探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

伊奈忠次と保科正俊のそれぞれの源流の接点

2014-06-27 16:51:20 | 歴史

 

保科家と伊奈家の接点
  伊奈忠次と保科正俊のそれぞれの源流

もう、この題材で何度も書き換えを行っています。
当初からの「モチーフ」が、家康家臣の関東郡代頭・伊奈忠次の”伊奈”の出自に拘ったところから、このブログは始まっています。前提として、伊奈忠次を、知れば知るほど”希代の民政家”として尊敬し、また保科家に繋がる、会津松平藩の始祖・保科正之を、幕藩大名の秀逸の”名君”と認識し、その二流が過去で繋がっている可能性が強いのではないか、というところから、探求は長々と続いております。
諏訪家の探求や小笠原家の探求も、いってみればその一環で、こちらも謎に包まれて、かなり手強かったのですが、両家とも参考になる研究書が見えず、知りたい部分は自分で調べる結果になってしまいました。

さて、今回また書き換えをします。
それは、伊奈家同族の稲熊家のこと及び天照神祭祀家、伊勢神宮の神領地・御厨、賀茂神社・伊勢神社の関係の紋・立葵、伊奈易氏が伊奈四郎神易氏を名乗っていたことに関連する記述になります。

その前に、参考として前回の記述に目をとうしておいて貰えるとありがたいと思います。
参考  伊奈忠次(関東代官頭)の伊奈の由来!?・・・ - 探 三州街道

 

  保科正則の系譜について、次の様な記述があります。

--「保科正則の系譜についても同様に混乱が多く見え、その父を正利とするもの(『蕗原拾葉』)のほか、正利の別名を正尚としたり、上記とは別系の正秀としたり(保科家親の子の筑前守貞親-正秀-正則)、易正(弾正左衛門、神助)であってこの者が荒川四郎神易氏の二男から保科五郎左衛門正信の養子に入ったともする(『百家系図稿』巻6、保科系図)」--幕藩大名家保科氏の戦国後期の系図・樹堂

注目して欲しいのは、「荒川四郎神易氏の二男から保科五郎左衛門正信の養子」の所。
諸説ある中で、最も合理的な荒川家家系の、吉良家一族の戸賀崎系譜の荒川易氏は、通称?を”四郎神”と呼ばれていたことです。
通称を”四郎神”と付ける場合は、武家や農民ではあり得ない、神官でこその通称と思われますが、当時の習わしは分かりません。
諏訪神党の”保科家”に養子に入った”神助易正”や易正の子の”甚四郎正則”が、「諏訪神党を誇り」神に通じる通称を持っていたのは納得ができるところですが、彼等の”親父殿”や”祖父殿”である易氏が”神”の付いた通称は、何を意味するのでしょうか。

三河の伊奈忠次の家系の傍流に、「忠次の伯父康宿は稲熊を称し碧海郡大浜城は最初この氏の居城であった」とあります。
その「稲熊氏も三河の神職に見え、宝飯郡竹谷村(蒲郡市)の若一王子権現神主家などがあげられる。そうすると、もともと額田郡で稲前神社を奉斎する一族が宝飯郡に展開したのが稲熊・伊奈一族ではなかったかとみられる。稲前神社の祭神は天照大神といわれるが、その当否は不明にせよ、稲隈天神に見るように天孫系の神を祀る模様である。この地は伊勢神宮の神領地であったと伝え・・・・・・」
この文章は、・・・「三河の大河内氏とその同族」宝賀寿男、より引用しています。 

さらに伊奈家が、信濃から何故三河に行ったかは、三河に同族が住んでいた、と考えるのだ妥当だし、事実出自から吉良系であることが判明しており、これも傍証の一つと考えてよさそうです。

