探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

小笠原家長  ・・・ 松尾小笠原家歴代

2014-03-01 19:57:02 | 歴史

  松尾 

    小笠原家長

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小笠原家長
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 文明12年(1480年)
氏族 小笠原氏
父母 小笠原光康
子 定基(貞基)

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小笠原家長は、戦国時代の武将。松尾小笠原家当主。松尾城主。父は信濃守護小笠原光康。子に小笠原定基。

生涯
応仁元年(1467)からの応仁の乱では東軍側に付く。文明5年(1473)、家長は室町幕府の命により、木曾家豊(木曾義元の父)と共に東美濃攻略のため、土岐氏の居城・恵那郡の大井城や土岐郡の釜戸村にあった荻島城を攻め落とす。その後、恵那郡の中部と土岐郡の一部は、天文年間(1532~1555)まで信濃勢の駐留が続いた。 京極氏のお家騒動(京極騒乱)にも介入、東軍の京極政経・多賀高忠に加勢して西軍の京極高清、多賀清直・宗直父子、六角高頼を打ち破った。『小笠原文書』によると武田兵庫助を介して、文明10年(1478)、尾張の守護代であった織田敏定の要請で美濃を牽制するため、援軍を送っている。・・・小笠原家の家督争いで従兄の守護・小笠原政秀と対立し、文明十二年(1480)政秀によって討たれた。
文明五年(1473)信州(長野県)松尾の城主、小笠原家長は木曽家豊を誘って、東濃地方へ侵攻。大井遠江守行秀は必死に防戦したが落城しました。松尾小笠原・木曽連合軍は荻島城(瑞浪市戸)を攻めて東濃全体は小笠原氏の勢力下になった。
将軍足利義政は二月、美濃国守護の土岐成頼を牽制するため小笠原家長に鈴岡の小笠原政秀と相談して成頼を討伐するように命ず。同年家長の子供の定基にも同様の御教書で、美濃の土岐氏の成敗を促した。・・・文明五年(1473)三月、西軍の山名宗全が没し、西軍が衰退すると勢力挽回のために、斉藤妙椿が上洛、東軍は妙椿牽制の為に信濃から守護小笠原家長と木曽家豊を東美濃へ侵攻させ、現在の御嵩町まで占領したとの事です。

 

参考:・・・1


◎「応仁の乱」東西両軍に参加の守護大名や豪族名。
主に応仁四年(1470)頃の勢力分布・・・
◇東軍
守護大名
細川勝元および細川氏一門:摂津・和泉・丹波・淡路・讃岐・阿波・土佐
畠山政長:越中・(河内)
斯波義敏・斯波持種:(尾張・越前・遠江)
京極持清:飛騨・近江半国・出雲・隠岐
赤松政則:播磨・加賀半国(備前・美作)
山名是豊:山城・備後
武田信賢・武田国信:若狭 安芸半国
今川義忠:駿河
富樫政親:加賀半国
北畠教具:伊勢半国
大友親繁:豊後・筑後
少弐頼忠:肥前・対馬(筑前)
菊池重朝:肥後
島津立久:薩摩・大隅・日向
豪族:小笠原家長、木曽家豊、松平信光、吉良義真、筒井順尊、吉川経基、吉見信頼、益田兼堯、大内教幸、小早川熈平、河野教通、相良長続など

西軍
守護大名
山名持豊(宗全)および山名氏一門:但馬・因幡・伯耆・美作・播磨・備前・備中
一色義直:丹後・伊勢半国
畠山義就:河内(紀伊・大和)
畠山義統:能登
斯波義廉:越前・尾張・遠江
土岐成頼:美濃
六角高頼:近江半国
河野通春:伊予
大内政弘:長門・周防・豊前・筑前
豪族:小笠原清宗、吉良義藤、飛騨姉小路家、富樫幸千代、毛利豊元、武田元綱、竹原小早川氏、渋川尹繁・島津季久、一色時家など


