探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

宗長親王戦記 9:宗長親王の遺跡と著作 付記:評本と論文 (完)

2015-02-27 22:51:34 | 歴史

 宗長親王戦記 9:宗長親王の遺跡と著作 付記:評本と論文 (完)

遺跡

1:信濃宮神社、大河原城址碑、香坂高宗墓塔
大鹿村中心地あたりから小渋川沿いに2キロほど行った上蔵(わぞ)集落。
かなりの山間・林間に、親王を祀る信濃宮神社、大河原城址碑、香坂高宗の墓塔
所在地:長野県大鹿村

2:宗良親王・御旧蹟地碑(東堀正八幡宮)、
宗良親王の「御旧蹟地」碑が、諏訪湖北岸の岡谷市・東堀正八幡宮、通称柴宮。桔梗ケ原の合戦の時、親王はこの地に御座所・本陣を構えたとの言い伝えがあるとか。
所在地:長野県岡谷市

3:桔梗ケ原古戦場碑(塩尻市)
所在地:長野県塩尻市広丘高出

4:墓名:宗良親王墓  墓形:宝篋印塔
所在地:静岡県浜松市北区引佐町井伊谷

5:二宮神社
宗良親王の妃、駿河姫を祭神とする。南北朝の初期、後醍醐天皇の皇子宗良親王は、南朝勢力の増強をはかって、井伊谷(引佐町)の豪族井伊道政のもとに滞在していた。親王は道政の娘駿河姫を妃とし一子尹良(ゆきよし)親王をもうけたといわれている。
境内社の若宮神社は尹良親王を祀っている。
所在地 : 浜松市北区細江町気賀8353

6:伊賀良神社 前宮(てろう山神)
祭神:○天御中主命、大山咋命、良王霊・・良王は尹良親王の子と言われる
所在地:長野県阿智村伍和寺尾(河内・栗矢)

7:北野天神社 
〈合祀〉:宗良親王〔むねながしんのう〕:宗良親王遺蹟(歌碑)
正平7年(1352)小手指ヶ原の合戦に際しては、征夷大将軍宗良親王がこの地に陣を敷いたと伝えられ、境内に遺蹟として歌碑が建つ。
所沢市小手指元町三丁目28-29 

8:金井原古戦場
南北朝時代の正平7(1352)年、南朝方の新田義貞の子義宗・善興等が宗尊親王を奉じて上野(:現群馬県)に挙兵、武蔵野を舞台に北朝の足利尊氏と戦った。
世にいう武蔵野合戦である。同年閏2月20日、20万騎に及ぶ大軍勢が人見原(府中市若松町)から金井原にかけて戦いを繰り広げ、足利軍は石浜(:台東区)へ敗走した。
「史跡金井原古戦場」碑は、野川緑地公園(前原町3-3)に移設されている。
所在地:府中市

9:大草城  
~ 大草城の歴史 ~
南北朝時代に大河原に入った宗良親王(むねよししんのう)を守護したのが大河原城主である香坂高宗であった。・・・その後、香坂氏は徐々に四徳・大草まで精力を広げると元々大草を支配していた土豪である大草氏と血縁関係を結び徐々に基盤を固め大草氏と香坂氏は同族関係となって行ったようである。・・・「香坂系図」によれば、「香坂宗継の母は、大草次郎大夫経純の女であり香坂宗職の母は大草弥太郎の女」であると書かれていることから分かる。・・・その頃に今回の大草城が、大河原城の支城として築かれたと考えられ、諏訪・遠江を結ぶ街道を押さえ幕府軍(北朝方)に対する前衛拠点として一族を配していたようである。・・・宗良親王が大河原の地で亡くなり、南北朝時代が終わると香坂氏は山深い大河原の地から本拠を大草城へ移しているが、この頃はまだ大草氏と香坂氏は同族関係ではあるが別家であったようで、「諏訪御符礼之古書」によると、頭役を大草郷で務めているが15世紀後半の約30年間に大草氏と香坂氏が交互に務めていて、勢力はほぼ互角であっ
たようである。
所在地:長野県中川村

10:井伊谷宮
南北朝時代に活躍した後醍醐天皇の皇子、宗良親王(むねよししんのう)を祀る格式のある神社です。宮内には、全国的にも珍しい「絵馬資料館」があります。
昭和五年には昭和天皇が御親拝になり、五十八年には現在の天皇皇后両陛下が御参拝されるなど、皇室とも関係深い神社です。
所在地:浜松市北区引佐町井伊谷1991-1

11:御所平寓居跡
後醍醐天皇の第八皇子宗良(むねなが・むねよし)親王は、南アルプス小河内岳を間近に見上げる秘境・御所平に30有余年住まわれたといわれている。
所在地:長野県大鹿村

12:尹良親王御墓
○管轄:宮内庁(明治14年2月14日より)
浪合の古戦場といわれる宮の原の北東部。山の麓にある小さな丘は「尹良親王の御首を埋め奉った場所」と伝えられ、御墓が築かれています。
 長い間忘れられていた御墓も、江戸時代に国史の研究が盛んになると浪合胤久や後藤基命など浪合村の人によって宮内庁の公認が願われましたが、この時には御墓の公認は実現しませんでした。
 それから後の明治13年6月、明治天皇御巡幸の供奉を仰せつかり飯田町を訪れていた内務少輔品川弥二郎を、増田平八郎を代表とする村人が関係資料を持って訪ね、尹良親王御陵墓の公認について協力を願いました。しかし、このときも要請は受付られず、増田たちは現豊丘村伴野に住む女流勤皇家・松尾多勢子にその斡旋を依頼することとなりました。松尾の働きかけによって、品川の報告を受けた明治天皇はすぐに侍徒・西四辻公業を勅使として浪合村に派遣し、尹良親王の御事蹟の調査を命じました。
 その結果、明治14年2月14日に尹良親王御墓は正式に後醍醐天皇皇孫尹良親王御墓と認められ、以来宮内庁の管轄下に置かれることとなりました。
所在地:長野県阿智村浪合宮の原
○尹良親王陪塚(ゆきよししんのうばいちょう)
管轄:宮内庁(明治14年2月14日より)
尹良親王御墓の近くに三堆の小塚(杜)があります。これを陪塚といい親王に殉じて討死した戦死者を埋葬した場所と伝えられ、通称千人塚と呼ばれています。
●陪塚い号・・・・い号の上には、 「正面」大光院殿(世良田大炊助政義の法名): 「左側」世良田政義先霊: 「右側」寛政七卯暁春日: 「裏側」堯翁十二世松山建之
所在地:長野県阿智村浪合宮の原

13:宗良親王旧跡・・流刑の地
城主宗良親王、時期元弘2?3年(1332?33)、地名「王屋敷」。元弘の変にに破れて囚われの身となり,1332(元弘2)年3月,ここご讃岐詫間に配流されました。・・ 1935(昭和10)年,「宗良神社」とし,この地に宗良親王を祀りました。
所在地:香川県三豊市詫間町詫間田井中

14:木舟城跡・奈呉浦貴船城
木舟城跡城山の「木舟城跡」碑の隣にかつて大滝・本領地内にあった道標が建っています。文字が読取りにくいが次のように刻んである。(木舟城跡 是ヨリ西南一四八五米 南朝忠臣石黒越中守宗良親王ヲ迎エ奉リシ所也 )。南北朝時代、木舟城に南朝に味方する城主の石黒重之が宗良親王を迎え入れた所と案内しています。「興国3年冬(1341)越中国に就き、奈呉浦貴船城主石黒越前守重之の館に入らせたもふ(遠江国風土記伝)」とし同5年の頃まで越中に留まり信濃に移られた。
所在地:射水市富山新港(奈呉ノ浦)


15: 一之瀬神社~宗良親王御遺蹟の碑
一之瀬川に沿岸の度会町脇出に一之瀬城址があり、その敷地に一之瀬神社が祭られている。
所在地:三重県度会郡度会町脇出 一之瀬城址

16:宗良親王墓(御山)
御山の遺跡 ・・古来この丘を「みやま」と呼び、明治中頃までは老杉が生い繁っていた。御山に登ると足が腫れるといわれていたので、ここに近づく者はなかったという。・・明治の中頃、御山北側の小犬沢で頭の丸い石碑とその近くにあった臼型の台石らしいものとを、沢に近い家の人が発見した。常福寺住職に相談したところ、円形だから僧侶のものだろうといって寺の墓地に安置した。・・昭和6年5月12日、郷土史家「唐沢貞次郎」「長坂熙」の両氏が詳細に調査したところ、墓石正面に16弁の菊花御紋章があり、その下に「尊澄法親王」その左側面に「元中二乙丑十月一日尹良」と刻んであるのを判読した。尊澄法親王は宗良親王の法名であり、尹良は宗良の王子であることが明らかにされた。・・その後区民は宗良親王の遺跡であると信じ、毎年春秋二回年ごろに法要を営んでいる。・・御山の遺跡関係資料は、常福寺本堂内に展示されている。
所在地:伊那市長谷溝口 常福寺


著作と評本&論文

著作

新葉和歌集」 岩波文庫、新編国歌大観1
・・南北朝時代に成立した准勅撰和歌集。撰者は宗良親王。弘和元年/永徳元年(1381年)12月3日奏覧。新葉集とも
・・・南朝では二条派を信奉する天皇の下、『内裏三百六十首歌』・『三百番歌合』などが催されて歌壇は活発であったものの、北朝の勅撰集(『風雅和歌集』・『新千載和歌集』・『新拾遺和歌集』)には、南朝の君臣による詠歌が一切撰入されなかった。宗良親王がこのことを嘆き、南朝の和歌集を撰述せんと企図したのがこの『新葉和歌集』である。仮名序や巻末の綸旨によれば、もともとは親王が自身の老いの心を慰めるための私撰集に過ぎなかったが、これを知った長慶天皇から勅撰に准ずる旨の綸旨が弘和元年(1381年)10月13日付で下されたため、親王はそれまでの内容を改訂して勅撰集に相応しい形に整え、同年12月3日奏覧に供したものである。・wikipedia

李花集」 群書類従231、岩波文庫、私家集大成5、新編国歌大観7
・・後醍醐天皇の皇子、宗良親王の家集。集中の和歌の最下限から考えて、1371(建徳2)年以降の成立とされている。・上下2巻、部立があり、上巻は春夏秋冬、下巻は恋と雑歌である。親王の歌899首を含め、総計1006首収められている。『新葉和歌集』撰進の際に、多くの歌が収められた。

宗良親王千首」 群書類従162、新編国歌大観10
・・1375:宗良親王六十四歳、「南朝五百番歌合」の判者をつとめる。 1376:天授二:宗良親王六十五歳、「南朝内裏千首歌」に評点を加える。 1377:天授三:春:宗良親王、千首和歌を詠進。

評本

『吉野朝の悲歌』 川田順(第一書房/養徳社)・3部作

『吉野朝柱石 宗良親王』 川田順(第一書房)

『宗良親王全集』 黒河内谷右衛門編(甲陽書房)

『物語 新葉集』 山口正(教育出版センター)
・・20巻1400余首の和歌を含む新葉和歌集の中から、代表的なものを選出し、当時の歴史的背景をふまえながら解説する。

論文
・秋山哲雄『鎌倉幕府滅亡と北条氏一族』 敗者の日本史7 吉川弘文館 東京 2013.5
・新井孝重「中先代の乱」 in『南北朝の争乱』 ピクトリアル足利尊氏2:学習研究社 1991.2 pp.44-47
・一ノ瀬義法「竜東の諸氏、北条時行を支援する」in 『歴史人物読本・上伊那よもやま話』 ほおずき書籍 
・岩松清四郎「中先代の乱を引き起こした鎌倉の地政学的な重要性」in『「太平記」群雄の興亡と謎』 
・岩松清四郎「足利軍壊滅を鈍らせた北畠顕家の温情」in『「太平記」群雄の興亡と謎』 
・大鹿村誌編纂委員会編『大鹿村誌』上巻 大鹿村誌刊行委員会 大鹿村 1984.1
・奥富敬之「その後の北條氏」in『鎌倉北條氏の基礎的研究』 戊牛叢書 吉川弘文館 
・奥富敬之「幕府再興を祈る山峡の鬨 北条余党による中先代の乱」in『吉野の嵐 動乱の炎』 
・奥富敬之「北條時行の戦い」 in『鎌倉北條一族』 新人物往来社 
・奥富敬之「中先代の乱」 in『南北朝の内乱』 戦乱の日本史 合戦と人物第5巻 
・奥富敬之「その後の北条氏-エピローグ」 in『鎌倉北条氏の興亡』 歴史文化ライブラリー159 
・柿木憲二「古城随想」in『定本・伊那谷の城』 郷土出版社 松本 1996.3 pp.205-209
・蟹江町史編さん委員会編『蟹江町史』 蟹江町 蟹江町 1973.3
・鎌倉市史編纂委員会編『鎌倉市史』総説編 吉川弘文館 東京 1959.10
・亀田俊和『南朝の真実 忠臣という幻想』 歴史文化ライブラリー378 吉川弘文館 東京 2014.6
・来水明子「北条高時の滅亡 北条高時と時行」in『争乱の群雄』 人物探訪日本の歴史4 
・河野 亮「生きのびるためだけの敗走人生……北条時行」 in『太平記おもしろ人物史』 廣済堂出版 
・小林一岳『元寇と南北朝の動乱』 日本中世の歴史4 吉川弘文館 東京 2009.9
・小林計一郎「諏訪氏と神党」 小林計一郎『信濃中世史考』 吉川弘文館 東京 1982.5 pp.155-185
・阪田雄一「雑訴決断所と鎌倉将軍府」in『中世東国の政治構造』 中世東国論上 岩田書院 
・阪田雄一「中先代の乱と鎌倉将軍府」in『関東足利氏と東国社会』 中世東国論5 岩田書院 
・櫻井 彦『南北朝内乱と東国』 動乱の東国史4 吉川弘文館 東京 2012.12
・笹間良彦「北条の遺児・時行の鎌倉反攻」 in『鎌倉合戦物語』 雄山閣出版 東京 2001.2 pp.152-163
・信濃教育会『建武中興を中心としたる信濃勤王史攷』上巻 信濃毎日新聞 長野 
・鈴木かほる「鎌倉幕府滅亡の前後」in『相模三浦一族とその周辺史 その発祥から江戸期まで』 
・鈴木 隆「鎌倉と諏訪社中心の縁」 in『鎌倉と信濃』 島森書店 鎌倉 1961.11 pp.52-66
・鈴木由美「中先代の乱に関する基礎的考察」in『中世の支配と民衆』 同成社中世史選書4 
・諏訪市史編纂委員会編『諏訪市史』上巻 原始・古代・中世 諏訪市 諏訪 1995.3
・田辺久子「足利氏の制覇」 in『乱世の鎌倉』 鎌倉叢書第14巻 かまくら春秋社 
・田端泰子「南北朝期の乳母の実態と乳母観」 in『乳母の力 歴史を支えた女たち』 歴史文化ライブラリー
・高遠町誌編纂委員会編『高遠町誌』上巻 歴史1 高遠町誌刊行会 高遠町 1983.3
・茅野市編『茅野市史』中巻 中世近世 茅野市 茅野 1987.11
・中村直勝『中村直勝日本史』第4冊 白川書院 京都 1971.7
・長瀬康明「藤沢城・保科の古屋敷・ゴンドノ古屋敷」in『定本・伊那谷の城』 郷土出版社 
・長野県編『長野県史』通史編第2巻中世1 長野県史刊行会 長野 1986.3
・長野県編『長野県史』通史編第3巻中世2 長野県史刊行会 長野 1987.3
・平林 明「北条時行と諏訪一族の悲願」in『史料が語る長野の歴史60話』 三省堂 
・藤井政二『赤目横井氏の源流と其の一族』 藤井政二 名古屋 1976
・細田貴助『県宝守矢文書を読むⅡ-中世の史実と歴史が見える-』 ほおずき書籍 長野 2006.3
・森 茂暁『建武政権-後醍醐天皇の時代』 教育社歴史新書〈日本史〉60 教育社 東京 1980.11
・森 茂暁『南北朝の動乱』 戦争の日本史8 吉川弘文館 東京 2007.9
・森 幸夫「北条時行-中先代の乱」in『南北朝史100話』 立風書房 東京 1991.10 pp.160-161
・森本房子「高時をめぐる女たち」in『北条高時のすべて』 新人物往来社 東京 1997.7 pp.163-175
・山田邦明「北条時行の乱と三浦氏一門」 in『新横須賀市史 資料編 古代・中世Ⅱ』 横須賀市 
・渡辺世祐『中世の諏訪』 諏訪史第3巻 諏訪教育会 諏訪 1954
以上、上記は北条時行と宗長親王の二人に関わる論文で、諏訪神家・諏訪神党が基盤となっている。
そのため「信濃勤王史攷」と読み替えると輪郭は鮮明になるように思う。

