探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

松尾小笠原宗家の創立まで  第七話 

2016-01-21 16:28:19 | 歴史

松尾小笠原宗家の創立まで  第七話 

小笠原長政:長忠の子
・小笠原長政のことも、小笠原家の家系図に載っているだけで、ほとんど判りません。

小笠原長氏:長政の子:生没:安貞元~延慶三(1227-1310)年 
・長氏の時に、松尾小笠原家は劇的に変化して行きます。

小笠原長忠、小笠原長政のことは資料が乏しく、考証しようにも手立てが思いつきません。確認してきたのは、小笠原に残る家系図と小笠原家から幕府に提出されて作成された寛政譜のみです。真偽のほども小笠原家系図だけで、小笠原家の当主として”名前”だけの記載になります。

群書類従にも、小笠原家の系譜の記載があります。こちらを確認してみましょう。

長忠の項:長径の子
 ・嫡男。母武田大膳太夫朝信女。
 ・土御門院御宇建仁二壬戌四月二十六生於信州伊那松尾館。童名豊松丸。
 ・建保二甲戌二月十二於祖神社壇元服。十三歳。号又次郎。従五位上。右馬介。兵庫介。民太。信濃守。参州之管領。信濃国守護。
 ・嘉禄二戌三月五礼法的伝。師範祖父長清・父長径。
 ・安貞二戌子五月日為平泰時師範。
 ・文永元甲子十一月三卒。法名号乗連。
 ・・・母が家女房ではなく、武田朝信女。元服の式を、祖神社としているが何処か?
 ・・・民太とは、民部太夫のことか?官名は少し怪しい。
 ・・・礼法的伝の正式な継承者。当時の執権・北条泰時の師範(先生)でもあったという。
 兄弟
  ・清径 長忠の次男になっている。長径の弟。理由があって長忠の養子?に。
  ・長時 母・家女房・号小笠原小次郎。 ・・・腹違いの弟?
  ・長義 母・武田朝信女。号下条四郎。修理亮。下條家の祖。
  ・尊重 母・家女房。
  ・長實 母・武田朝信女。小笠原五郎。
  ・観照 母・家女房。 ・・・出家して法名か?
  ・盛長 母・家女房。号・上野六郎 養子先か?
  ・長村 母・家女房。号・米田七郎 養子先か?
  ・・・長房の記載がないが、長忠の弟・長房は、長清の養子となり、阿波国守護へ

長政の項:長忠の子
 ・嫡男。母片桐蔵人太夫為基女。
 ・後堀河院娯宇貞応元壬午七月十九生於信州伊那松尾館。童名豊光丸。
 ・嘉禎二丙午正月十三於祖神社壇元服・十五歳。号孫次郎。従四位下。右馬介。大膳太夫。信濃守。参州之管領。信濃国守護。
 ・寛元四丙午二月五礼法的伝。師範長忠。
 ・建長四壬子六月三日為時頼師範。号最明寺。
 ・弘安十丁亥二月十五出家。六十六歳。法号長阿弥陀仏。
 ・永仁二甲午八月四卒。七十三歳。
 ・・・長政の母が片桐蔵人太夫為基女ということは、長忠の室ということになる。
 ・・・祖神社の可能性は、鳩ケ峯八幡宮のことか。
 ・・・官名は、やはり怪しい。
 兄弟
  ・長冬 母同じ。蔵人。太郎兵衛尉
  ・忠綏 母同じ。小笠原彦三郎。
  ・顕雲 母同じ。出家。
  ・・・長忠の子供の数をみると、側室は置かず、かなりストイックな人柄が想像される。
  ・・・長忠、長政と見ると、事跡など少なく、かなり地味な生活であったのだろう。
  ・・・幕府御家人としての、活動がほぼ見えてこない。
 
長氏の項:長政の子
 ・嫡男。母村上兵部国忠女。
 ・後嵯峨院御宇寛元四丙午八月十七生於信州松尾館。童名豊松丸。
 ・正嘉二戌午十一月十三元服。十三歳。加冠祖父長忠。号彦三郎。従五位上。右馬介。治太。弾正少。信濃守。信州守護。
 ・文永五戌辰三月十五成道。礼法的伝。師範父長政。
 ・正安三丑二月十五出家。五十六歳。法名号長連。
 ・延慶三庚戌八月十三卒。六十五歳。
 ・・・治太・治部太夫、弾正など、御家人とし出仕、京都の治安・六波羅探題か?
 ・・・長氏の頃、、霜月騒動の責任で連座して没落した佐久・伴野家から、長清の正嫡流の小笠原宗家が長氏に引き継がれる。長清の長男。長径から三代後のことである。
 ・ここに松尾小笠原宗家がようやく誕生する。
 兄弟
  ・長朝 母同じ。助二郎。民部少。
  ・長直 母同じ。小笠原三郎。号勅使河原。受譲住参州之所領。
  ・長廉 母家女房。四郎。
  ・長義 母同じ。号弥五郎。蔵人。
  ・長敷 母同じ。号小笠原六郎。
  ・泰清 母同じ。号小笠原十郎。
  ・・・長政の正室は村上兵部国忠女ということになります。
  ・・・次男・長朝も京都に出仕し、民部少輔。三男・長直は三河に所領とあります。
  ・・・長氏の兄弟、子供の養子先などをみると、美濃や三河など、範囲が広がって居ます。立場の違いが行動半径を広げたようです。また三河に小笠原庶流が拠点を作ったことは、後々三河・家康の時代に、家康の家臣・東三河衆(旗頭:酒井忠次)と、西三河衆(旗頭:石川家成)と伊那と三河で交流を持つ源流になって行きます。
  
ここで、松尾小笠原家が宗家(小笠原家惣領)に戻った原因になった「霜月騒動」を少し見てみます。

霜月騒動
霜月騒動とは、鎌倉後期の弘安八(1285)年十一月(霜月)に鎌倉で起こった鎌倉幕府の政変。執権北条時宗の死後、有力御家人・安達泰盛と、内管領・平頼綱の対立が激化し、頼綱方の先制攻撃を受けた泰盛とその一族・与党が滅ぼされた事件です。・・・弘安合戦、安達泰盛の乱、秋田城介の乱ともいう。
源頼朝没後の北条氏(と若手実務官僚(小豪族))と有力御家人との間の抗争であり、この騒動の結果、幕府創設以来の有力御家人の政治勢力は壊滅し、平頼綱率いる得宗家被官(実務官僚=御内人)勢力の覇権が確立した。
背景・・・安達泰盛は幕府創設以来の有力御家人安達氏の一族で、執権北条時宗を支え重職を歴任した幕政の中心人物であった。平頼綱は時宗の子・貞時の乳母父で、北条氏得宗家の執事内管領であり、得宗権力の立場にあった。御家人を支持勢力とする泰盛と、頼綱を筆頭とする得宗被官勢力が拮抗していた。執権時宗が死去し貞時が執権となると、幕政運営を巡って両者の対立は激化して衝突して安達一族が滅ぼされた。
この時、安達泰盛と姻戚関係にあった伴野長泰が連座して、所領を没収されて没落した。伴野時長の娘が安達氏に嫁いで安達泰盛の母となっており、時長の孫で泰盛の従兄弟にあたる伴野長泰は泰盛与党として霜月騒動で討たれ、伴野一族の多くが犠牲となり伴野荘も北条氏に没収されている。

