探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

研究ノート「保科家の多古時代」

2014-11-13 03:00:09 | 歴史

研究ノート「保科家の多古時代」

小田原の役で、豊臣秀吉が後北条を征伐したあと、家康を関東太守として江戸に入府させ、家康の家臣達は、家康に伴って移動し、保科正直も多古へ移封した。1590年の事である。
それから1602年、旧地”高遠”へ戻るまでの約12年間、保科家は”多古”で過ごすわけである。
この間は、激動の時代であった。
まず秀吉は、二度に亘る”朝鮮征伐”を行い、ついには帰らぬ人となる。
時代は、秀吉の跡目は秀吉の係累にはならずに、”関ヶ原の戦い”を経て家康の時代へと移る。この過渡期は、秀吉の残存勢力の駆逐もあり、徳川政権の基礎の固めに、家康の家臣たちは休む暇もなかった。保科正光も、例に漏れず、ほとんど多古にいることはなかった。

多古時代の保科家も激動が続く。
1591年、後・保科正則:死去
1592年、保科正光:家督相続
1593年、保科正俊(槍弾正):死去
1593年、保科正光:従5位下 叙勲 肥後守任官
1601年、保科正直:死去 法名天関透公 建福寺埋葬
 ・・ 家督相続(相続披露&届け出→家康)から叙勲・任官まで3年
 ・・ 「保科正之のすべて・・宮崎十三八」より

保科家の居城・多古城(多古陣屋)
 ・・場所:千葉県香取郡多古町多古字高野前
 ・・・「多古町のほぼ中心部に多古第一小学校があり、この敷地に多古陣屋があった。
南北200m×東西100mの細長い形で、東側に石垣と堀を築き、西側の背後は多古城址がある台地がせり上がるという、陣屋にしてはなかなかの防備の堅さを誇る。
多古城のあった台地を背に構え、石垣の上には屋根を持った城壁が一直線に伸びている。ほぼ中央に門を構え、弧のかかった橋が架けられている。現在は、残念ながら町並みの方は城下町の面影は薄い。古い家屋もなければ複雑に屈曲した道路もない」

多古周辺の中世以前の風景は、坂東平氏を祖に持つ千葉氏の勢力範囲であり、鎌倉幕府の時代は、頼朝の重臣として千葉一族の分流が住んだと言われる。豊臣時代に、徳川家康の家臣・保科氏が、家康の江戸移封に伴って移り住んだが、徳川時代になって、保科氏が旧領の高遠へ戻ってから、多古は暫く藩主が不在の幕府直轄領になり、その後松平(久松)家が藩主として入封した。従って、それらの遺跡などが散在していてももよさそうだが、その痕跡が見当たらないどころか、旧跡を示す案内板もない。ただ、日蓮宗の聖都であったらしく、仏教の学林が狭い地域の中に二つ存在したという。学林は、仏教の学校のことだが、日蓮宗では、学林を檀林というらしい。それを除けば、この地方は、当たり前な地方都市と農村風景が広がる。

秀吉の朝鮮征伐
文禄の役は1592年(文禄元年)に始まって翌1593年(文禄二年)に休戦した。
慶長の役は1597年(慶長二年)に始まり、1598年(慶長三年)の秀吉の死で撤退をもって終結した。
保科正直は、文禄の役の時、正光ともども後詰めで九州に赴き、ここで体調を崩し、正光に跡目を譲っている。

保科正直は、豊臣時代、家康の直参として、三河に、家屋敷を持っていたと言われる。
場所は、愛知県安城市山崎町大手(正法寺)。永禄七年(1564)頃、保科正直によって築かれた。本能寺の変の後に徳川家康に仕え、 天正十八年(1590)家康の関東移封に従って関東に移るまで住んだという。ここでの生活の時、多褲姫(家康養女)を妻に迎え、正貞、氏重(正光の異母兄弟)が生まれている。正貞・上総飯野藩の初代藩主、氏重・北条氏重(北条家へ養子)。 ・・・ 多褲姫が、正直の正妻になる経緯は、まず信長が本能寺で横死すると、武田家臣の多くが小田原北条を盟主に鞍替えしたと言われる。保科正直も一時小河原北条を主君として仕えた。この時、人質として正妻の跡部氏の女を小田原ヘ預けた。後に、正直が家康に付、小田原北条と戦うことになった時、小田原人質の正直の正妻は殺害されたという。このことがあって、家康は正直に家康養女の多褲姫を正妻に斡旋したという。 ・・多褲姫(家康養女)が高遠に住んだと言う記録はない。また、多古に行ったという記録も無い。恐らく、関ヶ原の時は、大阪方へ人質で行き、家康が江戸へ入府に時は、正直の江戸屋敷が住まいになったのであろうと想像する。

