌・・・・・ 行朝   一戸氏の祖

├ 実光 三戸南部氏の祖

├ 実長 根城南部氏・波木井氏・(伊勢南部氏?)の祖
├ 朝清 七戸・久慈氏の祖
├ 宗朝 四戸氏の祖
└ 行連 九戸氏の祖

・南部宗家の始祖は、南部光行の嫡子・実光の系譜が後の三戸南部氏となり、
・庶家には実光の弟で、後の八戸南部氏の祖となる波木井実長がいる。波木井家初代実長・二代実継・三代長継のあと、嫡家三代時実の子政行の次男師行が長継
・七戸家は八戸南部信光の弟政光の子孫である。

鎌倉・南北朝時代前期まで
源義光の玄孫の光行は甲斐国南部の河内地方にあたる巨摩郡南部牧(南部町)に住んでいたことから南部氏と称したが、平安時代末期の奥州合戦の頃に奥州糠部の地に土着したという。また『奥南旧指録』によれば、承久元年(1219)の暮れに南部光行が家族と家臣を連れて由比ヶ浜から出航し、糠部に至ったという。

光行には6人の息子がおり、
長男の行朝は庶子のため一戸氏の祖となり、
 次男の実光は三戸南部氏の祖となり、
 三男の実長は波木井南部氏や根城南部氏の祖となり、
 四男の朝清は七戸氏の祖、
 五男の宗清は四戸氏の祖、
 六男の行連は九戸氏の祖、にそれぞれなった。

なお、光行の兄・小笠原長清は巨摩郡小笠原荘に住み、小笠原氏の祖となっている。
『吾妻鏡』よると、光行、実光、南部時実の三代が将軍家随兵として記されているが、弘文元年(1261)および同 3年の実光、時実は北条時頼の御内人扱いであった。これは本領の南部領が得宗領の駿河国富士郡と隣接し、また宝治合戦(三浦氏の乱)後に、糠部郡総地頭職が得宗領となったことによるものであった。
後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒未遂事件の1つ、「元弘の乱」1331(元弘)元年では、実長の子の南部実継は護良親王・尊良親王両親王とともに河内の赤坂城で戦ったが、親王とともに捕らえられ討たれている。新田義貞の鎌倉攻めでは南部氏宗家の南部右馬頭茂時や南部孫二郎、南部太郎らは幕府側についたのに対し、甲斐南部氏の南部義行の嫡子、義重や、南部時長・奥州の南部政長らはそれぞれ新田軍に加わり、時長は北条一門伊具土佐孫七を討ち取る等武名を挙げている。