松尾小笠原家、京都に橋頭堡を築く

惣領家が松尾小笠原家に移ると、御家人として幕府への出仕が多くなります。場所は、鎌倉ではなく京都です。既に阿波国守護の小笠原家は、六波羅探題を通して、京都町内の治安維持の目的に加えて、幕府が朝廷に、不穏の動きが起きないようにすると京都治安の役目があり、加えて長清が「弓馬の礼法」(=礼法的伝)の宗家を確立したところです。京都の六波羅探題に武力を送り込みながら、京都に拠点のひとつを創っていきます。松尾小笠原の子息たちは、朝廷に治部太夫、兵部太夫、民部少輔として出仕します。小笠原長氏のころからこのことは活発化します。松尾小笠原家が、京都と関係を深めて、京都に橋頭堡を築く始めの頃のことです。

京都六波羅探題は、阿波守護職小笠原の系統で、その小笠原長経系は六波羅探題の奉行人など鎌倉幕府の京行政府の枢要な官人を輩出する吏僚一族となっています。六波羅探題(北方)に勤務した家名の中に、布施.知久.平賀.中野.仁科.中沢等々の諸氏の名前がみえます。布施.平賀.中野.仁科は小笠原の家臣ではありませんが、知久.中沢は、おそらく松尾小笠原家臣団としても機能していたのでしょう。小笠原家は、京都六波羅の地に南鎌倉幕府の役職も兼任しています。小笠原家の惣領職の継承については、「小笠原系図」では長清?長経?長忠?は甲斐と信濃にあり、次第に北条氏との関係を強め、信濃に勢力を拡大していく、とあります。

官名の確認
群書類従の中の小笠原氏の経歴の中の官名の詳細を確認してみます。
右馬介、大膳太夫、信濃守、参州之管領、信濃守護、蔵人、治太(治部太夫)、弾正少、信州守護、民部少などです。
小笠原家は、幕府にも朝廷にも近く、実際に出仕して奉公していますから、官名詐称する氏族とは考えぬくいので、ほぼ実態に近いと思われます。
 ・右馬介(助) ・・諸国の牧から貢上された朝廷保有の馬の飼育・調教の役職。馬寮という役所があり左馬と右馬とがあった。介(助)は階級を表し正六位下。そして軍事や儀式において必要なときに牽進させて必要部署に供給した。「弓馬の礼式」の宗家としては必然の部署と思われる。
  ・大膳太夫 ・・大膳職は副食・調味料などの調達・製造・調理・供給の部分を担当。これが本来の意味であるが、やがて各地方から奉納される食材に対し、貧乏になった朝廷は、金品の対価を支払えなくなり、代わりに褒美として官名を与えるようになる。太夫は正四位の階級。
  ・信濃守の守 ・・その地方の行政官で四等官(正四位)。室町時代以降はこの”守”の官名詐称が多くなったが、鎌倉時代はまだ実態と適合しているといわれる。
  ・参州之管領 ・・参州は三河のこと。鎌倉時代の管領は、室町時代の管領とは違って、ほぼ権限が見当たらない。その地方の担当官とか執事とかの意味か?不正確。
  ・信濃守護、信州守護 ・・本来は、国(県に該当?)の警察権力を持った行政官(知事)の意味だが、鎌倉後期は信濃国の守護は北条氏が歴任していたので、ここは意味不明。
関東御分国では守護は北条氏だが、代行の守護代か目代のことを守護と呼んだのかもしれない。不正確。
  ・蔵人 ・・天皇家の家政機関。天皇の秘書。
  ・治太(治部太夫) ・・外事・戸籍・儀礼全般を管轄し姓氏に関する訴訟や、結婚、戸籍関係の管理および訴訟、僧尼、仏事に対する監督、雅楽の監督、山陵の監督、および外国からの使節の接待などを職掌。小笠原家は、儀礼全般を管轄。太夫は正四位で、実務官より階級が上。この頃より、正式に”弓馬の礼””流鏑馬”等が正式儀礼として定着していく。
  ・弾正少 ・・弾正台は監察・警察機構。主な職務は中央行政の監察、京内の風俗の取り締まりで、左大臣以下の非違を摘発し、奏聞できた。少は少弼で四等官。
  ・民部少 ・・民部は、財政・租税一般を管轄し諸国の戸口、田畑、山川、道路、租税のことを司る。財政官庁として他に大蔵省があったが租税や租税関係の戸籍はこちらが取り扱ったため大蔵省よりも重視された。少は少輔(従五位下相当)のこと、階級。
  ・六波羅探題 ・・六波羅は京都の地名。今の五条から七条まで。六原とも。鎌倉期までは建物が少なく原であった。この地に探題(警察機構)を建て、付近に地方から奉公で出仕してくる地方武士の宿舎も建てた。室町時代に、別所に警察機構を移すと、この地に寺院が乱立して建ち、寺が集積するようになった。

小笠原家は長氏の時代に、政治活動の場を京都に、経済活動の本貫を信濃に、両方に館を持つようになります。その活動を支える本貫地の経済的地盤が気にかかります。


松尾小笠原宗家の創立まで  第六話

2016-01-18 16:21:54 | 歴史

松尾小笠原宗家の創立まで  第六話

ここで、小笠原長径、長忠が、阿波国守護として阿波に居着いてしまえば、松尾小笠原家は生まれてこないことになります。ここでどんなドラマがあったのでしょうか?
承久の乱の時、小笠原長径は43歳、父・長清は60歳、長男・長忠は19歳、次男・長房にいたってはまだ8歳です。

 ・小笠原長房:生・没(1213-1276)( 阿波国守護)
 ・小笠原長忠:生・没(1202-1264)( 豊松丸、又次郎、兵庫助、信濃守)
 ・小笠原長径:生・没(1179-1247)( 弥太郎、入道, 阿波国守護)