遠征・出張を繰り返す、多古時代の正光であったが、高遠城奪取時代は、弾正正俊が、老いたるとはいえ城を守り、多古時代からは、正直の弟・正勝の子・保科正近が、城代として留守居の城を守った。この流れは、多古から高遠へ、正光の養子の正之の時代、最上へ、さらに会津へ転封されてからも続き、正勝・正近の系譜は、保科・会津藩の筆頭家老として、藩主を助けて累々と続く。ただし、正光の弟・正貞が、上総飯野藩の藩主になるに及んで、正統な保科系流は飯野藩保科だと言うことを明確にすることと、徳川親藩の苗字・松平に変わる時、正近系流は、西郷家と改められた。

保科家の正光時代の家臣団は、家臣の姓を挙げると『北原、小原、赤羽、樋口、辰野、日向、有賀、唐沢、黒河内、唐木、御子柴、春日、井深』などになります。
このうち、ほとんどが保科正俊時代以降の家臣団であり、高遠に地名を残す、その地の豪族でありました。・・・北原、小原、赤羽、辰野、有賀、唐沢、黒河内、春日など。要するに、高遠・諏訪頼継時代の高遠一揆衆の面々です。

その中で、保科正光の側近と言われた井深氏について ・・・
 ・・ 井深茂右衛門重吉は武田勝頼の人質となっていた保科正光の救出に功を挙げるなど、保科家の重臣であった。その子茂右衛門重光は保科正之の家老となり、正之の埋葬の際は祭式に加わっている。重光の男子3人が分家し、幕末には7家に分かれ、井深本家は当主・茂右衛門重常が家禄1,000石で若年寄を務めた。・・重光の次男・三郎左衛門重喬家の幕末の当主は日新館の武講頭取であった井深数馬(200石)で、次男・虎之助は石山家の養子となり、白虎隊士として自刃。長男の井深基は愛知県西加茂郡や碧海郡の郡長などを務め、孫に井深大がいる。・・・
 ・・井深重吉は、保科家の嫡子・正光が、武田勝頼の子の小姓として、新府(韮崎)に人質同然になっていた時、勝頼没落に際して、新府に赴き、正光を連れ戻した。正直・正光親子が、上野・箕輪の内藤昌月の元で逃亡生活を送っていた時に、信長の本能寺・横死が起こり、織田方の滝川一益は、背後から襲われることを恐れ、配領の武将の子を人質にして、上方へ帰ることになった。この人質の中にも正光はいたが、滝川が帰路の過程で、保科家臣団は、正光以下を救出している。・・以来井深重吉は、正光の側近になったと思われる。
この時の井深氏は、新参の保科家臣であったようで、もともとは、井深氏は松本・岡田の井深城の城主で、小笠原家の家臣であった。信玄に攻められた小笠原長時が、松本を捨てて逃亡生活に入る時、井深重吉は保科正俊の配下になったようだ。
                                                            ・・府中(松本)の豪族 井深氏 2014/02/14 参照

さて、多古時代の保科家の菩提寺は何処だろう?
正光以前の、正直、正俊、正則は日蓮宗・法華教の敬虔な信徒だと言われている。
高遠にある建福寺は、臨済宗妙心寺派の寺院であるが、これは保科正光以来ことで、それ以前は日蓮宗だと思って良い。
1591年、後・正則没。1593年、正俊没 ・・となれば、その没地・多古に墓があってしかるべきのように思う。
多古地方の、当時の保科家の勢力範囲の法華教の寺に、そんな痕跡がないだろうか。
日本寺は、日蓮宗の学林として、多古の保科時代に成立したという。この成立に、正光は多額の援助をしたという記録が残る。また、それ以前より、飯高寺は日蓮宗の学林として栄えたという。学林は、仏教の大学を意味し、事実飯高寺は、立正大学発祥の基になっている。
当時の風習として、学林(檀林)に墓を求めるかどうか分からないが、檀林に関係する寺院のどこかに、後正則と正俊の墓を求めたのではないだろうか。
事実、廃寺となった”法華寺”跡に、正則夫婦の墓があるというが、供養塔との説もある。 ・・当時の風習としては、供養塔より墓の可能性のが強いと思うが ・・・。正俊の墓も、この近くであるという可能性が高いが、今のところ痕跡は見つかっていない。
多古(及び匝瑳市)の地方史を検証したいと試みたが、この地方の中世史の資料はかなり薄い。


