宗長親王戦記 9:宗長親王の遺跡と著作 付記:評本と論文 (完)
遺跡
1:信濃宮神社、大河原城址碑、香坂高宗墓塔
大鹿村中心地あたりから小渋川沿いに2キロほど行った上蔵(わぞ)集落。
かなりの山間・林間に、親王を祀る信濃宮神社、大河原城址碑、香坂高宗の墓塔
所在地:長野県大鹿村
2:宗良親王・御旧蹟地碑(東堀正八幡宮)、
宗良親王の「御旧蹟地」碑が、諏訪湖北岸の岡谷市・東堀正八幡宮、通称柴宮。桔梗ケ原の合戦の時、親王はこの地に御座所・本陣を構えたとの言い伝えがあるとか。
所在地:長野県岡谷市
3:桔梗ケ原古戦場碑(塩尻市)
所在地:長野県塩尻市広丘高出
4:墓名:宗良親王墓 墓形:宝篋印塔
所在地:静岡県浜松市北区引佐町井伊谷
5:二宮神社
宗良親王の妃、駿河姫を祭神とする。南北朝の初期、後醍醐天皇の皇子宗良親王は、南朝勢力の増強をはかって、井伊谷(引佐町)の豪族井伊道政のもとに滞在していた。親王は道政の娘駿河姫を妃とし一子尹良(ゆきよし)親王をもうけたといわれている。
境内社の若宮神社は尹良親王を祀っている。
所在地 : 浜松市北区細江町気賀8353
6:伊賀良神社 前宮(てろう山神)
祭神:○天御中主命、大山咋命、良王霊・・良王は尹良親王の子と言われる
所在地:長野県阿智村伍和寺尾(河内・栗矢)
7:北野天神社
〈合祀〉:宗良親王〔むねながしんのう〕:宗良親王遺蹟(歌碑)
正平7年(1352)小手指ヶ原の合戦に際しては、征夷大将軍宗良親王がこの地に陣を敷いたと伝えられ、境内に遺蹟として歌碑が建つ。
所沢市小手指元町三丁目28-29
8:金井原古戦場
南北朝時代の正平7(1352)年、南朝方の新田義貞の子義宗・善興等が宗尊親王を奉じて上野(:現群馬県)に挙兵、武蔵野を舞台に北朝の足利尊氏と戦った。
世にいう武蔵野合戦である。同年閏2月20日、20万騎に及ぶ大軍勢が人見原(府中市若松町)から金井原にかけて戦いを繰り広げ、足利軍は石浜(:台東区)へ敗走した。
「史跡金井原古戦場」碑は、野川緑地公園(前原町3-3)に移設されている。
所在地:府中市
9:大草城
~ 大草城の歴史 ~
南北朝時代に大河原に入った宗良親王(むねよししんのう)を守護したのが大河原城主である香坂高宗であった。・・・その後、香坂氏は徐々に四徳・大草まで精力を広げると元々大草を支配していた土豪である大草氏と血縁関係を結び徐々に基盤を固め大草氏と香坂氏は同族関係となって行ったようである。・・・「香坂系図」によれば、「香坂宗継の母は、大草次郎大夫経純の女であり香坂宗職の母は大草弥太郎の女」であると書かれていることから分かる。・・・その頃に今回の大草城が、大河原城の支城として築かれたと考えられ、諏訪・遠江を結ぶ街道を押さえ幕府軍(北朝方)に対する前衛拠点として一族を配していたようである。・・・宗良親王が大河原の地で亡くなり、南北朝時代が終わると香坂氏は山深い大河原の地から本拠を大草城へ移しているが、この頃はまだ大草氏と香坂氏は同族関係ではあるが別家であったようで、「諏訪御符礼之古書」によると、頭役を大草郷で務めているが15世紀後半の約30年間に大草氏と香坂氏が交互に務めていて、勢力はほぼ互角であっ
たようである。
所在地:長野県中川村
10:井伊谷宮
南北朝時代に活躍した後醍醐天皇の皇子、宗良親王(むねよししんのう)を祀る格式のある神社です。宮内には、全国的にも珍しい「絵馬資料館」があります。