南北朝時代中期まで
鎌倉幕府崩壊後、後醍醐天皇による「建武の新政」が始まると元弘三年(1334)8月、奥州鎮撫を目的とした義良親王(後の後村上天皇)を奉じた北畠顕家に従い、伊達行朝・結城宗広・葛西清貞らと共に南部師行も奥羽に下向する。
同政権下、足利尊氏が離反敵対すると尊氏と新田義貞は対立するに及び、建武二年(1335)11月の矢矧の戦いから伊勢南部氏が従う直義軍は、義重が参陣した尊良親王・新田義貞の尊氏追討軍を迎え撃った。元弘三年(1336)1月、第一次西上の顕家の軍と楠木正成の軍が加わった新田義貞を始めとする足利追討聯合軍に破れた尊氏の軍勢は九州に落ち延び、多々良浜の戦いの後、建武政権に不満の九州などの武士を集め、京を目指し東上を開始した。
[建武十三年(1336)5月25日、湊川の戦いに敗れた義貞の軍勢は尊氏が京に入ったため、後醍醐帝らとともに叡山に立て篭もり、反尊氏の武士や奥州からの顕家の軍勢を待ったが、顕家の軍勢の出立は1年以上遅れ、叡山で戦っていた後醍醐天皇は[建武十三年(1336)10月、若宮の東宮を新田義貞に預け尊氏と和睦、京に向かった帝の一行は幽閉や殺害されたが、義貞は若宮を伴い北国へ落ち延びた。
一方南部師行ら、顕家の第二次西上の南朝軍は東北から尊氏の傘下にあった京都を目指して進軍し戦勝を重ねていたが、京都の目前で、高師直率いる北朝軍と交戦、師行らは顕家とともに一族が戦死している。日蓮宗関係の史料によれば引き続き甲斐の河内地方に居住し続けている複数系統の南部氏一門はおり、南朝方に属していたと伝えられる。
このように南部氏一門には師行の根城南部氏の他、義重も参陣した尊良親王・新田義貞の尊氏追討軍を迎え撃った矢矧の戦いから直義軍に属していた伊勢南部氏や、「観応の擾乱」(1350-1352)の足利一族の騒乱の中、正平一統を機に新田氏の一翼として南朝支持から離れ、尊氏軍に就いた甲斐南部氏や、陸奥地方では北畠顕信の南朝軍の一角から直義派の吉良貞家に下った三戸南部氏の南部信長と推定されている南部伊予守などがいる。貞和五年(1349)以降,甲斐国が鎌倉公方の足利基氏の支配下になると、甲斐の南部氏一門は観応二年(1351)頃から足利氏に就いて戦っている様がに記されている。
南部宗継・同次郎左衛門尉兄弟の兄宗継は、矢矧の戦い以降「多々良浜の戦い」などで足利尊氏に従い、康永四年(1345)8月29日には天竜寺供養の髄兵などとして、また弟の次郎左衛門尉(宗冶)は根城南部氏の南部信政が戦没したとの説がある「四条畷の戦い」貞和四年(1348)1月5日から、兄と共に高武蔵守師直の手勢として南遠江守、南次郎左衛門尉と、南姓に変わり,に少なからず登場する。
また南部為重の嫡男とみられる波切遠江守は「薩埵山の戦い」観応二年(1351)12月27日に今川勢と参じている。観応三年(1352)2月25日には同じく、南部義重の子とされる南部常陸介は「笛吹き峠軍」・・観応三年2月25日に登場している。

南北朝後期から室町時代
鎌倉時代末期から南北朝時代初期に甲斐を本拠に奥州の糠部で活躍、その最後には北畠顕家に従った南部師行の奥州の勤王勢力とは別に、南部義重の後胤なども垣間見ることが出来る。南部宗継の弟の次郎左衛門尉宗冶は「観応の擾乱」の際に北陸に向い、今の富山県の砺波市に逃れて八伏山城を築いたことが地元に伝わるが、伊勢・北陸の両南部氏とも戦国時代に滅ぶが子孫は今に伝わる。南部宗継から二世後の頼村は伊勢南部氏を実質的に起こした武将。
なお南北朝合一の元中九年(1392)頃、将軍足利義満の密命を受けて、南部守行が南朝を支持する根城南部氏の南部政光の元をたずねて降伏勧告を行う。波木井にいた南部政光は南北朝合一に際して奥州へ移住したとされる。以降、根城南部氏から三戸南部氏へ惣領が移ったとされる。
陸奥へ移住した後、南部氏は室町期になると陸奥北部最大の勢力を持つ一族に発展する。しかし一族内の実力者の統制がうまくいかず、そのために内紛が頻発して一時衰退した。

