探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

石見小笠原家 ・・様々なる小笠原支流

2014-03-27 15:01:39 | 歴史

    様々なる小笠原支流

  石見小笠原家  ・・様々なる小笠原支流

石見小笠原家

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三階菱* (清和源氏武田氏流) *小笠原氏の代表紋。

長清(信濃守)・紀伊・阿波・河内三国の守護→
子・長経(阿波守護)→後裔・阿波小笠原氏→
長経の孫・長親(弘安の役の功)・石見国を賜り、移住して南山城を築く。→
長親の子孫・石見小笠原氏。

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以下、「戦国 武家家伝石見小笠原氏」からの引用による ・・・

『甲斐源氏の加賀見遠光の次子長清が甲斐国小笠原に拠り、小笠原を称したのに始まる。長清は源頼朝に従って戦功を挙げ、『吾妻鏡』にも小笠原長清・長経父子の活躍がみえる。長清はその功によって信濃守に任じられ、紀伊・阿波・河内三国の守護となった。

石見小笠原氏のはじめ

長経は阿波守護となって、阿波に下向し大西郷に住したが、のちに信濃に帰っている、その後裔は阿波に住み、阿波小笠原氏をはじめ、三好氏、安宅氏・大西氏などが出ている。長経の孫・長親は、弘安の役の功によって、石見国邑智を賜り、同地に移住して南山城を築き同城に拠ったとされ、以後、長親の子孫は石見に住して石見小笠原氏となった。・・長胤のとき、南北朝の内乱があり、長胤は武家方として宮方と戦い、邇摩郡三久須の戦いの功で、温湯・赤城の両城を賜り、以後、温湯城が石見小笠原氏の拠点となった。その子長氏も武家方であり、石見守護となった上野頼兼に属していた。・・上野頼兼を中心とした北朝方に対して、一族の小笠原長光は、福屋兼行・三隅兼連・吉見直頼・周布兼宗らとともに宮方に属し、激しい攻防を繰り返した。小笠原氏は惣領家と庶子家とが、南北に分かれて争乱の時代を生き抜いた。・・以後、石見国にあって、庶子家を分出しながら、着実に勢力を広げていった。十二代長隆は永正年中上洛、宮城守護をになった。周防の大内氏に従ったものと思われる。

乱世を生きる
戦国時代には、出雲の尼子氏に属して、大内氏・毛利氏と対立。天文十九年(1550)大内氏は陶晴賢の謀叛で滅亡。晴賢は大友氏から義長を迎えて大内氏の実権を握った。その後、弘治元年(1555)毛利元就は厳島に陶晴賢と戦って晴賢を敗死させ、周防・長門を領国に組み入れ、石見計略も進めた。同三年には、陶晴賢の擁する大内氏の支配下の石見大森銀山を占領した。・・これに対して、尼子晴久は出雲須佐高屋倉の城主本城常光を石見に派遣した。川本温屋城主の小笠原長雄は協力し、晴久も太田に出陣した。永禄元年七月下旬、忍原において毛利氏と戦い大勝した。・・「忍原崩れ」。これで晴久は銀山を奪回し、本城常光を城番として富田に帰城した。・・石見銀山は戦国の軍資金として名高く、尼子・大内・毛利の争奪の的となっていた。その争奪の歴史を振り返れば、・・天文六年尼子晴久奪回、・・同八年大内義隆奪取、・・同九年尼子方小笠原長隆奪還、・・同十年晴久の安芸遠征後、大内氏が奪い返した。のち、晴久が占領し、その後、陶晴賢に擁立された大内義長の手に入った。これを弘治二年毛利方の吉川元春が占領し、永禄元年晴久が奪回するというめまぐるしさであった。・・その後永禄五年、石見銀山城主の本城常光は毛利氏に降り、銀山は毛利氏の支配する。
さて石見銀山のこととは別に、永禄二年(1559)二月、吉川元春は一千騎を率いて安芸国を発して、小笠原長雄の拠る温湯城を攻めてきた。小笠原勢は、元春の猛攻を防いだが、同年五月、毛利元就・隆元・小早川隆景の父子が石見国に軍を進め、吉川元春もその一翼を担った。総勢一万二千騎の毛利軍が温湯城を囲むに至った。