さらに、伊奈家の家紋を確認すると、「伊奈忠次の家紋は、最初「葵紋」次ぎに「九曜紋」最後に「二つ巴紋」そして替紋として「剣梅鉢紋」と変遷した」

--当ブログ、伊奈忠次の出自を探る 2 参照

控え室の雑談記 伊奈忠次の出自を探る 2 

葵紋は、徳川家の「三つ葉葵」ではなく賀茂神社の「立ち葵」です。

二つ巴紋は、正式には「左下がり二つ巴」です。
九曜紋は、若干保科家に通じます。--保科家は、正式には角九曜(平方九曜)。
*ただ、九曜が、いつ頃から角九曜になったかは、明らかではありません。
*忠次は、正式に家臣になる時、家康に「葵紋」の使用を禁じられています。

    

以上の三点を考慮して考察すると、荒川易氏の、諏訪系でない「神官」の姿が浮かび上がります。荒川易氏は武家ではなく、「天照系神社の神官」の可能性が高くなります。

荒川易氏が、信濃のどこかに神官として赴任したとすれば、伊勢か春日系の神社か御厨の可能性が出てきました。
*御厨・・・・・・伊勢神宮の荘園のこと。
ここで、ようやく”保科の郷”と”高家・熊倉の郷”との関連が出てきました。易氏は、御厨の近くの神社の宮司として赴任し、息子達を、御厨の荘園の代官家に養子に出したと言う構図です。両方の地とも、伊勢神宮の神領地・御厨が存在します。

さてここで大きな矛盾が出てきます。
「荒川易氏(やすうじ)のときに将軍足利義尚から信濃国伊那郡の一部を与えられ」とする前提と矛盾します。
この前提に基づき、武将としての易氏の痕跡を探してきました。これが「モチーフ」ですから、「探 三州街道」を読んでくれた方は、その痕跡が見つからなかったことは理解していたっだけると思います。
義尚が将軍時代は応仁の乱。一族が、一族内の覇権と領土を争っていた時代。そもそも、義尚が、誰かに与える領土を持っていたのかどうかすら、疑わしい時代です。東軍にあった義尚が、意を通じる武将は、東軍の松尾・鈴岡小笠原家ですが、ここも対立しており、援軍は欲しいが分割出来る領土は、伊那の小笠原家を通じて、伴野(豊丘)ぐらい。

三河地方に残っている古書から、伊奈熊蔵忠次の前三代の名前を拾い出すと、
忠次の祖父 伊奈忠基  伊奈市兵衛 藤原忠基 熊蔵利次 
忠次の父  伊奈忠家  伊奈康定,  仁兵衛,浄香 
忠次 本人 伊奈備前守・関東郡代頭 藤原忠次 熊蔵家次,
となるそうです。

多少気になるのは、
忠次の父が、藤原も熊蔵も冠にないこと、忠次は祖父とされる忠基の年の離れた子供との噂があることですが、
それよりも、荒川の名を捨てたのか、熊蔵や藤原を名乗ったのかが、変化として目立ちます。熊蔵の読み方も気になります。
---信濃の明科に、高家・熊倉の郷があり、春日神社もあります。そこの伝承に、「京から神官がたびたび訪れ・・・・・・」という碑文があるそうです。高家・熊倉は「たきべ・くまぐら」と読むそうです。 

 

 

こうして、保科家は誼が深い諏訪下社の金刺家に与力して、諏訪家の内乱に巻き込まれていきます。


通字と偏諱

2014-06-08 18:29:28 | 歴史



通字と偏諱

    通字と偏諱


  • 豊臣秀吉の偏諱

    偏諱とは、貴人から臣下などに通字(一族で代々名乗っている漢字)ではないほうの一字を与えることである。特に室町時代の足利将軍が細川京兆家(足利義勝→細川勝元、足利義政→細川政元、足利義澄→細川澄之、澄元、足利義晴→細川晴元、足利義昭→細川昭元などなど)を始め、各地の守護大名へ与えた礼が多い。


    さて、時代が下って豊臣秀吉の場合はどうだろう?秀吉は出自が武士階級ではなく、通字を持たなかった。が、一族には「秀」を名乗らせ、これを通字とした(長秀→秀長、秀次、秀勝、秀保、秀秋)。そして、一族以外にも多数偏諱を行なっているが、大名には「秀」、臣下には「吉」を与えている例が多いようである。