戦国時代
その後、北朝方に属していた義重系甲斐南部氏は戦国時代後期になると武田氏に属していた惣領家は騒動で没落、勢力を失い、波木井に居た波木井南部氏は駿河の今川氏に通じて武田氏に敵対したため滅ぼされている。その後、河内地方には武田一族の穴山氏が入部している。
陸奥では三戸南部氏の出身で南部氏第二十四代当主である南部晴政が現われ、他勢力を制して陸奥北部を掌握した。晴政は積極的に勢力拡大を図り、南部氏の最盛期を築き上げた。晴政は中央の織田信長とも誼を通じるなど外交を展開するが、家中では晴政とその養嗣子だった従兄弟の石川信直が対立するなど、内訌も存在していた。晴政の晩年には南部氏の一族とされる大浦為信が挙兵し南部一族同士の争いが勃発した。一見広大に見える南部氏の領地であったが、国人の家臣化と中央集権化はあまり進んでおらず、津軽地方の国人らは為信に各個撃破されていった。
天正十年(1582)に晴政、晴継父子が没し、南部一族内の家督争いの結果、石川(南部)信直が相続するが、その際に晴政親子は信直によって暗殺されたとする説もある。津軽地方、外ヶ浜と糠部郡の一部を押領した大浦為信は豊臣秀吉に臣従し所領を安堵されたために、三戸南部氏は元々不安定だった大浦南部氏の統制を完全に失うことになる。
天正十八年(1590)、南部氏第二十六代当主である南部信直は八戸直栄を随伴し、兵千人を率いて、豊臣秀吉の「小田原征伐」に参陣する。これは根城南部氏が三戸南部氏の「付庸」であることを認めて自らの小田原参陣を諦めた八戸政栄(直栄の父)に、南部信直が領内で対立する同族の九戸政実や完全に離反していた大浦南部氏への牽制を委ねることができたからである。信直はそのまま従軍し奥州仕置の軍を進める秀吉から宇都宮において、7月27日付で南部の所領の内七ヶ郡(糠部郡、閉伊郡、鹿角郡、久慈郡、岩手郡、紫波郡、そして遠野保か?)についての覚書の朱印状を得る。
翌年に九戸政実が起こした「九戸政実の乱」が豊臣政権の手で鎮圧され、失領していた津軽三ヶ郡(平賀郡、鼻和郡、田舎郡)の代替地として和賀郡、稗貫郡の二ヶ郡が加増され、南部氏は七ヶ郡十万石の安定した基盤を得ることとなる。

江戸時代
江戸時代を通じて三戸南部氏は盛岡藩として存続する。分家で大名とされた家には八戸藩と七戸藩(盛岡新田藩)がある。

明治時代
明治時代になると、盛岡藩主の南部氏および八戸藩、七戸藩の二分家は華族に列せられ、明治十七年(1884)に旧盛岡藩主の南部利恭は伯爵、分家の旧八戸藩主の南部利克および旧七戸藩主の南部信方は子爵とされた。八戸氏を称していた根城南部氏(遠野南部氏)は士族となり、明治二十九年(1896)に南朝の天皇への忠節を賞して特旨をもって華族に列せられ、当主の南部行義は男爵とされた。九戸政実の実弟の中野康実の系譜を引く中野氏は士族とされた。なお、八戸氏および中野氏は、江戸時代末期より南部を称することを盛岡藩主の南部氏より許され、以後、南部を称している。
南部利恭の長男で南部氏第四十二代当主の利祥は「日露戦争」で戦死し、利祥には子がなかったので、利恭の次男で利祥の弟の利淳が第四十三代当主を相続した。利淳には一男一女がいたが、長男の利貞は早世したために、長女の瑞子に公爵一条実輝の三男の利英が婿入りして第四十四代当主を相続した。
なお、鎌倉時代から明治維新まで同じ所領に居続けることができたのは南部氏のほかには薩摩の島津氏などごく少数で、所領が中央政権(幕府)から遠く離れていたのが理由と考えられている。

南部氏の各支族
根城南部氏も場合によっては三戸南部氏とほぼ同格の存在として見なされることがあり、戦国時代には九戸氏も南部氏一族の有力者として幕府に認知されていた。少なくとも室町時代から安土桃山時代にかけての南部氏には、宗家と呼べるような確固たる権力を所持する家が存在しない同族連合の状況であった。

 



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