毛利氏に降る
長雄は、尼子晴元の救援を恃んで、温湯城周辺の赤城、青岩庵などの支城に兵を配置して毛利軍の攻撃に備えた。元就は温湯城を攻めるため本城に迫って笠取山に陣し、六月には温湯城周辺の城をすべて落した。この間尼子晴久はしばしば兵を出して温湯城救援を試みたが、毛利軍の包囲網は固く、救援は実らなかった。・・そして七月十九日、長雄は恃みとした尼子氏の軍勢が太田まで退いたことで力尽き、小早川隆景を頼んで降伏した。このとき、隆景は一挙に小笠原氏を滅ぼすよう進言したが、元就は長雄の死を免じて隠居させるに留めた。そして小笠原氏は、川本をはじめ江ノ川南岸の所領を没収され、代わりに江ノ川北岸の旧領と、すでに元就に帰属していた石見国衆福屋氏の所領から同国伊田・波積を新給地として宛行われ、以後、甘南備山城を居城とした。・・永禄十二年、尼子再興を目論む勝久が出雲に乱入すると、長雄の嫡男・長旌は毛利軍の先陣を勤めたが、小笠原氏の宿老たちは吉川元春の三男経言を長旌の養子にして、旧領の川本の返還を目論んだが、この計画は輝元の反対され、生まれたばかりの嫡子・千代童丸(長郷)が家督を相続した。』

その後・・・秀吉・家康の時代になり・・・どこの家臣にもなら(/れ)ず、小笠原の姓を棄てたとも聞く。

 

 


三好家 ・・様々なる小笠原支流

2014-03-27 02:46:07 | 歴史

    様々なる小笠原支流

  三好家  ・・様々なる小笠原支流

三好氏

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三好氏
家紋 三階菱に五つ釘抜
本姓 清和源氏 (河内源氏系義光流)
家祖 三好義長
出身地 阿波国三好郡、主な根拠地 四国東部、畿内
著名な人物 三好之長、元長、長慶、実休、笑岩、長逸、政康、政勝

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三好氏は、日本の氏族の1つ。家系は信濃源氏で鎌倉時代の阿波の守護小笠原氏の末裔。室町時代は阿波守護代を務め、戦国時代に阿波をはじめとする四国東部のみならず、畿内一円に大勢力を有する戦国大名となった。

鎌倉時代のはじめ、阿波守護職は佐々木氏であったが、佐々木氏は承久の乱で宮方に味方して没落した。そのあとに、幕府方で活躍した小笠原長清が阿波守護職に補任され、阿波国に入部したのである。のちに六波羅奉行に任じられた長清は、子の長経を守護代として阿波の支配を委ねた。長経は阿波麻殖保をめぐって平清基と争論したことや、土佐に配流される土御門上皇を阿波に迎えたことなどが『吾妻鏡』にみえている。その後、長経は弟長房に阿波守護職を譲り、みずからは信濃に帰っていった。

歴史
本姓は源氏。清和源氏の名門小笠原氏(信濃源氏)の庶流とされ、鎌倉時代に阿波守護であった阿波小笠原氏の末裔。阿波三好郡を本拠にしたことから三好氏を称した。
鎌倉時代後期には既にその名が阿波国内で散見されるようになる。南北朝時代の初期は、南朝方として活動しており、北朝方の細川氏と対立してた。しかし南朝が不利になり、細川氏が室町幕府内で勢力を拡大し強大化するとそれに服した。阿波は細川家の庶流の阿波細川家が代々守護をつとめたが、三好氏は、この阿波細川家の被官として勢力を伸ばす。