小笠原長径の生涯の再確認
比企の乱までは、前文参照:建仁三(1203)年、比企能員の変では、比企氏方として拘禁された。その後鎌倉を引き払ったと見られ、鎌倉では弟の伴野時長が小笠原氏の嫡家として重用されている。承久三(1221)年、承久の乱で父長清は鎌倉方の大将軍として子息八人と共に京へ攻め上り、京都軍と戦った。乱後の貞応二(1223)年、長経は父の跡を継いで阿波国の守護となっており、5月27日、土御門上皇の土佐国から阿波国への還御にあたって、対応を命じられている。その後出家して小笠原入道と称され、宝治元(1247)年、京都の新日吉社で行われた流鏑馬の神事を務めている(『葉黄記』)。

小笠原長忠
小笠原長忠は小笠原長経の子。伊那地方の松尾の地で出生したとされるため松尾長忠とも称される。父の長経は承久の乱で功績を挙げ、阿波守護職を得たもの、長忠は後に弟(長清の養子)の小笠原長房に守護職を譲り、自身は信濃に帰国し、伊那地方の伊賀良庄の松尾の地に居住した。長房の子孫は阿波小笠原氏となる。小笠原家の家譜によると長忠は松尾の地で生まれたとされる。
長忠とその子の長政の時代、信濃で幕府から重用されたのは小笠原氏の嫡家である伴野氏(伴野時長が祖)であったが、霜月騒動に連座して伴野長泰が殺害・没落したため、長忠の孫で長政の子の小笠原長氏に惣領の座が復帰した。

小笠原長房
小笠原長房は、阿波国守護。小笠原長経の次男で阿波小笠原氏の祖となる。
承久の乱後、兄・長忠が阿波国守護に任ぜられるが、長忠が本国である信濃国への帰国を希望したために、代わって長房が守護となった。文永四(1267)年に幕府の命令を奉じて、三好郡郡領・平盛隆を討ち、褒賞として美馬郡と三好郡に所領が与えられ、阿波岩倉城を拠点とした。子孫は鎌倉幕府滅亡まで阿波国守護を務め、子孫からは三好氏などを輩出した。

貞応元年(1222):長清、阿波守護となる。
寛喜3年(1231):長経、阿波守護となり、勝瑞を守護所とする。
文永元年(1264):長房、三好郡領の平盛高を滅ぼし三好美馬郡を得、岩倉に本拠を置く。

当たらずとはいえ遠からず・
阿波国守護の変遷を推定します。
長清から長径へ、阿波国守護継承。・・貞応元年(1222)。
長径から長房へ、阿波国守護継承。・・寛喜年間(1231-1233)
 ・・長房生誕(1212)+元服(15?)+α。おそらく元服(15歳過ぎ)まで待ったのだろうと思われます。
 
事実の変遷はこのようですが、ここで不思議なのは、何故小笠原長忠は、阿波国守護を選ばずに、信濃・伊那の松尾に帰ることを希望したのでしょうか。
小笠原長忠が、伊那の松尾に帰ることを選んだので、松尾小笠原家が存立し、ここから信濃国に君臨する幾多の”信濃国守護”が排出されるわけですから、興味津津です。
 ・信濃・伊那松尾では、おそらく”地頭”か”地頭代”の役職で”守護”より格下です。
 ・名誉や権力を考えるのなら、この選択肢はなかろうと思えます。
 ・承久の乱(1221)後、知久氏は上伊那の小河内から知久平に移って、伴野庄の地頭となったという。これ以後に、伊那・伴野(豊丘村)地頭の小笠原長清の名が文献から消えます。『守矢文書』には、十四世紀のはじめ伴野庄の地頭として伊具氏、波多野氏らの名があり、鎌倉時代、知久氏の勢力は知久平中心になります。知久氏は、承久の乱の時、東山道軍大将・小笠原長清の配下です。戦功の恩賞に、長清が関わっていたことは充分合理的に納得できますし、伊具氏、波多野氏も同類として推察できます。
 ・小笠原長忠の官名に信濃守と”民部卿”が見えます。鎌倉御家人として、出仕先が京都で、朝廷・民部卿である可能性もありますが裏付ける資料はありません。信濃守は、地方の行政官の官名ですから、知久氏などの地頭を束ねる役目だったと考える方が自然です。
 ・伊那・松尾に帰ってからの長忠は、公的な立場から名前が一切出てこなくなります。
 ・長忠が、伊那・松尾に帰ることを希望したのは、どうも私的な理由からだったのではないかと憶測します。長忠の母同様、室の名前も詳らかではありません。これは何を意味するのでしょうか。武家としての地位や名誉や名声や権力とは、かなり離れた存在だったことが覗われます。かなり興味深いことです。長忠の松尾への帰還と相まって、父・長径も松尾へ帰ったと記録に残ります。
 
小笠原長政:長忠の子
・小笠原長政のことも、小笠原家の家系図に載っているだけで、ほとんど判りません。

*(これは、小笠原家系図ならびに寛政譜からの資料の記載からです。群書類従には、違った内容で記載があります。この部分は次号で詳細します。)

小笠原長氏:長政の子:生没:安貞元~延慶三(1227-1310)年 
・長氏の時に、松尾小笠原家は劇的に変化して行きます。
 


松尾小笠原宗家の創立まで  第五話

2016-01-14 16:59:10 | 歴史

松尾小笠原宗家の創立まで  第五話

承久の乱(1221)以後の小笠原家

まず、小笠原長清をはじめとする一族の事跡と恩賞・官名などから確認してみます。何が浮かび上がってくるのでしょうか?