「保科正光物語」

2014-11-10 01:54:09 | 歴史

「保科正光物語」 転載


『其之 74』H19.5.11~H19.6.16 ・・・四方赤良の余談集4より
 
 天正19年(1591)の身にしみる寒さも押し迫った9月、私こと保科正光(ほしなまさみつ)は、父の保科正直(まさなお)と共に、信濃国から遠い北の陸前国玉造郡岩手沢城(宮城県大崎市)に居ました。初めてみる奥州の大地、麓を流れる江合川と広大なススキ原を眺めていると、吾身が流浪人のように思えてなりません。今度の戦は、ここより北にある陸奥国二戸郡九戸城(くのへじょう、岩手県二戸市)という土地にて、太閤秀吉様に謀叛した九戸政実を討つためです。総指揮の蒲生氏郷殿を筆頭に、浅野長政殿、その他秋田実季、津軽為信などの者共、 締めて6万5千人にて攻撃をしました。そして拙者は主君徳川家康公の代として参陣した井伊直政殿の一軍として家臣100人を引き連れ、前線への補給基地として重要な木村吉清殿の岩手沢城を固めていました。九戸城はわずか3日余で落城し、降伏した政実等8名は陸前国伊具郡三ノ迫(宮城県)に引き連れられ斬首されました。こうして乱は完全に鎮圧されました。これにてほぼ1年前のこと、徳川家康公が関東へ移封を命じられ、それに伴って配下である拙者が賜った下総国香取郡多古(たこ、千葉県多古町)に帰還することができました。
 多古は信濃と違って山と言える山など無く、栗山川が平野を南北に流れ、その西側にあるわずかな丘の上に築かれた多古城を居城としていました。領地は栗山川を挟んで、西に多古村、嶋村、染井村など3千石、東に南中村、北中村、南並木村など7千石になります。故郷の高遠と違って良田が多いのですが、獣を追って山を駆け巡ることもできず、材木や石材の入手が難しい土地でした。多古を拝領してからというもの、戦に次ぐ戦のために傷んだ城の修復もできず、祖父を始めとして家族を残し、土地に不慣れな家臣数人に政務を託していくしかありませんでした。半年前の12月には、多古からわずか1里ほど東の山武郡飯櫃城で北条残党の山室光勝が挙兵し、周辺の土豪や百姓を糾合して徳川様に謀叛を企みました。こちらへ攻め寄せてくる恐れもあった為、拙者は速やかにこれを討ち取りました。こうして奥州から戻って本格的に多古の政務に取り掛かることができ、徳川家康様からも領国の安定を第一にするようにとの内命も受けていたので、陣頭に立って政治を行いました。大勢の家臣が一度に帰国したため手狭となっていた多古城を拡張しようと、その麓に出城のような形で、堀と石垣で囲った郭を築きました。
 
 九戸の乱も終わってようやく本格的な領地経営に取り掛かかることができるようになり、天正20年(1592)の正月を無事に迎えることができました。しかし突如江戸城へ召集するようにとの使いが参り出府したところ、意外にも太閤様が朝鮮国へ出兵するとのことでした。理由は良く分かりませんでしたが、太閤様の命に徳川様が従うとあっては逆らうことも出来ません。拙者も徳川軍の一部として肥前国名護屋に出陣することになりました。今度は生まれて初めての九州。「まさか死ぬ前にこの様な所へ来ることになろうとは思わなかった」と父上は笑いながら話しました。春から夏にと名護屋での滞陣は長引き、築城されたばかりの壮大な名護屋城下に立派な屋敷を賜って生活していました。日夜することも無く、囲碁をし、海などを眺めて過ごしていましたが、不慣れな地で長引く生活によ って父上が体調を崩しました。父は拙者に家督を譲ると言い、徳川様に降った時から懇意にしていた井伊直政殿に相談し、その御援助をもって徳川様より家督相続の許しを得ることができました。そしてさらに光栄にも、従五位下肥後守に任ぜられ、徳川配下の一員として認められました。しかし、家督を相続しても生まれ育った藤沢郷(伊那市、旧高遠町)を遠く離れ、今の領地は下総国、さらに今は肥前国にある我が身。故郷の三峰川や藤沢川で泳いで魚を捕り、守屋山などで鹿狩りをして一夜を過ごした昔を思い出しました。
 翌年の文禄2年(1593)4月になると吉報が舞い込んできました。ようやく朝鮮国で仮講和が成ったとのことで、5月には朝鮮から続々と兵が引き上げてきました。こうして1年以上にわたる異国との戦が終わり、妻達が待つ多古へ帰ることができました。しかし帰国したばかりの8月6日、多古城内の館にて隠居をしていた祖父の保科正俊が亡くなりました。祖父は武田家配下の高坂昌信、真田幸隆殿と共に、槍の名手として「三弾正」と恐れられ、若い頃よく祖父から槍の手ほどきを受けたものでした。拙者はかつての主君、武田勝頼様の斡旋により、真田昌幸殿の娘を正室に迎えていました。そこで祖父の死に際して直ちに信濃国上田の真田昌幸殿へ使いを送り、丁重な御返礼をいただきました。
 文禄3年(1594)、拙者には33歳となった今も実子がありませんでした。そこで家督を相続したからには嗣子の心配もしなければならないと考え、父の弟の息子である家老の保科民部少輔正近など一族と相談し、拙者の実弟である正貞を養嗣子にすることにしました。さっそく徳川様に願い出てこれが許されました。正貞は拙者とは母が違い、徳川家康様の養女として父上に嫁いだ久松俊勝殿の息女、多劫姫(たけひめ)の子になります。年齢も拙者とは20以上も離れているので本当の息子のように可愛がってきました。
 