三好之長と細川澄元
明応の政変
長禄二年(1458)には、智勇兼備の良将と謳われた三好之長が現れる。之長の諱は、阿波細川家の成之に偏諱を受けたもので、之長は、管領細川勝元に従い応仁の乱に東軍として参加。勝元の子細川政元の養子に阿波細川家から澄元が迎えられると、これを支えて転戦して武功を挙げ、畿内にも大きな影響力を持った。政元から細川京兆家の直臣に望まれ、これを受けた。これ以後、三好氏は京兆家の重臣。細川政元は、十代将軍・足利義材(後に義尹、義稙)を追放し(明応の政変)、十一代将軍・足利義高(後に義澄)を擁立し「半将軍」と呼ばれる程の実力者であった。・・永正四年(1507)、細川澄之と香西元長は、細川政元を殺害し、細川京兆家を継承する(永正の錯乱)。三好之長と細川澄元も襲撃され近江に逃れた。澄之は細川一族の高国や尚春、政賢らの反撃を受けて討たれ、之長らは近江から帰洛し澄元と共に権勢を掌握した。

細川高国・大内義興との戦い
しかし同年11月、周防に流れていた前将軍足利義尹が大内義興に擁立されて上洛戦を開始する。 細川澄元は大内義興との和睦を画策したが、細川高国が大内方に寝返ったため決裂し、足利義澄、細川澄元、三好之長は近江に逃れ、大内義興は上洛を果たし、足利義尹は十代将軍職に復帰した。・・永正六年(1509)、細川澄元、三好之長は、京都に侵攻したが、逆に高国と義興の反撃を受けて敗北し、阿波に逃走する(如意ヶ嶽の戦い)。・・永正八年(1511)7月、細川澄元、三好之長は十一代将軍・足利義澄、赤松義村と連携し共に堺に上陸し、深井城の合戦に勝利し京都を奪還する。しかし同年8月、足利義澄が死去し、三好之長らは、再起した細川高国と大内義興との船岡山合戦に敗れ、阿波に落ち延びた。大内義興は上洛を果たし、管領代に任命された。・・永正十五年(1518)8月軍事力では主力であった大内義興は、出雲の尼子経久の勢力が拡大し石見、安芸、周防を脅かし始めたため、帰国してしまう。大内義興の在京期間は十年に及んだが、軍事力の中枢を失い細川高国の基盤は揺らいだ。

細川高国・六角定頼との戦い
永正十七年(1520)1月に細川澄元・三好之長が、細川高国の領国である摂津に侵攻し下田中城主・池田信正の協力を得て、瓦林正頼が籠もる越水城を攻略した。すると十代将軍・足利義稙も澄元に通じため、細川高国は単独で近江坂本に逃れ、三好之長は京都を奪還した。・・しかし同年5月、細川高国は六角定頼と内藤貞政の援軍を得、上洛戦を開始する。これに対して澄元・之長らは兵を集めることができず、之長は等持院の戦いで敗北し捕らえられて自害し、摂津伊丹城に居た澄元も阿波に敗走した。同年6月、細川澄元も阿波にて病死した。六角定頼は上洛を果たし後に管領代に任命された。

三好元長と細川晴元
細川高国・浦上村宗・朝倉宗滴との戦い
永正十八年(1521)、細川高国と十代将軍・足利義稙の関係は険悪となり、義稙が境に出奔した為、赤松家の実権を握った浦上村宗の元にいた前将軍・義澄の子・足利義晴が第十二代将軍に補任された。足利義稙は、大永三年(1523)逃亡先の阿波で死去した。・・大永六年(1526)細川高国が、家臣の香西元盛を殺害して細川氏で内紛が起こると、三好之長の孫・三好元長は、細川政元の子晴元と、十二代将軍・足利義晴と同じく十一代将軍足利義澄の子で、船岡山合戦の後、阿波細川家で庇護されていた・足利義維を擁立し、大永七年(1527)に桂川原の戦いで高国を破り京都を奪還する。足利義晴は細川高国を伴い近江に逃れた。・・大永七年(1527)、将軍・足利義晴と細川高国は、朝倉宗滴の支援を受け上洛を果たすが、大永八年(1528)不和から朝倉宗滴が越前に帰国すると、京都は細川晴元と三好元長が奪還した。・・大永八年(1528)7月、三好元長はそれまでの功績により山城守護代に任じられたが、翌享禄二年(1529)には新任の柳本賢治らと折り合いを悪くした為、阿波に逼塞する。・・享禄三年(1530)に柳本賢治が播磨出陣中に暗殺されると、足利義晴と細川高国は、浦上村宗や北畠晴具と連携して京への上洛を果たす。・・享禄四年(1531)、細川晴元は堺公方府防衛のため三好元長を呼び戻し、浦上村宗の軍勢を止めることに成功、摂津中嶋にて戦線は膠着状態となった。 しかし突如、浦上氏の主筋である赤松政祐が細川晴元方に内応し、細川高国・浦上村宗軍を背後から攻撃し為、細川高国と浦上村宗は敗死した。細川晴元と三好元長は京都を奪還した。