雑誌

・赤羽又衛「幻の大徳王寺城・小笠原氏城地私考」 『伊那路』228号 上伊那郷土研究会 伊那 
・阿諏訪青美「鶴見合戦-『太平記』にみる横浜-」 『横濱』2008年春号vol.20 神奈川新聞社 
・大熊権平「北條時行の楯籠りし大徳王寺城につきて」 『信濃』6-7号 信濃郷土研究会 
・小口珍彦「大徳王寺城と貞実手記」 『伊那』338号 伊那郷土史学会 飯田 1956.7 pp.1-3
・阪田雄一「建武新政下における足利直義の動向―いわゆる鎌倉小幕府試考―」 『史翰』11号
・下山 忍「各地で建武政権に反乱」 『北条一族』 別冊歴史読本62(第26巻第1号) 新人物往来社 
・鈴木由美「建武政権期における反乱-北条与党の乱を中心に-」 『日本社会史研究』100号
・鈴木由美「先代・中先代・当御代」 『日本歴史』790号 吉川弘文館 東京 2014.3 pp.92-100
・武田昌憲「『太平記』巻十三 尊氏東下小考」 『茨女国文』4号 茨城女子短期大学国語国文学懇話会
・武田昌憲「『太平記』巻九、松寿の可能性・小考」 『茨女国文』11号 茨城女子短期大学国語国文学懇話会
・円谷真護「中先代の乱」 『歴史と旅』臨時増刊号49(第18巻第11号)太平記の一〇〇人 秋田書店 
・円谷真護「北条時行」 『歴史と旅』臨時増刊号49(第18巻第11号)太平記の一〇〇人 
・中村吾郎「北条時行」 『歴史と旅』平成3年3月号(第18巻第4号) 秋田書店 
・橋本芳和「建武政権転覆未遂の真相(Ⅰ)-東西同時蜂起計画の信憑性-」 『政治経済史学』501号
・橋本芳和「建武政権転覆未遂の真相(Ⅱ)-東西同時蜂起計画の信憑性-」 『政治経済史学』502号
・橋本芳和「建武政権転覆未遂の真相(Ⅲ)-東西同時蜂起計画の信憑性-」 『政治経済史学』503号
・橋本芳和「建武政権転覆未遂の真相(Ⅳ)-東西同時蜂起計画の信憑性-」 『政治経済史学』504号 
・広瀬仁紀「中先代の乱」 『歴史読本』1991年6月号(第36巻第11号) 新人物往来社 
・本間 寛「最後の得宗、北条時行」 『歴史研究』514号 歴研 東京 2004.3 pp.39-40
・峰岸純夫「歴史における自然災害-建武二年八月、関東南部を直撃した台風-」 『日本史研究』534号
・両角俊仁「中先代の乱と諏訪氏再興の謎 諏訪氏を救った円忠の絵詞」 『歴史研究』499号 歴研 
・渡辺 誠「最後の意地みせた「二十日先代」時行」 『戦乱南北朝 後醍醐天皇・正成・尊氏の激闘』

 


宗長親王戦記 8:南北朝抗争の終焉 宗良親王の終末

2015-02-24 23:42:24 | 歴史

 

宗長親王戦記 8:南北朝抗争の終焉 宗良親王の終末

年表

1356:正平11延文:10月:細川頼之、足利直冬追討に乗り出す。
1357:正平12延文2: 3月20日:島津氏、志布志松尾城を攻める直顕を破り、大隅より追う。
1358:正平13延文3:1月:厚東氏、大内氏に攻められ、豊前へ。
        :4月30日:足利尊氏死去。
        :・・・背中に出来た癰のため、二条万里小路邸にて死去。享年五十四歳
        :・・・異説:尊氏死去:6月7日
        :10月:足利義詮、征夷大将軍となる。
1360:正平15:秋:宗良親王、西上するも果たせず。
1368:正平23:3月11日:後村上天皇薨去、長慶天皇即位。
      :足利義満3代将軍に 
1369:天正24応安2:大河原の地で信濃の宮方勢力再建を図ったと思われるが
         :信濃守護を兼ねる関東管領上杉朝房の攻撃を受ける。
1371:建徳2:9月20日:懐良親王九州より和歌を届ける。           
1373:文中2応安6:宗良親王は大河原に約三十年間にわたり拠点とし、信濃宮と呼ばれる。
1374:文中3応安7:宗良親王、吉野へ戻る。文中三3年冬 信濃を出て吉野(賀野生)に入る。
1375:天授元:宗良親王六十四歳、「南朝五百番歌合」の判者をつとめる。
1376:天授二:宗良親王六十五歳、「南朝内裏千首歌」に評点を加える。
1377:天授三:春:宗良親王、千首和歌を詠進。
  :9月10日:興良親王(護良親王の子)死す。宗良親王、大和長谷寺で再度落飾(仏門)。
1378:天授4:新葉和歌集の選集を終え、信濃・大河原へ戻る
1380:天授6:信濃を出て吉野へ。河内山田に在住。新葉和歌集を編纂。
1381:永徳元弘和元:再び河内から吉野へ、新葉和歌集・完成し長慶天皇へ奏覧。
1385:元中2至徳2:宗良親王没、法名は尊澄。
        :死亡場所説諸説あり。現在は長谷説が有力。
        :死去説1・大河原説、死亡説2・井伊谷説、死亡説3・長谷説

南北朝の抗争の歴史は、宗良親王が没してから7年後、1392年(元中9年/明徳3年)に終わりを遂げる。・・朝廷が分裂してから、1392年(元中9年/明徳3年)に皇室が合一するまでの時代、1336年から1392年の57年間の長き間、実に多くの出来事があり、実に多くの人達がこの戦いに殉じた。

焉場所については、
1:1550年(天文19年)に作成された京都醍醐寺所蔵の「大草の宮の御哥」と題された古文書の記述から、長らく拠点であった信濃国大河原で薨去したとする説がある
・・・東京大学史料編纂所が醍醐寺文書から抜粋した「三宝院文書」)。
2:一方、「南山巡狩録」や「南朝紹運録」では、1385年(元中2年/至徳2年)に遠江国井伊城で薨去したと記されている。
3:1940年(昭和15年)に長野県常福寺にある宗良親王尊像の胎内から発見された文書から、1385年に大河原から諏訪に向かう途中の峠道で討ち死したとする入野谷長谷説がある。
長谷村では、明治の中頃に十六弁菊花の紋章と宗良親王の法名である尊澄法親王の文字が刻まれた無縫塔が発見されており、胎内文書はかつてこの地にあった天台宗の古刹大徳王寺の住職尊仁が江戸時代に書き残したものされている。
4:浪合説(子の尹良親王終焉の地)、河内山田説、美濃国坂下(中津川市)説、さらには越後や越中で薨去したとの諸説がある。
5:長野県大鹿村大河原釜沢にある宝篋印塔は宗良の墓との伝承、静岡県の井伊谷宮も宗良親王を祀って墳墓が残されている。また美濃国恵那郡高山(中津川市)にも墓がある。

没年時期は1385:(元中2)年8月
 ・・柳原紀光の「続史愚抄」
 ・・南朝紹運録
 ・・入野谷長谷説
没年時期は1389年(元中6年/康応元年)以前
 ・・花山院長親の「耕雲百首」にある「故信州大王」との記述

宗良親王の墓の発見 ・・・

昭和十五年に、黒河内の溝口(現在・伊那市長谷溝口)より宗良親王に関する遺物と資料が発見されます。これにより、宗良な亡くなった場所がここではないか、と注目され始めます。また、幻の城とされてきた「大徳王寺城」も同時に脚光を浴びてきます。

伊那市教育委員会の資料を以下のそのまま記載します。

「常福寺は永禄二年、来芝充胤大和尚を開山とし、高遠町勝間龍勝寺末寺として曹洞宗になる。以来六人の監寺をおき、明治になってから龍勝寺大願守拙大和尚を勧請開山として今日に至り、正住職五代目となる。
 以前のことは詳らかではないが、高遠領内寺院開基帳によれば溝口には松風峰大徳王寺と呑海和尚開創による真言宗常福寺の二ケ寺があったと記されている。現在の常福寺はこの二ケ寺を合祀したものと思われる。大徳王寺とは鎌倉時代末期、新田義貞により鎌倉を追われた執権高時の子時行が籠城し、足利尊氏方と四ヶ月に渡り対峙した「大徳王寺城の戦い」(1,340年)として伝わる難攻不落の寺城と言われている。
 興国五年(1344)信濃国伊那郡大河原に入り、約30年間にわたりこの地を拠点とした後醍醐天皇第八皇子・宗良親王が南朝方諏訪氏と連携をとるため、秋葉街道を通い、当城を利用したとされる。明治の中頃、常福寺領「御山」と呼ばれる小山北側から円形の無縫塔(僧侶の墓塔)が見つかり、これには正面に十六弁菊花御紋章(南朝の紋)と宗良親王法名「尊澄法親王」と刻まれていた。その後昭和6年には当寺位牌堂から新田氏一族の位牌が発見された。昭和15年5月12日、常福寺本堂屋根改修中、屋根裏から僧形座像の木像が落下し、胎内から青銅製の千手観音像とともに、宗良親王終焉の様子と、宗良親王の子・尹良親王が当地に御墓を作られ、法像を建立されたこと、親王に随従して山野に戦死した新田一族を弔うことが、大徳王寺住職尊仁によって記された漢文文書が発見された。すなわち「御山」は宗良親王の尊墓であり、この地が宗良親王終焉の地であると考えられている。御尊像はお袈裟から天台宗のものであり、宗良親王は天台宗の座主であったことから、宗良親王像と伝えられる

大平城が危機に陥っている六月二十四日、時行は信州伊奈谷に旧臣を結集し、大徳王寺城に挙兵した。信濃守護・小笠原貞宗の対応はすばやく、数日にして城を包囲した。苦しい戦いを続ける時行のもとへ、宗良親王が訪れた。援軍を連れて来たわけではない。居城であった大平城が陥落し、保護を求めてきたのである。親王を迎え、城兵の意気は上がった。だが、現実は動かしようもなかった。北朝軍は、大軍をもって城を囲み、隙を見ては攻撃をかけ、時行を確実に追い詰めていったのである。落城が迫っていることを悟った時行は、親王を脱出させた。そして、籠城四ヶ月後の十月二十三日、大徳王寺城は落城した。」

    尊澄法「宗良親王」御木像

       指定  伊那市文化財(有形文化財)
           平成3年9月20日
       所在地 伊那市長谷溝口

  われを世に 在りやと問わば 信濃なる いなと応えよ峯の松風


「後醍醐天皇の皇子「宗良親王」は齢十余歳で尊澄と名付け天台坐主となるが、南北朝の争いのため還俗して宗良と名を改め、信濃の国を中心に戦いしかも長く住んでいたので信濃宮とも称せられ、父帝より征東将軍に任ぜられていた。しかし「不知其所終」という悲劇の皇子であった。
 昭和15年5月12日、当寺本堂の屋根修理中、屋根裏から大音響とともに厚い煤におおわれた僧形坐像の木像が落下してきた。像の背部には彫り込みがあり、その中から青銅製の千手観音と古文書が現れた。
 古文書の終わりの方には、元中8年に至り、尹良親王は大徳王寺に来り、父「宗良親王」のお墓を作られ法像を建立された。法華経を写してお墓に納め、また新田氏一族の菩提を弔うため金2枚をお寺に収め、桃井へ帰られたと記してある。
 御尊像が天台坐主であることは、お袈裟からも一目瞭然である。」

伊那市教育委員会


      御山の遺跡

          指定  伊那市文化財(史跡)
              昭和49年3月1日
          所在地 伊那市長谷溝口

「古来この丘を「みやま」と呼び、明治中頃までは老杉が生い繁っていた。御山に登ると足が腫れるといわれていたので、ここに近づく者はなかったという。 明治の中頃、御山北側の小犬沢で頭の丸い石碑とその近くにあった臼形の台石らしいものとを、沢に近い家の人が発見した。常福寺の住職に相談したところ、円形だから僧侶のものだろうといって寺の墓地に安置した。
 昭和6年5月20日、郷土史家「唐沢貞次郎」「長坂熙」の両氏が詳細に調査したところ、墓石正面に十六弁の菊花御紋章があり、その下に「尊澄法親王」その左側側に「元中二乙丑十月一日尹良」と刻んであるのを判読した。尊澄法親王は宗良親王の法名であり、尹良は宗良の王子であることが明らかにされた。
 その後区民は宗良親王の遺跡であると信じ、毎年春秋二回ねんごろに法要を営んでいる。
 御山の遺跡関連資料は常福寺本堂内に展示されている。」

伊那市教育委員会

この発見された宗良親王に関して、歴史家の市村咸人氏は年代と資料の紙質などで若干の疑問を呈している。が、概ねこの発見で「大徳王寺城」と「宗良親王の終焉地」の長谷溝口説が有力になりつつあることが確認できる。ただ文中に、大徳王寺の戦いの時、宗良親王が大徳王寺に訪れていたことは証明されていない。恐らく無理であろう。
さらに、この溝口周辺が宗良親王の知行地の可能性が出てきている。