    「秀」をもらった人物

    ・結城秀康(徳川家康の次男、秀吉の養子となる)

    ・徳川秀忠(徳川家康の三男)

    ・宇喜多秀家(秀吉の猶子、養女の婿)

    ・毛利秀元(毛利元就の四男、穂井田元清の子、毛利輝元の養子となる)

    ・毛利秀就(毛利輝元の子)

    ・小早川秀包(毛利元就の七男、小早川隆景の養子となるが、秀秋が養子に来ると別家を立てた)

    ・伊達秀宗

    ・織田秀信

    ・織田秀雄(織田信雄の長男)

    ※蒲生秀行や中川秀成、毛利秀頼らはもともと通字が「秀」と思われるので除外している。ただし、先代までは「~秀」と名乗っていたがはばかって下の字を秀とした可能性は高い。秀頼ももともと長秀を名乗っていた。



    「吉」をもらった、もしくはもらったと思われる人物

    ・大谷吉継

    ・木下吉隆(秀吉の祐筆。木下の名字ももらった可能性あり。秀次に連座し、薩摩へ配流の後、自害)

    ・毛利吉成(秀吉古参の家臣。豊前小倉七万石の大名となり、朝鮮の役で活躍するが、関ヶ原で正軍について失領)

    ・毛利吉政(吉成の子。大阪の陣で西軍につき、自害。勝永とも言う)

    ・木村吉清(天下統一後、葛西・大崎二十万石の大名となるが、一揆が起きた責任を問われ、改易。後九州の大名に返り咲く)

    ・大友吉統(宗麟の子。朝鮮の役で失態を犯し、改易。関ヶ原で西軍につき、敗北)

    ・堀尾吉晴



    メンバーのなかで大友吉統だけが異質だが、これは元々義統だったものを同音の吉統に変えたのであろう。

    こうして見てみると、堀尾吉晴、関ヶ原では家康の息子二人と幼少だった伊達秀宗、既に死んでいる木下吉隆以外はみんな西軍についているし、(木村吉清も既に死んでいるが、息子は西軍についている)こうして見てみると、意外と偏諱作戦は効果があったのかも知れない。

    もっとも、秀吉の政策としては羽柴の名字や豊臣姓を与えることの方が有名


    • 通字


      日本、特に中世の武家社会においては、一族が同一の文字を共通に「諱(いみな)」に用いている場合が多く見られます。伊勢平氏の「盛」、前北条氏の「時」、清和源氏(足利氏を含む)の「義」「頼」、武田氏や織田氏の「信」など、「枚挙に暇が無い」とはまさしくこの事でしょう。これを「通字」と呼んでおり、一族結束の証と見る向きも有ります。

      諱・・いみな


      □ 通字について



       通字についての質問ですが、通字が同じでも一族とは言えないという意見と通字が同じなので同族という意見があり、よく分かりません。ある武将の通字を共用している家臣は、その武将と何らかの繋がりがあると考えてよいでしようか。その武将の通字を、諱の下にしています 

       また、家臣団のなかで、自分より上位の者の通字(諱の上の字が通字です。)を、下位の者が諱の下に用いることは、名字は異なっていますが、同族と見て良いと思いますが、いかがでしょうか?

       

      樹童(さん)から



       通字などの命名法については、多くの書に説明があげられていて、私が一般的に説明するような事項とは思われませんが、一応整理しておくと次のようなものとなります。

       

       個人の名前の命名法については、奈良時代までは親子兄弟・一族でマチマチでしたが、中国文化の浸透につれ、わが国でも中国の人名にならって、人名(実名)は漢字二字とする傾向が奈良時代後期頃から出てきました。

