探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

研究ノート「工藤昌祐・昌豊兄弟の”放浪”の足跡」

2014-10-30 00:40:53 | 歴史

研究ノート「工藤昌祐・昌豊兄弟の”放浪”の足跡」

武田信虎と工藤虎豊

工藤虎豊(くどう とらとよ)
 ・・・子:工藤昌祐、子:内藤昌豊(昌秀とも)

略歴
・1490年(延徳二年)、武田氏家臣・工藤祐包(すけかね)の子として生まれる。
・1507年(永正四年)、甲斐武田氏当主武田信縄が労咳で病死すると嫡子信直(後の信虎)と叔父油川信恵との間で家督争いが起き、虎豊は小山田弥太郎と共に油川方に与した。
・1508年(永正五年)、信虎が信恵を奇襲で討ち取ると降伏して帰参を許されている。以降信虎に仕え、その一字を賜り虎豊を名乗る。
・1536年(天文五年)、駿河で今川氏親が病死し、嫡子栴岳承芳(後の今川義元)と庶子玄広恵探との間で家督争い(花倉の乱)が起き、敗れた玄広恵探方の者が信虎を頼って甲斐に逃れてきた際に信虎は全員に切腹を命じたため、虎豊は強く諌めたところ、勘気に触れて殺されたという(諸説あり)。
・虎豊の死後、嫡子昌祐は一族を率いて甲斐から脱して一時工藤家は断絶。次子祐長(後の内藤昌豊)が甲斐に戻るまで諸国を流浪したという。 …上記wikipediaによる

 ・・天文五年(1536)、この年は、甲斐武田家にとって激震が走った年である。
 ・・・海ノ口城攻略戦(1536年). 武田軍 (兵数 8,000). 総大将を武田信虎として、武田晴信. 海ノ口城 (兵数 3,000)を攻撃する。海ノ口城は総大将を平賀源心として向討つ。 戦況は、信濃国侵略を狙う武田信虎は、 天文四年(1535)に諏訪氏と同盟を結んだ上で、 天文五年(1536)11月、怒涛の勢いで海ノ口城を攻撃する。しかし、海ノ口城は城塞が強固の上、平賀源心が剛の者で、無勢ながらよく戦い、膠着状態に陥った。季節は冬にさしかかり、雪が舞い始め、野営の遠征軍には悲惨な状況になったという。年の瀬と正月を間近に控える時期なると、両軍ともに厭戦気分が蔓延し始める。どちらかと言えば、甲斐武田軍の方が、戦意が無くなっていたと見える。ここで、信虎は、撤退を決意して退却をすることになった。
 ・・・この時、初陣が信虎の子・晴信(=信玄)であった。武功を望んだ晴信は、信虎に、執拗に殿を申し出て、根負けした信虎は、晴信にを300与えて殿軍をまかせた。
 ・・・この撤退の様子を確認した海ノ口城の平賀源心以下の佐久軍もまた厭戦が漂っていた。援軍もまた遠征してきていた。正月を自分の居城で過ごしたいのは、甲斐軍と同じである。援軍の主力部隊は、須坂の井上一族である。井上軍は、甲斐武田軍の撤退退却を見届けると、須坂へ帰っていった。残ったのは、平賀軍の500、半ば祝勝気分で宴会し、戦意は薄れてしまった。
 ・・・この弛緩してしまった海ノ口城の平賀軍へ、晴信の殿軍が、踵をかえて襲いかかったのである。こうして勝利した甲斐・武田軍は、次期嫡子・晴信が初陣を飾り、武田軍の中で次期頭領としての信頼を太くしていったのである。
 ・・・この時、逆に、海ノ口城・平賀軍と佐久軍が、なぜ追撃しなかったのか?追撃していれば、戦局は大きく変わっていたように思う。武将としての資質の問題はあるが、戦局としては、500対300の局地戦であり、戦況に大きく響く問題ではない。
 ・・・しかし、ここで武田信玄の偶像が生まれる大きな切っ掛けになっていった。甲斐・武田家として見ると、象徴的な出来事だったわけである。

花倉の乱(今川家の内乱)
 ・・乱の発端は天文五年3月に今川氏輝が24歳の若さで急死したことに始まる。さらに同じ日に氏輝の兄弟である彦五郎も死去。2人の兄弟が同時に亡くなったことで今川氏の家督をめぐって危機的な状況が生じました。
 ・・・氏輝には子がなく、家督候補として2人の弟が挙がる。
一人は今川義元で、母親は氏親の正室。彼には養育・補佐役として臨済宗の僧であり軍師としても名高い太原崇孚雪斎が付いており、正室の子である義元が家督継承者としてもっともふさわしい存在。
その義元と争ったのが異母兄の今川良真です。母親は今川氏重臣である福島氏の娘。当時、良真は遍照光寺の住持で、「花蔵殿」・「花蔵」と表記されています。
2人の後継者候補と双方を推す2分した家臣たちによる駿河国内の勢力争いが花蔵の乱。
 ・・・花蔵の乱については、今川館のあった駿府周辺や由比城などで両軍の戦いが行われており、乱の最終段階は花倉城が落城し、瀬戸ノ谷に逃れた恵探たちは本郷の亀ヶ谷沢で自害し乱は終息しました。

 ・・・敗れた玄広恵探方の者が信虎を頼って甲斐に逃れてきた際に信虎は全員に切腹を命じたため、虎豊は強く諌めたところ、勘気に触れて殺されたという(諸説あり)。

この花倉の乱は、海ノ口城攻撃に先立つところの四月頃。それまで、信虎の武田軍と今川軍は、度々戦いをしており、今川軍に殺された武田家臣も居たところから、独断で今川義元に肩入れすることに危惧を抱いていたのが、武田家臣団の大勢であった。そして、信虎への諫言に対して勘気で殺害された工藤虎豊にたいして、同情していた。
この、信虎への反感・心情を共有していた武田家臣団は、一挙に晴信擁立に動いたのだ。

 ・・・天文十年(1541)6月、武田晴信が父・信虎を追放しました。

武田晴信と工藤虎豊の子・昌豊・昌祐兄弟

・天正十五年(1546)、昌豊は、工藤祐長と名乗って相模・伊豆を放浪していたが、武田信玄に呼び戻されて、兄・祐元が甲斐・工藤家を継ぎ、弟・祐長は、空位になっていた甲斐の名跡内藤家を継ぎ、内藤昌豊/昌秀と改名した。

この時、武田晴信を取り巻く重臣は、工藤虎豊と同様に、花倉の乱の時、信虎を諫めて、信虎の勘気で殺された武田家臣の子が、多く占めていた。
 ・・・信虎を諫めるなどした内藤虎資、馬場虎貞、山県虎清、工藤虎豊を自ら斬り殺しています。内藤虎資は家系断絶、工藤虎豊は子孫追放、馬場、山県の子は晴信の側近。
 ・・・武田晴信は、花倉の乱に、断絶した、あるいは追放した家系を、馬場や山県らと復権したと見て良い。これが、天正十五年の武田晴信(信玄)の最も重要な仕事であった。

工藤兄弟の名前の確認
 ・・兄・祐元 別名:昌祐、昌裕、籐七郎
  官名:長門守     武田信廉に仕える
 ・・弟・祐長 別名:昌豊、昌秀、源左衛門
  官名:修理亮、下総守 武田晴信(信玄)に仕える:内藤に姓を変える