少し前・加賀美遠光から・・・「吾妻鏡」より拾う
・治承四(1180)年、源頼朝が挙兵した少し後、信濃国は、加賀美遠光が名国司(信濃守)だったが、「実際の国務は目代である比企能員が沙汰しており、信濃国守護も兼務していた」と記録に残ります。”目代”よりも”国司”の方が立場は上ですが、実務は比企能員で、加賀美遠光(小笠原長清の父)は名誉職だったようです。
・治承四(1180)年、加々美次郎長清:富士川の戦い。長清、頼朝の黄瀬川本陣へ。
・治承四(1180)年、加々美次郎長清:頼朝の鎌倉大倉邸に移転する際随行。
・治承四(1180)年、加々美次郎長清:平知盛の家臣・右馬の允橘の公長、子息公忠、公成が鎌倉に投降。 長清が知盛に仕えていた好みで執り成しで鎌倉御家にする。
・養和元年、加々美次郎長清:頼朝の仲介で、上総の権の介廣常の聟と為る。
・元暦元(1184)年、小笠原次郎長清:「故志水の冠者義高の伴類等、甲斐、信濃等の国に隠居せしめ、叛逆を起こさんと 擬するの由風聞するの間、軍兵を遣わし征罰を加えらるべきの由その沙汰あり。 足利の冠者義兼、小笠原の次郎長清御家人等を相伴い、甲斐の国に発向すべし。」・・・高倉天皇より「小笠原姓」を賜り、以後「小笠原」を名乗る
・元暦二(1185)年、小笠原長清が頼朝挙兵に味方した恩賞で、父・遠光の信濃守の官名を継承します。
*元暦二(1185)年、源頼朝の推挙で、信濃守に補任された。ここより、信濃に勢力を浸透させていくこととなる。
・元暦二(1185)年、平家追討の際、「武田(石和)信光と小笠原長清を 誉めている」。逆に、「長清の兄・秋山光朝は敵視されている」。・・・頼朝が弟範頼に出した手紙
・文治元(1185)年、頼朝、全国に守護・地頭を設置:この時期に、長清も信濃国・伴野庄の地頭になった。(伴野庄は伊那・伴野庄と比定。佐久・伴野庄は平賀氏の所有)
・文治二(1186)年、小笠原二郎長清:伴野庄地頭・長清の年貢滞納がしばしばある云々。
・文治四(1188)年、小笠原次郎:伴野庄の年貢の滞納の弁償を申し付けられる。
・文治五(1189)年、小笠原次郎長清:奥州藤原氏征伐に遠光、光行、長経?と参加
・建久五(1194)年、小笠原次郎長清:小山朝政家に随行。弓馬の故実・家説を論ず。
・建久七年~建久九年:吾妻鑑の全文欠文。
・正治元年:頼朝:落馬にて死去。頼家、征夷大将軍に。
・建久十年~建暦三年:この間(14年間)長清に関する記述は無い。
 ・・・
 ①上記までの吾妻鑑の記述でわかるように、信頼を得ていた頼朝の死。
 ②梶原景時の謀反事件(1200年)と長清の従兄弟・武田(逸見)有義 の関連。
 ③二代将軍・頼家の側近となった長清の嫡男・長経、および比企の乱(1203)との関係。
・建保元年、小笠原次郎兵衛長清:将軍(実朝)新御所へ移る時の随行。
・承久元(1218)年、小笠原長清:実朝が右大臣に任じられ、鶴岡八幡宮に参拝の随行。
この時、公暁により実朝は暗殺される。
・承久三(1221)年、小笠原長清:承久の乱において、東山道五万騎の大将軍として。
・承久三(1221)年、小笠原長清:大井戸の渡しを渡り、官軍と戦う。
・承久三(1221)年、小笠原長清:宇治の合戦で、敵を打った武将の名前として。
・承久三(1221)年、小笠原長清:乱に関与した公家の権中納言源有雅を預かる。
・承久三(1221)年、小笠原長清:公家の権中納言源有雅を預かって甲斐国に下着した長清は、有雅が二位の尼(北条政子)へ送った助命嘆願の返事を待たず、処刑する。
・・・承久三年七月を境に、長清は吾妻鑑から姿を消す。
・・・有雅卿を処刑した事に対し、吾妻鑑には、「粗忽のていたらく、定めて亡魂の恨み有るものか」・これは、有雅卿の北条政子へ助命嘆願の結果を待たずに処刑した長清を責めているものである。
しかし、乱の関係者の処刑は、
  1221/07/03、遠山景朝が参議藤原信能を、
  1221/07/12、武田信光が按察卿葉室光親を、
  1221/07/14、小山朝長が権中納言藤原宗行を、
  1221/07/18、北条朝時が藤原範茂を
  ・・・処刑している事に比べれば、むしろ遅いほうである。
長清を責める文面は吾妻鑑の編者の思惑からか・長清が処罰された事実な無い。

「尊卑分脈」から小笠原長清の生涯を辿る

承久の乱の後、長清は阿波国守護に任命された。従って一旦は阿波国への移住、活躍の場が鎌倉から離れます。小笠原長清は、官位も累進し、正四位下、信濃守、豆・相・甲・遠・淡・五カ国の管領となり、後に信濃・阿波両国の太守になった、と記されています。

五カ国は ・・・
 ・豆:伊豆、・相:相模、・甲:甲斐、・遠:遠江、・淡:淡路
のことでしょうか?

阿波国守護
阿波は守護ですが、信濃は信濃守・地頭だと思われます。
承久の乱の恩賞は、息子たちにも、長清とは別口で与えられています。
・小笠原(赤沢)清径は山城国、
・小笠原(伴野)時長には佐久・伴野庄、
・小笠原(大井)朝光には佐久・大井庄です。
  ・・(別説には、次男清経が、山城ではなく、伊豆国赤沢郷を本貫として赤沢氏を称したのに始まる、という説もありますが定かではありません)。
・阿波国守護は長清ですが、阿波国内の荘園地頭は長男・長径と孫・長忠、あるいは長径を”守護代”していたと考えるのが妥当だと思われます。
  ・・そしてすぐ、長清は阿波国と伊那・伴野と甲斐・小笠原領を子息(長径・他)に継承してから隠棲し、京に居住したものと思われます。

弓馬の礼
”弓馬の礼”を創った祖が長清ですから、”流儀”を完成させるのには時間が必要になります。戦役に明け暮れするそれまでの長清の人生ではそんな時間が取れませんでした。「承久の乱」の時に小笠原長清は齢六十歳でした。八十一歳で生涯を終えるまで約二十年間は”弓馬の礼”の流儀の奥義の完成に心血を注いだのだろうと思われます。仁治三(1242)年、長清は京都にて没(81歳)、京都・長清寺(東山の清水坂)に埋葬。その京・長清寺は戦乱に焼けて今はありません。
”弓馬の礼”の奥義は、小笠原長径に引き継がれます。ここで小笠原家に、武家という顔とは別の武家のたしなみとか礼儀とか弓馬の儀礼式の・「弓馬の礼」の宗家の骨格が出来上がります。これにより小笠原家は、武家の中で儀礼を先導するようになり、時には天皇や将軍の教授になり、「別格」として扱われるようになります。
住居としては、守護や地頭として自分の領国のほかに、京都の居を構え、絶えず権力者の近在に存在する、まことに異質の武家に育っていくのです。
これが、松尾小笠原家の源流です。