 慶長2年(1597)、再び朝鮮国を攻めることになりました。しかし家康様は太閤秀吉様の側に仕えて朝鮮攻めの補佐をしていました。これにより我等の出陣はなく、国元の政治に集中できました。その後、太閤様の容態があまり芳しくないとのことで、慶長3年(1598)3月頃から順次撤兵が行われ、8月18日に大坂城で亡くなりました。文禄の役が終わってからこの4年間、拙者は戦費を削減し領国経営に邁進してきました。おかげで領内は安定し、小さいながら江戸城下の鍛冶橋に建設をしていた屋敷も完成しました。多古の統治は家老の保科正近に任せ、こうして拙者は江戸屋敷で生活をするようになりました。
 慶長4年(1599)、保科家は甲斐国身延山に近いこともあって、代々日蓮宗を信仰していました。旧領の高遠でも 、山室川の傍に遠照寺という日蓮宗の寺院があり、そこを中心に「法華谷」と呼ぶほど活動が盛んな土地でした。これも何かの御縁なのか、新領の南中村にも日本寺(にちほんじ)という由緒ある日蓮宗の寺院がありました。そこで寺の10世を継いだ広才博学で名高い日円殿が、ここに壇林を創設したいとの意向を聞いたので、拙者も影ながら御援助させてもらいました。これが中村壇林と言われるもので、数百人の学僧がここに集い、僧を育成していく学問所になります。
 
 慶長5年(1600)6月、拙者の妹の栄姫(大涼院)が、徳川家康様の養女として、豊前国中津城主の黒田長政殿の正室になりました。徳川様が予てから望んでいる「厭離穢土 欣求浄土(えんりえど ごんぐじょうど)」実現のため、是非とも必要な縁談なのだとの思し召しで、拙者は喜んで差し出しました。徳川様は各地の大名家の縁組を斡旋しているようで、何か大戦が起こるのではと家中では噂になっていました。そして婚礼も終わって数日後、会津の上杉景勝殿が反旗を翻したとのことで、徳川家康様が総大将として討伐なさることになりました。多古から江戸に軍勢を呼び寄せ、徳川本隊と合流して下野国小山(栃木県)まで進軍しました。しかし、西で石田三成が挙兵したとの報が届き、7月25日小山で進退を決する評定が行われました。そして全軍西へ向かって石田三成を討つ事に決し、拙者は堀尾忠氏殿の領地である東海道中の浜松城守備という名誉を命じられました。そこでは兵糧の調達及び堀、城壁の補強をし、防備を固めていました。元々の徳川家康公の居城とあって、死んでも守り抜こうと息巻いていましたが、9月には御味方が関が原で大勝利との報を受け大変安堵しました。大戦が終わってまだ世情が不安定な折、突如越前国を領していた青木一矩殿が病死とのことで、拙者はその居城である北ノ庄城に入り、越前一国の差配を任されました。このような一国の指図など小領主の拙者は夢にも思っていませんでしたが、翌11月家康様の御子息である結城秀康様に越前国が与えられ、拙者の夢も露と消えました。
 家康様の天下となって、愈々拙者も御加増と待ちに待ちました。すると11月、小笠原や諏訪殿など信濃国出の者達は旧領へ復することが認められ、拙者も高遠2万5千石を賜ることになりました。多古で骨を埋める心積もりで政を行ってきた家臣達には喜ばない者もいましたが、ひとしお喜んだのが父上でした。祖父と粉骨砕身の思いで手にした高遠を奪われて10余年、その落胆ぶりは如何ばかりであったか拙者には分かっていました。しかし拙者は、今から19年前に徳川家康様に初めて従った時に「伊那郡半分」というお墨付きを頂いていたので、石高について異論がありました。大久保長安殿に使者を送って談判したところ、「小笠原信之殿が松尾への環住を迷惑だと訴えた為、領地を与えないことになった」と聞かされました。大久保殿は「保科殿も同じようになるので訴訟をしないよう」に言いました。こうなっては是非も無く、伊那郡2万5千石、75カ村(部分的に抜けている村もありますが、ほぼ現在の辰野町、伊那市、宮田村、駒ヶ根市に及ぶ)を受け取ることにしました。
 拙者は北ノ庄城での政務を未だ解任されず高遠へは行けないので、慶長6年(1601)1月、先に松沢喜右衛門を高遠に送り込んで様子を探らせました。そして伊那郡飯田城の京極高知殿の城代である岩崎左門殿から無事に引渡しを受け、悠々と高遠を手にすることができました。初め結城秀康様は雪が融けるまで越前国を受け取らないと言っていましたが、談判して2月には引き渡すことができ、翌月そのまま桜が咲く信濃国伊那郡へ入りました。天竜川の河原ではヒバリが空を舞い、足下には蕗のとうが顔を出していました。しだいに雪で真っ白な仙丈岳が近づいてくると、感慨深いものがありました。これまで各地の合戦の折も、高遠には一度も訪れたことがありませんでした。十数年ぶりに戻ると、一族が居城としていた藤沢の城も取り壊され、草木に覆われて当時の面影が無くなっていました。勝手知ったる郷里、拙者が高遠城 (国指定史跡、桜の名所)に入ったと知ると、在郷の百姓などから祝いの品などが届けられました。これも祖父、父上の御威光かと思いました。
 多古は幕府領となり、代官からの命令によって引き続き秋まで統治を任 されたので、高遠での迎え入れの準備が整うまで、妻や父上には多古で過ごしてもらいました。そして多古の収穫を無事に終えて代官へ引き継ぐと、8月には 全て引き払って高遠へ移りました。しかし郷里に戻って心身安堵されたのか、9月29日予てから病状の悪化していた父上が亡くなりました。城下の鉾持山乾福寺を大宝山建福寺と改称し、そこへ埋葬しました。また、拙者の実母は父上が徳川家康様に従った時に、人質として小田原の北条へ差し出されていたので、殺害されました。ようやく高遠へ戻れたので、無念であった母の菩提も同じく弔いました。
 