年譜
 ・・ 1536年、工藤虎豊が、武田信虎の勘気で殺害され、子息は甲斐から追放される
 ・・ 1546年、武田晴信が、放浪の工藤子息二人を呼び戻し、工藤家を復権させる
 この間10年 ・・・工藤兄弟は、
 ・・ 相模・伊豆を放浪していた、とあり
 ・・ 関東周辺を放浪した、と言う説もあり
 ・・ 海の近くに住んだ、ともいう。

以上、上記までが史歴に残された情報であるのだが、さてさて、どうも工藤家の歴史を繋いでいる”祐”の通字が気に掛かる。

 ・・・”祐”の通字は、鎌倉期初期の「曽根物語」にでてくる敵役の工藤祐経(すけつね)に通じる、名跡・工藤家の通字の”祐”である。

 ・・・この、工藤祐経の子孫は、「犬房丸伝承」があり、伊那に配流され、伊那の何カ所かに、その痕跡が残る。例えば、大草、神稲・林、伊那・狐島、箕輪・小出などなど。ただ、犬房丸伝承は日本各地に残り、伊那に足跡を残したという史実も、証左とする資料の少なさから、一部に疑問があり、断定されるに至っていない。従って工藤(宮藤)家の血流が繋いだとする説も若干疑問が残る。
 ・・・通常、領主に放逐された場合、その領主の影響が及ばない親類を頼るのが常では無かろうか、と思う。そうすると、信州伊那のどこかにも、隠れ住んだ可能性が出てくる。この時、信虎から隠れたのであって、伊那のどこかでは、その地の領主からは身を隠す必要はない。
 ・・・工藤兄弟が、かっての武田家臣へ帰参する切っ掛けとなったのは、板垣信友の斡旋に拠るところという史実が残るという(・・当方未確認)。
この頃の板垣信友の事跡を、『高白斎記』から辿れば、・・・高遠頼継を追い藤沢頼親を屈服させた晴信は、天文十二年(1543)、信方を「諏訪郡代(上原城代)」に任じ、上原城を整備して入部。諏訪・佐久両郡に所領宛行を行っている(「千野家文書」)。諏訪支配を担当した信方の立場は「郡代」の呼称が用いられ「諏訪郡代」とされている。・・天文十四年(1545)、晴信は高遠城を攻略し、高遠頼継は没落した。続いて藤沢頼親の福与城を攻めるが頼親は信濃守護小笠原長時と結んで抵抗した。信方は藤沢氏・小笠原氏に与する龍ヶ崎城を攻め落とし、孤立した頼親は降伏した。・・・
板垣信友が、諏訪、高遠、箕輪を郡代として支配した天文十四-十五年(1545-1546)に、これらの地域の中に、工藤兄弟が居住していたところを発見し、晴信に帰参を進言したのでは無かろうか。板垣信友が、工藤兄弟を見つけ出す経緯は、高遠・箕輪での戦乱と支配の中でしか考えられないのである。 ・・・これは、工藤兄弟の帰参を強く進言した板垣信友が、諏訪・上伊那地方を、郡代として統治した時期と領域と、工藤家の姻戚関係者がこの地方に散在していたという事実から、導き出された推論である。
しかも、時(1546年)を同じくして、武田晴信の家臣となった、保科正俊と工藤祐長・祐元兄弟は、旧知の如く、姻戚の如く交流した事跡が史実に残っている。極めつけは、正俊の子・昌月が、内藤(工藤)昌豊の養子になる事跡である。
こう考えると、工藤昌豊兄弟は、保科正俊と同盟するの藤沢氏の勢力下であった箕輪に隠棲していて、その頃から旧知の仲であったと考えるのは、あながち突飛な着想ではない、と考える。そうでなければ、あのような両家の交流は生まれなかったのではないだろうか。
 ・・・甲斐を追われた工藤兄弟は、相模や伊豆に行ったのかも知れないが、晴信に呼び戻される前辺りは、箕輪や諏訪の工藤の同族を頼って、箕輪か諏訪に住み着いていたのでは無かろうか。


研究ノート 「保科家と内藤家との関係」

2014-10-20 02:37:26 | 歴史

研究ノート 「保科家と内藤家との関係」

第一章:内藤・工藤家の歴史

まず、内藤家の歴史を辿る。内藤を名乗る前は工藤氏。
工藤虎豊:1495~1537:明応四年(1495)生まれ。工藤祐包の長男。:工藤祐英ともいう。

武田信虎に「虎」の一字を賜った股肱の臣。 工藤氏は鎌倉時代から甲斐の名族であり、甲斐国巨摩郡と西郡から信濃国伊那郡の一部に及ぶ大草郷を支配する地頭であったという。
 ・・・信濃国伊那郡の一部に及ぶ大草郷を支配する地頭 大草郷(=中川村)
  ・・・この部分については、同族別流の工藤氏と思われる。犬吠丸伝承(曽我物語)と繋げるのは、飛躍と思われる。


 伝承1 ・「犬吠丸・駿河の狩場で、仇である工藤祐経を討ち果たした曽我時政はその場で捕らえられ、源頼朝の前に引き出されました。それを工藤祐経の息子の犬房丸(いぬぼうまる)が、父親を殺された怒りのあまりに扇子で曽我時政の顔を叩いたので、源頼朝が「武士として縛られている者を殴るとはなにごとか」と犬房丸を怒り信濃国の伊那に流してしまいました。犬房丸はそのまま伊那の狐島に住みつき、春近郷に領地をもらい、善政を行ったといわれています。それによって後に執権北条泰時に流刑を許されました。」
 伝承2 ・「伊那春近領における犬房丸の伝説 ・・・ 源頼朝の家臣工藤祐経の子「幼名 犬房丸(工藤 祐時)」は伊那春近領に流罪になりました。犬房丸が流罪になる以前から工藤氏は小出(小井弖)に住み着いており、犬房丸はこの工藤氏の一族だから保護されました。先に住み着いた工藤氏一族は後に地名の小出(小井弖)氏を名乗りました。犬房丸を含めこの一統は地名の唐木(とうのき)の唐木(棠木)氏を名乗ったといわれます。


 史学博士井原今朝男教授は「伊那春近領政所長官の池上氏・小出を治めた工藤(小井弖)氏・伊東氏(紋は庵に木瓜)などの関わりが犬房丸の伝承に繋がったのではないか」と言われています。犬房丸祐時に関する吾妻鏡の記載と伊那に伝わる内容に大きな違いがみられます。井原教授がいわれるように、政所の長官の池上氏を背景に勢力を伸ばした工藤(小井弖)氏などとの結びつきの中で犬房丸の伝説が形成されたものとも考えられます。
 この「工藤氏供養塔」や「曾我物」の普及が影響し、500年経って、18世紀以後いわゆる「犬房丸伝説」(伊那温知集1740・伊奈郷村鑑1740?・新著聞集1749・狐島神社記1875・など)として多くの記録が作成されました。 ・・・伝聞に基づき信頼性が薄い。