*気になるのは、伊豆守、信濃守などの”守”という官名は、鎌倉初期の頃は、まだ官名詐称の習慣や乱発もなく、意外に冠の国と関係することが多かったようで、赤沢清径伊豆守は伊豆に関係しているのかもしれません。

長経は正治二(1200)年九月二日条に・・・「小笠原阿波弥太郎」と載せ、 また貞応二(1223)年五月、土御門院を土佐より阿波に遷し奉る条に 「阿波守護小笠原弥太郎長経」とあり。「土御門院土佐の国より阿波の国に遷御有るべきの間、祇侯人数の事これを尋ね承り、注進すべきの旨、阿波守護小笠原の彌太郎長経の許に仰せ遣わさる。四月二十日御迎えの為すでに人を土州に進せをはんぬるの由、長経言上する所なり。今日若君息災の御祈祷等、内外共これを行わると。」・・・
また、当国小笠原氏の事は尊卑分脈に、・・・「長経─ 長房(阿波守、右兵衛佐、小笠原太郎、阿波守護、法名長心)」・・・とあります。貞応二(1223)年には、内外とも、小笠原長径が、阿波国で”守護”を勤めていたことが裏づけられています。また、「承久中佐々木氏の族・官軍に応ぜしにより、長経これと戦いて勝ち、また元仁二(1225)年?殖庄預所長清と相論せし事チエ条にいえり。」の文も見え、承久から元仁の年間は、小笠原長径が、阿波国守護であったことが確認できそうです。


松尾小笠原宗家の創立まで  第四話

2016-01-11 12:25:28 | 歴史

松尾小笠原宗家の創立まで  第四話

伴野庄と佐久の豪族・平賀一族

・「吾妻鑑」文治二(1186)年に、信濃国伴野庄地頭として長清の名がみえている。・
この伴野庄は、信濃・伊那の伴野庄か、信濃・佐久の伴野庄かを別の角度で検証します。

それは、平安末期に、信濃・佐久郷に、豪族として君臨した「平賀一族」の歴史の検証になります

佐久の豪族・平賀一族

信濃・佐久郷(伴野庄、大井庄)は、平安末期から平賀一族が所有していました。平賀一族は、源義光流(森羅?新羅三郎)で、甲斐の武田・小笠原家とは同根の別流になります。

平賀義信(1143~1207)、源盛義の子
信濃佐久郡の豪族。「平治の乱」(1159)に源義朝に従い軍功。武蔵を巡り畠山氏と対立。
室:比企ノ尼の娘。子息:隆信(平賀[大内]惟義)、朝信。
官名:美濃守護(1185-1186〉、別名:大内四郎・武蔵守・入道・義宣。

平賀(大内)惟義 (*~1220*)、平賀義信の子。
伊賀国大内荘を領する。源義経の平氏追討軍に参加。「一ノ谷の合戦」に軍功。伊勢羽鳥山に志田義広を追撃する。
文治元(1185)年に頼朝の推薦で後白河院から相模守を拝領。
文治五(1189)年の「奥州征伐」に従軍。建久元(1190)年に頼朝と共に上洛。主に在京し京都の治安維持にあたる。
母:小早川遠平の娘か。藤原秀宗の妹婿。子:惟信、惟親、家信、惟家、義海。
官名:美濃守護(1187-1195〉、別名:大内・冠者・相模守。美濃守護、伊勢・伊賀守護。

平賀朝雅(*~1205)、平賀義信の次男。
佐久の豪族。武蔵を巡り畠山氏と抗争。1205年将軍職を望み、山内首藤通基により討伐。
室:北条時政の娘(北条時政の後妻・牧の方の娘婿)。
官名:京都守護、武蔵守、右衛門佐、別名:朝政。信濃源氏。新羅義光系。

平賀(大内)惟信、大内惟義の嫡男。
鎌倉前期の武将。鎌倉幕府御家人。清和源氏義光流。母:藤原秀宗の妹。
・・・
・元久二(1205)年に叔父の平賀朝雅が牧氏事件に連座して誅された後、朝雅の有していた伊賀・伊勢の守護を継承し、在京御家人として京の都の治安維持などにあたった。帯刀長、検非違使に任じられ、南都神木入洛を防いだり、延暦寺との合戦で焼失した園城寺の造営を奉行するなど重要な役割を果たした。建保七(1219)年に三代将軍源実朝が暗殺された後、父惟義から惟信へ家督が譲られたと見られ、惟義の美濃国の守護も引き継いだ。
承久三(1221)年の承久の乱では後鳥羽上皇方に付いて伊賀光季の襲撃に加わり、子息の惟忠と共に東海道大井戸渡の守りについて幕府軍と対峙した。敗北後、逃亡して十年近く潜伏を続け、法師として日吉八王子の庵室に潜んでいた所を探知され、寛喜二(1230)年12月、武家からの申し入れによって比叡山の悪僧に捕らえられて引き渡された。捕縛の際、力は強いが刀は抜かなかったという。(『明月記』)。その後一命は許されて西国へ配流となった。・・・江戸時代に、天才・奇才の博学として名をはせた平賀源内は四国が出自と聞くが、繋がっているのかも知れない。
承久三(1221)年の承久の乱で敗北した佐久の豪族・平賀一族は、この時点で没落し、所領の伊賀、美濃、信濃佐久は、幕府に没収されて、信濃佐久の権益は、小笠原一族の伴野氏と大井氏に移ったと見られる。 ・・・

平賀一族の経歴と姻戚関係を視野に入れて、当時の政治情勢を思い浮かべてみると、源実朝の亡き後に、将軍を狙ったことと考え合わせると、平賀氏の扱いがあまりにも軽い気がするのですが、平賀氏が「承久の乱」で朝廷側に味方したことから、北条氏の”ポチ”であった「吾妻鏡」編纂者の意図的な”軽視”に思えてなりません。