昭和五年には昭和天皇が御親拝になり、五十八年には現在の天皇皇后両陛下が御参拝されるなど、皇室とも関係深い神社です。
所在地:浜松市北区引佐町井伊谷1991-1
11:御所平寓居跡
後醍醐天皇の第八皇子宗良(むねなが・むねよし)親王は、南アルプス小河内岳を間近に見上げる秘境・御所平に30有余年住まわれたといわれている。
所在地:長野県大鹿村
12:尹良親王御墓
○管轄:宮内庁(明治14年2月14日より)
浪合の古戦場といわれる宮の原の北東部。山の麓にある小さな丘は「尹良親王の御首を埋め奉った場所」と伝えられ、御墓が築かれています。
長い間忘れられていた御墓も、江戸時代に国史の研究が盛んになると浪合胤久や後藤基命など浪合村の人によって宮内庁の公認が願われましたが、この時には御墓の公認は実現しませんでした。
それから後の明治13年6月、明治天皇御巡幸の供奉を仰せつかり飯田町を訪れていた内務少輔品川弥二郎を、増田平八郎を代表とする村人が関係資料を持って訪ね、尹良親王御陵墓の公認について協力を願いました。しかし、このときも要請は受付られず、増田たちは現豊丘村伴野に住む女流勤皇家・松尾多勢子にその斡旋を依頼することとなりました。松尾の働きかけによって、品川の報告を受けた明治天皇はすぐに侍徒・西四辻公業を勅使として浪合村に派遣し、尹良親王の御事蹟の調査を命じました。
その結果、明治14年2月14日に尹良親王御墓は正式に後醍醐天皇皇孫尹良親王御墓と認められ、以来宮内庁の管轄下に置かれることとなりました。
所在地:長野県阿智村浪合宮の原
○尹良親王陪塚(ゆきよししんのうばいちょう)
管轄:宮内庁(明治14年2月14日より)
尹良親王御墓の近くに三堆の小塚(杜)があります。これを陪塚といい親王に殉じて討死した戦死者を埋葬した場所と伝えられ、通称千人塚と呼ばれています。
●陪塚い号・・・・い号の上には、 「正面」大光院殿(世良田大炊助政義の法名): 「左側」世良田政義先霊: 「右側」寛政七卯暁春日: 「裏側」堯翁十二世松山建之
所在地:長野県阿智村浪合宮の原
13:宗良親王旧跡・・流刑の地
城主宗良親王、時期元弘2?3年(1332?33)、地名「王屋敷」。元弘の変にに破れて囚われの身となり,1332(元弘2)年3月,ここご讃岐詫間に配流されました。・・ 1935(昭和10)年,「宗良神社」とし,この地に宗良親王を祀りました。
所在地:香川県三豊市詫間町詫間田井中
14:木舟城跡・奈呉浦貴船城
木舟城跡城山の「木舟城跡」碑の隣にかつて大滝・本領地内にあった道標が建っています。文字が読取りにくいが次のように刻んである。(木舟城跡 是ヨリ西南一四八五米 南朝忠臣石黒越中守宗良親王ヲ迎エ奉リシ所也 )。南北朝時代、木舟城に南朝に味方する城主の石黒重之が宗良親王を迎え入れた所と案内しています。「興国3年冬(1341)越中国に就き、奈呉浦貴船城主石黒越前守重之の館に入らせたもふ(遠江国風土記伝)」とし同5年の頃まで越中に留まり信濃に移られた。
所在地:射水市富山新港(奈呉ノ浦)
15: 一之瀬神社~宗良親王御遺蹟の碑
一之瀬川に沿岸の度会町脇出に一之瀬城址があり、その敷地に一之瀬神社が祭られている。
所在地:三重県度会郡度会町脇出 一之瀬城址
16:宗良親王墓(御山)
