研究ノート「保科家の多古時代」
小田原の役で、豊臣秀吉が後北条を征伐したあと、家康を関東太守として江戸に入府させ、家康の家臣達は、家康に伴って移動し、保科正直も多古へ移封した。1590年の事である。
それから1602年、旧地”高遠”へ戻るまでの約12年間、保科家は”多古”で過ごすわけである。
この間は、激動の時代であった。
まず秀吉は、二度に亘る”朝鮮征伐”を行い、ついには帰らぬ人となる。
時代は、秀吉の跡目は秀吉の係累にはならずに、”関ヶ原の戦い”を経て家康の時代へと移る。この過渡期は、秀吉の残存勢力の駆逐もあり、徳川政権の基礎の固めに、家康の家臣たちは休む暇もなかった。保科正光も、例に漏れず、ほとんど多古にいることはなかった。
多古時代の保科家も激動が続く。
1591年、後・保科正則:死去
1592年、保科正光:家督相続
1593年、保科正俊(槍弾正):死去
1593年、保科正光:従5位下 叙勲 肥後守任官
1601年、保科正直:死去 法名天関透公 建福寺埋葬
・・ 家督相続(相続披露&届け出→家康)から叙勲・任官まで3年
・・ 「保科正之のすべて・・宮崎十三八」より
保科家の居城・多古城(多古陣屋)
・・場所:千葉県香取郡多古町多古字高野前
・・・「多古町のほぼ中心部に多古第一小学校があり、この敷地に多古陣屋があった。
南北200m×東西100mの細長い形で、東側に石垣と堀を築き、西側の背後は多古城址がある台地がせり上がるという、陣屋にしてはなかなかの防備の堅さを誇る。
多古城のあった台地を背に構え、石垣の上には屋根を持った城壁が一直線に伸びている。ほぼ中央に門を構え、弧のかかった橋が架けられている。現在は、残念ながら町並みの方は城下町の面影は薄い。古い家屋もなければ複雑に屈曲した道路もない」
多古周辺の中世以前の風景は、坂東平氏を祖に持つ千葉氏の勢力範囲であり、鎌倉幕府の時代は、頼朝の重臣として千葉一族の分流が住んだと言われる。豊臣時代に、徳川家康の家臣・保科氏が、家康の江戸移封に伴って移り住んだが、徳川時代になって、保科氏が旧領の高遠へ戻ってから、多古は暫く藩主が不在の幕府直轄領になり、その後松平(久松)家が藩主として入封した。従って、それらの遺跡などが散在していてももよさそうだが、その痕跡が見当たらないどころか、旧跡を示す案内板もない。ただ、日蓮宗の聖都であったらしく、仏教の学林が狭い地域の中に二つ存在したという。学林は、仏教の学校のことだが、日蓮宗では、学林を檀林というらしい。それを除けば、この地方は、当たり前な地方都市と農村風景が広がる。
秀吉の朝鮮征伐
文禄の役は1592年(文禄元年)に始まって翌1593年(文禄二年)に休戦した。
慶長の役は1597年(慶長二年)に始まり、1598年(慶長三年)の秀吉の死で撤退をもって終結した。
保科正直は、文禄の役の時、正光ともども後詰めで九州に赴き、ここで体調を崩し、正光に跡目を譲っている。
保科正直は、豊臣時代、家康の直参として、三河に、家屋敷を持っていたと言われる。
場所は、愛知県安城市山崎町大手(正法寺)。永禄七年(1564)頃、保科正直によって築かれた。本能寺の変の後に徳川家康に仕え、 天正十八年(1590)家康の関東移封に従って関東に移るまで住んだという。ここでの生活の時、多褲姫(家康養女)を妻に迎え、正貞、氏重(正光の異母兄弟)が生まれている。正貞・上総飯野藩の初代藩主、氏重・北条氏重(北条家へ養子)。 ・・・ 多褲姫が、正直の正妻になる経緯は、まず信長が本能寺で横死すると、武田家臣の多くが小田原北条を盟主に鞍替えしたと言われる。保科正直も一時小河原北条を主君として仕えた。この時、人質として正妻の跡部氏の女を小田原ヘ預けた。後に、正直が家康に付、小田原北条と戦うことになった時、小田原人質の正直の正妻は殺害されたという。このことがあって、家康は正直に家康養女の多褲姫を正妻に斡旋したという。 ・・多褲姫(家康養女)が高遠に住んだと言う記録はない。また、多古に行ったという記録も無い。恐らく、関ヶ原の時は、大阪方へ人質で行き、家康が江戸へ入府に時は、正直の江戸屋敷が住まいになったのであろうと想像する。