以下は推論である。

宗良親王が「知行地」を持っていたとするならば、大変興味深い。今までの謎の多くが解明できるかもしれない。大草城に拠点を持ち、家族や子を持ち、小笠原守護に対峙して宗良の第一の随臣の桃井宗継の桃井城を前衛に、諏訪族の溝口を右翼に、知久家を左翼に、背後を香坂家に配した布陣の城は強靱であり、30年余の長きにわたり武家方(小笠原守護)に耐えたのは頷ける。また、各地に度々の合戦のため出陣するに都合の良い交通の、連絡にも都合の良い地点でもある。宗良の子の尹良親王が、宗良崩御のあと4年後に大徳王寺で法要し桃井に帰った、とあるが、この時桃井城はまだ健在であったのだろう。この後尹良は桃井宗継を伴って各地を転戦する・・浪合記。諏訪家か諏訪一族の誰かが溝口周辺を、知久家が生田を、香坂家が大草を割譲し、大草を中心に「知行地」に類する「疑似知行地」になった可能性は、かなり高い。

宗良親王が「知行地」を持っていた、とする資料は
「正平より元中年間まで黒河内の諸村は宗良親王の御領であった」・・武家沿革図に基づく説であります。この文章は高遠町誌上巻(P351)にあり、偶然見つけました。南朝年号の正平は1346年から1369年までを指し、元中は1384年から1392年までを指します。宗良親王の没年が元中2年(1385)頃と思われます。
「武家沿革図」は、江戸時代作成の地図と言われ、資料価値はB、C級でありますが、江戸時代まで、宗良親王御領地の資料が残っていてそれを基にしたのなら俄然信憑性が出てきます。

 


宗長親王戦記 7:南朝の逆襲 観応の擾乱で幕府分裂

2015-02-24 23:41:08 | 歴史

宗長親王戦記 7:南朝の逆襲 観応の擾乱で幕府分裂

年表

正平五年(1350)、頃から、”観応の擾乱”を機に南朝側反撃に出る。宗良三十九歳
1350:正平5観応1:1月6日:足利尊氏、島津貞久に手書を与え足利直冬を討伐。
        :6月:足利直冬、少弐氏に迎えられ太宰府に入る。一色氏逃亡。
        :7月:土岐周斎が美濃で挙兵、近江に迫る。
        :8月20日:足利義詮・高師直ら、美濃を平定し京都に帰る。
        :10月:足利尊氏・直義の対立激化。(観応の擾乱)
        :10月16日:足利直冬九州で挙兵の報が京都に届く。
        :10月28日:足利尊氏・高師直、足利直冬追討のため京を出発。
        :11月19日:足利尊氏ら足利直冬追討軍備前三石に到着。
             :桃井直信、能登に進む。
        :11月23日:足利直義南朝に降るとの報が京都に届く。
        :12月13日:足利直義、南朝に帰服し、足利尊氏討伐の綸旨を得る。
        :12月21日:足利直義が摂津天王寺に進み、直義党の多くが集まる
     1350:足利直冬(尊氏の隠し子)九州で挙兵
1351:正平6観応2:1月7日:足利尊氏、摂津瀬河宿に到る。足利直義は入京、八幡へ。
        :1月10日:上杉憲将、甲斐須澤城に高師冬を滅ぼす。
        :1月15日:足利直義方桃井直常、入京し足利尊氏・義詮と戦う。
        :1月16日:足利尊氏ら播磨へ敗走。播磨書写山に拠り兵を募る。
        :1月17日:高師冬、諏訪直頼に攻められ自刃。
        :2月:足利尊氏・高師直、龍野で石塔頼房と戦い、兵庫湊川へ。
        :2月8日:上杉能憲、関東の兵を率いて西上。
        :2月12日:吉良貞家、足利直義に応じ、陸奥岩切城に畠山国氏を撃滅。
        :2月17日:打出浜の合戦。足利尊氏、足利直義に破れる。
        :2月20日:足利尊氏・直義和睦
        :2月26日:上杉能憲、師直・師泰ら高一族を討滅。
        :2月27日:足利尊氏入京、翌日直義入京
        :6月29日:小笠原為経・武田文元、直義派禰津宗貞と信濃野辺宮原に戦う。
        :7月28日:足利尊氏、佐々木道誉討伐のため近江石山寺に出陣。
        :8月1日:足利直義、尊氏と反目 京都、北陸、鎌倉へ脱出
            :南朝、尊氏と結び直義の追討を命令。
        :8月18日:足利尊氏、直義追討のため近江に入る。
        :9月12日:八相山の戦い。直義軍、尊氏軍に破れ敦賀に戻る。
            :赤松則祐、陸良親王を奉じ播磨伊川城に戦い、摂津西部を転戦。
        :9月29日:一色範氏、直冬の党少弐頼尚に筑後河北荘で敗れる。
        :10月1日:懐良親王の軍が肥後山鹿・関両城を攻略、筑後へ進撃。
        :10月2日:足利尊氏・直義、和を計り近江興福寺に会すが不調。
        :10月9日:直冬党上杉三郎ら、備後勝戸城に尊氏の党を攻撃。
        :10月:足利直義、鎌倉へ。
        :10月:北畠顕信・田村氏ら南朝軍、陸奥国府を奪回。
        :10月24日:足利尊氏、一時的に南朝に降伏。
        :10月25日:懐良親王、筑後国府に入る。
        :10月28日:小笠原政長ら、信濃より遠江に進み直義党と戦う。
        :11月4日:足利尊氏、直義追討のため京都を出発、鎌倉へ。
        :11月5日:一色範氏、豊前小倉城を攻略。
        :11月7日:南朝、崇光天皇を廃す(正平の一統)。
        :11月15日:足利直義、鎌倉へ入る。
        :12月11日:尊氏軍、上杉能憲らを駿河蒲原に破る。
        :12月23日:南朝、神器を回収。
        :12月29日:尊氏党高麗経澄ら、直義軍を相模足柄山に破る、
1352:正平7文和1:1月5日:足利尊氏、足利直義と和睦し、鎌倉へ入る。
        :2月1日:足利直冬の党・大館右馬助、門司・赤間関の細川清氏に敗れる。
        :2月26日:尊氏は離反して北陸に独立王国樹立を計った直義を毒殺
            :後村上天皇、賀名生より摂津住吉に向かう。
        :閏2月6日:新田義宗、義興、宗良親王を奉じ上野国で挙兵
             :宗良親王を征東将軍とする。
        :閏2月18日:新田義宗、宗良親王を奉じて、従兄弟脇屋義治と挙兵。
              :鎌倉を一時占拠し尊氏を追放、尊氏関戸へ。
              :尊氏の反撃にあって鎌倉を追われ,宗良親王、武蔵国へ出発
        :閏2月20日:足利尊氏、人見原で新田義宗を破る。
              :義宗は笛吹峠へ向かい、宗良親王と合流。?
              :新田義興は鎌倉へ。北畠顕信、鎌倉へ。
        :閏2月20日:北畠顕能・楠木正儀、京で戦い足利義詮を近江に追う。
              :尊氏軍、武蔵人見原・金井原で新田義興軍を破る。
        :閏2月23日:足利義詮、観応の年号を復活。
             :新田義興・北条時行ら、鎌倉より三浦に赴く。
        :閏2月28日:足利尊氏、小手指ヶ原で宗良親王・新田義宗軍を破る
        :3月2日:新田義興、鎌倉を落ち、信濃へ。
        :3月21日:足利義詮、近江より入京し、後村上天皇の男山を攻撃。
        :3月15日:足利義詮入京、北畠顕能ら八幡に退く。
             :吉良氏、陸奥国府を奪回、さらに宇津峰城へ。
        :4月8日:大内弘世、杉貞広を周防白坂山に攻撃。
        :4月14日:毛利親衡が吉田荘に挙兵、武田氏信がこれを攻撃。
        :4月29日:足利義詮、一色範氏らに日向の直冬党畠山直顕を討たせる。
        :5月11日:八幡陥落、四条隆資ら戦死、後村上天皇、賀名生に移る。
        :6月2日:南朝、光厳、光明、崇光三上皇らを賀名生へ移す。
        :6月8日:吉見氏頼、能登を攻略して越中に進み、桃井直常らを破る。
        :6月16日:吉良・石塔氏、西上の途次、土岐氏と長森で戦い、摂津に至る。
        :7月23日:島津氏久が大隈隈本・北里両城を攻略、
             :畠山直顕は氏久攻撃を図り、ついで直顕の子宗泰が氏久を破る。
        :8月17日:弥仁親王(後光厳天皇)践祚。
        :11月:足利直冬、今川憲氏に追われ九州より長門へ。南朝に帰順。

宗良親王の行状
1352:文和元正平:宗良親王、征夷大将軍になり鎌倉を占領する。しかし直ぐ追われる。
1352:正平7:2月25日:南朝軍(と宗良親王)と幕府軍の小手指ヶ原の戦い。
  :宗良親王がこの地で詠んだ歌が、戦場跡の小さな塚の上の石碑にあります。
   ○ 君のため 世のため なにかをしからむ すててかひある 命なりせば
      (君のため世のため何か惜しからむ捨てて甲斐ある命なり
1352:正平7:笛吹峠の戦い(小手指ヶ原の戦いの続編)、幕府側の勝利で最終的に決着。
笛吹峠の由来 ・・宗良が南朝側の兵士の慰撫のため、夜笛を吹いたという伝承があるが、宗良親王は、この峠の戦いに参加していないとされている。
1352:この後親王は、越後へ行き再起を図るがうまく行かず、再び信濃・大河原へ戻る。

        
-----:解説:-----

武蔵野合戦
1352:南北朝時代の正平7年、南朝方の新田義貞の子義宗・善興等が宗尊親王を奉じて上野に挙兵、武蔵野を舞台に北朝の足利尊氏と戦った。下記の三つの戦いの総称。

金井原古戦場(金井原の戦い)
1352:閏2月20日:二十万騎に及ぶ大軍勢が人見原から金井原にかけて戦いを繰り広げ、足利軍は石浜へ敗走した。

北野天神社::宗良親王遺蹟(歌碑)
1352:正平7:小手指ヶ原の合戦に際しては、征東大将軍宗良親王がこの地に陣を敷いたと伝えられ、境内に遺蹟として歌碑が建つ。・・・所沢市小手指元町三丁目28-29 
  ○君のため世のためなにかおしからん、すててかひある命なりせば ・・新葉和歌集
1352:正平7:新田、足利の会戦が小手指原に展開された。征東将軍・宗良親王は親しく、官軍将兵の部署を定め、この歌を作って、全軍を鼓舞し、為に官軍の志気は大いに振ったといふ。

小手指原の戦い・・・足利尊氏VS新田義興
1352:正平7文和元:閏2月20日:武蔵に進攻した新田義興軍と足利尊氏軍が激突した小手指原の合戦がありました。朝、小手指原に到着した新田軍・・・義宗・義興・義治は、それぞれの軍勢を五手に分けてそれぞれ配置・・・尊氏も、自らの軍を五手に分けて現地へ・・・こうして両軍合わせて二十万騎と言われる大軍が、一進一退の攻防を展開・・・なんと、新田軍は、鎌倉公方=足利基氏を敗走させ、鎌倉を制圧してしまった。

笛吹峠の戦い
笛吹峠は時の官軍(南朝)の本陣である。即ち太平記笛吹峠の軍の条に「小松生ひ茂りて、前に小河流れたる山の南を陣に取りて、峰には錦の御旗を打立て、麓には白旗・中黒・棕櫚葉・梶葉の紋書きたる旗共其の数満々たり…」とある。ここは往昔、鎌倉往還の大道であり、南は今宿、苦林、入間川を経て、武蔵府中から鎌倉に通じ、北は将軍沢、大蔵より菅谷に至り、上州の児玉、勅使河原を通って前橋近くの府中に達するもので、鎌倉と上野、信濃、越後地方を結ぶ主要交通路であった。新田義貞の鎌倉攻めも大体に於て、この通路のよったものとされており、宗良親王も又、この峠に錦旗を立てられたのである。ただし宗良親王はこの時期別所にいたと言う史実も残り、詳らかならず。
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1353:正平8文和2:足利直冬の勢力拡大。
        :1月28日:足利尊氏、陸奥の諸将に宇津峰城を討たせる。
        :2月2日:針摺原の戦い。少弐頼尚・菊池武光の南軍、一色氏を破る。  
        :2月:四条隆俊、紀伊に進み幕府軍を破る。
        :3月23日:南朝方吉良満員、石塔頼房ら、摂津吹田に土岐頼康の軍を攻撃。

        :5月4日:宇津峰城を落とす。北畠顕信、藤島へ。
        :5月20日:足利尊氏、北条時行らを相模龍ノ口に斬る
        :6月6日:山名時氏入京。楠木正儀・石塔頼房らの南朝軍、再び京に入る。
            :足利義詮、近江に逃走する。
        :6月9日:楠木正儀・石塔頼房ら京都を回復、足利義詮は近江坂本に逃れ。
        :9月21日:足利尊氏、後光厳天皇を奉じ入京.
        :11月8日:宇都宮氏、宗良親王・新田氏の拠る小国城を攻略
            :足利直冬、山名氏を頼る.
1354:正平9文和3:4月17日:北畠親房没。
        :4月:倭寇、高麗全羅道の船四十余艘を奪う。
        :9月23日:宗良親王・千種顕経・新田義宗・義治、越後宇加地城を攻撃。
        :10月18日:足利義詮、足利直冬追討のため西下する。
        :12月23日:足利尊氏、後醍醐天皇の慰霊のため一切経を等持院に納入。
        :12月24日:足利直冬・桃井直常らが京都に迫り、
            :足利尊氏、後光厳天皇を奉じ近江武佐寺に逃れる。
1355:正平10文和4:1月16日:桃井・斯波氏つづいて直冬・山名氏と南朝軍入京。
         :2月6日:神南の合戦。足利義詮(25)、山名軍を破り京へ。
         :2月7日:足利尊氏入京。南北両軍、京で戦う。
         :3月4日:越後の上杉憲将らが挙兵、幕府方風間長頼と戦う。
         :3月13日:足利直冬ら敗退。直冬、安芸へ逃れる。
         :3月:懐良親王、博多を攻略。
         :4月7日:宇都宮・和田氏、志都乃岐・大島で宗良親王を破る。
             :宗良親王、越後から信濃へ
         :8月18日:懐良親王、菊池武澄らを率いて肥前国府に入る。
         :8月20日:宗良親王、諏訪神党を率いて桔梗原に戦う。
             :信濃守護・小笠原長基、宗良・諏訪神党を敗る。
         :9月1日:懐良親王、菊池武澄らを率い肥前国府に入る。
         :10月2日:懐良親王、博多に進出。一色憲氏、長門に破れる。