松尾小笠原宗家の創立まで  第三話

2016-01-06 12:38:24 | 歴史

松尾小笠原宗家の創立まで  第三話

話が、承久の乱の前に戻ります。
比企の乱と源頼家(二代将軍)の近習・小笠原長径 ・・*近習・主人の側に仕える人

小笠原長径は、建久元年(1190)源頼朝上洛の際に随兵として名が見られます。その後、頼朝死後に跡を継いだ将軍・頼家の近習となり、的始儀の射手や狩の供を務めています。将軍・頼家が十三人の合議制に反発して選んだ五人の近習・側近にも選ばれています。
この二代将軍・源頼家の五人の近習に選ばれたことが、続いて起こった「比企の乱」に巻き込まれる要因になっていきます。源頼家の外戚として権勢を握った比企能員とその一族が、北条時政の謀略によって滅ぼされた事変です。小笠原長径は、頼家の五人の近習=比企能員派として捕らえられるわけです。
この頃、父・小笠原長清は、あと三代将軍になる実朝から信頼が厚く、長清の妹・長径の叔母も大弐局として鎌倉府にあり、頼朝の側女であった大弐局は実朝の養育係でもあった関係で、処分的には鎌倉追放というかたちをとり、小笠原長径を隠棲させます。この時、長径は所領を没収されたとありますが、どこを所有していて没収されたのか場所が比定できていません。この事変の概要は、『吾妻鏡』によるものです。
『吾妻鏡』の記述から、源頼家(1182-1204)、小笠原長径(1179-1247)、北条時房(1175-1240)はほぼ同年代で、蹴鞠の遊び友達であり政治的な話題でも相談相手だったことが浮かび上がってきます。さらに北条時房は、北条時政の五男であったわけで、源頼家を主君にしたのは事実としても、比企家の勢力下にあったかどうかははなはだ疑問です。

近頃の研究では、頼家が選んだ五人の近習のひとり、中野(四郎)能成のことについて、興味深いことが研究成果として出てきています。
・・・ 頼家近習であった信濃国の御家人・中野能成は、比企氏滅亡直後の建仁三年(1203)九月四日の日付で時政から所領安堵を受けており、「比企能員の非法のため、所領を奪い取られたそうだが、とくに特別待遇を与える」という書状が『市河文書』に残されているが、『吾妻鏡』では能成は頼家に連座して所領を没収され、遠流とされた事になっている。この能成と深い関係のあった時政の子・北条時房も頼家の蹴鞠の相手となっており、頼家の周辺には北条氏による監視の目があったと見られる。・・・

この中野能成を例に、小笠原長径の処分を類推すれば、処分は形式的なもので、実態は所領の没収などなかったのではないかと思えてなりません。長径の場合は、「市河文書」のような考証材料がないため断定はできないのですが ・・・・・。
それにしても、『吾妻鏡』というのは、鎌倉幕府編纂書であるがゆえに、鎌倉幕府に都合のいいような記述がかなり見受けられそうですね。つまり、敵対した側はかなり悪く書かれている、時には事実が曲げられている、と見たほうがいいようです。

もう少し踏み込むと、二代将軍・源頼家と北条時房と小笠原長経は「蹴鞠仲間」という記述が出てきています。多感な青春期の遊び仲間です。青春期の遊び仲間は、裏表が無く性格や気性や考え方が仲間にはすべて丸分かりです。これを気心が通じるといいますが、二代将軍を筆頭に、鎌倉幕府の有力者の子息達です。北条時房は、時政の子、兄が北条泰時です。当然政局の話も常に出てきており、各々の見解も仲間には筒抜けでしょうし、甲斐源氏の武田。小笠原が何を考えているのかも伝わっていただろうと思います。
こう考えると、北条時政が、息子・時房を通じて情報を得ていたことは確かだろうけれど、時政・政子の比企氏謀殺は、かなり勢力争いの意味が濃いと思えて、小笠原長経は巻き込まれて、形式的な処分をせざるを得なかったのだろうと推察できます。
して、処分の実態・実際は、この時には「伊賀良荘」が尊勝寺領から時政の手に移っており、ここの経営を任せたのではないかと。勿論「伊賀良荘」の所有は北条時政のままですから、役職は定かではありませんが、”地頭代(代官)”かと思われます。

そんなこんなで、小笠原長径は公的な場から隠棲を余儀なくされます。もちろん形式的とはいえ幕府の処分対象ですから、嫡流を外されてしまいます。ここで、小笠原長清を継ぐ小笠原家宗家は、伴野(小笠原)時長(六男)になるわけです。
長径の隠棲の場所は、長径の嫡子・長忠が伊那・松尾で生まれたことから伊賀良庄が俄然有力になってきます。
いよいよ、松尾小笠原家・・信濃・伊那・松尾に長径が足跡を残します。

その根拠のなったのが、小笠原長忠:長径の次男:松尾長忠(又次郎)のこと。長忠の生没(1202-1264)・・小笠原家家譜より。
小笠原長径の次男が長忠で、長忠は伊那・松尾で生まれた、と小笠原家譜に記してあります。
小笠原長径は、二代将軍・源頼家に近習として仕えて、比企の乱(1203)に巻き込まれて、所領没収の上追放とあります。長径の子・長忠の生誕が建仁二(1202)年、比企の乱が建仁三(1203)年、長径の追放が建仁三(1203)年。建仁二(1202)年は、辻褄として普通に考えれば鎌倉在住のはずです。小笠原長径の追放前後と長径の子・長忠の生誕前後が交錯します。どのように読み解けばいいのでしょうか。

ここで、二つの視座で眺めてみようと思います。
まず、当時の政治情勢・
「比企の乱」が起こった原因は、鎌倉幕府において、頼朝の乳母・比企尼一族が外戚となって勢力を拡大していた時期で、北条時政・政子らの北条一族は、勢力の相対的低下があり、勢力挽回で焦りがあったことが確認されています。北条一族の勢力基盤は、この時点では磐石ではなかった。次に、甲斐源氏の武田・小笠原一族は、北条一族に対しては独立気運が高く若干距離を置いていたといわれています。ここで注目すべきは、同じ二代将軍・源頼家の近習・中野能成の処分の仕方の実像です。「比企能員の非法のため、所領を奪い取られたそうだが、とくに特別待遇を与える」が、北条時政の実際の処遇の仕方です。
これを類推すれば、小笠原長径も同様の処遇の仕方が考えられます。つまり・形式的には、長径は所領没収の上追放ですが、所領を与えられて(安堵されて)いた、と考えられるのです。北条時政は、甲斐源氏を敵方へ追いやりたくはなかったとも考えられます。
次に鎌倉時代の奉仕のかたち・
平安時代の朝廷とか政権への奉仕の年数は三年が普通でした。しかし三年じぶんの領国を離れていると、力ある豪族が留守を狙って、領国を略奪する例が頻発します。そこで頼朝は、鎌倉幕府へ奉公する期間を半年にしました。鎌倉幕府の御家人は、半年は領国で過ごせるようになったわけです。この制度から考えると、いくら近習とはいえ、じぶんの領国へ戻れる余裕はあったと考えるのが合理的です。こう考えると、長径、長忠親子の追放と生誕の交差する期間の複雑さは解けます。