御山の遺跡 ・・古来この丘を「みやま」と呼び、明治中頃までは老杉が生い繁っていた。御山に登ると足が腫れるといわれていたので、ここに近づく者はなかったという。・・明治の中頃、御山北側の小犬沢で頭の丸い石碑とその近くにあった臼型の台石らしいものとを、沢に近い家の人が発見した。常福寺住職に相談したところ、円形だから僧侶のものだろうといって寺の墓地に安置した。・・昭和6年5月12日、郷土史家「唐沢貞次郎」「長坂熙」の両氏が詳細に調査したところ、墓石正面に16弁の菊花御紋章があり、その下に「尊澄法親王」その左側面に「元中二乙丑十月一日尹良」と刻んであるのを判読した。尊澄法親王は宗良親王の法名であり、尹良は宗良の王子であることが明らかにされた。・・その後区民は宗良親王の遺跡であると信じ、毎年春秋二回年ごろに法要を営んでいる。・・御山の遺跡関係資料は、常福寺本堂内に展示されている。
所在地:伊那市長谷溝口 常福寺
著作と評本&論文
著作
「新葉和歌集」 岩波文庫、新編国歌大観1
・・南北朝時代に成立した准勅撰和歌集。撰者は宗良親王。弘和元年/永徳元年(1381年)12月3日奏覧。新葉集とも
・・・南朝では二条派を信奉する天皇の下、『内裏三百六十首歌』・『三百番歌合』などが催されて歌壇は活発であったものの、北朝の勅撰集(『風雅和歌集』・『新千載和歌集』・『新拾遺和歌集』)には、南朝の君臣による詠歌が一切撰入されなかった。宗良親王がこのことを嘆き、南朝の和歌集を撰述せんと企図したのがこの『新葉和歌集』である。仮名序や巻末の綸旨によれば、もともとは親王が自身の老いの心を慰めるための私撰集に過ぎなかったが、これを知った長慶天皇から勅撰に准ずる旨の綸旨が弘和元年(1381年)10月13日付で下されたため、親王はそれまでの内容を改訂して勅撰集に相応しい形に整え、同年12月3日奏覧に供したものである。・wikipedia
「李花集」 群書類従231、岩波文庫、私家集大成5、新編国歌大観7
・・後醍醐天皇の皇子、宗良親王の家集。集中の和歌の最下限から考えて、1371(建徳2)年以降の成立とされている。・上下2巻、部立があり、上巻は春夏秋冬、下巻は恋と雑歌である。親王の歌899首を含め、総計1006首収められている。『新葉和歌集』撰進の際に、多くの歌が収められた。
「宗良親王千首」 群書類従162、新編国歌大観10
・・1375:宗良親王六十四歳、「南朝五百番歌合」の判者をつとめる。 1376:天授二:宗良親王六十五歳、「南朝内裏千首歌」に評点を加える。 1377:天授三:春:宗良親王、千首和歌を詠進。
評本
『吉野朝の悲歌』 川田順(第一書房/養徳社)・3部作
『吉野朝柱石 宗良親王』 川田順(第一書房)
『宗良親王全集』 黒河内谷右衛門編(甲陽書房)
『物語 新葉集』 山口正(教育出版センター)
・・20巻1400余首の和歌を含む新葉和歌集の中から、代表的なものを選出し、当時の歴史的背景をふまえながら解説する。
論文
・秋山哲雄『鎌倉幕府滅亡と北条氏一族』 敗者の日本史7 吉川弘文館 東京 2013.5
・新井孝重「中先代の乱」 in『南北朝の争乱』 ピクトリアル足利尊氏2:学習研究社 1991.2 pp.44-47
・一ノ瀬義法「竜東の諸氏、北条時行を支援する」in 『歴史人物読本・上伊那よもやま話』 ほおずき書籍
・岩松清四郎「中先代の乱を引き起こした鎌倉の地政学的な重要性」in『「太平記」群雄の興亡と謎』
・岩松清四郎「足利軍壊滅を鈍らせた北畠顕家の温情」in『「太平記」群雄の興亡と謎』