-----:解説:-----
桔梗ヶ原の戦い
1355:文和4:8月:桔梗ヶ原の戦い、宮方勢・宗長親王、諏訪直頼・仁科氏などは、桔梗ヶ原で守護方・小笠原長基に決戦を挑んだ。
この戦いに、諏訪・仁科氏ら信濃宮方も参加して奮戦したが、宮方勢は完敗して再起不能の状態に陥った。この戦いの途中、諏訪氏や仁科氏など有力氏族の離反により南朝の勢力は大幅に低下してしまう。その後も宗良親王は大河原にあって頽勢挽回に尽とめた。
なお、桔梗ヶ原の戦いに関しては矢島文書など極少数の資料にしか記述がないが、ただ当時の基本資料である園太暦には「信濃での戦乱」に関する記述があり、この時期に都にまで伝わる規模の戦いがあった事は確実とされる。またその後の南朝方・直義派の活動が停滞・沈静化するなどの傍証から、その戦いが南朝方の敗北であったこともほぼ確実とされている。

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宗長親王戦記 6:南朝の劣勢 しかし北朝も内部対立へ

2015-02-23 19:40:58 | 歴史

 

宗長親王戦記 6:南朝の劣勢 しかし北朝も内部対立へ

年表

1341:興国2暦応4:2月29日:細川顕氏、南朝方の西阿討伐のため出陣し、河合城を攻撃。
       :春:宗長親王、越後寺泊に在住
        :6月:高師冬、北畠親房の拠る小田城を攻撃。
        :7月:征東大将軍・宗良親王信濃に入る
          :香坂高宗四郎美作守佐久より伊那郡大河原に移り館を築く。
          :当時大河原は南朝余党の巣窟たり
        :8月14日:足利直義、佐々木道誉に伊勢の南朝軍を討伐させる。
        :11月10日:小田治久が高師冬に通じたため北畠親房は関城。
             :春日顕国は大宝城へ逃れる。
        :12月20日:河野通世・忽那一族、伊予国道後で幕府軍と戦う。
        :12月23日:足利直義、夢窓疎石の要請により天竜寺船を元に派遣する。
  :興国2:6月7日:越後城(新田勢力下の越後城)悉打落之由、以飛脚上杉戸部令申了。
1342:興国3・康永1:春:宗良親王、越後名子浦に在住
          :2月17日:幕府軍、石見国・小石見城の新田義氏を攻略。
          :3月13日:小笠原貞宗、常陸国・大宝城を攻撃。
          :5月5日:高師冬が常陸国・関城を攻撃、9月まで攻防が続く。
          :細川頼春、川之江城を攻略、南朝軍を破る。
          :6月19日:南朝懐良親王薩摩へ。島津貞久を谷山で撃破する。
          :7月:細川頼春、四国の南朝軍を攻める。
          :9月6日:美濃守護・土岐頼遠、京都で光厳上皇の車に矢を射る。
              :土岐頼遠は12月1日に誅殺される。

宗良親王の行状
1342:興国3・康永元年:宗良親王、越中の放生津(射水市新湊)に滞在
  :安居寺の親王塔は、南朝復興を祈願した宝筐印塔だと伝えられてる。
  :その時に親王が、後村上天皇恩賜の太刀一振りを安居寺に寄進した伝承。
1342:興国3:冬:奈呉浦貴船城(木舟城)の石黒重之の館に入る・・遠江国風土記伝
1342:宗良親王、大栄寺(氷見市)に遊行上人を訪れ、剃髪。後に(1347)髪塚を築く。
  ・・・奈呉ノ浦の位置は現在の射水市富山新港~伏木富山港辺りか

1343:興国4康永2:4月2日:春日顕時、関城に赴き結城直朝らを討つ。
        :11月11日:関・大宝城陥落。北畠親房、吉野へ帰る。
             :南朝の関東経営は崩壊する。
        :12月2日:幕府は山名時氏を守護とし朝忠を討たせる。
1344:興国5康永3:3月7日:春日顕国、大宝城を攻略。
        :3月8日:幕府軍が大宝城を奪回、春日顕国は捕らえられ翌日殺される。

宗良親王の行状
1344:興国5:正月、宗良親王、北朝の仁木義長軍の猛攻に奥山城(浜松市引佐奥山)陥落。
  :逃れる親王は美濃尾張を経て駿河に向かう。安倍城に興良親王を訪問。
  :駿河の安部城に拠ったが、ここも危なく越中に移動。
  :やがて信濃国伊那郡の大河原に入る。・・興国五年のこと          
南朝の拠点・大河原
信濃・大河原の豪族・香坂高宗に招かれて大河原へ入る。ここで信濃宮と呼ばれる。・・その間に上野や武蔵(武蔵野合戦)にも出陣し、駿河や甲斐にも足を運んだことが『新葉和歌集』や私家集である『李花集』の内容から判明している。
拠点となった大河原は伊那谷に属し、南に下れば井伊谷(浜松)から東海地方へ、北上すると長谷を経由して諏訪や関東へと通じる位置にあり、別名「南朝の道」とも呼ばれる。後の秋葉街道の中心に位置していた。劣勢が続く南朝方にとっては最重要拠点となり、各地で破れた南朝方の武士達(新田一族など)が逃げ込む事も多かった。
・・信濃大河原に落ち着く。延元三年の北条時行が朝敵免除の綸旨を受けて以来、中先代の乱の首謀者である諏訪神党の各諸族は、宗良親王の頼もしい支持者であった。

『李花集』・・
・・興国五年、信濃大川原と申山の奥に籠居侍しに、たゞかりそめ成山ざとのかきほわたりみならはぬ心地し侍しに、やふやふわかぬ春のひかりまちいづる鶯の百囀も、むかし思ひ出られしかば、
  ○かりのやとかこふはかりのくれ竹をありしそのとや鶯のなく
  ○春ことにあひやとりせしうくひすも竹のそのふに我忍ぶらん
信濃大川原と申侍ける深山の中に、心うつくしう庵一二ばかりして侍ける、谷あひの空もいくほどならぬに、月をみてよみ侍し
  ○いつかたも山もはちかきしはの戸の月みるそらやすくなかるらん
信濃大川原といふ深山に籠て、年月をのみ送侍しに、さらにいつとまつべき期もなければ、香坂高宗などが朝夕の霜雪を拂ふ忠節も、そのあとかたなからん事さへ、かたはらいたく思ひつづけられて、
  ○いはて思ふ谷の心もくるしき身をもむもれ木とすくす成けり 

1345:興国6貞和元:3月3日:出雲の幕府軍、佐々木貞家が篭る屋根山城を攻略。
         :8月27日:畠山直顕、薩摩国・鹿児島谷峰城の南朝軍を攻撃。

宗良親王の行状

以下は、宗良親王の『李花集』『新葉集』の詞書き記載の地名を列記します。ただし、年代記入がほとんど無いため、行動を正確には掴めません。

駿河: 駿河国貞長が許・・又の年(興国六年)秋まですみ侍し -> -1345:秋
 ・・  ○見せはやなかたれはさらにことの葉もをよはぬ富士のたかねなりけり

興津・庵崎:現静岡市清水区興津か?庵崎が不明(ここは昔、庵原郡、その岬か?) 
 ・・  ○袖の浦風秋の夕よりも身にしむ心地せしかば

清見関:駿河国庵原郡(現・静岡県静岡市清水区)にあった関所の名称
 ・・  ○あつまちのすゑまて行ぬいほさきの清見はせきも秋かせそふく

浮島原 車返し:浮島原(沼津市原)・・浮島沼、車返し(沼津市)・・登り坂が地名の由来

・富士山麓:広すぎて?
 ・・  ○北になしみなみになしてけふいくかふしのふもとをめくり来ぬらん

甲斐国白須:白州松原・・北杜市白州町 21.4.8
 ・・  ○かりそめの行かひちとはきゝしかどいさやしらすのまつ人もなし
 征東将軍宗良親王井伊谷より信濃の保科氏をたよっ山伏姿に変装しこの松原に暫し休まれた。

・信濃:広すぎて?
 ・・  ○ふしのねのけふりを見ても君とへよあさまのたけはいかゝもゆると

信濃諏訪:諏訪下宮寳前・・下社宝物殿のことか、 下諏訪町上久保
 ・・  ○すはの海や神のとかひのいかなれは秋さへ月のこほりしくらん

信濃更級:冠着山(別名・姨捨山)の麓の地域が「更級地区」「さらしなの里」
 ・・  ○もろともにをばすて山をこへぬとはみやこにかたれさらしなの月
 ・・ をば捨山ちかくすみ侍し比 ・・『新葉集』
 ・・ 宗良親王が更級に住んだ時期は、1347年から数年?。

1346:正平1貞和2:1月21日:足利直義、島津貞久らに命じ、伊集院忠国らを討伐させる。
        :3月6日:吉見氏頼、井上俊清らを能登木尾城に攻撃。
        :7月23日:興福寺衆徒、東大寺を襲撃する。
        :8月27日:伊集院忠国、再び南朝に応じ薩摩日置若松城を攻略。
        :11月21日:足利直義、島津貞久に伊集院忠国の討伐を命じ、
             :九州のことは一色範氏に委ねた旨伝える。
1347:正平2貞和3:6月6日:南朝軍、熊野水軍を率いて薩摩東福寺城を攻撃。
        :6月19日:九州の幕府軍が島津貞久の薩摩谷山の陣に合流、南朝軍と戦う。
        :7月22日:吉良貞家・畠山国氏・石塔義房、陸奥藤田城のに南朝軍を攻略。
        :8月10日:楠木正行が挙兵し隅田城を攻撃。
            :紀伊・河内・摂津などで転戦、京に迫る。
        :8月24日:楠木正行、細川顕氏と河内池尻に戦う。
        :9月9日:楠木正行の軍、河内八尾城を攻撃。
        :9月17日:楠木正行、細川顕氏を河内藤井寺に破る。
        :10月1日:山名時氏、河内東条の楠木軍を攻撃。
        :11月26日:楠木正行、山名時氏・細川顕氏を摂津住吉・天王寺で破る。
1348:正平3貞和4:1月:懐良親王、菊池城に入る。
        :1月5日:四条畷の戦い。楠木正行、高師直と戦い敗死。
        :1月6日:高師直軍、吉野を攻略。後村上天皇、賀名生に逃れる。
        :2月8日:吉野より帰還途上の高師直軍を南朝軍が攻撃。
        :3月:高野山衆徒、宮方・武家方の戦闘に加わらぬことを盟約する。
        :4月26日:南朝軍、高師泰と河内天野二王山で合戦。
        :8月8日:足利直冬、紀伊国に到って南朝軍と戦い、阿瀬河城を攻略する。
        :10月27日:北朝、光明天皇譲位し、崇光天皇が即位する。
     :同年:宗長親王、更級の里(姨捨山麓)、浅間山麓に潜居。

宗良親王の行状

1348:正平3:宗良親王、更級郡姨捨山麓に住まわれたことがありました。
  :そのとき興禅寺へも來山され逗留したと伝えられます。・・宗良親王と興禅寺 
  :この寺の裏山の「みやまざ」(御山沢、宮間座が、宮が滞在された屋敷の跡。
  :興禅寺は香坂氏により開基された寺です。香坂氏の牧城は近く。
  :護良、宗良親王の香崋所・興禅寺: 長野県上水内郡牧田中

1349:正平4貞和5:閏6月2日:足利直義、高師直と不和を生じる。
        :閏6月15日:足利尊氏、高師直の執事職を罷免、後任に高師世を任命。
        :8月13日:高師直が足利直義襲撃を計り、直義は尊氏第にのがれる。
        :8月14日:高師直が要求して、足利尊氏は上杉重能の配流と直義の罷免。
            :直義は幕府最高権力を足利義詮に譲ることになる。
        :8月15日:幕府、上杉重能・畠山直宗を越前に配流、配所で殺す。
        :8月21日:僧疎石の調停で直義の政務及び師直の執事職を元に戻す。
        :9月9日:足利尊氏、次子足利基氏を初代関東管領とし鎌倉へ送る。
        :足利尊氏、中国探題足利直冬を討つ。直冬は九州へ逃れる。
        :12月8日:足利直義が出家。恵源と号す。
      1349:足利直義・高師直の対立:直義は師直の暗殺に失敗、失脚

-----:解説:-----
時代は観応の擾乱
足利義詮 師直のクーデターが成功した。足利直義は追われる形で京都を去った。 ・・この対立の構図は、早かれ遅かれ露呈しただろう。急進派(足利尊氏、高師直兄弟、佐々木道譽など)と保守派(足利直義、直冬、桃井直常など)の 争いである。鎌倉幕府の仕組みを基本的に継承して、室町幕府の仕組みは成り立っているが、鎌倉幕府に重用されていた能吏を 直義は重用した。直義はまた、公家や寺社など既存勢力にも親密であった。・・幕府は、尊氏と直義の二頭政治で始まった。武家の棟梁は尊氏と、諸国の武家は感じていたが、実際に政務を執り仕切るのは 直義だ、ということになれば、心中穏やかでない者も出てくるだろう。最も尊氏・直義の近くにいて、最もそれを感じていたのが高師直・道譽だった。
時代は観応の擾乱へ。北朝-南朝、尊氏派-直義派、九州では懐良親王の勢力が盛り返し、複雑な様相を作り上げていく。

この期間の南北朝の抗争史を眺めると、南朝劣勢の様相は甚だしく、抗争(戦い)自体の数も減らしていく。それでも南朝は、各地で散発的に強兵を繰り返す、と言う状況が続き始めた。
こうなると、室町幕府は、ますます強固に大勢を整えていくかと思えば、そうでもない。
この頃、南朝を主導したのは、後村上天皇の代になり、懐良親王、宗良親王、北畠親房、新田一族、楠木正行など、一方、北朝側は、足利尊氏・直義兄弟は健在で一族郎党を兵力補強に使い、高一族、それに尊氏に与する守護の小笠原一族や島津一族が勢力健在であった。
宗良親王は、頻繁に各地へ赴き、執拗に南軍への参戦を促す旅を続けている。宗良親王の業績を各書で読む限り、軍事的才覚は浮かんでこない。その才覚は、慰撫と鼓舞なのであろう。だが、宗良の出自は、旗頭には充分な資格であった。
変化が訪れるのは、高一族と足利直義の対立からである。
急進派・足利尊氏、高師直兄弟などと保守派・足利直義、直冬などの 争いは、鎌倉幕府の仕組みを継承して、室町幕府は成り立っているが、鎌倉幕府の有能な能吏を直義は重用し、公家や寺社など既存勢力も排除しない。尊氏と直義の二頭政治は、武家の棟梁は尊氏と諸国の武家は思っても、実務は直義だ、ということになれば、それに続く権力者は心中穏やかでない。それを感じていたのが高師直一族であったわけで。
室町幕府の成功は、それぞれの事象を検証していくと、武士の棟梁に祭り上げられた尊氏よりも、実務能力に長けた直義に負うところが非常に大きい。武士社会の構造の矛盾は、いつの世も、戦時の武闘派、平時の文民派の対立に現れる。室町幕府においては、直義への妬みのある武闘派の高一族が、直義に反目したことに起因すると見たのだが如何?
室町幕府の安定は、この武闘派と文民派の協力の下で強固なわけだが、この力関係が崩れれば隙が生まれよう。
観応の擾乱は、劣勢だった南朝側に、再び活力を吹き込んでいく。
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宗長親王戦記 5:南北朝の抗争と宗良親王