当時の、南信濃の荘園の統治形態はどのようだったのでしょうか?
平安末期、南信濃の荘園は、「伊賀良荘」、「伴野荘」、「江儀遠山荘」、「麻績荘」が、文献的に確認できるそうです。(このうち、「江儀遠山荘」、「麻績荘」は本文の目的から反れますので外します。「麻績荘」は、犀川沿いにもあるので紛らわしい)
「伊賀良荘」は、平安末期まで尊勝寺領となっているのが見えます。保延年間の文字が見えるので1136年から数年のこと、鎌倉幕府成立の50年余前の話です。その後「治承・寿永の乱」で頼朝が挙兵し平家を破って鎌倉幕府が成立します。尊勝寺領の「伊賀良荘」は、鎌倉幕府成立の時点で北条時政の所有の荘園に変わっています。「伊賀良荘」地頭が北条時政ということになります。正確な日付を指す文献が残っていませんが、以後「伊賀良荘」地頭が北条時政であるという証拠は揃っているようです。
「伴野荘」は、どのような統治形態だったのでしょうか。
・・・「吾妻鑑」文治二(1186)年十月二十九日の条には、信濃国伴野庄地頭として長清の名がみえている。・・・小笠原長清のことです。
「治承・寿永の乱」に頼朝に与して戦功をあげた小笠原長清への論功行賞と考えてよさそうです。
ここで問題なのは、伊那に”伴野”があり、佐久にも”伴野”があり、どちらだろうか、ということです。佐久の”伴野”は、「承久の乱」の論功行賞で小笠原時長に与えられていますから、もともとの小笠原家知行の地を褒賞されるのも変な話です。その後に起きる「承久の乱」の時、伊那谷の豪族を糾合して東山道を進軍していった事実とその後に南信濃が小笠原家の拠点になった事実をつなぎ合わせ、さらに小笠原長径が伊那・松尾に住んだ事実から、すべて文献の裏づけなしの状況証拠ですが、小笠原長清が伊那・”伴野荘”の地頭だったと考える方が、すべてに整合性があります。
そして、中世,赴任しない地頭の代わりに在地にいて実務を担当した者。一族や郎党の者が任命された。これを地頭代(官)と呼んだようですが、北条時政は、小笠原長径に”伊賀良荘」の地頭代をやらせたのではないかというのが推論です。・・・状況証拠の繋ぎあわせなので断定はしませんが、そうとでも考えなければ、松尾に小笠原長径は出現しませんし、松尾小笠原家が成立しなければ、松尾長忠(小笠原長忠)はないわけで、中興の祖の小笠原貞宗の存在も危うくなります。


松尾小笠原宗家の創立まで   第二話

2016-01-06 10:36:51 | 歴史

松尾小笠原宗家の創立まで 第二話

話が、少し先へ飛びます。
承久の乱・東山道軍

さて、承久の乱の東山道軍の大将は武田信光と小笠原長清が任命されています。この戦の道順に、武田信光は甲斐の鎌倉御家人と諏訪家が合流して東山道本道を木曽へ抜けて岐阜へ、小笠原長清は伊賀良に痕跡があることから伊那道を経て、御坂峠越えで岐阜へ、岐阜あたりで武田軍と合流したのではないかと思われます。伊那道の小笠原軍は、途中で中澤氏、片桐氏、知久氏などを幕府軍として糾合しています。ここで始めて、小笠原家と南信濃がつながります。伊賀良は伊那道と東山道をつなぐ拠点で、ここで待って、続々と幕府軍に参加してくる伊那谷の御家人武士の大軍をまとめ上げたのではないかと思われます。長清寺あるいは長石寺(時又)は、そのときの戦勝祈願寺で、のちに子孫の丸毛氏が整備するまでは、そんなに立派でなかったのだろうとも思います。

まず嫡子(六男):伴野時長:生没年不詳。

長径のほうは生没年(1179-1247)と見えていますが、伴野時長の生没はわかりません。何故、六男が正嫡なのかは不思議ですが長清の正妻が幕府の有力者の娘なら頷けます。そして政変によって家系を失い、小笠原家の家系からも抹消されたのなら、時長の母が不詳とされている意味が解けてきます。時長は鎌倉か小笠原郷で生まれ、元服まもなく嫡男と認められたのだろうと思われます。・・・長清の正妻:上総広常の娘が母親だろうと推定。長清が頼朝挙兵から幕府軍に参加して戦功があったことから有力御家人となり、正嫡の時長は早くから鎌倉幕府に出仕していて儀礼儀式に参加しています。
承久の乱(1221)のとき、小笠原長清は大将の一人として東山道軍の旗頭となった。この時子息八人は、父とともに参軍している。時長は、この時の戦功で幕府軍の反対勢力の大内氏の領土・佐久伴野庄を引き継ぎ、伴野時長と名乗るようになります。幕府も、伴野時長を小笠原長清の宗家として認めています。弓に優れ将軍の側近の一人であったが、やがて婚姻関係にあった安達氏がかかわる霜月騒動(1285)に連座して没落。伴野時長から三代後・伴野長泰のときのことです。承久の乱前に信濃に痕跡がなし、承久の乱後の霜月騒動で没落。

大井朝光(長清の七男):信濃国大井氏の祖
建久九年(1198)、小笠原長清の七男。母は上総権介平広常の娘。
長清の妹・大弐局は源頼朝の側女、兼実朝の養育係であった。大弐局は子がなかったので甥の大井朝光を養子とし、出羽・由利郡の所領を継承した。以後、由利郡には大井氏一族が地頭代なり仁賀保氏、矢島氏などの祖となった。
承久元年(1219)正月、実朝が鶴岡八幡宮に拝賀参詣した時、道中の随兵(実朝は公暁に暗殺された)。承久三年(1221)朝光は承久の乱で小笠原長清父子らと甲斐・信濃の軍勢五万を率いて東山道より上洛し、宇治川の合戦で功を挙げ、その功により大井庄を賜ったとされる。小笠原長清から引き継いで大井庄地頭となった朝光は岩村田郷に大井城を築いた。承久の乱後、長清が阿波国守護になったのを契機に阿波へ移り、その嫡流がそのまま長経、長房と続いた。佐久地方は、長経の弟時長が伴野荘で、朝光が大井荘で勢力を伸ばし分立した。承久の乱前に信濃・佐久にに痕跡なし、承久の乱後の霜月騒動の後も一族延命。系流が大弐局の流れと言うこともありそうです。

小笠原長径:小笠原長清の長男

小笠原長径の生誕に関して興味深い内容が『続群書類従』に記載されています。
長経について治承三年(1179)五月に山城国六波羅館で生まれたと記し、その二男に清経をおいて「或六波羅二郎。赤沢山城守受譲。」・・『続群書類従』巻124・「小笠原系図」。