・大鹿村誌編纂委員会編『大鹿村誌』上巻 大鹿村誌刊行委員会 大鹿村 1984.1
・奥富敬之「その後の北條氏」in『鎌倉北條氏の基礎的研究』 戊牛叢書 吉川弘文館
・奥富敬之「幕府再興を祈る山峡の鬨 北条余党による中先代の乱」in『吉野の嵐 動乱の炎』
・奥富敬之「北條時行の戦い」 in『鎌倉北條一族』 新人物往来社
・奥富敬之「中先代の乱」 in『南北朝の内乱』 戦乱の日本史 合戦と人物第5巻
・奥富敬之「その後の北条氏-エピローグ」 in『鎌倉北条氏の興亡』 歴史文化ライブラリー159
・柿木憲二「古城随想」in『定本・伊那谷の城』 郷土出版社 松本 1996.3 pp.205-209
・蟹江町史編さん委員会編『蟹江町史』 蟹江町 蟹江町 1973.3
・鎌倉市史編纂委員会編『鎌倉市史』総説編 吉川弘文館 東京 1959.10
・亀田俊和『南朝の真実 忠臣という幻想』 歴史文化ライブラリー378 吉川弘文館 東京 2014.6
・来水明子「北条高時の滅亡 北条高時と時行」in『争乱の群雄』 人物探訪日本の歴史4
・河野 亮「生きのびるためだけの敗走人生……北条時行」 in『太平記おもしろ人物史』 廣済堂出版
・小林一岳『元寇と南北朝の動乱』 日本中世の歴史4 吉川弘文館 東京 2009.9
・小林計一郎「諏訪氏と神党」 小林計一郎『信濃中世史考』 吉川弘文館 東京 1982.5 pp.155-185
・阪田雄一「雑訴決断所と鎌倉将軍府」in『中世東国の政治構造』 中世東国論上 岩田書院
・阪田雄一「中先代の乱と鎌倉将軍府」in『関東足利氏と東国社会』 中世東国論5 岩田書院
・櫻井 彦『南北朝内乱と東国』 動乱の東国史4 吉川弘文館 東京 2012.12
・笹間良彦「北条の遺児・時行の鎌倉反攻」 in『鎌倉合戦物語』 雄山閣出版 東京 2001.2 pp.152-163
・信濃教育会『建武中興を中心としたる信濃勤王史攷』上巻 信濃毎日新聞 長野
・鈴木かほる「鎌倉幕府滅亡の前後」in『相模三浦一族とその周辺史 その発祥から江戸期まで』
・鈴木 隆「鎌倉と諏訪社中心の縁」 in『鎌倉と信濃』 島森書店 鎌倉 1961.11 pp.52-66
・鈴木由美「中先代の乱に関する基礎的考察」in『中世の支配と民衆』 同成社中世史選書4
・諏訪市史編纂委員会編『諏訪市史』上巻 原始・古代・中世 諏訪市 諏訪 1995.3
・田辺久子「足利氏の制覇」 in『乱世の鎌倉』 鎌倉叢書第14巻 かまくら春秋社
・田端泰子「南北朝期の乳母の実態と乳母観」 in『乳母の力 歴史を支えた女たち』 歴史文化ライブラリー
・高遠町誌編纂委員会編『高遠町誌』上巻 歴史1 高遠町誌刊行会 高遠町 1983.3
・茅野市編『茅野市史』中巻 中世近世 茅野市 茅野 1987.11
・中村直勝『中村直勝日本史』第4冊 白川書院 京都 1971.7
・長瀬康明「藤沢城・保科の古屋敷・ゴンドノ古屋敷」in『定本・伊那谷の城』 郷土出版社
・長野県編『長野県史』通史編第2巻中世1 長野県史刊行会 長野 1986.3
・長野県編『長野県史』通史編第3巻中世2 長野県史刊行会 長野 1987.3
・平林 明「北条時行と諏訪一族の悲願」in『史料が語る長野の歴史60話』 三省堂
・藤井政二『赤目横井氏の源流と其の一族』 藤井政二 名古屋 1976