2015-02-22 13:32:32 | 歴史

 

宗長親王戦記 5:南北朝の抗争と宗良親王

年表

1336:延元1建武3:1月1日:名和長年・結城親光、近江勢多で足利直義・高師泰らと合戦。
        :1月10日:細川定禅・赤松則村、新田軍を破り入京する。
        :後醍醐天皇、神器を奉じ近江東坂本に回避する。
        :1月11日:足利尊氏、入京。
        :1月14日:北畠顕家、近江東坂本の政府軍本陣へ。
        :1月27日:新田義貞・北畠顕家軍、京で足利尊氏を破る。
            :足利尊氏、丹波・兵庫へ敗走。
        :2月6日:楠木正家、佐竹義冬を常陸国に破る。
        :2月10日:打出浜・豊島河原の戦いで楠木正成・新田義貞らに足利尊氏敗退。
        :2月12日:足利尊氏、厚東・大友氏の船で海路九州へ敗走する。
        :2月15日:北条時興(泰家)が信濃国に挙兵し、小笠原貞宗らと戦う。
        :2月29日:足利尊氏、九州へ敗走中光厳上皇より新田義貞追討の院宣下る。
            :菊池武敏が大宰府を攻撃、少弐貞経を有智山に討つ。
        :3月2日:【多々良浜の戦い
            :足利尊氏、菊池武敏、阿蘇惟直を破り九州を平定
        :3月3日:足利尊氏は箱崎、足利直義は大宰府に陣し、九州諸族が集結
        :3月24日:一色頼行ら、反尊氏軍の拠点玖珠城を攻撃。
        :3月:新田義貞、西国討伐の命を受け、赤松則村を播磨白旗城に包囲。
        :3月:北畠顕家、義良親王を奉じ陸奥国に赴く。
        :4月3日:足利尊氏、博多を出帆し東上を開始
        :5月5日:足利尊氏ら、備後鞆津に至る。
        :5月10日:足利直義、陸路で京へ。
        :5月18日:足利直義、新田義貞軍を福山城に破る。
            :新田義貞、播磨を撤退。
        :5月25日:【湊川の戦い
            :足利尊氏、新田義貞・楠木正成軍を破る
            :楠木正成、弟正季とともに自刃。
        :5月27日:後醍醐天皇、比叡山に逃れる。
        :6月14日:足利尊氏、光厳上皇を奉じて入京。
        :8月15日:光明天皇(北朝第2代)(15)即位。
        :9月18日:征西将軍・懐良親王九州へ。
        :10月10日:新田義貞、恒良・尊良親王を奉じて越前金ヶ崎城に入る。
             :斯波高経・高師泰、金ヶ崎城を包囲する。
        :後醍醐天皇帰京。
        :11月2日:後醍醐天皇、光明天皇に神器を渡す。
        :11月7日:足利尊氏、京・室町に幕府を開く
        :建武式目を制定。【室町幕府の成立
        :12月21日:後醍醐天皇、吉野に移る。【南北朝分裂】
        :12月25日:後醍醐天皇、宸筆勅書を北畠顕家付与、坂東諸国の兵が西上。

-----:解説:-----
この年は、足利尊氏と後醍醐天皇の力量比べの勢力争い。年初、京都合戦で尊氏は北畠顕家に敗れ九州へ追放されるが、舟で九州に着くや”多々良浜の戦い”で、建武新政派の菊池、阿蘇を破り九州を平定、九州の諸豪族は続々と尊氏・直義の軍に集結する。ここから京へ向かっての反撃が開始された。尊氏は舟で、直義は陸で福山へ向かう。合流した足利軍は、迎撃する後醍醐派の新田義貞と楠木正成と”湊川の戦い”で激突。ここで足利軍が勝利して、後醍醐と尊氏の勢力争いは大勢が決まった。さらに攻め上り京都で後醍醐を破る、後醍醐は吉野に逃亡、南朝樹立。尊氏は京に光明天皇(持明院統)を迎え北朝樹立。こうして南北朝の対立が幕を開けた。
尊氏の勝因・・・
①新田義貞軍を楠木正成軍から分断させた多々良浜の戦略(奇跡の逆転勝利)、
②新田義貞の目先の勝利に拘る稚拙な戦略、
③大義名分と諜報戦の重視、
④足利直義、高師直ら天才軍略家(集団戦法・新しい武器の使用・合理的精神)
足利尊氏派の勝利の戦略的部分は、上記のように解析されている。
・・湊川の戦いで、希代の天才的戦術の軍師・楠木正成は戦死。
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1337:延元2建武4:1月:陸奥国・岩切城主留守家任、北畠顕家に背く。顕家は霊山へ逃れる。
        :春:尊澄法親王遷俗して宗良と改名する。宗良親王は遠江に就く
        :1月:尊氏は高師泰を越前に派遣し、斯波高経とともに金ケ崎城を攻撃
        :1月1日:高師泰、越前・金ヶ崎城の新田義貞を攻撃する。
        :3月6日:新田義貞らが篭る金ヶ崎城が陥落。義貞・義助は杣山城へ脱出。
            :恒良親王は毒殺、尊良親王戦死・新田義顕は自害。
        :4月26日:足利直義、島津頼久を薩摩に帰還させ、伊集院忠国を討伐。
        :5月31日:一色範氏、佐竹重義らに南朝方菊地武重を討たせる。
        :7月4日:南北両軍が河内・和泉両国各地で合戦を交え、10月まで続く。
            :下野の南朝方春日顕国が小山城を攻撃するが、桃井貞直が撃退。
        :7月21日:薩摩で伊集院忠国の南朝軍と北朝・島津久長が合戦。
        :8月:足利尊氏 征夷大将軍となる。
        :8月11日:北畠顕家の軍、陸奥を出発し、再び京へ向かう。
        :9月6日:赤松則村、南朝勢力の摂津国・丹生寺城を攻撃する。
        :12月23日:北畠顕家、鎌倉を占拠。新田義興と北条時行が合流

-----:解説:-----
劣勢に陥っていた南朝側の実情は、まだ各地で、南朝と北朝の対立的抗争は続いているとは言え兵力に大きな損傷を被っています。有力な武将も戦死が続き、兵力の補給を余儀なくされていきます。後醍醐天皇の皇子達も、次々と戦死し、とうとう文人と言われる宗長親王まで主役に担ぎ出される事態になってきました。可能性のある各地に、南朝派を掘り起こしに行く作業です。各地の南朝派を強固にして挙兵を促すことも役目にになります。吉野の南朝司令部は、協議を重ね、残った参謀たちと残った皇子達にこの役目を担わせようと決議します。
尊澄法親王から遷俗して宗良と改名した宗良親王も、その役目を負った一人でした。宗良親王は、浜名湖の奧の井伊谷の井伊家に入ります。井伊家は遠江の南朝派であり、ここを南朝派の拠点としました。
南朝派の武将の新田義貞は、新田一族がかなり損傷を受けていたが、とりあえず健在でした。さらに陸奥の北畠顕家は、強力な兵力を保持していました。北朝派に、かなり劣勢とは言え、兵力を補給できればまだ戦えます。この頃、中先代の乱で敗北し、伊豆に隠棲していた北条時行が、室町幕府と足利尊氏憎し、ということで、後醍醐天皇に”赦し”を願い入れて受け入れられています。変化する状況から、現状の室町幕府に対抗するには南朝派になるしかない、と言う選択をしたのです。「敵の敵は味方」という、北条残党と南朝派の劣勢同士の合流。この勢力図の変化は、一時的に、あるいは地域的に、南朝勢力を活性化しました。
これが、北畠顕家の京へ向かっての進軍です。勢力を増した顕家軍は鎌倉を奪還します。北条時行は、鎌倉で、顕家軍に合流します。顕家軍は、鎌倉からさらに京へ向かいます。宗良親王は、青野原の戦いで、顕家軍に合流します。

宗良親王、延元二年の場所
・伊勢国一瀬 ・・・延元二年夏比、伊勢国一瀬といふ山の奥に住侍しに、郭公をきゝて
    ○深山をはひとりないてそほとゝぎすわれもみやこの人はまつらん 
・遠江井伊城 ・・・宗良親王、遠江の豪族井伊氏を頼って遠江井伊城に入る。・・『李花集』
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1338:延元3暦応1:1月2日:北畠顕家、鎌倉を出立し、京に向かう。
        :正月:北畠顕家、義良親王を奉じて西上、宗良親王遠江より参加
        :1月28日:美濃・青野原の戦い
        :北畠顕家、高師冬を破るが桃井直常に敗れたため、京から伊勢へ変更。
        :2月21日:北畠顕家、伊賀より奈良に入るが 奈良で敗れる。
        :2月28日:般若坂の戦い。南朝軍敗れる
            :高師直、北畠顕家を破る。義良親王は吉野に逃れる。
        :3月8日:北畠顕家、摂津国・天王寺で幕府軍を破る。
        :3月12日:高師直、天王寺で北畠顕家を破る。
        :3月16日:北畠顕家、天王寺・渡辺で合戦し阿倍野で敗れる。
        :5月15日:北畠顕家、後醍醐天皇に奏上文を提出し、新政を批判する。
        :5月22日:石津の戦い。北畠顕家、高師直と戦い戦死。
        :閏7月2日:藤島の戦い・新田義貞、斯波高経と戦い越前で敗死。
        :8月11日:足利尊氏、光明天皇より征夷大将軍に任命される。
            :足利直義は左兵衛督となる。
        :9月:義良・宗良親王・北畠親房・顕信、東国へ向かうが、航行中に遭難
          :義良親王、顕信は伊勢国へ戻り、
          :宗良親王は遠江へ漂着、遠江井伊に入る
          :親房は常陸東条浦に漂着、神宮寺城に入る。
        =9月11日:
         ・・「於伊豆崎遇大風、數船漂没、親王・顕信卿等船帰勢州、
           尊澄法親王・尊良親王第一宮着御遠江国井伊城。」
        :10月:一色範氏の軍が菊池城を攻撃。

-----:解説:-----
北畠顕家 南朝主力の一角をなしていた北畠顕家が、わずか20年の生涯を閉じた。・・後醍醐天皇に忠義を尽くす義臣でありながら、親政の犠牲になっていく人物は多いが、顕家は、楠木正成と同様に、確固とした信念があったように思える。・・顕家は鎮守府将軍として、任地である陸奥国・霊山城(福島県)に赴任した。現代でも、京都~福島は相当な距離、まして当時の行軍は、 行く先々で食料を調達する旅である。・・着任早々、「京都の足利を討つべし」だとか「鎌倉を奪回せよ」とか、宣旨が出て出陣。しかし、これには不平を言わなかった顕家。・・、しかし「都合のいい者ばかり近づけると破滅しますよ」という意見も奏上している。これは、寵愛する:後宮・阿野(藤原)廉子に、振り回される後醍醐天皇への讒言と読めるのだが。・・
しかし、「べき論」の塊になってしまっている後醍醐天皇が納得するはずもなく、一方では既得権益を 護りたい新田義貞に阻まれる形で、顕家は京都にも入れず、孤軍ともいえる陣容で敵方の勇将・高師直に挑み、 華と散ったのだった。
新田義貞
新田義貞はあっけなく死んだ。・・新田氏と足利氏は、元をたどれば八幡太郎義家の子・源義国に生まれた二人の兄弟で、兄が新田義重、弟が足利義康。 弟の家系の足利氏が栄え、新田氏が栄えなかったのか。謎? ・・ひとつには、武士層から武士の棟梁という信頼を得た足利氏が結果的に歴史の勝者となったことがあげられよう。もうひとつは、新田一族が「世渡り下手」だったという一面である。鎌倉初期の頃、執権・北条氏の再三の呼びかけにも応じずに出兵しなかった新田氏に対し、足利氏は比較的素直に従っていた。「源氏の名門」「嫡男の家系」というプライドが邪魔をしたのか。ともあれ新田氏は鎌倉に従わなかったということで、 官位官職を与えられず、冷遇されていく。・・尊氏・義貞のころになっても、足利氏は 家時(時宗)-貞氏(貞時)-高氏(高時) のように執権から一字を授かり、 官位も従五位下治部大輔であるのに対し、義貞は無位無官の「新田小太郎義貞」である。建武の親政が始まってからも、 尊氏は政権の中枢から離れ、武家政権を着々と作り上げていったのに対し、義貞は建武政権に留め置かれ、義貞自身も 既得権益に縛られていったのである。
・・・戦国時代に入って稀有なる世渡り上手が、新田一族・世良田氏から生まれる。徳川家康である。家康は、朝廷勢力の官位から距離を置き、朝廷の影響下から独立していた。
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1339:延元4暦応2:3月28日:越前の南朝軍、経峰で幕府軍を攻撃、攻防続く。
        :7月3日:新田義貞の弟・脇屋義助、黒丸城を落とす。
            :斯波高経は加賀へ逃れる。
        :7月:高師泰・師冬・仁木義長、伊井谷城を攻める。
          :宗良親王、大平城・安倍城と移る
        :8月15日:後醍醐天皇崩御、後村上天皇即位。
            :常陸で北畠親房、信濃で北条時行、越前で脇屋義助が挙兵。
        :8月27日:幕府方畠山義顕、南朝方・肝付兼重を攻め、九州南部を平定。
        :10月25日:高師冬、下総駒舘城を攻撃する。
        :10月30日:千頭峯城落城。
        :10月:足利尊氏、後醍醐天皇を弔うため、天龍寺を創建する。
        :秋:北畠親房、常陸小田城で神皇正統記を著す。
          
-----:解説:-----
後醍醐天皇 巨星・後醍醐天皇がついに薨去した。
良かれ悪しかれ、歴史の大きな歯車をまわしてきたのは、他ならぬ後醍醐天皇だった。 信念だけで周囲を振り回した印象の強い後醍醐天皇だが、市場に初めて紙幣を導入するなど、当時としては 先進的な取り組みをいくつも行っている。・・高い理念が逆に仇になり、時代にそぐわない、周囲にそぐわない、そして空回りした挙句、迷惑を被るのは臣下、の繰り返し。
・辞世の句・「身はたとひ南山の苔に埋もるるとも 魂魄は常に北闕に天を望まん」
歴史の軸、信念の人。後醍醐天皇が去った。