       平安時代前期になると、唐風好みの嵯峨天皇は親王として皇族にとどめた皇子たちには正良(仁明天皇)、秀良、業良、忠良、基良という漢字二字の名をつけ、それ以降、仁明天皇の親王皇子には「□康」という形で康の字を共通にし、文徳天皇の親王皇子には「惟□」、清和天皇には「貞□」、……という形で兄弟間で共通の漢字一字を用いて命名されました。こうした命名法を“通字”といい、公家・武家でもその傾向が出てきました。その本は中国にあり、朝鮮半島では兄弟のみならず、一族間の同じ世代の男子は共通の漢字を用いた命名をする風習があります。

       ところが、平安後期になると、苗字が発生し、社会的にも世襲の風習が強まるとともに、父祖など先祖の名の一字を受け継ぐ形の通字が傾向的に出てきました。天皇家でも、平安後期の後冷泉・後三条天皇兄弟以降、現在に至るまで天皇家の男子の僧籍に入らない者の大半に用いられる「仁」の字があげられます。中央・地方の名族もそうした命名を行うようになり、鎌倉時代以降はとくに強くなりました。「兄弟通字」から「歴代通字」へと変化したわけです。

       公家の閑院家では先祖の公季・公実の名に因んで、一代毎に公と実とを繰り返し、ときに季が入るという形で通字を用いましたが、四条家の隆、高倉家の範、御子左家の為などの例が見られます。清和源氏でも頼・義が通字的に用いられ、武田氏の信、美濃尾張源氏の重などがあり、北条氏の時、三浦氏の義・為、秩父党の重、鎌倉党の景、千葉氏の胤、宇都宮氏の綱、河野氏の通など、著名な通字があげられます。このように、一族で通字をもつ例がかなり多く見られます。

       

      2 通字は、これを必ずしも用いない氏・一族もあったり、通字をつけることが多い一族であっても、主君や将軍家から諱(いみな)の一字(偏諱)を賜るなどの事情で通字から離れることもあって、一概に言えるものではありません。同じ一族でも、鴨県主一族のように、系統毎に通字が異なったりします。従って、個別具体的に系譜を考えていく必要があり、名前だけで系譜関係を判断できません。ある戦国武将の家臣団のなかで、名前に共通性があっても、命名にどのような事情があったのかを判断する必要があります。具体的に、通字なのか偏諱授与なのか、また別の事情があったのかなどを考えていくことです。その一族の傾向によっては、系譜関係を推測する手がかりにもなりますが、あくまで傍証程度に考えたほうがよさそうです。

       偏諱についてもう少し記しておきますと、主君や貴人から下位の者への恩恵の付与として偏諱を与える例が、鎌倉時代から江戸時代にかけて多く見られます。上位者が自らの姓氏・苗字を与える傾向と軌を一にするといえそうです。偏諱は、時代が降るにつれて授与者へのはばかりからこれを受ける側の名前の上の字となる場合がほとんどとなっています。伊達氏が将軍家の偏諱を歴代受け、織田氏本宗が主君斯波氏の偏諱を受けた例などがあげられます。こうした場合、名前は、「通字+偏諱」という形で付けられることにもなります。

       元服に際して烏帽子親となった一族の長や主君が、恩恵として自身の偏諱を族子や重臣などの有力者に与えることも、鎌倉初期の曽我五郎時宗(烏帽子親が北条時政)の例などで鎌倉期から見られるようになっています。戦国時代ごろの偏諱授与の例は多くありますが、江戸時代になると主君から家臣への偏諱授与の風習はさらに盛んになったとされます。




    • 偏諱


      日本では「元服の儀」の際に諱が決まるので、それを取り仕切る立場でしたら命名に口を挟む・・・いえ、決めてしまう事が可能です。

      この立場の人物を烏帽子親(えぼしおや)と言い、このいわば「仮の親」から一字を頂戴する慣習が鎌倉時代に根付きました。特に「通字では無い方の字」を「偏諱」と呼び、こちらの方を贈与するケースの方が圧倒的に多かったのです。



      初期の例を挙げましょう:

      <例1>鎌倉時代 将軍-執権北条氏

      将軍家(烏帽子親)   北条執権家

      藤原頼経(第4代)  北条経時(第4代)

      藤原頼嗣(第5代)  北条時頼(第5代)