 慶長7年(1602)、黒田長政殿に嫁いだ栄姫が万徳(後の黒田忠之、第2代福岡藩主)を産むという大業を成し遂げ、さっそく福岡藩江戸藩邸まで出向いて、おおいに祝いをしました。保科家の血筋が益々栄えていくことを願って憚りません。
 慶長8年(1603)、川中島藩13万7千500石 の森忠政殿が美作国へ移封となりました。拙者は徳川様の命令によって川中島藩の飯山城、長沼城、牧ノ島城、稲荷山城に兵を送って受け取り、次の松平忠輝様へそれらを引き渡すまで城番を勤めました。慶長10年には将軍となられた徳川秀忠様が上洛するに及んで兵を率いて供奉し、その年はさらに江戸城の石垣普請も命じられ藩の出費を惜しまず全力で取り組みました。このように高遠へ移ってからは、何かと命が多くなり、拙者が高遠に居られる時などほとんどありませんでした。しかし、この年に養嗣子の正貞が従五位下弾正忠に任命され、苦労の甲斐があったと感じました。
 
 
 それから数年が過ぎた慶長16年(1611)3月、懇意にしていた下総国岩富城主 (千葉県佐倉市)の北条氏勝殿が亡くなり、家臣の堀内殿らが拙者の弟の久太郎を跡継ぎにしたいとのありがたい申し出があり、徳川様の許しを得て北条氏重と名乗って岩富藩主となりました。誠に目出度いことであります。この頃になると高遠での藩政も軌道に乗り、国元の政治は従兄弟の保科正近を高遠城代家老として任せ、拙者は江戸藩邸に住んでいました。
 慶長19年(1614)、いよいよ大坂の豊臣秀頼様と家康様とが不和になり、拙者も兵400を引き連れて出陣しました。初めのうちは大坂方が京都を落とすのではと噂されましたが、大坂城を出る様子も無く、拙者は山城国の淀城を守備するように命じられました。ここは京都と大坂を結ぶ非常に重要な城で、食料や兵の移動に便宜を図る大切な御役目になります。家康様の拙者に対する信頼を感じました。その後、徳川様は大軍をもって大坂城を取り囲もうとし、京街道を進んだ佐竹義宣殿は大坂城北東の大和川の対岸にあった今福砦を攻撃しました。ここでは大変な激戦であったらしく、拙者は後備えとして11月26日にこの砦に入りました。砦の内外は死体で溢れ、岸辺は赤く染まっていました。すぐさま周辺を整地して倒れた木杭などを打ち直して砦を修築し、守備を固めました。今福砦の前には湖のように広い大和川の天嶮堀が眼前に立ち塞がり、その向うに大坂城の高い石垣が見えます。城にはふんだんに食料が備えてあるらしく、とても落城させられまいと御味方は口々にしていました。案の定12月には和睦となり、拙者も高遠を経由して江戸へ引き揚げました。
 それから半年後の慶長20年(1615)5月7日、「並び九曜」の旗を高々となびかせ、拙者は再び大坂城の眼前にいました。2里先には天守閣が小さく見えます。前回と違って南側からの眺めでした。今度の戦は徳川家康様が得意とする大規模な野戦でした。拙者もその陣営に加わるように命じられ、榊原康勝、小笠原秀政、諏訪忠澄、仙石忠政、丹羽長重殿と共に阿倍野という場所に天王寺口の第3として、徳川家康様の前面を塞ぐ形で布陣しました。拙者はこれまでの経験から直感し、この戦は命を落しかねないと思い、養嗣子の正貞には留守を申し付けました。しかし、数え27歳になる正貞は血気に逸って拙者の命令を聞かずに出陣して来てしまいました。