『李花集』・詞書き ・・・宗良親王
 八月十六日に先帝かくれさせ給ひぬるよしほのかにきこえしかども、さらになをまことにもおぼえ侍らで日数を送し侍しに、いつかたよりの風のをとづれもおなじ悲のこゑにのみきこえしかば、一かたに思ひさだめ侍るにつけても、いとゞ夢のこゝちして、さらでだにさびしかりし山の奥のすまゐどもゝ、いかがとおぼつかなければ、長月のすえつかた、空もれいよりはかきくもりて、われらが中の時雨もひまなかりける比、涙の色も紅もおなじ千しほにやなど思ひやられしかば、秋のもみぢとちりぢりにならぬやふに、申さたあるべきよしなど、別当隆資のもとへ申つかはす次に、井伊城にありし紅葉をはつゝみぐして
  ○思ふにもなを色あさきもみちかなそなたの山はいかゝしくるゝ
 返し・四条贈左大臣
  ○此の秋のなみたをそへて時雨にし山はいかなるもみちとかしる
遠江国に侍し比、三河国より足助重春しきりにさそひ侍しを、なを思ひさだめぬよし申つかはして
  ○ひとすちにおもひさためむ八はしのくもてに身をもなけくころかな
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1340:興国元暦応3:1月29日:宗良、三嶽城落ち、大平城に移る
        :春:鎮守府将軍北畠顕信、任地に赴く。
        :5月27日:高師冬が駒舘を攻略、まもなく南朝軍が奪回し師冬は逃走。
        :6月19日:少弐頼尚、相良定長に肥後の南朝軍を討たせる。
        :6月24日:北条時行が信濃・大徳王寺城で挙兵
            :小笠原貞宗がこれを攻略する。
        :7月:一色範氏、菊地武敏を攻撃するため筑後に出陣、豊福原などで合戦。
        :8月8日:島津貞久、薩摩一宇治・市来両城を攻略、同国各地で戦う。
        :8月24日:仁木義長、遠江大平城の宗良親王を攻略する。大平城落城。

        :9月13日:斯波高経ら幕府軍、越前府中を攻略し、脇屋義助を破る。

        :10月23日:大徳王寺陥落。

-----:解説:-----
この時期になると、南北朝の抗争は、一進一退ではあるが徐々に北朝優勢になっている。
さて、宗良親王だが、井伊谷の支城・大平城が陥落したのが8月24日、そこから南朝の各地を訪ね歩く旅が始まる。宗良親王と北条時行が同士としてともに戦ったのは、美濃・青野原の戦いから、吉野、伊勢を出て嵐に遭い、遠江・井伊谷にたどり着くまでの約8ヶ月間の戦友。それでも、宗良親王は、北条時行が挙兵した長谷・大徳寺城に向かったと思われる。しかし近くまで行ったとき、既に大徳寺城は信濃守護・小笠原貞宗に包囲されて陥落寸前の状態で、結局大徳寺城にはたどり着けなかった、と判断できる。一部の説に、宗良親王が、大徳寺城・時行に合流とあるが、当時の状況から無理のある説で、その史実も探したが見つからなかった。
以下の宗良親王の行状の大半は、一部を除き、興国二年以降の出来事であると読める。

宗長親王
暦応3・興国元年(1340)8.24:井伊谷城(大平城)落城。
           ・足利方の高師泰・仁木義長らに攻められて井伊谷城が落城した、
           ・後、越後国の寺泊(長岡市)や、
           ・越中国(放生津・現・射水市)などに滞在した。
           ・その後、足助氏に寄り給う。
           ・後に駿河に赴き狩野介貞長に依り、
           ・・・御子興良親王も来り給いて貞長の宅に匿る。
           ・十月駿河より信濃に赴き大河原の香坂高宗の家に着御。
            ・・・先之、高宗大河原を選定し先ず自ら茲に移りて親王を奉じたる。
           ・・・而来大河原は関東・北陸及び東海道に於ける南朝の震源地となり根拠地となりしなり。
          ・・・志士に大河原に児島高徳氏・脇屋義治氏・脇屋義助氏・新田義隆氏あり。
          ・・・佐久諸族に滋野氏・海野氏。
           ・・・天竜河東に知久敦貞氏。
           ・・・中沢方面に木曾義親氏。
           ・・・高東方面諸族・遠山方面諸族あり。---『信濃郷土史』

宗良親王、駿河国に至りて富士山を見て和歌を詠む。
『李花集』・・
駿河国貞長が許に興良親王あるよしを聞きて、しはしたちより侍しに、富士に煙もやとのあさけに立ならふ心として、まことにめつらしけなきようなれと、都の人はいかに見はやしなましと、まつ思ひいてられるは、山の姿なとゑにかきて、為定卿の許へつかはすとて
  ○みせはやなかたらはさらに言の葉の及はぬ富士の高根成鳬(けり)
 返し
  ○ひやるかたさへそなき言のはの及はぬ富士と聞につけても
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宗長親王戦記 4:建武の新政と崩壊。宗良親王

2015-02-21 00:50:18 | 歴史

宗長親王戦記 4:建武の新政と崩壊。宗良親王

年表

1331:      :元弘の変 ・・再び後醍醐、倒幕に立ち上がる

1331:元弘1・元徳3:【元弘の変
         :5月5日:六波羅、後醍醐天皇(43)の倒幕計画を探知。
         :長崎高貞らを派遣し、日野俊基、文観らを捕らえ、鎌倉に送る。

          :幕府、大軍を上洛させる。
         :8月24日:鎌倉より京へ軍勢が差し向けられる。
              :後醍醐天皇、神器をもって奈良へ逃れる
         :8月27日:後醍醐天皇(43)、大和笠置寺に行幸。
         :六波羅の兵が比叡山を攻撃、尊雲・尊澄法親王は笠置山に逃れる。
         :足利高氏(26)、鎌倉軍として大仏貞直らとともに京へ出陣する。
         :9月11日:楠木正成ら河内・赤坂城で挙兵する。
             :翌月21日陥落し、正成は逃亡。
         :9月:備後の桜山滋俊、挙兵。敗れて備後で自刃する。
         :9月20日:持明院統の量仁親王が光厳天皇となる。・・(北朝第1代)
         :9月28日:幕府軍笠置山へ進軍し、笠置山落城。
         :9月28日:皇笠置寺行幸。東坂本の戦。
         :翌日、後醍醐天皇が捕らわれる。
         :10月21日:赤坂城陥落。楠木正成(37)は逃亡。
         :10月:妙法院宮(宗良親王)は長井因旛左近太夫将監に預らる。

-----:解説:-----wikipediaより
元弘の変 ・・・
元弘の乱は、元弘元年(1331)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動である。1333年に鎌倉幕府が滅亡に至るまでの一連の戦乱を含めることも多い。
1331-1333年までの戦乱。 ・・元弘の変とも呼ばれる。
鎌倉時代後期、幕府では北条得宗家が権勢を振るっていた。北条一門の知行国が著しく増加する一方で、御家人層では、元寇後も続けられた異国警固番役の負担、元寇の恩賞や訴訟の停滞、貨幣経済の普及、所領分割などによって没落する者も急増加した。幕府は徳政令で対応するが、社会的混乱から悪党が活発化し、幕府は次第に支持を失っていった。
朝廷では、13世紀後半以降、後深草天皇系の(持明院統)と亀山天皇系の(大覚寺統)の両血統の天皇が交互に即位する両統迭立が行われていた。だが、公家社会は、両統の派閥が生じ混乱を引き起こし、幕府による朝廷の制御を困難にした。
文保二年(1318)、大覚寺統の後醍醐天皇が即位し、天皇親政を理想に掲げ、鎌倉幕府の打倒を密かに目指していた。正中元年(1324)の正中の変は六波羅探題によって未然に察知され、後醍醐は幕府に釈明して赦されたものの、側近の日野資朝は佐渡島へ流罪となった。だが後醍醐は、処分を免れた側近の日野俊基や真言密教の僧文観らと再び倒幕計画を進めた。
笠置山・赤坂城の戦い ・・・
元弘元年(1331)8月、後醍醐の側近である吉田定房が六波羅探題に倒幕計画を密告し、またも計画は事前に発覚した。六波羅探題は軍勢を御所の中にまで送り、後醍醐は女装して御所を脱出し、比叡山へ向かうと見せかけて山城国笠置山で挙兵した。後醍醐の皇子・護良親王や、河内国の悪党・楠木正成もこれに呼応して、それぞれ大和国の吉野および河内国の下赤坂城で挙兵した。・・幕府は大仏貞直、金沢貞冬、足利高氏(後の尊氏)、新田義貞らの討伐軍を差し向けた。9月に笠置山は陥落(笠置山の戦い)、次いで吉野も陥落し、楠木軍が守る下赤坂城のみが残った。ここで幕府軍は苦戦を強いられる。楠木軍は城壁に取り付いた幕府軍に対して大木を落としたり、熱湯を浴びせかけたり、予め設けておいた二重塀を落としたりといった奇策を駆使した。だが楠木正成は、長期間の抗戦は不可能であると理解していた。10月、自ら下赤坂城に火をかけて自害したように見せかけ、姿をくらませた(赤坂城の戦い)。・・後醍醐は側近の千種忠顕とともに幕府に捕らえられた。幕府は持明院統の光厳天皇を即位させ、元号を正慶と改めさせるとともに、元弘二年/正慶元年(1332)3月、日野俊基や北畠具行、先に流罪となっていた日野資朝らを斬罪とし、後醍醐を隠岐島へ配流した。こうして倒幕運動は鎮圧されたかに見えた。
宗良親王の行状
宗良親王、北条討伐の指揮をとる。後醍醐と笠置山に入る。・・後醍醐天皇と共に笠置に拠ったが、宗良親王は翌年捕えられて讃岐国に流された。・・楠木正成河内赤坂に挙兵。・・幕府の奉願により量仁親王即位(光厳天皇)・後醍醐天皇解任。
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1332:元弘2・正慶1:3月7日:幕府、後醍醐天皇(44)を捕らえ隠岐へ配流
             :3月8日:幕府、尊良親王を土佐、尊澄法親王を讃岐へ配流。
             :6月:護良親王各地の武士に令旨を発令。
             :倒幕の挙兵を呼びかけ、呼応した
             :6月6日:尊雲法親王、令旨を熊野山に伝える。
             :6月19日:幕府、北畠具行を近江国で殺す。
             :11月:護良親王(尊雲法親王)、吉野で挙兵。
                :楠木正成が呼応して河内赤坂、千早城で挙兵
             :12月:楠木正成、赤坂城を奪回。
1333:元弘3・正慶2:1月19日:楠木正成、摂津国四天王寺に六波羅軍を攻撃。
             :足利高氏の幕府を裏切る。六波羅探題は陥落。
              :2月:幕府軍、赤坂城を落とす。千早城の攻防戦激化。
             :閏2月1日:吉野城陥落し、村上義光ら戦死。
              :閏2月11日:長門探題の北条時直・宇都宮貞宗を襲撃。
             :閏2月24日:後醍醐天皇、阿野・千種らと隠岐を脱出。
             :閏2月28日:後醍醐天皇、伯耆の船上山の名和長年を頼る。

             :後醍醐帰郷する。護良親王を征夷大将軍に任ずる。
             :3月:足利高氏、名越高家,幕府軍を率いて伯耆へ向かう。
             :3月12日:星岡の戦い:北条時直、再び敗退。
             :3月13日:菊池武時、鎮西探題の赤橋英時と戦い敗死。
             :4月16日:足利高氏入京。
             :5月7日:足利高氏・赤松則村・千種忠顕ら京に突入。
                        :六波羅を攻め、陥落させる。
             :5月7日: 京都回復。鎌倉陥落
             :六波羅探題・北条仲時ら光厳天皇を奉じ近江国へ敗走。
              :5月8日:新田義貞、上野国新田庄・生品明神で挙兵。
                  :翌日、足利義詮が新田軍に加わる
              :5月15日:新田義貞、武蔵国分倍河原に北条泰家を破る。
              :5月18日:鎌倉執権・赤橋守時、大船で新田軍に敗死。
              :5月22日:新田義貞、稲村ヶ崎から鎌倉へ進撃、
                    :鎌倉を陥とす。
                 :新田義貞、鎌倉を制覇。 建武の新政が始まる。
                 :北条高時以下、鎌倉東勝寺で自刃
                  ・・・【鎌倉幕府滅亡】。
              :5月25日:後醍醐天皇、光厳天皇を廃し元弘に戻す。
              :6月5日:後醍醐天皇が帰京する。
             :6月15日: 宗良、天台座主に還任
             :6月:この頃、記録所・恩賞方を設置。
                     :訴決断所・窪所・武者所を設置。
              :7月23日:諸国平均安堵法を発布。
             :8月5日:足利高氏・新田義貞ら諸将の論功行賞を行う。
                  高氏は尊氏と改名。
             :9月:この頃、雑訴決断所・武者所など設置。
              :10月20日:鎮守府将軍・北畠顕家、義良親王を伴い奥羽多賀城へ向かう。
             :足利高氏は旧探題配下の職員や御家人を吸収して護良親王の軍勢を圧倒する

-----:解説:-----
足利高氏
足利高氏は、当初京都制圧のための切り札として、北条家一族の名越高家とともに出陣した。 このときはまだ、鎌倉幕府の一将であった。・・三河国矢矧に到着したとき、高氏は有名な「足利家時の置文」を一族に披露して倒幕の意思を伝え、 同時に船上山の後醍醐天皇に使者を派遣した。・・このころ幕府は、北条高時と長崎円喜の対立をはじめ、内部の破綻を来たしていて、六波羅、鎌倉とともに 手薄の状態であった。まさに、高氏や新田義貞には千載一遇のチャンスが訪れていたのである。・・すでに六波羅探題、九州の鎮西探題への反乱は激しさを増してきていたが、この直後に訪れる 足利高氏と新田義貞の寝返りが、時代を倒幕へ向かわせる決定打となるのである。

