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伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

松尾小笠原宗家の創立まで  第三話

2016-01-06 12:38:24 | 歴史

松尾小笠原宗家の創立まで  第三話

話が、承久の乱の前に戻ります。
比企の乱と源頼家(二代将軍)の近習・小笠原長径 ・・*近習・主人の側に仕える人

小笠原長径は、建久元年(1190)源頼朝上洛の際に随兵として名が見られます。その後、頼朝死後に跡を継いだ将軍・頼家の近習となり、的始儀の射手や狩の供を務めています。将軍・頼家が十三人の合議制に反発して選んだ五人の近習・側近にも選ばれています。
この二代将軍・源頼家の五人の近習に選ばれたことが、続いて起こった「比企の乱」に巻き込まれる要因になっていきます。源頼家の外戚として権勢を握った比企能員とその一族が、北条時政の謀略によって滅ぼされた事変です。小笠原長径は、頼家の五人の近習=比企能員派として捕らえられるわけです。
この頃、父・小笠原長清は、あと三代将軍になる実朝から信頼が厚く、長清の妹・長径の叔母も大弐局として鎌倉府にあり、頼朝の側女であった大弐局は実朝の養育係でもあった関係で、処分的には鎌倉追放というかたちをとり、小笠原長径を隠棲させます。この時、長径は所領を没収されたとありますが、どこを所有していて没収されたのか場所が比定できていません。この事変の概要は、『吾妻鏡』によるものです。
『吾妻鏡』の記述から、源頼家(1182-1204)、小笠原長径(1179-1247)、北条時房(1175-1240)はほぼ同年代で、蹴鞠の遊び友達であり政治的な話題でも相談相手だったことが浮かび上がってきます。さらに北条時房は、北条時政の五男であったわけで、源頼家を主君にしたのは事実としても、比企家の勢力下にあったかどうかははなはだ疑問です。

近頃の研究では、頼家が選んだ五人の近習のひとり、中野(四郎)能成のことについて、興味深いことが研究成果として出てきています。
・・・ 頼家近習であった信濃国の御家人・中野能成は、比企氏滅亡直後の建仁三年(1203)九月四日の日付で時政から所領安堵を受けており、「比企能員の非法のため、所領を奪い取られたそうだが、とくに特別待遇を与える」という書状が『市河文書』に残されているが、『吾妻鏡』では能成は頼家に連座して所領を没収され、遠流とされた事になっている。この能成と深い関係のあった時政の子・北条時房も頼家の蹴鞠の相手となっており、頼家の周辺には北条氏による監視の目があったと見られる。・・・

この中野能成を例に、小笠原長径の処分を類推すれば、処分は形式的なもので、実態は所領の没収などなかったのではないかと思えてなりません。長径の場合は、「市河文書」のような考証材料がないため断定はできないのですが ・・・・・。
それにしても、『吾妻鏡』というのは、鎌倉幕府編纂書であるがゆえに、鎌倉幕府に都合のいいような記述がかなり見受けられそうですね。つまり、敵対した側はかなり悪く書かれている、時には事実が曲げられている、と見たほうがいいようです。

もう少し踏み込むと、二代将軍・源頼家と北条時房と小笠原長経は「蹴鞠仲間」という記述が出てきています。多感な青春期の遊び仲間です。青春期の遊び仲間は、裏表が無く性格や気性や考え方が仲間にはすべて丸分かりです。これを気心が通じるといいますが、二代将軍を筆頭に、鎌倉幕府の有力者の子息達です。北条時房は、時政の子、兄が北条泰時です。当然政局の話も常に出てきており、各々の見解も仲間には筒抜けでしょうし、甲斐源氏の武田。小笠原が何を考えているのかも伝わっていただろうと思います。
こう考えると、北条時政が、息子・時房を通じて情報を得ていたことは確かだろうけれど、時政・政子の比企氏謀殺は、かなり勢力争いの意味が濃いと思えて、小笠原長経は巻き込まれて、形式的な処分をせざるを得なかったのだろうと推察できます。
して、処分の実態・実際は、この時には「伊賀良荘」が尊勝寺領から時政の手に移っており、ここの経営を任せたのではないかと。勿論「伊賀良荘」の所有は北条時政のままですから、役職は定かではありませんが、”地頭代(代官)”かと思われます。

そんなこんなで、小笠原長径は公的な場から隠棲を余儀なくされます。もちろん形式的とはいえ幕府の処分対象ですから、嫡流を外されてしまいます。ここで、小笠原長清を継ぐ小笠原家宗家は、伴野(小笠原)時長(六男)になるわけです。
長径の隠棲の場所は、長径の嫡子・長忠が伊那・松尾で生まれたことから伊賀良庄が俄然有力になってきます。
いよいよ、松尾小笠原家・・信濃・伊那・松尾に長径が足跡を残します。

その根拠のなったのが、小笠原長忠:長径の次男:松尾長忠(又次郎)のこと。長忠の生没(1202-1264)・・小笠原家家譜より。
小笠原長径の次男が長忠で、長忠は伊那・松尾で生まれた、と小笠原家譜に記してあります。
小笠原長径は、二代将軍・源頼家に近習として仕えて、比企の乱(1203)に巻き込まれて、所領没収の上追放とあります。長径の子・長忠の生誕が建仁二(1202)年、比企の乱が建仁三(1203)年、長径の追放が建仁三(1203)年。建仁二(1202)年は、辻褄として普通に考えれば鎌倉在住のはずです。小笠原長径の追放前後と長径の子・長忠の生誕前後が交錯します。どのように読み解けばいいのでしょうか。