木沢長政・三好政長との戦い
天文元年(1532)、仇敵・細川高国を討った細川晴元は足利義晴(十二代将軍)と和解を進めた為、足利義維を庇護してきた三好元長は仲違いを始める。更に畠山義堯の家臣である木沢長政が義堯を飛び越え細川晴元に接近し、元長の従叔父の三好政長も細川晴元に同調する。畠山義堯と元長からは二度に亘って木沢長政の居城の飯盛山城を攻撃したが、晴元の要請により蜂起した一向一揆が背後から元長を襲い、畠山義堯を自刃させ、三好氏の根拠地・和泉顕本寺も襲い、元長も自害に追いまれてしまう(飯盛山城の戦い)。

三好長慶と細川晴元
木沢長政・三好政長との戦い
三好宗家は元長の嫡男である長慶が継ぐことが許されたが、長慶は十歳という幼少のためか三好氏は一時的に後退した。義維も享禄・天文の乱の混乱に乗じた晴元らにより阿波に移され、義晴と和睦した晴元が政権を握り、晴元の側近として三好政長・木沢長政らが台頭した。しかし長慶は長じて智勇兼備の武将に成長し、河内守護代で畿内に強い勢力を誇った遊佐長教の娘を継室に迎え、自らも勢力を本国阿波のみならず摂津へ広げ力を蓄えると、弟の実休や安宅冬康、十河一存らと協力して、天文十一年(1542)、木沢長政ら父の仇の敵勢力を次々と破り、細川家中に父以上の勢力を築き上げた(太平寺の戦い)。・・
天文十八年(1549)、長慶は岳父・遊佐長教の援軍を得た上で細川高国の養子氏綱を擁立、細川晴元に反旗を翻し、晴元の勢力を軍事面で支えていた三好政長を摂津榎並で討ち取った(江口の戦い)。将軍・足利義晴と細川晴元は大津に逃亡し政権が崩壊した結果、長慶は戦国大名として名乗りを上げた。

細川晴元・六角定頼との戦い
天文十九年(1550)5月、足利義晴が死去。その子足利義輝は、六角定頼を烏帽子親として元服していたが、長慶と敵対していた。長慶は足利義輝と戦って近江に追い、畿内や四国と合わせて九ヶ国と播磨、伊予、土佐の一部を支配する大大名にまで成長した。

三好政権
足利義輝・六角定頼との和解
天文二十一年(1552)1月、三好長慶は細川氏綱を管領にするという条件で足利義輝と和睦し、義輝は京に戻った。翌年(1553)義輝は晴元と協力して長慶との戦端を開くも敗退。再び近江朽木へ逃れ、以降五年間をこの地で過ごした。なお、亡命中の同二十三年(1554)2月12日、名を義輝に改めている。・・永禄元年(1558)に長慶は足利義輝と和睦し、幕府相伴衆として十三代将軍・足利義輝を推戴し、足利義輝-細川氏綱-三好長慶という体制に移行した。とはいえ実権は長慶が握っていた。長慶は後に十五代将軍足利義昭を推戴した織田信長と同様に、上洛し都において室町将軍の役割である畿内地域の支配と地方大名の統制を間接的に担った、戦国時代初の天下人といわれる。

三好政権の拠点
三好長慶 (阿波芝生城→摂津越水城→摂津芥川山城→河内飯盛山城)
三好義興 (摂津芥川山城)
三好義継 (河内飯盛山城→河内高屋城→河内若江城)