反幕府勢力:後醍醐、楠木正成、新田義貞、足利尊氏らが鎌倉幕府(北条高時)を滅ぼす
足利・新田両家とも村上源氏の血筋だが、足利家は頼朝の世以来名門、一方新田家は不遇をかこっていた。・・ともに妻は北条家ゆかりの人、倒幕戦は肉親同士の熾烈な戦いとなる。手別当で闘った元寇にも報償を与えられず、窮迫する御家人達の不満と混乱の世。お坊ちゃま将軍北条高時は、舅・長崎高資の収賄と強権政治に為す術無かった。後醍醐軍と尊氏は六波羅探題、義貞は鎌倉を責めたが為、高時等を直接下したのは義貞だった。しかし絶対的な家格の違いから義貞の戦功は評価されず、御家人達の人望は尊氏に集中した。鎌倉から追放された義貞の鬱積。御家人リーダーの地位を得た尊氏。新田が足利に対して反目を醸成していく。
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1334:建武1:1月12日:政府、大内裏造営のため全国の地頭・御家人に二十分一税を課す。
     :1月:鎮西探題北条氏の一族である規矩高政、帆柱山で蜂起。
        :これに呼応して、長野政通が門司城で蜂起。
       :3月9日:北条氏残党の本間・渋谷氏、鎌倉を攻めるが討たれる。
       :5月3日:徳政令発布。
       :10月:北条氏余党の佐々目憲法、紀伊国飯盛山城で蜂起。
           :護良親王(26)と足利尊氏(29)の対立深まる。
           :後醍醐天皇は護良親王の行動を警戒して親王の権限を制限。
        :10月22日:政府、護良親王を武者所に拘引。
             :十月、護良親王、捕えられ翌月鎌倉に流される。
        :11月15日:後醍醐天皇、護良親王を鎌倉・足利直義に預ける。
-----:解説:-----
護良親王 ・・・
護良親王 「朕が新義は未来の先例たるべし」。・・理想の実現を目指して燃える後醍醐天皇を筆頭にした建武政権は、しかし、成立当初から多くの矛盾を孕んでいた。
建武政権 ・・・
「新政」とも「親政」とも表現されるように、後醍醐天皇は天皇直裁の政府を作り上げようとしていた。 しかし、戦後の混乱期に天皇一人の裁可を仰がなければならないことは、庶務の滞りを招いていた。・・論功行賞は、もとより不平等なものであったが、綸旨による認可制に拘りすぎ作業がはかどらず、 朝令暮改は日常茶飯事、不信感を募らせていた。・・とりわけ、論功に見合う土地を与えられなかった諸国の武家の不満は大きかった。
そうした中で、新田義貞や楠木正成らは、建武政権に取り立てられていったが、 足利尊氏は巧みな立ち回りを見せ、新政権には深入りせず、護良親王の敵意の矛先もかわしていった。・・こうして、建武政権に批判的な武家たちは、必然的に足利尊氏を新しい盟主として見るようになる。・・時代の大きな流れを作っていた数々の歯車は、驚くほどあっけなく、再び分裂の方向へと動き始めていた
建武新政・・公家よりの政策は、恩賞に浴せなかった武士の反感を募らす。解決のつかない土地争い・出世争い・賄賂・夜討ち・強盗・にせ綸旨の横行 ・・後醍醐の庶民を無視した悪政・恐怖政治。さらに、護良親王は尊氏の人望を妬み、対立。・・寵姫・阿野廉子の政治介入が新政崩壊を早める。我が子を皇位に就けるため尊氏の讒言に便乗、護良親王追い落としを計る。・・後醍醐は護良を捨て、護良の処分を尊氏に任せ、弟足利直義が彼を切る。
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1335:建武2:1月:北条時直の遺児、越後左近将監とはかり長門国・佐加利山城で蜂起。
        :1月10日:後醍醐、比叡山に逃れ、翌日尊氏が入京。
            :後醍醐は奥州軍と共同して尊氏を攻撃する。
         :尊氏は丹波篠村-摂津兵庫-播磨室津に逃れる。
        :1月12日:吉田頼景・宗像氏範ら佐加利山城を攻撃。
        :2月:赤橋重時、丹波国・烏帽子山城で蜂起する。
        :2月:常岩宗家が反乱を起こす。
        :6月22日:西園寺公宗・日野資名・北条泰家による後醍醐天皇殺害の陰謀が発覚する。
        :7月14日:諏訪神党の保科弥三郎・四宮左衛門、反建武の兵を挙げる
        :7月:名越時兼、蜂起し京へ進軍するが、加賀・大聖寺城で戦死
        :7月14日:【中先代の乱】勃発。
            :諏訪神党 諏訪頼重ら、北条時行を擁して信濃国に挙兵。
            :この日小笠原貞宗(42)と戦い鎌倉に向かう。
            :岩松経家、燕川で時行軍を迎撃。破れ、鎌倉へ敗走。
            :女影原の戦い。
            :岩松経家、渋川義季、時行軍を迎撃。渋川義季は敗死。
            :府中の戦い。
            :小山秀朝の迎撃軍壊滅される。
        :7月22日:井出沢の戦い。
             :諏訪頼重らの軍に足利直義(29)大敗する
        :7月23日:足利直義、護良親王(27)を殺害して西走。
            :足利尊氏、天皇の召還に従わず、第を幕府の旧址につくる。
        :7月25日:北条時行、鎌倉を攻略。
        :8月2日:政府、西園寺公宗・日野氏光らを殺す。
            :足利尊氏、征夷大将軍・総追捕使を許されず、鎌倉へ向かう。
        :8月9日:政府、足利尊氏を征東将軍に任じる。
            :足利尊氏、三河国矢矧で足利直義と合流する。
        :8月19日:足利尊氏、北条時行を破り鎌倉を奪回
            :北条時行は伊豆へ逃れる。
           :9月15日: 尊氏鎌倉に反す。
        :10月15日:尊氏、後醍醐天皇の上洛命令を拒絶、建武新政に反旗
        :10月:足利尊氏、新田義貞の誅伐を光厳上皇に奏上。
        :11月19日:政府、尊良親王と新田義貞の軍を尊氏・直義追討で鎌倉へ。
        :11月:細川定禅、讃岐に蜂起し、京へ向かう。
        :11月下旬:赤松則村、足利尊氏方につき挙兵する。
        :11月25日:新田義貞、三河国矢矧川で高師泰を破る。
        :11月26日:後醍醐天皇、足利尊氏・直義(29)の官位を剥奪する。
        :12月5日:手越河原の戦い。
            :新田義貞、足利直義を破る。
        :12月9日:鎌倉・浄光明寺に隠棲していた足利尊氏が挙兵。
            :足利尊氏に呼応して、佐々木道誉が足利方に寝返る。
        :12月11日:箱根、竹ノ下の戦い。
             :足利尊氏、新田義貞を破り追撃する。
        :12月13日:日向国の肝付兼重・伊東祐広・肥後国の菊池武敏らが挙兵、
        :12月23日:蒲原合戦。
             :越後新田軍、越後から出撃した足利軍と戦う。
        :12月26日:武田信武、足利氏に応じ安芸国矢野城を攻撃する。
        :12月30日:菊地武敏、太宰府の攻撃を計り安芸貞元らと戦う。

-----:解説:-----
北条時行 不満を募らせる武家たちが、北条家の残党と結び、全国各地で反乱を起こした。
なかでも、執権北条高時の子・時行が信濃の諏訪神党に担がれて起こした反乱の規模は大きかった。・・時行は迎撃する鎌倉の足利配下の軍を次々と撃破。かつて鎌倉幕府を相手に連戦連勝した新田義貞さながらに、 驚異的な勢いで南下を続け、ついにこの日、鎌倉を奪還した。・・「北条の世が戻ったぞ!」―  ・・鎌倉北条氏の世を「先代」、足利氏の時代を「後代」と呼ぶことから、この反乱を「中先代の乱」という。 ・・しかし、この反乱には、その後の明確なビジョンもなく、 わずか20日後、足利軍に蹂躙されて再び鎌倉を失うことになる。 そして時行は逃避。その後に南朝に与して20年にわたって足利家と交戦することになるのである。・・北条時行もまた、時代に翻弄された一人であったのだ。
足利尊氏挙兵。北条高時の遺児・時行が信濃で反乱・・中先代の乱・・鎌倉入りした尊氏は日頃の不満からか後醍醐の帰還命令を無視。・・朝廷側は即時に新田義貞を総司令官とする倒尊氏の大軍を派遣する。・・賊軍とされた尊氏は朝廷軍と闘うかどうか迷うが、直義の勧めで遂に立つ。南北に分かれた朝廷の間の戦いの幕開け、であった。・・・南北朝時代。
--------------

「元弘元年(1331)8月、後醍醐の側近である吉田定房が六波羅探題に倒幕計画を密告し、またも計画は事前に発覚した。」・・・
腐れかけた鎌倉幕府は、京都に”六波羅探題”を残し権力の構造を残していた。役目は、京都の治安維持が主眼ではあるが、隠された意図は朝廷の監視である。長く続いた鎌倉幕府と朝廷内の旧弊勢力は、いまだ幕府の意に通じているものも多い。彼等は、来るべき理想の社会を追い求めているものは少なく、旧弊の中で、地位の保全と権力の地位にしがみついている。

後醍醐天皇は、”正中の変”の失敗から、比叡山の僧兵に期待をかけていた。自らの皇子も、天台宗の座主に据えてある。”正中の変”の時よりも味方になるものに多く意を伝えてある。
しかし、密告により、参謀となるべき側近は捕らえられた。

今回の”元弘の変”が前回の”正中の変”と違うところは、皇子たちの活躍である。宗良親王も、笠置の戦いでは、後醍醐軍の指揮を執ったが、護良親王は、楠正成などを味方に付け大いに奮戦した。
しかし、時はいまだ熟せず、後醍醐以下は敗北し捕縛され、天皇は解任されて、光厳天皇が即位した。
元弘の変の罪状から、主だった側近は斬罪され、後醍醐天皇も隠岐島へ流罪となった。皇子達も、尊良親王は土佐へ、宗良親王は讃岐へ配流された。この時、宗良親王は長井左近太夫将監に預られる。微罪とされたのは、和歌を嗜む文人であり、争いごとを好まない性質だったのが考慮されたのだろう。

元弘二年6月、護良親王は、令旨を発令。倒幕の挙兵を各地に呼びかけた
鎌倉幕府・北条得宗家に不満を持つ在郷の武士たちは、護良親王に呼応するものだ出てくる。翌元弘三年に入ると、足利尊氏が幕府を裏切り、後醍醐側に付いた。これから潮目が変わっていく。

武士勢力を味方に付けた後醍醐側は、倒幕の勢いを増していく。
京都では、六波羅攻めをしていた楠木正成に、足利尊氏が加わって、六波羅探題を落とす。
鎌倉では、護良親王に呼応した新田義貞が稲村ヶ崎から鎌倉へ進撃して鎌倉を陥とす。・・北条高時以下の北条得宗勢力は壊滅、高時は鎌倉東勝寺で自刃。・・・5月22日【鎌倉幕府滅亡】
こうして、後醍醐は流刑地から帰還して天皇に復帰。建武の新政が始まった

6月15日: 宗良親王、天台座主に還任。尊澄法親王を再び名乗る
8月5日:足利高氏・新田義貞ら諸将の論功行賞を行う。足利高氏は尊氏と改名。

建武の新政が、政権として機能したのは、鎌倉幕府滅亡から中先代の乱まで、年代的には1333年5.22-1335年7.25の約二年間であったと思われる。

北条残党とは、北条得宗家が壊滅した後にも、各地に北条家の庶家が残っていた。鎌倉時代に北条家から恩恵を受けた御家人や地頭なども、その既得権を新政府に奪われまいとして躍起だった。北条得宗家の直接統治した荘園の多くは、概ね北条家与党、北条家残党と見て良い。信濃国は、その北条与党、北条残党がかなり多く、その中心は諏訪大社を構える諏訪神党で、御身内家となっていた諏訪家は、幕府壊滅の時、北条泰家より高時の次男・亀寿丸を預かっており、北条得宗家の復活を狙っていた。諏訪大社の大祝・諏訪頼重は亀寿丸の元服を早めて、北条時行の改名を待って挙兵の旗を挙げる。北条時行と諏訪頼重の鎌倉への進撃は、行く先々で北条残党を糾合していき、見る間に大軍に膨れ上がっていく。信濃を出て、上野、武蔵と進むと武蔵国では、建武新政軍が所々で迎撃するが圧倒的軍事力で撃破していき、遂には足利直義の鎌倉守衛軍も打ち負かし鎌倉を占拠するに至った。・・・これが中先代の乱である。
これで、全国の武士たちは中先代軍に靡くかと思われたが、そうはいかなかった。全国の武士たちは、中先代軍を、鎌倉幕府末期の亡霊と見たのだ。鎌倉幕府の既得権益の復活と保守と見抜いた各地の武士たちは、結局自らの武士の棟梁に、足利高氏を選んでいく。この過程が、鎌倉から敗走する足利直義を追撃していく中先代軍に、反撃を開始した足利尊氏・直義の建武新政軍は、三河で軍勢を立て直すと、新政軍に援軍が続々と結集していく。
反撃はすさまじく、駿河、箱根などの戦いで中先代軍を追い落とし、遂には鎌倉を奪還する。中先代軍の中核・諏訪頼重など諏訪神党の幹部は自害し、北条時行を、再起のため逃避させるに至った。 ・・・中先代の天下は、僅か20日間で終わった。

中先代の戦いを通じて、足利尊氏は、後醍醐天皇の命令を聞かなくなる。
一つは、天皇の上洛命令を拒絶する。
一つは、この戦いの恩賞を、尊氏自ら行う
元弘の変の時の、後醍醐の恩賞は、不公平不平等なもので、戦功があった武士は不満を残した。建武の新政は、朝令暮改で不手際が多く信頼を失っていた。これが天皇親政の現実だと不信を抱いた武士層は、足利尊氏を、これからの武士の棟梁として靡いて行った。

これを、捨てておけないと思った後醍醐天皇は、新田義貞に、足利尊氏・直義の追討を命じ、尊氏・直の官位も剥奪し、反目は決定的なっていった。尊氏は、後醍醐天皇とすすんで戦おうとしなかったが、売られた戦いに応戦した。

南北朝時代の幕開けである。


宗長親王戦記  3:後醍醐天皇の野望と宗良

2015-02-19 14:45:04 | 歴史

 