遠征・出張を繰り返す、多古時代の正光であったが、高遠城奪取時代は、弾正正俊が、老いたるとはいえ城を守り、多古時代からは、正直の弟・正勝の子・保科正近が、城代として留守居の城を守った。この流れは、多古から高遠へ、正光の養子の正之の時代、最上へ、さらに会津へ転封されてからも続き、正勝・正近の系譜は、保科・会津藩の筆頭家老として、藩主を助けて累々と続く。ただし、正光の弟・正貞が、上総飯野藩の藩主になるに及んで、正統な保科系流は飯野藩保科だと言うことを明確にすることと、徳川親藩の苗字・松平に変わる時、正近系流は、西郷家と改められた。
保科家の正光時代の家臣団は、家臣の姓を挙げると『北原、小原、赤羽、樋口、辰野、日向、有賀、唐沢、黒河内、唐木、御子柴、春日、井深』などになります。
このうち、ほとんどが保科正俊時代以降の家臣団であり、高遠に地名を残す、その地の豪族でありました。・・・北原、小原、赤羽、辰野、有賀、唐沢、黒河内、春日など。要するに、高遠・諏訪頼継時代の高遠一揆衆の面々です。
その中で、保科正光の側近と言われた井深氏について ・・・
・・ 井深茂右衛門重吉は武田勝頼の人質となっていた保科正光の救出に功を挙げるなど、保科家の重臣であった。その子茂右衛門重光は保科正之の家老となり、正之の埋葬の際は祭式に加わっている。重光の男子3人が分家し、幕末には7家に分かれ、井深本家は当主・茂右衛門重常が家禄1,000石で若年寄を務めた。・・重光の次男・三郎左衛門重喬家の幕末の当主は日新館の武講頭取であった井深数馬(200石)で、次男・虎之助は石山家の養子となり、白虎隊士として自刃。長男の井深基は愛知県西加茂郡や碧海郡の郡長などを務め、孫に井深大がいる。・・・
・・井深重吉は、保科家の嫡子・正光が、武田勝頼の子の小姓として、新府(韮崎)に人質同然になっていた時、勝頼没落に際して、新府に赴き、正光を連れ戻した。正直・正光親子が、上野・箕輪の内藤昌月の元で逃亡生活を送っていた時に、信長の本能寺・横死が起こり、織田方の滝川一益は、背後から襲われることを恐れ、配領の武将の子を人質にして、上方へ帰ることになった。この人質の中にも正光はいたが、滝川が帰路の過程で、保科家臣団は、正光以下を救出している。・・以来井深重吉は、正光の側近になったと思われる。
この時の井深氏は、新参の保科家臣であったようで、もともとは、井深氏は松本・岡田の井深城の城主で、小笠原家の家臣であった。信玄に攻められた小笠原長時が、松本を捨てて逃亡生活に入る時、井深重吉は保科正俊の配下になったようだ。
・・府中(松本)の豪族 井深氏 2014/02/14 参照
さて、多古時代の保科家の菩提寺は何処だろう?
正光以前の、正直、正俊、正則は日蓮宗・法華教の敬虔な信徒だと言われている。
高遠にある建福寺は、臨済宗妙心寺派の寺院であるが、これは保科正光以来ことで、それ以前は日蓮宗だと思って良い。
1591年、後・正則没。1593年、正俊没 ・・となれば、その没地・多古に墓があってしかるべきのように思う。
多古地方の、当時の保科家の勢力範囲の法華教の寺に、そんな痕跡がないだろうか。
日本寺は、日蓮宗の学林として、多古の保科時代に成立したという。この成立に、正光は多額の援助をしたという記録が残る。また、それ以前より、飯高寺は日蓮宗の学林として栄えたという。学林は、仏教の大学を意味し、事実飯高寺は、立正大学発祥の基になっている。
当時の風習として、学林(檀林)に墓を求めるかどうか分からないが、檀林に関係する寺院のどこかに、後正則と正俊の墓を求めたのではないだろうか。
事実、廃寺となった”法華寺”跡に、正則夫婦の墓があるというが、供養塔との説もある。 ・・当時の風習としては、供養塔より墓の可能性のが強いと思うが ・・・。正俊の墓も、この近くであるという可能性が高いが、今のところ痕跡は見つかっていない。
多古(及び匝瑳市)の地方史を検証したいと試みたが、この地方の中世史の資料はかなり薄い。