参考:・・・2


文明五年(1473) ~東西総大将の死と将軍職継承~
天皇:後土御門(103代)、将軍:足利義政(8代)/義尚(9代)
・2月21日、将軍足利義政、東軍に属する信濃の小笠原家長に小笠原政秀(鈴岡家)とともに西軍の美濃守護・土岐成頼を征伐するように命じる。
・3月17日、将軍足利義政、美濃の富島為仲に小笠原家長や木曽家豊と協力して出陣するように命ずる。小笠原家長・木曽両軍は、東美濃に攻め込み、守護代・斎藤妙椿が守る土岐氏の居城・大井城と荻島城を攻め落とす。

1473年・・・
・3月18日、山名宗全、自害の際の傷がもとで病没。
・4月、幕府?、後ろ盾のない畠山義就に対して畠山政長との和平を提案。義就は拒否。
・5月11日、細川勝元が流行病で死去。謀殺説も。8歳の嫡男・政元が家督相続。
・6月23日、五十子の陣中で山内上杉氏の家宰・長尾景信死去。
・6月24日、義政と義視がそれぞれ父で6代将軍の義教の33回忌法要を行う。
・8月26日、義視が大内政弘の館に入る。
・11月24日、古河公方・足利成氏が五十子の上杉陣を急襲し、扇谷上杉政真が討死。
・12月19日、義政、子・義尚を元服させ将軍職を譲る。弱冠9歳。
・・その他の出来事
・11月29日、幕府、紙商人九郎三郎光次に取引の独占を許可。
・・【生】
・朝倉貞景:朝倉家9代当主。義景の祖父。(2月5日)
・荒木田守武:伊勢神宮祠官・連歌師。
・今川氏親:今川家7代当主。義元の父。駿河守護職・遠江守護職。文明3年生まれ説も。
・松平長親:松平氏の第5代当主。家康の高祖(祖父の祖父)。
・・【没】
・山名教之:山名熙之の子。伯耆・備前守護。(1月16日没。享年不明)
・伊勢貞親:伊勢貞国の子。室町幕府政所執事。(1月21日没。享年57歳)
・山名宗全:守護大名。応仁・文明の乱の西軍総帥。 (3月18日没。享年69歳)
・細川勝元:京兆家の当主。幕府管領。応仁の乱の東軍総帥。(5月11日没。享年44歳)
・長尾景信:山内上杉氏の家宰。五十子の戦いで陣没。(6月23日没。享年61歳)
・上杉政真:扇谷上杉当主。顕房の子。五十子の戦いで敗死。(11月24日没。享年23歳)
・文安2~3年(1445~1446)政康の後継で松尾宗康と府中持長が対立し、守護職を松尾光康が相続。府中清宗と分裂。・・「信濃守護と国人は並存して独自性を維持しながら将軍に直属しようとしていた。こうした形は、九州・西国・畿内近国ではみられない。安芸や北関東などでみられる」
・文明5年(1473)足利義政は松尾家長と定基に鈴岡政秀と合力するように指示
・文明11年(1479)鈴岡政秀と諏訪の連合軍が松尾小笠原家長・定基軍が対峙
・文明12年(1480)鈴岡政秀と松尾家長が伊賀良で戦う
・長享2年(1488)鈴岡政秀が府中の小笠原長朝の井川城を落とす。
・明応2年(1493)松尾定基は鈴岡政秀父子を松尾城に近く、名古熊に招いて殺害(知久氏と連合で滅ぼす)
・文亀元年(1501)尾張守護が遠江鎮圧のために松尾定基と子の貞朝に出兵を要請
・永正3年(1506)北条早雲の要請に応えて松尾定基が三河に出兵
・天文2年(1533)府中長棟(長宗)が伊那谷に侵入し知久頼元が戦う(松尾定基は甲斐へ?武田を頼って逃避)
・天文3年(1534)府中長時の弟の信定が鈴岡城主となっている
・天文12年(1543)武田晴信(後の信玄)が伊那谷と佐久の両面侵攻作戦を開始
・天文14年(1545)晴信が高遠城征服、伊那郡福与城征服
・天文19年(1550)晴信が府中を攻撃し深志城を築く
・天文21年(1552)晴信が安曇郡小岩嶽城の攻撃で府中長時・貞慶を追放。長時は上杉に二年間滞在していたが、弟の鈴岡信定の家臣(溝口長勝)に迎えられて松尾城または鈴岡城に
・天文23年(1554)晴信が松男信貴(松尾定基の孫、長時への対抗で信玄に頼り家臣となる)を先鋒にして伊賀良に侵攻、鈴岡信定は府中長時と、下条から駿河・伊勢へ逃避。後に桂川の戦いで討死。宮崎・坂西・松岡・別家知久氏は「松尾の牛草坂の地」で協議し、武田に属す。府中長時は京都の三好(阿波小笠原末裔)を頼ったが、義輝暗殺の政変を避け、越後へ、謙信の病死後は会津へと放浪する