宗長親王戦記 3:後醍醐天皇の野望と宗良

年表
1311:応長元年:生誕;第五皇子(諸説あり);父・後醍醐天皇、母・二条為子
       : 後醍醐天皇の皇子:第四・第五・第八皇子など諸説ある
1317:文保元年:文保のご和談
-----:解説:-----
文保の御和談】・・(持明院統と大覚寺統)
後嵯峨上皇は、退位して皇太子の久仁親王に譲位して後深草天皇とし、のちその弟 恒仁親王を亀山天皇とした。 しかし天皇の後継者を決めないまま没。
亀山天皇はその皇子世仁親王に譲位・後宇多天皇。 しかし、後深草上皇の不満をなだめるため、幕府は煕仁親王を次の皇太子(のちの伏見天皇)としたが、 こうした動きが皇統をめぐる激しい争いに発展した。
幕府は文保元(1317)年4月、10年交代で両統から天皇を出すという案を提示した。
尊治親王(後醍醐天皇の幼名)
尊治親王(後醍醐天皇)は兄弟の順からして皇太子にはなれないはずだったが、兄の後二条天皇が没したとき、 その子邦良親王は9歳と幼少で、尊治親王が立太子した。 しかし、邦良親王が成長するまでの「つなぎ」の天皇とされていたようである。 尊治親王はこうした不条理を不満とし、幕府への反感を募らせていた。動乱の幕開けである。
・内容:大覚寺・持明院両統間で交互譲位・・
・・花園譲位→後醍醐10年→邦良親王→量仁親王の順を契約
--------------
1318:文保二:2月26日:花園天皇(22)が退位し、後醍醐天皇(31)が即位する。
1318:   :後醍醐天皇即位(大覚寺統)
1318:   :3月9日:後二条天皇皇子邦良親王(18)立太子
-----:解説:-----
・後宇多天皇の実子ではあるが母・忠子の家格が劣っていたがため、なかなか認知されず、
忠子が舅・亀山を籠絡する事で十五才にしてやっと認知される。
・学問好きであったが父・天皇にも疎まれたすね者、皇位継承に遠かったが、実力者の娘に子をなすと言う手段で帝位をものにする。
・父・後宇多や祖父・亀山の女まで手を伸ばし、18人の女性遍歴、49才で死ぬまでに36名・皇室第2位の子をなした豪の人である。
--------------
1319:元応1:春:幕府は山陽南海街道に使者を派遣し、悪党を鎮圧させる。
     :4月13日:延暦寺衆徒が園城寺の戒壇落慶により蜂起する。
:10月10日:幕府、足利高氏(14)を従五位下 治部大輔に任じる。
1321:元亨1:10月:後醍醐天皇(34)、吉田定房を関東に派遣して天皇親政を交渉する。
     :10月22日:後伏見上皇(33)、日野俊光(61)を関東に派遣。
     :12月9日:後醍醐天皇(34)、院政を停止し天皇親政とする
     :12月:幕府、記録所を設置し、大津・葛葉を除く諸所の新関を廃止する
1322:元亨2:陸奥の安藤季久一族が争い、北条高時(19)が調停のため派兵。
1323:元亨3:5月3日:鎌倉大地震
      :11月6日:後醍醐天皇(36)、参議・日野資朝(33)を鎌倉に派遣
1324:正中1:2月:幕府、悪党鎮圧令発布。
      :2月30日:六波羅、佐々木・柘植両氏に伊賀黒田荘の悪党を討伐させる。
     :9月19日:六波羅、後醍醐側近の倒幕計画を弾圧【正中の変】」。
          :土岐頼貞、多治見国長(35)の館を急襲し、捉える。
     :9月23日:後醍醐天皇は万里小路宣房を鎌倉に派遣する。
          :万里小路は、天皇の正中の変に関与を否定・弁明の告文を呈示。
      :9月24日:幕府は工藤高景らを上京させる。
      :10月4日:工藤高景ら、正中の変の首謀者として日野資朝,俊基を捕縛。
-----:解説:-----
正中の変・・・邦良親王への譲位を嫌った後醍醐がクーデター計画
・後醍醐倒幕挙兵は土岐氏の一族、頼員が六波羅に自首して後醍醐の計画が露見。土岐頼兼・多治見国長は幕府に討たれ資朝・俊基は捕えられる。・・後醍醐は弁明し追求無し。
特徴・・
この時期、後醍醐天皇の側近には、無名だった者たちや家格の低い出自の者たちが数多く登場する。日野俊基、北畠親房、楠木正成など。
たとえば日野俊基は、公家の中でも、一族日野家の中でも家格は下位であり、才能を見抜いて抜擢した 後醍醐天皇の眼力には優れたものがある。
後醍醐天皇の理想は、旧習の公家たちには理解を超えていた。傍流にある者たちの方が 現代に不満を持ち、理想を求める気運を持っていたのである。彼らに能力があったのは間違いないが、傍流の置かれた背景や環境が、後醍醐天皇の理想と共鳴し引き寄せ合ったのは興味深いところである。
--------------
1325:正中2:護良親王(17)天台座主となり、尊雲法親王と名乗る
     :後醍醐天皇(37)、前年より関東調伏の祈祷を開始。
     :1月21日:後伏見・花園両上皇が量仁親王の立太子を幕府に諮る。
     :閏1月8日:皇太子邦良親王、六条有忠を幕府に派遣し密かに即位を諮る。
     :2月10日:宗良、尊澄法親王と称す。妙法院主となる。
     :8月:幕府、前年に捕捉した日野資朝を佐渡に配流。日野俊基は釈放。
     :11月22日:幕府使者佐々木清高、兵を率いて入京する。
1326:嘉暦1:3月13日:北条高時(24)が出家、崇鑑と号する。
      :3月16日:金沢貞顕(48)、第15代執権となるものの、10日で辞職し出家。
     :北条高時、弟泰家・金沢貞顕の執権就任に怒り出家する
      :4月24日:赤橋守時(31)、第16代執権となる。
      :5月15日:日野俊光(66)没。
     :7月24日:量仁親王(13)が立太子。
     :宗良親王、十六歳
1327:嘉暦2:12月6日:尊雲法親王を天台座主とする。二度目。
      :12月21日:幕府造営が完成し、将軍守邦親王(26)が移る。
1329:元徳1:8月:北条高時(26)、夢窓疎石(34)を鎌倉・円覚寺の住持とする。
1330:元徳2:9月17日:世良親王没し、北畠親房(37)が出家。
     :宗良、天台座主に任ぜられる。 齢20歳 。

     :吉田定房の密告で後醍醐天皇の近臣である日野俊基、日野資朝、文観らを六波羅探題が捕縛する。

宗長親王の生まれてから二十歳までの行状は歴史に詳しくない。
嘉暦元年(1326)、十六歳で妙法院門跡を嗣ぎ、同時に親王宣下を受けて尊澄法親王と称された。元徳二年(1330)、二十歳にして兄尊雲の跡を受け天台座主となる。・・叡山の兵力と結ぶための父帝の策かと言う。
幼時から母の実家である二条家に出入りして和歌に親しむ。特に従兄の為定との親交は長く続き、正平十五年(1360)為定が亡くなった時には哀傷歌五十首を詠んで為定の子為遠のもとに贈った。北畠親房も生涯を通じての歌友である。漂泊・転戦の生涯にあって歌道に怠ることなく、家集『李花集』に収められる数多くの作を残した。
若きときから和歌に親しんだと言われるが、今に残るのは、晩年に宗良が編纂したと言われる「和歌集」に収録され、若き時の制作年を特定されるものは無い。

宗良が生誕から二十歳までで特筆されるべきことは、十六歳で妙法院門跡を嗣ぎ、同時に親王宣下を受けて尊澄法親王と称されたこと、二十歳にして兄尊雲の跡を受け天台座主になったことぐらいである。
生誕の順位が遅い宗良は、天皇になれる可能性は薄く、仏教界に生きる道を、ある時までは運命付けられていたのではなかろうか。
それが、劇的に変わっていくのは、父・後醍醐天皇によってであったことが、後醍醐の政変や後醍醐の周辺の事変の事の起こりや及ぼす影響など、歴史を点検すると虚実に示されていきます。

頼朝によって確立された鎌倉幕府は、名目上は天皇の政治であるが、実権は幕府が握っていた。権力構造は、頼朝と頼朝の後裔から、北条得宗家に移っていたが、北条高時の時代になると、名目上の朝廷の制御もままならず、天皇の交替即位も制御不能に陥っていた。鎌倉幕府を支えていた武士層も、元弘などの外敵に、武士を動員させながら、恩賞問題で不備を重ねて武士層を疲弊させ、武士層からの不満は沸点に達していた。

この武士の不満を掬い上げていったのが足利高氏であり、高氏は鎌倉幕府崩壊後の武士社会の棟梁としての道を歩き始めていた。朝廷内の”天皇たらい回し”の旧弊に異議を唱え、自ら天皇として、新たな”天皇親政”を目指したのが後醍醐天皇だった。
この朝廷の旧弊の”天皇のたらい回し”とそれを支える崩壊しかかった鎌倉幕府・北条得宗家政権に、後醍醐がクーデターを仕掛けた最初が、「正中の変」になります。このときは、まだ北条得宗政権は、残存の権力構造が残っており、後醍醐は失敗します。
後醍醐は、失敗に懲りず、あるいはその前から次の手を打っていきます。
”クーデター”には武力が必要です。後醍醐は、比叡山の僧兵に着眼し、僧兵を味方にするべく自分の皇子を天台座主にします。尊雲法親王(護良)と尊澄法親王(宗良)です。
これが成功したかどうかは、歴史上証明できません。しかし、尊澄法親王(宗良)は確実に後醍醐天皇の野望に組み込まれていきます。

後醍醐天皇が、足利高氏などの武士の武力を糾合して、鎌倉幕府・北条得宗勢力を追い落とすのは次のステージです。


宗長親王戦記 2:親王生誕

2015-02-17 19:35:11 | 歴史

宗長親王戦記 2:親王生誕

応長元年(1311)、宗良生誕。
父・後醍醐天皇、母・二条為子。第五皇子とも第四、第八とも、諸説が存在する。これは、父・後醍醐天皇の数多い子供がすべて特定されないこと、皇子の生誕の年が詳らかでないことからに他ならない。

後醍醐天皇の妃を辿ってみると、これが数が多い。正妃(正妻)と妃との違いは不明。
 後宮:藤原廉子(三位局、新待賢門院 1301-1359) - 阿野公廉女、洞院公賢養女
  1:皇子:恒良親王(1325-1338) - 後醍醐天皇皇太子
  2:皇子:成良親王(1326-1344) - 征夷大将軍、光明天皇皇太子
  3:皇子:義良親王(後村上天皇、1328-1368)
     皇女:祥子内親王 、皇女:惟子内親王、皇女?:新宣陽門院
 後宮:源(北畠)親子(民部卿三位) - 北畠師親女、一説に日野経光女・経子
  4:皇子:護良親王(尊雲法親王・大塔宮、1308-1335) - 梶井門跡、征夷大将軍
  5:皇子 - 南朝系図は尊性法親王とする
     皇女:姚子内親王
 後宮:藤原(二条)為子(権大納言局) - 二条為世女
  6:皇子:尊良親王(一宮、?-1337)
  7:皇子:宗良親王(尊澄法親王、1311-1385?) - 天台座主、征東大将軍
     皇女:瓊子内親王、皇女不明
 後宮:藤原(洞院)実子 - 洞院実雄女
     皇女不明
 後宮:藤原(洞院)守子(1303-1357) - 洞院実泰女
  8:皇子:玄円法親王(?-1348) - 一乗院
  9:皇子?:最恵法親王 - 妙法院
 後宮:憙子内親王?(昭慶門院、1270-1324) - 亀山天皇皇女
  10:皇子:恒性(越中宮、1305-1333) - 大覚寺
  11:皇子:無文元選(1323-1390) - 遠江方広寺開山
 後宮:藤原氏(権大納言三位局・霊照院、?-1351) - 二条為道女
  12:皇子:法仁法親王(躬良親王、1325-1352) - 大聖院
  13:皇子:懐良親王(鎮西宮・筑紫宮、1329-1383) - 征西将軍
      皇女不明
 後宮:藤原氏(遊義門院一条局) - 橋本実俊女
  14:皇子:世良親王(?-1330)
  15:皇子:静尊法親王(恵尊法親王) - 聖護院
      皇女:欣子内親王
 後宮:藤原氏(少納言内侍) - 四条隆資女
  16:皇子:尊真(醍醐宮) - 南朝系図は杲尊法親王と同一人とする
 後宮:藤原氏(大納言局) - 洞院公敏女、一説に正親町実明女
      皇女 - 南朝系図は瑜子内親王とする
 後宮:藤原氏(左衛門督局) - 二条為忠女?
      皇女 - 今林尼衆
 後宮:藤原氏(権中納言局) - 洞院公泰女?
      皇女 - 南朝系図は貞子内親王とする
 後宮:藤原氏 - 吉田定房女
 後宮:藤原氏?(坊門局) - 坊門清忠女?
 後宮:源氏 - 堀川基時女
      皇女
 後宮:源康子(飛鳥井局・延政門院播磨) - 源康持女
 後宮:源氏(若水局) - 源康持女、康子妹
 後宮:源氏 - 堀口貞義女?
      皇女 - 吉水院宗信妻、尊寿丸母
 後宮:某氏(昭訓門院近衛局) - 父不詳
  17:皇子:知良王 - 『南朝紹運図』は守永親王と同一人とする
 生母不詳
      皇女:用堂(?-1396) - 東慶寺5世住持
      皇女 - 六条有房室、上記何れの皇女か不明
  18:皇子?:竜泉令淬(?-1366) - 万寿寺住持

中世・この時代、天皇家は一夫多妻制と言われたが、妃は、確認されるだけでも19人、皇子(親王)も18人を数える。

本来後宮とは宮廷内で天子が家庭生活を営む場所であり、また皇后以下、妃嬪が暮らす場所と言う意味であるが、後に、天皇の后を間接的に指し示す言葉となった。
後宮は中国から来た言葉であるが、同様の仕組みは、なにも日本や中国に限らず、アラブ(イスラム圏)では”ハーレム”という言葉に訳される。
新待賢門院や昭慶門院は、天皇が皇位を剥奪されたり崩御したとき、妃は出家をして後宮から離れ寺院に住んだと言われ、その隠棲の寺院の名を指したと言われる。

親王・・
親王は、天皇の嫡出の子、及び、天皇の嫡男系の嫡出の子(皇孫)である者、また、天皇の兄弟を親王という。しかし、実際天皇の子であっても、親王宣下をもって親王とする慣習となり、親王宣下を受けない限り親王にはなれなかった。また親王には、「一品」から「四品」までの品位に叙せられた。品位を受けない(もしくは罪などで品位を剥奪された)親王は無品親王と呼ばれた。
中世の皇位継承権は約束事があったわけではなく、その都度の力関係や情勢で決められることが多かったようだ。

宗良親王は、こうして後醍醐天皇の皇子として生まれた。出生順位は、五番目とも八番目とも言われ、幼少においては武勇を好まず、母方の影響からか、”和歌”を好んだという。

宗良親王の母 ・・二条為世の女(ムスメ)
二条為世 ・・藤原定家の曽孫。鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての公卿・歌人。歌道二条派の祖二条為氏の長男。極官が権大納言だったので藤大納言とも呼ばれた。

そんな宗良が、父・後醍醐天皇の倒幕運動に組み込まれ、当初は数合わせ的な存在だったのが、先生まれの兄たちが次々と戦死し、とうとう筆頭に名前を出し、征東将軍の冠をつけて、南朝の旗頭の一人になっていった。その戦記物語である。


宗長親王戦記 1:始めに

2015-02-17 19:33:28 | 歴史

宗長親王戦記


宗長親王戦記 1:始めに
南北朝の時代に生きた宗長親王は、その生涯を見ると、どう見ても戦乱の勇姿の武将の姿が浮かんでこない。初期においては、後醍醐天皇の皇子として、皇子なるが故に南朝の牽引の将の末席に名を連ね、次ぎ次と生まれの早い皇子達が潰えて、とうとう関東以北の南朝の最高司令部・”東征将軍”に祭り上げられた人物であった。しかし、その生涯は断片的である。事跡と事跡の間は、かなりの長きに渡り空白が多く謎も多い。その行状も、武人としてよりも文人としての事跡のほうが多いのかも知れない。
今回の作業は、その空白を幾分か埋める作業であり、その作業が”宗良親王”の歴史の中の役割と人物像を鮮明に出来れば成功である。

方法は、太平記を元にした年譜を中心に、李花集名などの詞書きに残る足跡を重ねて見て、さらに、北条時行の年譜と比較して、宗良親王の行状年表を作ることから始めました。例によって、ファイリングは、アウトラインプロセッサで、データベース化しました。戦記は、これをもとに書きます。