探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

松尾小笠原宗家の創立まで  第八話

2016-02-06 16:17:30 | 歴史

松尾小笠原宗家の創立まで  第八話
  
松尾館と松尾城

小笠原家の松尾館は、小笠原長径が隠棲して住み、以後松尾小笠原家の当主が住んだ館である。
 従って、松尾小笠原館の当主は、
 小笠原長径
 小笠原長忠
 小笠原長政
 小笠原長氏
 小笠原長宗
 小笠原貞宗へ続く。
  ・小笠原長氏の時、佐久・伴野家が「霜月騒動」で没落し、小笠原宗家が松尾小笠原家へ移る。以後、松尾小笠原家が、小笠原宗家になる。
  ・小笠原長宗の時、「建武の新政」で足利尊氏が鎌倉幕府を倒す。小笠原長宗、貞宗親子は、六波羅探題の信濃武士を束ねており、尊氏の要請で六波羅探題を、鎌倉幕府側から尊氏・後醍醐天皇の側につけて京都を制する。以後、小笠原長宗、貞宗親子は足利尊氏の盟友ととして活躍。
  ・小笠原貞宗は信濃国守護になり、北条得宗家の味方が多い北信の鎮撫として府中(深志・現松本)に戦陣・陣屋を置く。これを、府中小笠原家の創立と見る書を見かけるが、貞宗は戦役が多く、戦役以外は松尾と京都在住が多く、住居としていたかどうかは疑わしい。
 小笠原貞宗の子息たちは、小笠原家の知行地となった府中と松尾にそれぞれ配されて、それぞれの当主として並立するようになる。
 小笠原政長 信濃国守護 ?
 小笠原長基       ?
 小笠原長将 信濃国守護 ?
 小笠原政康 信濃国守護 松尾小笠原
 小笠原光康 信濃国守護 松尾小笠原
  ・小笠原光康の時代以後に、松尾小笠原家は分離して、鈴岡小笠原家が創立する。
  府中、松尾、鈴岡はそれぞれの地方の知行者として独立し宗家を争うようになる。
  ・このとき、松尾小笠原家は、城郭として存立した鈴岡小笠原家に対抗して、「松尾館」から「松尾城」を作り、移ったものと思われる。
  

・松尾館は、いみじくも、飯田氏松尾”城”という「字」名で痕跡を残し、伝承されているが、場所を比定できる証拠は残っていない。清見寺がその痕跡跡?
・北西に位置する”代田”は、元は”北”を意味し、”きた”は、始は”城田”と書き、やがて”しろた”と呼ぶようになり、”代田”と書くようになった。定かではない。
・舌状扇状地と河岸段丘の台地の織り成す地形は、古くは諏訪神社の神域であったようである。名残の地名は”御射山”であり、残存する諏訪神社が証拠である。かっては、ここにも鹿がいたのであろうか。
・鳩ケ峯八幡宮は、松尾小笠原家の”於祖神社”(氏神)であろうか。
・南の原は、”御射山”の南と解釈したが、果たして?


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