・細田貴助『県宝守矢文書を読むⅡ-中世の史実と歴史が見える-』 ほおずき書籍 長野 2006.3
・森 茂暁『建武政権-後醍醐天皇の時代』 教育社歴史新書〈日本史〉60 教育社 東京 1980.11
・森 茂暁『南北朝の動乱』 戦争の日本史8 吉川弘文館 東京 2007.9
・森 幸夫「北条時行-中先代の乱」in『南北朝史100話』 立風書房 東京 1991.10 pp.160-161
・森本房子「高時をめぐる女たち」in『北条高時のすべて』 新人物往来社 東京 1997.7 pp.163-175
・山田邦明「北条時行の乱と三浦氏一門」 in『新横須賀市史 資料編 古代・中世Ⅱ』 横須賀市
・渡辺世祐『中世の諏訪』 諏訪史第3巻 諏訪教育会 諏訪 1954
以上、上記は北条時行と宗長親王の二人に関わる論文で、諏訪神家・諏訪神党が基盤となっている。
そのため「信濃勤王史攷」と読み替えると輪郭は鮮明になるように思う。
【雑誌】
・赤羽又衛「幻の大徳王寺城・小笠原氏城地私考」 『伊那路』228号 上伊那郷土研究会 伊那
・阿諏訪青美「鶴見合戦-『太平記』にみる横浜-」 『横濱』2008年春号vol.20 神奈川新聞社
・大熊権平「北條時行の楯籠りし大徳王寺城につきて」 『信濃』6-7号 信濃郷土研究会
・小口珍彦「大徳王寺城と貞実手記」 『伊那』338号 伊那郷土史学会 飯田 1956.7 pp.1-3
・阪田雄一「建武新政下における足利直義の動向―いわゆる鎌倉小幕府試考―」 『史翰』11号
・下山 忍「各地で建武政権に反乱」 『北条一族』 別冊歴史読本62(第26巻第1号) 新人物往来社
・鈴木由美「建武政権期における反乱-北条与党の乱を中心に-」 『日本社会史研究』100号
・鈴木由美「先代・中先代・当御代」 『日本歴史』790号 吉川弘文館 東京 2014.3 pp.92-100
・武田昌憲「『太平記』巻十三 尊氏東下小考」 『茨女国文』4号 茨城女子短期大学国語国文学懇話会
・武田昌憲「『太平記』巻九、松寿の可能性・小考」 『茨女国文』11号 茨城女子短期大学国語国文学懇話会
・円谷真護「中先代の乱」 『歴史と旅』臨時増刊号49(第18巻第11号)太平記の一〇〇人 秋田書店
・円谷真護「北条時行」 『歴史と旅』臨時増刊号49(第18巻第11号)太平記の一〇〇人
・中村吾郎「北条時行」 『歴史と旅』平成3年3月号(第18巻第4号) 秋田書店
・橋本芳和「建武政権転覆未遂の真相(Ⅰ)-東西同時蜂起計画の信憑性-」 『政治経済史学』501号
・橋本芳和「建武政権転覆未遂の真相(Ⅱ)-東西同時蜂起計画の信憑性-」 『政治経済史学』502号
・橋本芳和「建武政権転覆未遂の真相(Ⅲ)-東西同時蜂起計画の信憑性-」 『政治経済史学』503号
・橋本芳和「建武政権転覆未遂の真相(Ⅳ)-東西同時蜂起計画の信憑性-」 『政治経済史学』504号
・広瀬仁紀「中先代の乱」 『歴史読本』1991年6月号(第36巻第11号) 新人物往来社
・本間 寛「最後の得宗、北条時行」 『歴史研究』514号 歴研 東京 2004.3 pp.39-40
・峰岸純夫「歴史における自然災害-建武二年八月、関東南部を直撃した台風-」 『日本史研究』534号
・両角俊仁「中先代の乱と諏訪氏再興の謎 諏訪氏を救った円忠の絵詞」 『歴史研究』499号 歴研
・渡辺 誠「最後の意地みせた「二十日先代」時行」 『戦乱南北朝 後醍醐天皇・正成・尊氏の激闘』