 ・・・『吾妻鑑』には治承四年(1160)8月25日、平家の将俣野景久と駿河目代橘遠茂を富士裾野で迎え撃った甲斐武田勢があったと記し 「安田義定、工藤景光、工藤行光、市川行房ら甲州より発向云云」とある。これにより、大草郷の地頭が工藤景光であったことが明らかとなっている。・・・ 工藤守岡、工藤光長父子が武田信昌に仕えており、工藤光長の長男工藤祐包、次男工藤昌祐も武田信昌、武田信縄に重く用いられた。 工藤祐包の長男工藤虎豊は武田信虎の重臣として、名を馳せた。 また武田信縄の近侍として工藤昌祐や工藤祐久の名が『一蓮寺過去帳』に記されている。・・・しかし、工藤虎豊は『武田三代記』によれば天文六年(1537)に武田信虎の駿河出兵について直諫したことで、内藤虎資とともに誅殺されたという。 武田家中で重臣として仕えてきた工藤氏は、甲斐を出奔し名跡が絶える。 永正四年(1507)から起こった武田信虎と油川信恵の家督争い(油川氏の乱)では、工藤氏は一貫して油川氏に味方しており、 永正五年(1508)10月に笛吹市境川で行われた坊ヶ峰合戦や12月に都留郡で行われた境小山田合戦などで相次いで敗れた工藤氏は、 小山田氏とともに伊豆へ逃亡し韮山城の伊勢盛時に出仕した者もいたという。 跡絶えていた工藤氏であったが、武田晴信の代になって天文十五年(1546)には、工藤祐元や工藤祐長(内藤昌豊)兄弟は甲斐へ呼び戻され、工藤氏再興がはたされた。 ・・・1160年頃から1507年頃へ、一挙に飛び越えている。後年に作られた物語 ・・・

鎌倉時代から甲斐・武田家の家臣になるまでの工藤家(宮藤表記も含めて)は、上記に一部の記述が歴史書に散見できるが、他にも下伊那・豊岡村林の地頭や佐久地方に、犬吠丸伝承に関連した痕跡が残るが、いずれも甲斐・工藤家に繋がるとは断定できない。武田信虎以降の、信虎反抗後の誅殺と係累の伊豆への逃亡については、証拠立てが整っているので、事実のことと認定が出来そうである。

ただ、甲斐・内藤・工藤家は、”祐”の通字を使っているところから、犬吠丸・工藤家を自認していた、と思われる。

第二章:保科正光は、誰の子?

寛政譜によれば ・・・
保科正光は、父を保科正直、母を跡部女(ムスメ)の子、とある。
本当であろうか?
保科家と跡部家(勝頼の重臣)の関係は、寛政譜の系譜のみで他に検出できない。僅かに、高遠城落城(=織田攻め)の時殉死の記録が残るのみである。その後の権力を取り戻した後の保科家からの供養のフォローの跡が見られないのである。
別の保科家の系図上に
 「保科正光正直子工藤祐元?子」の記述が残る ・・・小笠原家(文書)
これは、一体何であろうか?
工藤祐元とは、武田信虎に反抗して誅された工藤虎豊の子・工藤兄弟の兄の方である。ちなみに弟は工藤祐長で、後の内藤昌豊のことである。信虎を追放した信玄が、信虎に追われた工藤兄弟を甲斐に呼び戻したのが1546年のこと、信玄は、兄・祐元に工藤家を再興させ、弟・祐長に、空いていた”内藤家”を継がせた、と見て良い。
注目は、この時期であるが、高遠・諏訪頼継の高遠城が落ち、高遠城の筆頭家老・保科正俊が、高遠城の城代になり、武田晴信の家臣になっている時期と重なる。
この時、・・・正直この時5歳。

関係者年譜
正直は天文十一年(1542)- 慶長六年 (1601)、正俊の子。
正光は永禄四年 (1561)- 寛永八年 (1631)。
昌月は天文十九年(1550)- 天正十六年(1588)、別名:千次郎(幼名)
   官位:修理亮・大和守 主君:武田勝頼→織田信長→北条氏直 氏族:保科→内藤
   父母:父・保科正俊、母・小河内美作守?の娘 養父:内藤昌豊(実父説あり)

○内藤昌豊は、工藤祐長と名乗って相模・伊豆を放浪していたが、武田信玄に呼び戻されて、兄・祐元が甲斐・工藤家を継ぎ、弟・祐長は、空位になっていた甲斐の名跡内藤家を継ぎ、内藤昌豊/昌秀と改名した。
・内藤昌豊 大永二年(1522)- 天正三年(1575)
・別名:工藤祐長、工藤源左衛門、内藤修理亮、官位 修理亮
・戒名:善竜院泰山常安居士、墓所:高崎市箕郷町生原
・主君:武田信玄、武田勝頼 氏族:藤原南家工藤氏
・父母 父:工藤虎豊 兄弟 工藤昌祐、内藤昌豊 子 昌月、昌弘
○工藤昌祐は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣。内藤昌豊(昌秀)の実兄。
・工藤昌祐 永正十七年(1520)- 天正十年(1582)
・別名:工藤祐元、工藤長門守、官位:長門守
・主君:武田晴信、武田勝頼、徳川家康 氏族:藤原南家工藤氏
・父母 父:工藤虎豊 兄弟 工藤昌祐、内藤昌豊 子 工藤祐久

参照:小笠原家
www.geocities.jp/kawabemasatake/ogasawa.html
正利正知子光利子?正尚弾正易正?
正則正利子易正子?弾正筑前仕高遠頼継
  正俊15091593正則子弾正筑前「槍弾正」
  正直15421601正俊子弾正
  正光15611631正直子工藤祐元子?甚四郎肥後
正貞15881661正光嗣正直子甚四郎弾正

この保科家と内藤・工藤家の関係者年譜を眺めていると、不思議な感慨を覚える。恐らく、保科正俊の、信玄の家臣時代に、ほとんど同時に武田家へ仕えるようになった両家の親密な交流の跡が、鮮明に浮かび上がってくるように思える。

理由は二つ ・・・
 ・正光正直子工藤祐元子?甚四郎肥後 ・・・1
 ・千次郎(=昌月)、内藤昌豊を継ぐ ・・・2 
 ・・ 保科正直の正妻は、工藤祐元(=昌祐)の女(ムスメ)
 ・・ 保科千次郎(=昌月)は、工藤(=内藤)昌豊(=祐長)の実子で、保科正俊の養子。
上記二点は、可能性とか疑いの問題である。
ただ、こうした推論の方が、保科千次郎が内藤家に養子に入って内藤昌月になった理由が、唐突感が無く筋道が立つのである。

参考:内藤昌豊
内藤昌豊は、戦国時代の武将。武田氏の家臣。武田四天王の一人。
 ・・・ 武略に長け、武田信繁と共に武田の副将格として評された。『甲陽軍鑑』にも、山県昌景が昌豊のことを「古典厩信繁、内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり」と評したと記している。
 ・・・ 甲陽の四名臣とは、信玄が最も信頼した四人、馬場信房・高坂昌信・内藤昌豊・山県昌景の四人で、信玄は軍議には必ずこの四人を呼び、意見を求めたといわれています。 
 ・・・・「馬場信房は戦いの手段を進言し、山県昌景は出陣の機を進言し、内藤昌豊はどこに出陣したらよいかを進言し、高坂昌信は敵国への謀略と、戦いの延期が必要な場合、これを進言する」と「甲陽軍鑑」などでは言われています。・・内藤昌豊はどちらかといえば知将の武将で、戦でも知略を用いて働いていたといわれています。また性格も温厚で公明正大であり、部下達からも慕われていたと伝えられています。