 

上記の歴史を確認していると、幕府と小笠原家との関係は、南信濃の小笠原家との関係が優先されているように見える。八代から十代までの足利将軍の義政、義尚、義材は、ほぼ松尾と鈴岡と交渉し、府中との関係は見られない。遵行状、御教書、感状などが正式書類の書状と思われるが、・・・




小笠原光康  ・・・ 松尾小笠原家歴代

2014-03-01 16:34:33 | 歴史

  松尾 

 小笠原光康

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小笠原光康
時代 室町時代
生誕 不明
死没 不明
別名 伊奈六郎(通称)
官位 遠江守、信濃守
幕府 室町幕府信濃守護
氏族 小笠原氏
父母 小笠原政康
兄弟 宗康、光康
子 家長

守護在任
1446年~1450年 - 小笠原光康
1451年~1453年 - 小笠原持長(府中)
1453年~1461年 - 小笠原光康

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小笠原光康

小笠原光康は室町時代の守護大名。信濃守護、小笠原氏当主。
小笠原政康の3男。松尾城主。松尾小笠原家の祖。


父の死後、小笠原氏惣領職を巡って光康の兄の宗康と従兄の小笠原持長との争いが起きていた。小笠原氏は府中の持長方と伊賀良の宗康方とに分かれ、それにともない国人衆も2派に分裂して対立が続いた。
文安3年(1446)、光康は兄に後援を頼まれ、自身が討ち死にした場合は光康に惣領職を譲り渡すと取り決めをした。・・・小笠原政康の遺言によると、・・「小笠原家の事は宗康と光康に任せる。伊賀良荘(飯田市付近)は光康に与える。また、もし兄の長秀に実子ができればこの遺言状は無効であり、政康に実子がない場合は兄の長将の嫡男に譲るものとする。」・・。小笠原持長は府中(松本市付近)を基盤とし、小笠原宗康は伊賀良(飯田市付近)を基盤としていました。しかし、小笠原長秀には実子ができなかった為、持長が長将の嫡男である自分に相続権があると主張したことにより、政康の嫡男である宗康との間に相続争いが発生しました。・・宗康は漆田原(長野市)で持長と戦ったが敗れ討死。、約束通り家督は光康に譲られ、幕府もまた信濃守護職と小笠原氏惣領職を光康に与えた。
しかし、持長と光康の対立は以後も継続し、一時は持長(府中)が守護職を襲うなど混乱は続いた。甥で宗康の遺児の小笠原政秀もまた勢力をもち(鈴岡)、政秀と光康の子家長もまた争うようになる。長年の守護家の混乱は信濃における守護の権威そのものの失墜につながり、信濃においては、守護に代わりそれぞれの地域の有力国人が独自の安堵状を発付するようになった。
関東で享徳の乱が発生した時、光康は幕府から駿河守護今川範忠・越後守護上杉房定と共に関東出陣を度々命じられたが、これに従ったかは不明。

 

 