 陽が真南をさそうとした頃、突如、前衛の本多忠朝隊から一斉射撃の音が鳴り轟き、大量の硝煙が我が方に流れてきました。それと同時に法螺貝が鳴り響き、本多隊が喚声とともに敵の毛利勝永隊に突撃してく様が見えました。しかし、毛利隊による反撃の一斉射撃と、その後の素早い挟み撃ちにあって、本多隊とその両側にいた秋田実季、浅野長重、真田信吉・信政隊が次々と崩れていくのが見えました。御味方の崩れを早いうちに収めるのが上策、直ぐに我が陣営の横にいた小笠原秀政隊が、混戦の中へ突撃していきました。遅れをとっては後の災いと思い、拙者も続いて突撃を命じました。しかし、我が隊の前面は深田となって、その向うの敵築地から狙撃の的となっていました。その攻撃に手間取っていると、拙者が静止する間もなく、正貞が馬から下りて単身深田を越えて敵築地へ斬り込んでいきました。敵は混乱し、その間に味方も次々と深田を越えることができました。しかし正貞はすぐさま更に先で本多忠朝殿が毛利隊と混戦していた所へ突撃していきました。我が軍は僅か600の手勢ですが、小笠原隊と一体となって本多隊を助けるべく、粉骨砕身敵の寄せ手を討ち取っていきました。しかし拙者の部隊からははっきり見えませんでしたが、小笠原隊が横の敵隊に挟撃を受け、しだいに崩れていきました。他隊に気を取られている内に、気が付いた時には我が隊の前の本多隊はほぼ壊滅して無く、毛利隊の本隊と思われる塊が怒涛のように拙者の方へ押し寄せて来ました。正貞の生死も分かりません。先陣の家臣らが必死に応戦しましたが勢いに押されて次々と倒れ、拙者自身、無我夢中で槍を振るって格闘しました。いつの間にやら拙者の腿や胸から血が流れ、疲れたのか槍を握る力も無くなってきました。知らぬ間に馬上から落ちて倒れていたところ、何とか家臣に担がれ、援軍に来た井伊隊が見えたので、そちらへ退きました。これまで経験したことがないほど大勢の家臣が死にました。傷の手当を受けながら、戦を眺めていると、徳川家康様の陣も一旦は崩れたようでしたが、多勢に無勢敵も疲れてきたらしく、まもなく反撃に転じて敵は総崩れになっていきました。夕暮れ時が近づきしばらくすると大阪城に火の手が上がるのが見えました。これで全ての戦は終わって「厭離穢土 欣求浄土」がやってくる、そう思いました。翌日、戦死した大勢の家臣を探し出して陣僧による弔いをすませると、徳川様のもとへ戦勝祝いに出向きました。夜半に戻ってきた正貞は体に4箇所の大怪我を負っていましたが、命に別状はなく、拙者と共に大御所家康様、将軍秀忠様へ討ち取った首などをお持ちしました。家康様は拙者等の陣営が破られたことで、自身が危険な目にあったと立腹されているようでした。今度の戦は大勢の犠牲を伴いましたが、恩賞は充てにできないと思い落胆しました。しかし、共に戦った小笠原秀政や本多忠朝殿が戦死したと聞かされ、命があっただけでも幸いと考え直しました。