武田勝頼は、武田氏の正嫡である武田義信が廃嫡されると継嗣となり、元亀4年(1573年)には信玄の死により家督を相続する。
 ・・・ 勝頼の、武田家惣領の相続の際に、内藤昌豊の興味深い話が伝承する。信玄から勝頼への相続の時、習わしには、「先代・信玄公にお仕えしたと同様の奉公を、相続の勝頼公にも勤める」という誓詞差し出すのが、武士の世の常といわれるようだ。しかし、何時になっても、内藤昌豊は誓詞を差し出そうとしなかったそうだ。しびれを切らした勝頼は、逆に、主君の勝頼から、部下の内藤昌豊に誓詞を出すとまで言って、内藤昌豊を、武田勝頼軍団の重責に引き入れようとしたらしい。この時の交換条件が、保科正俊の子・千次郎の嫡流予定の養子の件であったそうだ。 ・・・


この話を読んだ時の疑念が、前述の”保科家と内藤・工藤家”との親密性の憶測に繋がっていることを否定するつもりはない。保科正俊の子・千次郎は、幼い時から”勝頼"の小姓を勤め、英才は勝頼以下の主従に認められていたと記録に残る。
この時の、主従関係拒否の内藤昌豊の心中は、信玄への”恩義に報い終えた”という達成感と、”信玄と比べた勝頼の危うさ”を感じて、武田家への臣を終わらせたかったのではないだろうか ・・・と推測する。勝頼に乞われて、また主従する時、”危うさ”を滅亡への道と自覚し、内藤家の将来と託す人物として、千次郎(=昌月)を指名したと読むのは、深読みのしすぎだろうか。千次郎が、”昌豊の実子”説が根強く残るのは、保科家との関係が、そのような交流を前提とするような交流だったのではないかと ・・・
保科正俊は、信玄の没後に引退し、正直に家督を譲っている。この時の正俊の年齢は65歳前後、当然引退をしておかしくはない。そして、奇妙に内藤昌豊が引退を考えた時期を同じくする。しかし、正俊は引退を許されて、52歳頃の昌豊は、それが許されなかった。

上記の前提を是とすると、保科正直の正妻・跡部美作守の女(ムスメ)はどうも納得がいかない。
保科家の正則、正俊、正直、正光の各世代の特徴は、各種文書を読むと、保科家本流・支流を合流させて、その団結の上に、保科家を団結して強い絆を築いているように見える。正光と正妻の実家・真田家との関係も、決して悪くない。
それなのに、甲斐の名門・跡部家との縁の欠片も見えてこない。これはどういうことなのであろうか?

第三章 保科正直の母は誰?

赤羽記付録によると、
・父正俊母小河内美作女、生死年月法名不詳、武田家之○下信州高遠城主、武田家亡後正光奉仕東照宮之摂州、大阪役後賜禄三万石主信州伊奈郡高遠城・

保科正直の父母についての記載は、上記「赤羽記付録」で、父・正俊、母・小河内美作守女(ムスメ)との記述がある。併せて、寛政譜の記載も、同一内容である。
しかして、これが定説となり一般に流布しているのが現状である。
果たしてそうであろうか?
父親については、疑問を差し挟む余地は、余りなさそうである。
母親については、いささか疑問がある。

小河内美作守について、かなり念入りに調べたことがあるが見つからなかった。
小河内の人名はないが、地名はあるかと調べると、確かに北箕輪に”小河内”という地名が存在する。この地は、正俊の時代には、藤沢頼親の領域であり、保科正俊と敵対関係であったわけでもないので、可能性はあるが。美作守の官名がどうも引っかかる。”守”を名乗るのは、従五位下の官位の官名で、自称していたにしても小豪族を意味する。しかし、藤沢頼親といえど、官名を戴くまでにはいたっていないので、部下が従五位下で美作守を自称するのは、矛盾と考える。
信玄に臣下する前は、保科正俊は、高遠・諏訪頼継の筆頭家老であった。高遠・頼継の組下で”美作守”を探すと、溝口長友が美作守を名乗っていたことが記録に残る。溝口家は、高遠一揆衆を構成する、高遠・諏訪頼継の構成メンバー。さらに、溝口は、藤沢・黒河内という諏訪神領の、黒河内の中心地。
記録では、武田の伊那侵攻の時、親族の小笠原信定が危機にさらされていて、援軍のため、溝口長友は、長谷・溝口を棄て、信定の軍に参軍している。
この棄てられた長谷・溝口城を継いだのが保科正慶で、溝口を継承してから、溝口正慶を名乗っている。
この溝口(=保科)正慶は、正俊の子であるという伝承は、長谷・溝口に残っている。

  ・・・ 「天文年間に保科弾正忠正辰の次男である溝口民部正慶が初めてここに住んだ。正慶は弘治二年(1556)に武田晴信が伊那に乱入した際に、信玄に従わなかったので捕えられて狐島で殺された。」 (長野県の武田信玄伝説より) ・・・溝口城
 ・・・ *正辰の読み方 たつ、しん、とき、よし 正辰と正俊は同一人物かどうか?

蕗原拾葉「高遠治乱記」に拠れば、、保科正俊が「入り乱れた保科家家系を整理した」とあるのは、武田晴信の臣になった時で、小笠原の別流支族の溝口美作守が、正俊の妻・正直の父ではまずかろうということで、「架空」の小河内美作守をでっち上げたのでは無かろうか、と推測する。そうでなければ、辻褄が合わない。 ・・・同様の書き換えは、正光が、将軍の弟・正之を養子にする時、既に養子にしていた”左源太”の存在を抹消している。左源太は、正光の叔母・父正直の妹の子 ・・・生坂村・大日向源太左衛門の子であった。保科家の家譜には、「松本・小日向源太左衛門」の記録が残るが、恐らく意図的な書き換えであろう。保科正俊が若い頃、・・・松本・小日向は、小笠原・林城に近く、小笠原の別家筋・赤沢氏の出城のあったところ ・・・松本・小日向に、それらしい豪族が存在したことは、歴史書から確認出来ない。戦国の時代の、松本の地名は、府中もしくは深志であり、広域では安曇・筑摩(安築)と呼ばれていた。松本と呼ばれるようになったのは、戦国後期からで、「高遠治乱記」が書かれた時代でもある。正俊が生きた時代から、およそ二百年後の著作である。

*松本城 ・・小笠原正慶が1578年頃府中に復帰し、それまでの深志城を、松本城と改めた。以後、府中とか深志とか呼ばれていたこの地は、松本という名前で呼ばれるようになった。厳密には江戸時代少し前からだが、松本の名前が浸透するのは江戸時代からである。


研究ノート 「保科正俊の志賀城の戦い」の持つ意味?

2014-10-15 05:20:23 | 歴史

研究ノート 「保科正俊の志賀城の戦い」の持つ意味?