小笠原信定  ・・・ 鈴岡小笠原家歴代

2014-03-01 00:03:38 | 歴史

            鈴岡 

 小笠原信定

守護・小笠原政秀が謀殺され、途絶えた鈴岡小笠原家が復活します。

鈴岡小笠原家の復活・・・

経緯・・・明応二年(1493)頃、松尾城の小笠原定基は鈴岡城主で信濃国守護、小笠原惣領職だった小笠原政秀を父子ともども謀殺します。この時、定基は伝来された足利家の文書を手に入れようとします。政秀の正室は、この文書の家宝を持って、実家下条家に逃れます。定基は、是非とも手に入れようとして、下条家を攻めたため、下条家から援軍を頼まれた小笠原長棟と激しく争うこととなり、遂には深志小笠原氏と下條氏の連合軍に敗れ、定基は甲斐武田氏の元に逃れます。ここで漸く、小笠原家の内部対立は、府中小笠原家によって統一されます。府中小笠原貞棟は、子の信定に、長く廃絶された鈴岡家を相続させ、空位になった松尾小笠原家の領土も統治させます。

*ここで、争奪戦の的となった「足利家の文書」の文書とはなにか、が気に掛かります。上記の筆者は、小笠原家の、信濃守護とかつ宗家の証を、足利将軍家が認可する類の書と断していますが、”弓馬の儀礼書」に類するものの可能性も否定できません。どちらにしても、小笠原宗家を証する書が、長棟以前は、南信の伊賀良荘にあったことは事実であり、長棟まで府中小笠原家は守護職を生んでいないところを重ねると、長棟以前の時代まで、小笠原宗家は、府中ではなかったのではないかと推論できます。

小笠原信定

小笠原信定:永正十八年(1521)-永禄十二年1月6日(1569.2.1)
戦国時代の人物。府中小笠原家の一族。小笠原長棟の次男。鈴岡城主、松尾に君臨。
子に小笠原長継。兄に小笠原長時。孫次郎、民部大輔。

松尾小笠原家に対抗するため父と兄により派遣され、鈴岡小笠原家を再興する。兄の長時が敗北した後も、伊那地方に拠り抵抗を続けたが、天文二十三年(1554)に武田晴信の伊那侵攻の前に敗れた。府中より逃亡していた小笠原長時と共に下条(下伊那郡)へ退却。その後兄と三好氏を頼り、その客将となる。永禄十二年(1569)、三好一族と共に足利義昭を本国寺に襲撃するも敗れ、信定は京師桂川合戦で戦死する。

鈴岡城・・・松尾小笠原信嶺の管理下・・・松尾小笠原家が武蔵野本庄城移封とともに松尾城・鈴岡城ともに廃城。

参考:松尾小笠原家

一方、松尾家は、定基は、小笠原長棟と激しく争い、遂には深志小笠原氏と下條氏の連合軍に敗れ、定基は甲斐武田氏の元に逃れます。武田が、信濃侵攻の時、定基の子信貴は 先鋒として侵入し 鈴岡家を再興していた長棟の子信定を攻め、松尾城主に返り咲いています。・・・これにより松尾小笠原家を再興した松尾小笠原家の信貴は、山県昌景に属し、伊奈先鋒衆百騎を預かって戦役をこなします。
信貴の子・小笠原信嶺(1547-1598)・52歳没)・・小笠原信貴の長男。十郎三郎。天文十六年生。武田信廉の娘を娶る。松尾城主。
天正十年、織田家に降り、高遠城主仁科信盛攻めの案内役となる。武田滅亡後、信長から知行を安堵される。本能寺合戦後、家康に仕える。酒井忠次に属し、小牧合戦に参加。天正十六年、忠次の三男信之を婿養子に迎える。小田原攻めで信之と共に先鋒となる。信州松尾城から武蔵児玉郡本庄城一万石に移る。

松尾・鈴岡・府中の鼎立の小笠原家の、どれが宗家だ、という書き方には、かなりの混乱があるようです。覇権争い、宗家争いの、血みどろの抗争をしたのですから、無視も出来ない訳ですが、宗家たる意識と後ろ盾の証拠を考証すると、時系列の変遷が一番合理的のように思えます。室町初期は、国衙の置かれたところに政治の中心があったようですが、応仁の乱以降は、実力者のところが、守護所になっていたようです。小笠原長秀のように、信濃国守護ではあるが、松尾にも府中にも住んだ形跡のない人を、府中井川城主と呼ぶのは矛盾の増幅のような気がします。