      宗尊親王(第6代)  北条時宗(第8代)



      異例

      藤原頼嗣-北条時頼-足利頼氏の様な「下げ渡し」は諱の贈与が「直接」の主従関係の固めである故に考えられない事。頼氏は最初は「利氏」と名乗っており、「頼氏」は北条時頼が烏帽子親として足利頼氏に偏諱を贈与したものではなく、兄との争いに勝って宗家継承が決まった時点以降の名乗りである。




    • 知久氏の場合


      笠系の系譜の知久氏



      知久頼敦敦綱子敦長孫敦幸曾孫敦俊玄孫諏訪敦光耳孫神六左衛門

        頼昭敦貞子敦平孫敦信曾孫信貞玄孫敦俊耳孫四郎左衛門信濃

    • ・・・・・・頼昭、頼久のことか。別名:禅久

    • ・・・・・・女子(娘)之義母  尹良親王のことか ・・・・・・注

        為行四郎信濃 :別名寄山・・法名か

    • ・・・・・・弟・頼舜・僧都 、伯元・法全寺学匠 、心源・山城守

    •   頼矯四郎民部左衛門信濃 :別名大量・・法名か

        頼季弾正信濃 :別名巨岳・・法名か 

    • ・・・・・・弟・宗詢・密乗院法印
      宗詢(文永寺第6世)は幼名を宮壽丸と言い(嘉吉元年生)京都の醍醐理性院へ登り稚児となった

    •   頼尚七郎民部信濃 :別名元中

    • ・・・・・・弟・敦興・隠岐守、仙耀・竹因院

        頼為頼尚嗣四郎子頼季孫七郎民部信濃大和 別名:易先

    • ・・・・・・弟・宗顕、悦心・安房守、向月・瑞桂、梅渚

      頼元====1555頼尚子?左衛門民部大和

    •   頼康頼元子四郎左衛門 別名:太郎、・・・神ノ峰城の戦いで戦死

        頼氏15411585頼康嗣頼元子大和仕徳川家康 別名:七郎、式部少輔

        則直頼氏子伊左衛門大和 別名:万亀、伊左衛門

        直政則直子内蔵 別名:伊介、内蔵介、伊左衛門

        



      1:知久頼敦敦綱子敦長孫敦幸曾孫敦俊玄孫諏訪敦光耳孫神六左衛門

      ・・・

      知久頼敦 神六左衛門(別名)

            敦綱・子 敦綱の子である

            敦長・孫

            敦幸・曾孫

            敦俊・玄孫・・知久沢に住む *知久沢・上伊那郡箕輪町/飯田市下久堅?

            諏訪敦光・耳孫 神六左衛門

      ・諏訪敦光・・鎌倉初期の諏訪大社大祝諏訪敦光(篤光)の子敦俊が知久沢に住み、「知久十郎左衛門尉」と記載されたことによるが、敦俊の養子となった知久信貞(知久右衛門五郎)が知久家系図上の初代となる。

      上記の通りなら、信貞と敦俊は同一人物。



      2:頼昭敦貞子敦平孫敦信曾孫信貞玄孫敦俊耳孫四郎左衛門信濃

            頼昭 敦貞子 四郎 左衛門(別名) 信濃(守)

            敦平・孫

            敦信・曾孫

            信貞・玄孫

            敦俊・耳孫

      ・南北朝の終焉と共に小笠原氏の傘下となり、応永7年(1400年)の大塔合戦では知久頼昭が信濃守護職小笠原長秀軍に属した。戦いは守護側の大敗に終わったが、頼昭は長秀と共に塩崎城に脱出して難を免れる。

      *頼敦と頼昭の間に親子関係の記述がない。頼敦が大塔合戦以後トラブルが発生し、嫡流の相続が困難な状態から、傍流の頼昭が相続したものと思われる。

      *三代前の知久信貞は、南朝の宗良親王に臣下して護衛して、宗良に随伴して各地を転戦した人と目される。この頃知久一族は、信濃南朝の主力であったと思われる。



      3:為行四郎信濃

      *為行は、系譜から異形。知久家の嫡流の通字は”頼"の字であり、北条残党と南北朝の信濃争乱で、知久家の相続に混乱が発生し、傍流からの相続が行われた可能性がある。または、頼昭の娘婿の可能性も考えられる。