蕗原拾葉・赤羽記 ・・・
「志賀城の合戦、武田信玄と笠原清繁、天文十六年(1547)保科正俊が信玄に信頼を勝ち得たのが、信州佐久の志賀城の戦いです。
・・・ ・戦いの最中、物陰に潜んで居った家来の北原彦右衛門が、志賀平六左衛門の栗毛の馬の太っ腹に長刀を突きだすと、馬は倒れた。そこを、筑前殿は走り寄って平六左衛門の首を打ち落としました。首を打ち落とすところに大髭があったが髭もごっそりそぎ落としてしまいました・。
この戦いで、保科正俊は、信玄からの感状と討ち取った刀の銘に「髭切り」と名付けて貰いました。家来の北原彦右衛門の働きにも感状を貰いました。」

この時の時代背景 ・・武田晴信(信玄)の年表
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1537年 (17歳):父、武田信虎に従い信濃国佐久郡へ初陣。佐久郡の海ノ口城攻めを単独で行い勝利。
1538年 (18歳):長男、太郎(武田義信)誕生。
1541年 (21歳):板垣信方らと諮って父武田信虎を駿河国に追放し武田家の17代当主に。
1542年 (22歳):高遠頼継と組んで諏訪頼重を討つ。諏訪を平定。
・       :板垣信方が郡代で上原城守。
・       :諏訪頼重の娘(諏訪御料人)を側室に。
・       :高遠城主、高遠頼継と戦い勝利。(安国寺の戦)
1543年 (23歳):信濃国佐久郡、大井城の大井貞隆を攻めて追う。
1545年 (25歳):上伊那(伊那郡)の高遠頼継を降伏させる。
・       :上伊那、箕輪城の藤沢頼親を攻め降し、上伊那を平定。
1547年 (27歳):東信濃平定をめざし佐久郡に侵攻、前山城に上原伊賀守を入れる。
・       :家法(55条)を制定。
・       :信濃国佐久郡、志賀城の笠原清繁・上杉憲政の連合軍と戦い勝利。
・   ・・このとき、降伏した佐久勢三千を全員殺害。佐久郡を平定。(小田井原の戦)
1548年 (28歳):上田原の戦で、北信濃の村上義清に敗北。板垣信方・甘利虎泰ら戦死。
・       :武田軍劣勢で攻めてきた 守護・小笠原長時に勝利。(塩尻峠の戦)
・       :村井城を築城し、筑摩平定の前進基地に。
1550年 (30歳):小笠原長時を攻め筑摩郡から追う。
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もう少し詳しく、保科正俊と武田晴信に絞って見てみよう。
1541年、父・信虎を駿河に追放した晴信は、戦国大名としての牙を、諏訪の諏訪頼重に向けてくる。
1542年、頼重は、武田信虎時代に、和平条件で信虎から嫁を貰い、姻戚として、武田に全く警戒心を抱いていなかった。隙を突かれたのである。この時、諏訪の棟梁を野望していた、高遠・諏訪頼継は、晴信に味方した。頼重亡き後の諏訪は、晴信と頼継の山分けである。
この時の、高遠・諏訪頼継の筆頭家老が保科正俊であった。
しかし、諏訪郡の半分を領分とした頼継は、飽き足らなかった。武田領となった残り半分も頼継領と欲し、晴信に戦いを挑んだが、結局高遠・諏訪頼継は敗北し、諏訪郡全土が武田の領になった。戦いに敗れたが、頼継の居城・高遠城は無傷で残った。
1545年、甲斐を統一し諏訪を領分した晴信は、急速に力をつけてくる。諏訪のみならず、伊那を手中に収めるべく、晴信は、伊那の諸豪に篭絡を仕掛け、さらに武力を持って攻勢に出てきた。まずは、高遠城の諏訪頼継、そして箕輪城の藤沢頼親への城攻めである。
この時の、諏訪頼継と高遠・一揆衆の筆頭・保科正俊の立ち位置を確認すると、諏訪上社神族の棟梁を夢見る頼継と、高遠の平穏と発展を志向する高遠一揆衆とは方向が違っていたらしい。同じ船に乗っていたが、違う夢を見ていたのだ。ここで、高遠一揆衆とその筆頭の保科正俊は、結局武田につく選択をして生き延びることにした。保科正俊以下の高遠一揆衆は、それほど強くない主従関係で結ばれていたので、象徴的な盟主より、強固な軍団を持つ信玄を選んだわけである。
参考までに、・・・箕輪の藤沢頼親もまた、諏訪神族であった。しかし藤沢頼親は、府中の信濃守護・小笠原長棟の娘を正妻に迎え、小笠原家の親族にもなっていた。この箕輪城(福与城)が攻められるとき、時の信濃守護は、兄の小笠原長時で、鈴岡にあった長時の弟・信定とともに、安曇・筑摩と伊那の軍勢をもって、頼親を援軍した。この時、木曽義昌も、信玄が信濃へ入る事を嫌って、頼親に味方している。この時は、藤沢頼親の援軍の多さに戦いを躊躇し、若干武田有利の和平案で兵を引いている。そのあと、再び兵を向けて、藤沢頼親を伊那から放逐している。
1547年、伊那の平定が終わった武田信玄は、矛先を佐久へ向けた。これが志賀城の戦いである。
この戦いを、ウェキペディアに拠って詳説すると、・・・
 ・・・ 志賀城包囲 ・・・
この時期佐久郡の大半が武田氏に制圧されたが、志賀城の笠原清繁は抵抗を続けていた。志賀城は上野国との国境に近く、碓氷峠を通じて関東管領上杉氏からの支援が期待でき、また笠原氏は上杉氏家臣の高田氏と縁戚関係にあり、上杉氏からの援軍として高田憲頼父子が志賀城に派遣されていた。・・・天文十六年(1547)、晴信は城の包囲を開始した。そして金堀衆が城の水の手を断つことに成功。志賀城は窮地に陥った。
 ・・・ 小田井原の戦い ・・・
上杉憲政は志賀城を後詰するための軍勢の派遣を決める。河越夜戦の敗戦で大打撃を受けたが、まだ相当な兵力を動員可能だった。憲政は重臣長野業正の派兵反対の諫言を無視して、倉賀野党1を先陣に金井秀景を大将とする西上野衆の大軍を派遣したという。・・・志賀城を包囲中の晴信は板垣、甘利に別動隊を編成させて迎撃に向かわせた。ついに両軍は小田井原で合戦となり、板垣、甘利率いる武田軍は上杉軍を一方的に撃破し、敵将14、5人、兵3000を討ち取る大勝利を収めた。
 ・・・ 志賀城落城 ・・・
武田軍は討ち取った敵兵3000の首級を志賀城の目前に並べて晒して威嚇。救援の望みが全く立たれた城兵の士気は大きく衰えた。武田軍は総攻めをしかけ、外曲輪、二の曲輪が焼き落し、残る本曲輪を攻め、城主・笠原清繁と援軍高田憲頼は討ち取られ落城した。戦いの態勢が決まると、志賀城の笠原以下の武将は降伏したが、晴信は降伏を許さず、城兵を全員殲滅するという残虐な方法を取ったといわれる。

武田晴信の敵兵への処置は厳しく、捕虜となった城兵は奴隷労働者とされ、女子供は売り払われた。この時代の合戦では捕虜は報酬として将兵に分け与えられ、金銭で親族に身請けさせることがよく行われたが、この合戦の捕虜の値段は非常に高額で身請けができず、ほとんどが人買いに売買されたという。笠原清繁の夫人は城攻めで活躍した郡内衆の小山田信有に与えられ妾とされた。この時の奴隷労働者は、甲斐黒川金山の金山堀に連れて行かれたという伝承が残る。