 
 今回の大坂での戦の後始末として、元和2年(1616) 信濃国から越後国にかけて広大な領地を保有していた松平忠輝様が改易となりました。拙者は恩賞に与るでもなく、休む間もなくその領地の一部である越後国三条城(新潟県三条市)の引き取りを命じられました。高遠に帰国したばかりの家臣等には申し訳なく思うが致し方なく、次ぎの領主が決まるまで三条城の城番を勤めることになりました。蒲原郡一円の政務も任され、 春の稲作の手配や一揆の発生などに間違いがあっては同じように取り潰しにあうと思い慎重に采配しました。そしてようやく7月に但馬国の市橋長勝殿が三条へ移封となることが伝えられ、順次引継ぎを済ませて秋に帰国することができました。 杖突峠を越えて、高遠でその年の収穫を終え、無事に年を越して安堵しました。しかし元和3年(1617)春になって今度は、将軍徳川秀忠様が後水尾天皇へ和子様を入内されるために 再び上洛するとして、その供奉を命令され、6月に兵を率いて京へ行きました。9月に秀忠様は要件が済んだようで江戸に戻り、拙者も江戸藩邸へ帰りました。
 こうして大坂の陣以後、久方ぶりに江戸藩邸で落ち着くことができました。 しばらくご無沙汰していた方々へ挨拶を済ませ、拙者は江戸城の田安門の傍に屋敷を賜っていた見性院様のもとへ御機嫌伺いをしました。見性院様は元主君の武田信玄公と三条様の間に生まれた息女で、穴山梅雪信君殿の正室となった方でした。しかし、天正10年(1582)に穴山殿が亡くなられると、出家してその菩提を弔っていました。徳川様が江戸に移ってからは、見性院様も田安に屋敷を賜って生活していました。56歳になった拙者とはほとんど同年で話が合い、35年前に武田家を裏切った拙者を許して心ならずも訪問を喜んでくれていました。
 秋空の中いつものように田安屋敷を訪れると、見性院様は時々屋敷で見かけた男の子を拙者に引き合わせてくれました。名は 「幸松」と言い、7歳になります。見性院様は、「幸松は将軍秀忠様の御子で、御台様に秘密で産ませた子なので何時殺されるとも分からぬので、秀忠様の命で今日まで私が秘かに養育してきました」と言いました。さらに、「近頃ここも危険となり、そろそろ弓馬の道も仕込んでおかねばならない歳となったなので、武田家遺臣で信頼のおけるそなたに今後の養育を託したい」と言いました。拙者は徳川秀忠様の内命を受けた老中の土井利勝様からも養育の件を申し付けられ、正式にお受けすることにしました。
 11月8日、拙者は幸松殿と母の於志津様を護衛で固め、高遠へ向けて出発しました。 そろそろ高遠でも初雪が降る季節です。田舎の生活に早く慣れていただくために、どのようにしたらよいか思案しました。高遠では南郭の一角に 小さいながら新しい御殿を造営し、お二人に住んでいただくことにしました。幸松殿には弓馬剣の指南役として、高遠藩屈指の井上市兵衛、小原内匠、狩野八太夫を付けました。さらに学問の師として建福寺住職の鉄舟和尚に託しました。 拙者は高遠に在国の時は、週に3、4度ご機嫌伺いをすることにしていました。将来は尾張や紀州公など将軍家の御子として数十万石の親藩になる日もあろうと考えていました。その時は我が家臣も加増となると思い、それまで懸命に励むことにしました。幸松殿は しだいに成人され、童名ではおかしな年齢になってきました。下の者が改名するわけにはいかず、家中では後に将軍家の御子として信濃一国を統治するかも知れぬと願い、「信濃様」と御呼びすることにしました。
 元和4年(1618)、 大坂の陣での御加増はあきらめていましたが、筑摩郡において5千石を賜り3万石となりました。噂では信濃様の養育費ではないかと言う者もいましたが、諏訪殿も同様に筑摩郡で御加増となったので、大坂の褒美だと受け取りました。
 
 幸松殿を養育して3年が経とうとしていました。将軍秀忠様と幸松殿との御面談は1度もなく、この頃になると本当に将軍の御子であるのか疑問を持つようになりました。さらに例え御子としても、親藩として取り立てる御意向はないのではないかとも考えるようになりました。この思いを誰にも相談できず一人悩む日々が続きました。拙者の心配が的中すれば、熱心に幸松殿を養育している家中の者達に対して申し訳なく、是非とも秀忠様との御面談が叶うようにしなければならないと心に誓いました。再三江戸町奉行の米津勘兵衛田政殿を通して土井利勝殿に親子の対面を申し上げました。しかし、御台様がご存命だからとの理由で、実現されませんでした。最早神にすがる他なく、高遠の鉾持権現に社領30石寄進し、幸松殿の立身をお願いしました。
 