ここで、二つの視座で眺めてみようと思います。
まず、当時の政治情勢・
「比企の乱」が起こった原因は、鎌倉幕府において、頼朝の乳母・比企尼一族が外戚となって勢力を拡大していた時期で、北条時政・政子らの北条一族は、勢力の相対的低下があり、勢力挽回で焦りがあったことが確認されています。北条一族の勢力基盤は、この時点では磐石ではなかった。次に、甲斐源氏の武田・小笠原一族は、北条一族に対しては独立気運が高く若干距離を置いていたといわれています。ここで注目すべきは、同じ二代将軍・源頼家の近習・中野能成の処分の仕方の実像です。「比企能員の非法のため、所領を奪い取られたそうだが、とくに特別待遇を与える」が、北条時政の実際の処遇の仕方です。
これを類推すれば、小笠原長径も同様の処遇の仕方が考えられます。つまり・形式的には、長径は所領没収の上追放ですが、所領を与えられて(安堵されて)いた、と考えられるのです。北条時政は、甲斐源氏を敵方へ追いやりたくはなかったとも考えられます。
次に鎌倉時代の奉仕のかたち・
平安時代の朝廷とか政権への奉仕の年数は三年が普通でした。しかし三年じぶんの領国を離れていると、力ある豪族が留守を狙って、領国を略奪する例が頻発します。そこで頼朝は、鎌倉幕府へ奉公する期間を半年にしました。鎌倉幕府の御家人は、半年は領国で過ごせるようになったわけです。この制度から考えると、いくら近習とはいえ、じぶんの領国へ戻れる余裕はあったと考えるのが合理的です。こう考えると、長径、長忠親子の追放と生誕の交差する期間の複雑さは解けます。

当時の、南信濃の荘園の統治形態はどのようだったのでしょうか?
平安末期、南信濃の荘園は、「伊賀良荘」、「伴野荘」、「江儀遠山荘」、「麻績荘」が、文献的に確認できるそうです。(このうち、「江儀遠山荘」、「麻績荘」は本文の目的から反れますので外します。「麻績荘」は、犀川沿いにもあるので紛らわしい)
「伊賀良荘」は、平安末期まで尊勝寺領となっているのが見えます。保延年間の文字が見えるので1136年から数年のこと、鎌倉幕府成立の50年余前の話です。その後「治承・寿永の乱」で頼朝が挙兵し平家を破って鎌倉幕府が成立します。尊勝寺領の「伊賀良荘」は、鎌倉幕府成立の時点で北条時政の所有の荘園に変わっています。「伊賀良荘」地頭が北条時政ということになります。正確な日付を指す文献が残っていませんが、以後「伊賀良荘」地頭が北条時政であるという証拠は揃っているようです。
「伴野荘」は、どのような統治形態だったのでしょうか。
・・・「吾妻鑑」文治二(1186)年十月二十九日の条には、信濃国伴野庄地頭として長清の名がみえている。・・・小笠原長清のことです。
「治承・寿永の乱」に頼朝に与して戦功をあげた小笠原長清への論功行賞と考えてよさそうです。
ここで問題なのは、伊那に”伴野”があり、佐久にも”伴野”があり、どちらだろうか、ということです。佐久の”伴野”は、「承久の乱」の論功行賞で小笠原時長に与えられていますから、もともとの小笠原家知行の地を褒賞されるのも変な話です。その後に起きる「承久の乱」の時、伊那谷の豪族を糾合して東山道を進軍していった事実とその後に南信濃が小笠原家の拠点になった事実をつなぎ合わせ、さらに小笠原長径が伊那・松尾に住んだ事実から、すべて文献の裏づけなしの状況証拠ですが、小笠原長清が伊那・”伴野荘”の地頭だったと考える方が、すべてに整合性があります。
そして、中世,赴任しない地頭の代わりに在地にいて実務を担当した者。一族や郎党の者が任命された。これを地頭代(官)と呼んだようですが、北条時政は、小笠原長径に”伊賀良荘」の地頭代をやらせたのではないかというのが推論です。・・・状況証拠の繋ぎあわせなので断定はしませんが、そうとでも考えなければ、松尾に小笠原長径は出現しませんし、松尾小笠原家が成立しなければ、松尾長忠(小笠原長忠)はないわけで、中興の祖の小笠原貞宗の存在も危うくなります。



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1 コメント

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小笠原長経 (渋谷幸雄)
2017-10-04 17:35:33
ブログ大変興味深く拝見させていただきました
私の地元、鼎下山 矢高神社は 1214小笠松尾城主 小笠原長経 城の鬼門の方角に矢高諏訪神社を創建と伝わっています、実際には松尾城の鬼門ではなくそれ以前の小笠原の館が有ったという言い伝えがある 鼎名古熊地区の田中城(現在ただの畑地でなにも有りません、家臣だったという家がありますが)から見て鬼門の方角です、自分としては魔除けの破魔矢を鬼門の方角へ射る儀式を行った神社ではないかと見ています、さらに鬼門の延長線450メートルほど(矢が届いた場所か?)に小笠原の十二薬師二番札所があります、鎌倉時代荒れ地に近いと思われるこの地に、二番札所を作ったヒントになるのではと想像していますが、、何か教えて頂ける事が有れば幸いです。
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