この戦いは、戦国史上稀な、極めて残虐な戦いだったようである。
故・新田次郎氏の著書「武田信玄」の一節で、信玄が、家臣の横田備中高松に言われた台詞でこういうのがある。讒言であるが ・・・
「叛く佐久を殺せば佐久は限りなく叛くでしょう。佐久の人ことごとく叛いて死に絶えても、草木が武田に叛くでしょう」
これで、信玄の残虐性は東信濃の豪族を団結させ、頑強な勢力になり、村上一族に結集させていきます。

まずは、信玄が破れた”砥石崩れの戦い”。信玄は村上一族と東信濃の豪族連合に、五たび戦って三回敗れています。その後、村上一族は、越後の上杉に助けをもとめ、川中島の合戦へと繋がっていきます。
武田と上杉の戦いは、結局雌雄決着がつかず、といったところでしょうか。

戦国時代の合戦の肝は、お互い戦って、六分の勝利をよしとし、負けたほうが勝った方に臣下して、勝った方が勢力を拡大していく ・・・これが戦国の習いのようです。そして、負けたあとの最初の軍役は、一番危険な先陣か案内役です。これをやり遂げ、軍功を上げれば、ようやく信頼されるという流れになります。不甲斐ない場合と躊躇の様子が見えれば、謀反の疑いあり、ということになります。
この戦いは、保科正俊の、信玄の先付衆としての初めての戦いです。赤羽記には、その様子がリアルに描かれています。
 ・・・物陰に潜んで居った家来の北原彦右衛門は、会津藩家老・北原采女の祖です。
 ・・・志賀平六左衛門は、おそらく笠原家の重臣。笠原新三郎清繁の係累と思われる。
 ・・・笠原新三郎清繁の正妻は上杉憲政の娘で志賀夫人。系譜によれば、伊那高遠隣の笠原の牧官で、最初平氏に与し、甥の保科権六を盟友として、木曽義仲に抵抗して北信に逃れた笠原平吾頼直が祖と言うが、定かではない。もしそうだとすれば、保科正俊の祖にも通じ、遠い縁戚だったという可能性も残るが、それにもまして、甥の保科権六のほうが、保科家の祖である可能性が高い。
 ・・・筑前殿は平六左衛門の首を打ち落とした。首に大髭があって髭もろともそぎ落とした  刀は、保科正俊は、信玄からの感状と討ち取った刀の銘に「髭切り」と名付けられた。 ・・・この戦いで、家来の北原彦右衛門の働きにも感状を貰いました。後に”槍弾正”といわれる正俊ですが、このとき戦いで使った武器は槍ではなく”刀”で、謎と違和感が残ります。

戦国の戦いの時、先付衆には、盟主から「伝令」が届き、戦役に招集される。戦役で、軍功があったとき、戦いのあとで、戦いの奉行(盟主)宛に「軍功状」を書き届ける。盟主は、認めれば朱印し、さらに軍功の著しいものには「感状」を発行して褒め、時には褒美を与える。
おそらく、「軍功状」に朱印を貰えれば、”安堵ということなのだろう。

志賀城群は、いずれも笠原氏の持ち城で、宮坂武男氏は「笠原氏の要害城が志賀城にあり、詰め城が高棚城・笠原城であったというのが素直な見解」としている。


研究ノート 「保科左近将監とは ・・・?」

2014-10-08 02:57:50 | 歴史

研究ノート 「保科左近将監とは ・・・?」

ネットのブログで、「保科将監」の名前を時折見かけるが、よく分からない。
保科家の家系図上には、どの家系図にも「将監」ないし「左近将監」なる人物は登場しない。
これは、一体何なんだ?と興味がそそられる。

--- 文献に表れる保科将監の系譜 ---

「保科将監」の初見は、村上一族の、北信濃での膨張政策の戦いの中で見ることが出来る。
 ・・・  保科左近将監 (?~?):保科正則の弟。長享年間、村上政国に攻められ降伏。その後、村上政国に仕えて霧台城主となる。 ・・・村上家資料
 
その後、「保科将監」は、武田家家臣として”小坂城”城主として登場する。川中島合戦のあと、小坂城の麓に位置する”稲荷山城”の城代として、「保科豊後守正信」が、上杉陣営の橋頭堡として登場する。 ・・・歴史古案-第五巻

この間に事情として、
 ・・・ 「建武2年(1335)七月の船山の乱は、官軍・小笠原貞宗の勝利となり、塩崎、桑原は小笠原氏の所領となる。塩崎城の赤沢氏は村上氏に対抗するため、土豪・桑原氏を以て家老とし、別に小坂に城いて居らしめた。陣ヶ窪番城址は小坂城の外廊である。天文22年(1553)の合戦後、本郡地方武田領となるや、小笠原氏に備えて其臣・保科弾正義昌小坂城にありて管轄する。保科氏は清和天皇の後矞、井上掃部介頼房の子孫である。井上忠正始めて保科に居す依って保科氏を称した。忠正より六世を保科弾正正利と云い、其子正則、永享年中、村上顕国と戦い、破れて本国伊那郡高遠に走る。其子正俊也。正則の弟保科左近尉(左近将監)永禄の初め武田氏に降る、天正10年7月武田氏亡び上杉景勝大挙して本軍を侵す、保科左近上杉氏に降り、小坂城上杉氏に帰す。保科弾正義昌とは保科左近尉をいうか不明。 ・・・ 小坂城城跡にある、現地説明板『桑原振興会・現地説明板』。

 この現地説明板は、主郭にあります。文中の保科氏ですが、永享年中に村上に敗れて高遠に落ちたというのは、どうも長享年中(1487-89)のようです。高遠に逃れたのは、分領があったためのようです。
また、正則の弟左近将監は村上氏に降り、保科(長野市若穂保科)を領し、村上氏没落後は武田に従い、武田氏滅亡後には、川中島ら侵攻した上杉に従いました。天正12年(1584)稲荷山城築城後に天正壬午の乱の際の小笠原への押さえとして保科豊後守が「就稲荷之地在城申付」(『上越市史別編2』2937号)されています。その後も保科豊後守佐左衛門は、稲荷山留守居役(540石)として勤めてたようです。 ・・・ 小坂城 其の一・より

小坂城・住所:現・千曲市桑原小坂

--- 年表作成で考査する ---

年表
 
 年代------ : 主君--: 事歴-誰が- 何を- 何処で-
○長享年間(1487-89):村上政国 :保科左近将監(保科正則の弟)が村上政国に降伏してその後政国に仕えて霧台城主となる。 
○永禄の初め (1558):武田信玄 :保科左近尉 村上の没落後武田の降りて仕える。
○天正10年(1582):上杉景勝 :保科左近 武田家滅亡後、上杉が川中島を支配、上杉に臣下する。
○天正12年(1584):上杉景勝 :保科豊後守佐左衛門 稲荷山城守(留守居役)を540石で勤める。
○慶長 3年(1598):上杉景勝 :保科(家名のみで名前不詳)上杉家会津へ移封に伴って会津へ同行

 *1:左近将監は官名・・名前不詳
 *2:永禄(1558)と天正10年(1582)が保科左近将監とすると、長享年間に保科正利の子、正則の弟とすると活動年代が辻褄が合わない。むしろ正則の子であるのか?
 *3:小坂城の説明碑の永享年間は1429-411なので、顕かに誤記。
 *4:保科豊後守佐左衛門は、別書に保科豊後守正信とあるが、同一人物か?
 *5:保科弾正義昌とは保科左近尉をいうか不明
 *6:「天文22年(1553)の合戦後、本郡地方武田領となるや、小笠原氏に備えて其臣・保科弾正義昌小坂城にありて管轄する」 ・・・天文22年・川中島第一次合戦
 参考:永禄4年・川中島第四次合戦 
 *保科弾正義昌は? 武田家の誤記?弾正はこの時点は正俊?
 *7:天正10-12年の間に、保科将監から保科豊後に代替わりしている。将監は、戦死か病死か隠居か?小坂城近在の寺に、墓がある可能性?龍洞院か?