この文献が真実として解読すると、小笠原長清が17歳の時の子ということになります。小笠原長清は元服を終えて京都の行き、平知盛に仕えたとされていますが、長清の子・長径は山城・六波羅館で出生とあります。
そして次男は清径・・小笠原家庶流・赤沢家の誕生もここに見えてきます。赤沢家は現在にも命脈を繋げる家系ですから、かなり説得力があります。ただ、赤沢家が小笠原家庶流であることは確かだろうけれそ、系図には、長径の子となっているものもあり、複雑です。長径の母については、藤原邦綱の娘?の記述があることから、頼朝の敵であった平清盛一族の係累が考えられます。藤原邦綱は、四人の娘を六条・高倉・安徳の三天皇及び高倉天皇中宮・平徳子の乳母とし、豊かな財力を活用してその養育に力を尽くしています。平家と親密な関係を深めて、白河殿盛子(関白・近衛基実室)の後見をつとめたが、仁安元年(1166)に基実が没すると多くの摂関家領を盛子に相続させています。この背景を考えると、長径が母の出自を曖昧にしたのは、母方が鎌倉幕府の敵方であったためからかも知れません。弟・赤沢清経は「六波羅二郎。赤沢山城守受譲」とありますが、普通に読めば、承久の乱の時の恩賞ですが、まだ確かめていません。
六波羅探題は、京都の治安部署であり、六波羅館は六波羅探題に勤める武人の館・宿泊所という意味であります。山城・六波羅館の所在の地が比定できません。なぜ京都ではなくて山城なのかも解けません。山城(滋賀県)が初期小笠原家と関係が深かっただろうことだけは垣間見られます。

長径は元服して、山城・六波羅舘から長清のもとへ戻り、鎌倉府に将軍・源頼家の近習として仕えて、比企の乱(1203)に巻き込まれます。小笠原長径は25歳、父・長清は42歳のことであります。


松尾小笠原宗家の創立まで

2016-01-04 14:08:19 | 歴史

保科家、伊奈家(荒川家)と探ってきましたが、力不足で探求が頓挫しています。

この間、周辺の歴史も見てきましたが、松尾小笠原家の小笠原定基がかなり興味深い人物のようです。松尾小笠原家は、府中小笠原長棟に敗れたこともあり、地元ではあまり人気がありません。郷土史家の探求も、ここには眼が向いていないらしく、あまり面白い研究書もなく、・・では自分が、・・という気になっています。

まず、松尾・小笠原家の成立のあたりから、・・・・・

 

松尾小笠原宗家の創立まで

松尾小笠原宗家の源流を探って見ます。
室町時代に信濃守護を歴任した小笠原家は、甲斐に出自を持つといわれています。甲斐は、武田家の地、小笠原家は武田と同根の同族であり、源氏の流れをくんだ氏族であったわけです。
「源氏の流れ」とは、清和源氏義光流となっています。

小笠原家の祖・小笠原長清

つまり、平安時代に、京都の朝廷から関東平定のため派遣された武官・源義光を祖として関東各地に子孫が定着していった中で、甲斐に定着した流派の一つが、まず武田で、その三代後に、武田家から分流したのが”加賀美遠光”であり、その正嫡が甲斐国巨摩郡小笠原郷・小笠原牧に住んで、小笠原を名乗り、その正嫡の名が”長清”です。小笠原長清が、小笠原家の祖になるわけです。

その小笠原長清の生涯を追ってみます

生まれたのは、応保二(1162)年、父は加賀美遠光で次男、母は杉本義宗の娘。杉本義宗は三浦一族で桓武平氏良文流。・・「母は和田義盛の女、小笠原氏を称し、小笠原二郎と号す」という別説がありますが、和田義盛(1147-1123)の年齢を考えると、むしろこちらは長清の妻、伴野時長の母、と考える方が妥当です。いずれにしても、三浦一族とともに、頼朝挙兵に呼応したようです。出生の地は詳らかではないが、父・遠光の所領の甲斐国巨摩郡小笠原郷が推定されます。元服を過ぎて京都に出仕し、兄・秋山光朝とともに平知盛の被官。長清・19歳のときに、1181年に源頼朝の挙兵に応じるべく、母の病気を理由に平知盛を退官して頼朝に参じたとされています。
その後、源頼朝の軍にあって治承・寿永の乱において戦功を重ね、父と同じ信濃守に任じられています。信濃守の役割はよく見えてきません。
長清・26歳のとき、鎌倉幕府が成立するとすぐに、鎌倉府に出仕して御家人になっています。弓馬に長けた長清は、海野幸氏・望月重隆・武田信光と並んで「弓馬四天王」と称されていました。
ここまでは、信濃守の官名はあるものの信濃国とのつながりはまだ見えてきません。

小笠原長清の子供たち

実に子沢山であります。到底、同じ母の子供であるとは思えません。
長清の生涯を尋ねると、まず元服を過ぎると京都へ出仕します。長男・長径の出生が、山城・六波羅館となっているのから憶測すると、京都か山城に現地妻がいたようです。山城・六波羅館で生まれたのが長径と清径ということになります。鎌倉幕府に仕えてから生まれたのが八代長光、小田清家、伴野時長、大井朝光、伴野教意、伴野為長、大井行長、鳴海清時、大蔵清家、大倉長隆、八代長文、伴野行正、大倉行信、伴野行意、他ということですが、母親が特定できません。
承久元(1219)年に参軍した長清の八人の子息は誰でしょうか。
まず、戦功で褒美をもらっているのなら、確定できそうです。・小笠原長径(長男)、・赤沢清径(次男)、・伴野時長(六男)、・太井朝光(七男) この四人は確定です。他に承久の時代に、元服を終えていた可能性があるのが、・小田清家(三男)、・八代(四郎)長光、の二人になります。しかし以後の文献に出てきません。他の子供は戦死した可能性があります。太井(七郎)朝光は、生没(1198-1125)の年代が明らかにされています。

*この時代の”元服”(成人)は15才前後と比定され、今の小六から中一の年代となります。例外としては、北条時行のように、繰上げ元服されて、幼児・小一の頃の6,7歳で元服するものもありました。これは明らかに政治的意図があったと思います。
*調べてみても、五男、八男は名前すらわかりません。承久の乱で、戦死した可能性があります。

小笠原長清とその子孫は、この承久の乱挙兵の過程とその戦功の褒賞によって、信濃国と関係を持つようになります。