 
 元和6年(1620) 、拙者は大坂城の城番で、まる1年間国元及び江戸を離れました。歳も60近くとなり、体も不自由となってきたので隠居の事なども考えるようになりました。しかし、養嗣子の正貞と幸松殿のことが気掛かりでなりません。相変わらず幸松殿を親藩に立てようとする様子も見られず、不遇に一生涯高遠で預かるよりはわずかな可能性に期待して、幸松殿を跡継ぎとすることに心を決めました。多くの者達が反対するであろう、それらの遺恨を全て拙者が引き受けて冥途へ持って行こうと思いました。早速遺言状を認めて、それを高遠へ送りました。
 

遺言状
 
○何事にても不慮に我等が相果てた時、跡式の儀は幸松殿とする。この事を米津勘兵衛殿に頼んで土井利勝殿へ申し上げること。
○幸松殿が20歳となるまでは、家中、町人、百姓以下の事は我等の時分と変えないこと。
○我等以降、幸松殿へ御加増があれば、家中の知行加増や浪人召抱えなどの事は米津勘兵衛殿の指図を受けること。
○弟正貞のこと、知ってのごとく気違い者であるから、生々世々義絶したことを御年寄衆へ申し上げるべきこと。
7月22日  保科肥後守正光
 
 保科正近、篠田隆照、北条光次 殿
       (いずれも高遠藩家老)
 

 
 幸松殿跡継ぎの事を正貞に申すのが最も気に病みました。20年以上にわたって拙者の跡継ぎとして生きてきた正貞が、これをどう受け止めるのかが気懸かりでした。正貞は江戸藩邸に居たので北条光次から話してもらったのですが、しばらくして正貞が居なくなったことを聞かされました。高遠にも戻っていないらしく、荒い気性の正貞は二度と高遠には戻ってこまいと思いました。後で文にて知りましたが、正貞は諸国を放浪した後に叔父である伊勢国桑名藩主の松平定勝殿のもとへ身を寄せているとのことでした。正貞の実母の兄である久松俊勝殿の息子定勝殿を頼ったのでしょう。そこで桑名藩の家来にしてもらいたいと願ったようですが、我らに気を遣われたのか、お断りしたとのことでした。
 それから9年後の寛永6年 (1629)、 世は幸松殿の兄上である徳川家光様の代となっていました。拙者は老体に鞭打って、徳川家光様の上洛や、伏見城の留守、二条城での参内(後水尾天皇)にお供をするなどして努めていました。そんな折り、出奔していた正貞が上総国周准郡(千葉県富津市)と下総国香取郡内に3千石を与えられたことを知りました。高遠藩に比べれば僅かですが、切ない思いをさせた弟の立身が見えたことで大変安堵しました。嬉しい事は続くもので、6月24日遂に念願の徳川秀忠様と幸松殿の対面を果たすことができました。親子の名乗りはありませんでしたが、この時からしばし秀忠様の次男の徳川忠長様に呼ばれ、饗応を受けるようになりました。翌寛永7年6月23日には 、将軍家光様に謁することにもなりました。拙者の命も残り僅か、全国での戦で苦労させてきた高遠の家臣達の御加増も近いことと思われます。その時皆にはどこまでも付いて行き、若様を守り立てていくように伝えました。後は幸松殿に託して・・・正光

(四方赤良 あとがき)
 寛永8年(1631)10月7日 、信濃国高遠藩主 保科肥後守正光 卒す
 幸松は高遠藩を継いで保科正之(ほしなまさゆき)と名乗り、高遠の家臣や百姓などを多数連れだって、後に会津国(福島県)23万石の初代藩主となりました。将軍より松平姓を与えるとの申し出がありましたが、あくまで保科家の者として、亡き養父の保科正光に遠慮して辞退しました。保科正之が会津に引き連れた家臣の姓を挙げると『北原、小原、赤羽、樋口、辰野、日向、有賀、唐沢、黒河内、唐木、御子柴、春日、井深』などになります。これを見て自分と同じ姓だと思う伊那や福島県の方々が大勢いるのではないでしょうか。また、不遇な人生を送った弟の正貞は、後に幕府の重鎮となった正之の引き立てにより1万7千石の大名となり 、保科家の家宝などを正之から譲渡されました。

『四方赤良』 ・・・江戸日本橋新和泉町の銘酒「滝水」で有名な酒屋四方久兵衛の店で売る赤味噌や酒の略称と云われている。
『四方赤良』を「ハンドルネーム」にするブログから転載しました。

天正壬午の乱以降の保科家の正直、正光の歴史的事実は、筆者の知識と一致している部分と違う部分があります。穴山梅雪や見性院に対して、保科正光は「裏切った」という表現がありますが、梅雪は、武田勝頼の後期は、家康に靡いていたという事実があります。正則や正俊の没後の取り扱いなどに若干の謎が残されていますが、会津松平家の祖・保科正之の養父の人となりや生き様を知る上では、かなり分かりやすい資料と思われますので転載しました。 ・・庄