--- 保科家家系図と照らすと ーーー

      保科正則 保科正利の子
       保科正俊 正則の子 弾正 生没年:永正6年(1509年 - 文禄2年(1593)
       保科正保 保科正則の子 ・・・・・保科左近将監
        保科正賢 保科正保の子 ・・・・保科豊後守佐左衛門(正信)
         保科正辰 保科正賢の子 ・・・上杉会津藩士?
          保科正具 保科正辰の子 ・・上杉藩士?
           保科正貫 保科正具の子 ・上杉藩士?
 *家系図と対比したのみ。裏付けの資料がないため、正確だと言えない。

--- 参考・保科家家系図 ---

井上忠長 桑洞清長の子
 保科長直 井上忠長の子
  保科長時 保科長直の子
   保科光利 保科長時の子
    保科正知 保科光利の子
     保科正利 保科正知の子
     保科正満 保科正知の子
      保科正則 保科正利の子
       保科正俊 正則の子 弾正 生没年:永正6年(1509年 - 文禄2年(1593)
       保科正保 保科正則の子
        保科正賢 保科正保の子
         保科正辰 保科正賢の子
          保科正具 保科正辰の子
           保科正貫 保科正具の子
       保科正直 正俊の子 生没年:天文11年(1542) - 慶長6年(1601年)
       内藤昌月 正俊の三男 母:小河内美作守の娘
        内藤昌秀の養子 生没年:天文19年(1550) - 天正16年(1588)
       保科正勝 保科正俊の子
以下略・・


研究ノート 「北信若穂保科・保科家が高遠・藤沢に定着する過程」の検証

2014-10-07 08:53:02 | 歴史

研究ノート 「北信若穂保科・保科家が高遠・藤沢に定着する過程」の検証

1: ・・・北信・川田の若穂保科の保科家が、坂城・葛尾城の村上一族の膨張政策で、戦いに敗れ、北信・川田を棄てて、南信州・高遠・藤沢へ逃れたのは、「長享年間(1487~89)に村上顕国の侵攻により高井郡から分領の伊那郡高遠に走った」という所伝があり、北信保科が、若穂保科を離れたのは長享年間の三年の間というのが定説である。異説としては、1516年に、伊那郡高遠に逃れた、と言う説も存在する。 ・・・

2: ・・・ 北信・若穂保科の保科家の、高遠に走った武将は、保科正利・正則親子であった。保科正利は、1506年に、旧領に戻って、自領の城跡(=陣屋)に広徳寺を創建して、開基となった。長野市・保科に、広徳寺は現存している。

3: ・・・ 保科正利の子・保科将監は、北信に残り、村上一族に降りて、正利の所領を継承したと言われる。 ・・・

4: ・・・ 保科正則は、諏訪上社・大祝諏訪頼重の元に参陣していたこと、武田信虎の元に参陣していたことが記録に残る。その後、諏訪満継が、高遠一揆衆の頭領につくと家老職として見いだすことが出来る。

5: ・・・ 天文二年(1533)府中長棟(長宗)が伊那谷に侵入し知久頼元が戦う(松尾定基は甲斐へ?武田を頼って逃避)。この時、高遠・諏訪頼継は、松尾小笠原に援軍。頼継の軍にあった保科正則は、府中・小笠原貞棟に敗れて戦死。藤沢保科家は、正則の嫡子・正俊が相続した。この間の一連の軍功で、保科正俊は、高遠一揆衆の中で一番の豪族になった。高遠一揆衆が支えた、高遠頼継の筆頭の家老となった。 
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1:2:の検証
出典:「上高井郡誌」大正3年4月1日発行 上高井教育会編
 ・・・ 延徳年間(1489~92)、保科弾正忠正利(正俊)が築城したという。長享年間(1487~89)、村上義清の祖父頼清(顕国)に攻められ、正利・正直(正則)父子は分領伊那高遠へ逃れ、次男左近将監は村上氏に降り、保科を領した。
 ・・・ 疑問
 1;村上頼清(顕国)に攻められて高遠へ逃れた後、正利だけ保科の里へ戻ったのだろうか。保科(正俊)は、1509年生まれの記録が残るが、保科正利は正俊と書かれた記録があるのだろうか。正俊を昌俊と書かれた記録は見たことがあるが ・・・

3:の検証
同出典より 疑問
 ・・・保科(左近)将監は、正利の次男とされているが ・・・保科将監の活躍は、川中島合戦の時、上杉側で戦歴の記録が残る。さらにその後にも記録が残る事から、槍弾正の保科正俊と同時代人と見ることが出来る。保科正利が死亡したのが1506年(広徳寺記録)だとしたら、その年に生まれたとして(あり得ないが)、60歳ぐらいで活躍し、さらにその後も活躍したことになる。併せて、父正利が開基した広徳寺に、保科将監の痕跡が見られないのは何故か?
ある系図により、左近将監は保科正保であり、保科正則の子の説がある。年代検証からはこちらの方が合理性があるが、広徳寺に痕跡がないのは同じで、出典も曖昧である。
保科左近将監の存在は恐らく事実であろう(川中島合戦の古資料から)が、保科正利の嫡流であることは、どう見ても不合理で否定できるのではないかと思う。
霜台城隣接・小坂城説明碑 ・・・
 ・・・  建武二年(1335)七月の船山の乱は、官軍・小笠原貞宗の勝利となり、塩崎、桑原は小笠原氏の所領となる。塩崎城の赤沢氏は村上氏に対抗するため、土豪・桑原氏を以て家老とし、別に小坂に城いて居らしめた。陣ヶ窪番城址は小坂城の外廊である。天文二十二年(1553)の合戦後、本郡地方武田領となるや、小笠原氏に備えて其臣・保科弾正義昌小坂城にありて管轄する。保科氏は清和天皇の後矞、井上掃部介頼房の子孫である。井上忠正始めて保科に居す依って保科氏を称した。忠正より六世を保科弾正正利と云い、其子正則、永享年中、村上顕国と戦い、破れて本国伊那郡高遠に走る。其子正俊也。正則の弟保科左近尉(左近将監)永禄の初め武田氏に降る、天正十年7月武田氏亡び上杉景勝大挙して本軍を侵す、保科左近上杉氏に降り、小坂城上杉氏に帰す。保科弾正義昌とは保科左近尉をいうか不明。(『桑原振興会・現地説明板』)。
 ・・・この中の”永享年中”・・は”1429-1441"になるので、明らかに誤りで、"長享年中”の誤記であろうと思われる。保科弾正義昌は、保科家別流と考えるのが妥当か。
 ・・・左近将監・永禄の初め武田氏に降る 永禄1558-157
 ・・・天正十年、保科左近上杉氏に降り 天正十年1582
 上記が正しければ、保科正則の弟という合理性は無くなる。