      4:頼矯四郎民部左衛門信濃

            頼矯 四郎 民部 左衛門 信濃(守)



      5:頼季弾正信濃

            頼季 弾正 信濃(守)



      *頼矯、頼季親子は、尹良親王の時代に比定できる。尹良を護って戦った中に千久祐矯の名前があるが、知久一族に特定ができない。大草(中川村)に桃井城があり、尹良親王はここに遺留した可能性が高いが、知久一族は尹良の生活を補助したと言う説もあり、尹良の生みの母は頼矯の娘という説もある。

      *知久祐超(四郎左衛門尉敦貞)を外祖父とする将軍之良(之義将軍)・・知久氏之伝記のみの記述で、敦貞の孫娘が、宗良親王か将軍尊氏の弟・直義かの子を産んだとする説で、唯一の証左のみのため学説としては疑問視。しかし、尹良親王から贈られた産着等から、知久家の家紋は”御所車"になっている。



      6:頼尚七郎民部信濃 

            頼尚 七郎 民部 信濃(守)



      7:頼為頼尚嗣四郎子頼季孫七郎民部信濃大和

        別名で、知久易先で活動している。

            頼為 頼尚嗣 ・・養子を表現している

            四郎・子・・先代で四郎は頼矯四郎か、為行四郎か

            頼季・孫・・頼尚の子ではない

            ・・・この二行は辻褄が合わない

            七郎 民部 信濃(守) 大和(守)

            易先(信濃守) → 頼為(大和守)・・・たぶん時系列



      *知久易先は謎めいていて面白い。

      仮設・・・

      易先は、伴野に拘っている。鈴岡・政秀に伴野を奪われた易先は、かっての伴野の領主・知久の傍流・頼矯から分かれた分家に養子に入り勢力を拡大して力を溜め、伴野を奪還するため、鈴岡・小笠原と対立する松尾・小笠原と同盟する。そして、松尾・定基と謀議して、鈴岡;政秀親子を謀殺し、伴野を奪還する。さらに易先と頼元親子は、坂西家を圧迫して座光寺・黒田などを領分し、坂西家に養子を送り込む。この間、神の峰城を構築する。

      易先は、伴野を領分した豪族であったのか?どこから来たのであろうか。

      この過程のどこかで、知久家の棟梁を継ぐことになった。同時に知久家の継承者として”頼”を通字とする”頼為”に改名をした。名門”知久家の”改名”+”相続”披露は盛大であっただろう。・・・以上が仮設のストーリーである。易先が異質の血筋と見えることからの想像である。



      8:頼元====1555頼尚子?左衛門民部大和

            頼元頼尚子?左衛門 民部 大和(守)

      *嫡流は、元に戻る。信玄に神ノ峰城を攻められて落城、頼元は甲斐で切腹。



      9:頼康頼元子四郎左衛門

      *信玄に神ノ峰城を攻められて落城、父・頼元とともに戦死。



      10:頼氏15411585頼康嗣頼元子大和仕徳川家康

            頼氏1541-1585

            頼康嗣頼元子 大和(守) 仕徳川家康

      *残された一族は武田氏に臣従する者と他国(主に東海から関東各地)に散る者に分かれ、知久頼氏(頼元の次男あるいは孫)は徳川氏に身を寄せる。 天正10年、本能寺の変後の混乱する甲斐・信濃を手中に収めようと甲府に出陣した家康に連動して参軍するが、裏切りが発覚して切腹。



      11:則直頼氏子伊左衛門大和

            則直頼氏子 伊左衛門 大和(守)

      *則直は、家康の旗本として、旧領の一部を与えられて阿島に陣屋を建てて住居。通字の”頼”が使われていないところを見ると、家康の直参衆の配下の一部として名前を与えられたと見える。

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    • 参考資料