4:5:の検証
保科の里を追われた保科正利・正則親子の逃れた先は、古書に拠れば高遠という記録が残る。
しかし、正確には特定されていないのが、今までの検証の結果で、藤沢谷に確認されるのは、高遠・諏訪満継・頼継の代になってからである。
北信濃から、村上一族に追われて逃れる時、頼るのは、同族の保科一族であったことは、当然考えられる。高遠藤沢谷に勢力を張っていた、代官保科貞親が目的であっただろう。だが、文明の内訌で、文明十九年(1492)に高遠・諏訪継宗が諏訪郡に侵入したという記録を最後に、継宗は記録から消えてしまう。保科貞親は、文明の内訌で嫡子を戦死させたこと(守矢文書)以来歴史に登場しない。勝者側の、上社・諏訪頼満が諏訪郡を統一して勢力が盛んである。継宗が同盟を組んだ、大祝・諏訪満継は、和解して大熊城に隠棲してしまった。
 ・・・ この時、高遠・継宗と代官・保科貞親はどうなったのであろうか。旧大祝・満継が最後の戦いをした文明十八年に、和解の労をとったのが鈴岡・小笠原で、結果諏訪満継は大熊城に隠棲し戦国大名への夢を絶った。残された高遠・継宗と代官・保科貞親は、夢を棄てきれず孤立して、戦死したか、少なくとも断絶したい見て良いのではないだろうか。高遠・継宗の次ぎに高遠家を相続したのは、親子関係が確認出来ない諏訪満継であることから、このことは想像される。嫡子を失っていた保科貞親は、上諏訪との関係が悪化し、高遠継宗が力を失っていった時、戦死したことが一番可能性が高いが、戦死しなかったとしても勢力維持は困難だったと思われる。 ・・・
こんな時期に、北信濃から、保科正則は高遠に逃れてきた。この時、父正利が一緒であったかどうかは、定かではない。さらに、やがて藤沢谷へ居着くが、最初から藤沢谷かどうかも定かではない。保科正則が藤沢谷へ居着いた頃は、恐らく北信保科の残党として、勢力は十騎にも満たない勢力であったのであろう。ここで明らかなのは、保科正則は、小豪族として高遠一揆衆に参加していること、さらに武田信虎に合力していること、 ・・・これは北信濃の保科の里の復帰に未練があり、村上一族の対抗勢力として、武田信虎に期待があったのではないかと ・・・、上諏訪の諏訪頼満に合力していることが挙げられる。この過程で、保科正則は、驚異的に勢力を拡大させている。 ・・・「赤羽記」や「蕗原拾葉」に残っている記載には、”高遠一揆衆の中で一番の長者に」なったとあります。さらに、藤沢谷に残った保科の名跡を貰ったり、樅や栗と交換したともあります。東高遠の北村にあった、保科の別系流を合流したとも書いてあります。勢力の飛躍的な拡大は、複数勢力の合流が、最も合理的な考え方であると思います。恐らくは、保科貞親の残存勢力と残党を、保科正則が合流させて肥大化したと考えてよいと思います。そして、拠点を藤沢谷の”御堂垣外”と"台”にしたという流れだった。こうして高遠一揆衆筆頭となった保科正則は、必然的に"一揆衆”の盟主・高遠・諏訪満継の家老になった。 ・・・というストーリー。
 ・・・尚、この複数系流の合流の、系譜の整理をしたのが、保科正俊であったことが「赤羽記」に記載されています。この系譜の整理のおかげで、後世の読者(自分を含めて)は解読に難渋する羽目になっています。
さて、この複数の保科系譜だが、その一つに”荒川易氏"の子が養子で入った可能性がある。その系譜は、”保科の里”と呼ばれるところから、北信若穂保科と高遠藤沢谷に候補を絞ってもよさそうだ。さらに、荒川四郎神易氏が、神官の可能性が高いところから、北信保科の方が、より現実的のように思えるが断定できない。保科の養子になったのは、易氏の子・易正で、”神助"のあだ名が付いていたと言われる。そして、藤沢谷へ現れて、まず保科貞親の家系を継いだ者と思われる。そのときの襲名の名前が、保科正秀で、正尚とも名乗った。
当時の状況から、保科貞親亡き後に、保科正利(=正尚)を継承したものとして、藤沢谷の空位となっていた藤沢・保科を継承したものと思われる。その頃、北信から放浪した正則が、藤沢谷で合流して、貞親の系流と残党を包括して、藤沢保科は肥大化していった。
この間の、保科の名前を見ると、奇妙な特徴に気づく。
 まず、正利と正俊(昌俊)
正尚と正直 正尚は、”まさなお”とも”まさひさ”とも読めるが。
勝手な憶測だが、一代間を置いて、字は違うが、読みが同じ人名が再度に渡って登場してくる。これは、複雑な家系の整理の為の名付けなのでは無かろうか。
この合流を主導したのが、易正(=正秀、正尚)であって、整理したのが正俊であった。
そして、易正(=正秀、正尚)の子が正俊であって、正俊は正則の子ではない、というのが推論の結論である。
先日、若穂保科の広徳寺を尋ねたが、保科正利、正則の痕跡はあったが、川中島の戦いに何度も訪れた、槍弾正・正俊の痕跡はなかった。若穂保科の保科と藤沢谷の保科が合流した時、歴代の経歴だけを継承したのではなかったかと思ったわけである。
保科正則と保科易正(=正秀、正尚)を年齢を推定すると、長享時代に、元服を過ぎて、村上一族と戦った正則と、義尚将軍時代(1473-1489)に、信濃に下向した荒川易氏の子・易正の年齢は、大きく離れない、ほぼ同年だとして良い。
それにしても、”神助”易正と呼ばれるくらい、正秀は”やり手”だったのではないかと思われる。
保科正則は、高遠・諏訪頼継の家老時代に、松尾・小笠原定基に与した頼継の軍勢として、府中・小笠原長棟と戦い、1533年に戦死したことが記録に残る。この正則の戦死で、正俊が保科家の家督を継いで、同時に頼継の家老にもなっている。正俊の子・正直の代に、家康の家臣となった正直は、千葉の多古に移封され、ここで正直祖父の保科正則は1591年に死亡したという記録が、会津藩の中に残っています。同名の人物が二度死んでいるという事実は謎でありますが、この保科家は、前述の正利と正俊、正尚と正直のように、隔世で同じ名前を使う習わしが見えます。恐らく保科正則と多古で死んだ「正典」は、別人物だったのでしょう。そうでなければ、保科正則なる人物は、120歳以上生きたことになってしまいます。”正”は通字ですから、”のり"の方は、「典、憲、紀」などが考えられます。
 ・・・なぜ、隔世で同じ読みの名前が登場するのか謎ですが、保科家の二系統の合流が、こんな交互の方式を編み出したのかも知れません。
*参考:保科正直の弟に、正勝(三河守)がいるが、別名を”正秀”といったという。 ・・・こちらも、保科易正の別名。これも隔世の命名であろうか。、

以上が、保科家が、北信を出て、高遠に定着するまでを検証してみました。
資料が少ないため、想像の部分は、「おそらく」とか「思う」とか「推論ですが」とかしております。
伊奈熊蔵忠次の五代前・荒川易氏の子・易正が、保科家に養子に行った所は、「樹堂氏」で検証しております。
もし、異論反論などありましたら、是非コメント下さい。資料の事実が分かれば、自説を固持するつもりはありません。