隆盛と一族の死
長慶は連歌を愛好し禅を好み古典に親しむ風雅の士でもあり、キリシタンに対しても寛容なで、仏教・神道・キリスト教など幅広い宗教を認めた。そのため、仏教内部の対立は沈静化した。また有能な弟達を各所に配置し、大勢力を統治した。応仁の乱以降の長い戦乱で荒廃した都を復興し、堺の町を一大貿易港として整備するなど精力的に活動した。・・しかし、旧勢力の、河内・紀伊の守護で元三管領家の畠山高政、南近江の半国守護で細川晴元の従兄弟の六角義賢らは反三好で兵を構えた。彼等との戦いで、久米田の戦い(岸和田市)で弟の実休を失い、嫡男義興や自身の弟達・十河一存、安宅冬康にも先立たれ、自身も永禄四年(1564)に41歳で死去した。

三好長慶の死後
長慶の死後、三好氏の家督は長慶の甥で養子の三好義継が継いだ。しかし義継は若年で、三好政権は義継の後見人である三好長逸・政康・岩成友通ら三好三人衆と松永久秀による連立政権が樹立された。・・一方、長慶の傀儡の将軍・足利義輝は長慶の死を好機と見て、上杉謙信・武田信玄・朝倉義景など諸大名に上洛を呼びかけ、幕府再建を目指して積極的な活動を行なった。このような義輝の行動に危機感を持った久秀・三好三人衆らは永禄八年(1565)5月19日にクーデターを起こして、義輝を二条城で暗殺(永禄の変)。

内紛・政権崩壊
連立政権内の松永氏の勢力拡大を危険視した三好三人衆は、永禄八年12月、久秀に筒井城を奪われて(筒井城の戦い)放浪中の筒井順慶ら大和の国人衆らと手を結んで大和に侵攻し、久秀を討とうとした。これにより、三人衆と久秀の対立が先鋭化する。また久秀の弟長頼が荻野直正に討ち取られた。・・一方、義輝には弟・覚慶がおり、義輝の旧臣に擁立され、永禄九年(1566)2月に還俗し足利義秋と名乗り、同年4月21日には従五位下・左馬頭に叙位・任官した。これに対し三好三人衆は、阿波公方・足利義維の子の足利義栄を十四代将軍候補として擁立した。義栄は、永禄十年(1567)1月、左馬頭に叙任された。・・三人衆は松永久秀との戦いにおいて、三好家当主・義継を擁し、永禄九年(1566)9月には、阿波・讃岐の軍勢を率いた実休の子三好長治、その重臣篠原長房、三好笑岩、阿波細川家の細川真之、将軍候補・足利義栄も合流し、圧倒的に優勢であった。しかし永禄十年4月、当の義継が突如出奔、松永久秀に保護を求めた。これで久秀方は息を吹き返したしたが、やはり依然として劣勢であった(東大寺大仏殿の戦い)。 三人衆方の篠原長房は、松永方の摂津越水城を奪い、ここを拠点として大和ほか各地に転戦した。この時期の長房について、『フロイス日本史』に「彼ら(三好三人衆)以上に勢力を有し、彼らを管轄せんばかりであったのは篠原殿で、彼は阿波国において絶対的執政」と記されている。
永禄十一年(1568)2月、足利義栄は十四代将軍に就任した。

織田信長との戦い
三好政権内部が内紛中、永禄の変で細川藤孝・一色藤長らの援助を受けて逃亡していた足利義昭は、尾張・美濃の領主・織田信長の援助を受け、永禄十一年(1568)9月に上洛を開始した。・・内紛に明け暮れている三好政権は信長の侵攻を食い止めるため、六角義賢を味方につけて防衛しようとしたが、義賢は信長の侵攻を受けてあえなく敗れさった(観音寺城の戦い)。・・三好義継と松永久秀は信長と通じており、このため三人衆は敗走し、篠原長房も越水城を放棄して阿波へ撤退した。織田信長は上洛を果たし、足利義昭が十五代将軍に就任した。三人衆に擁立されていた足利義栄は9月に逃亡先の阿波で病死。・・永禄十一年(1568)9月、三好三人衆と三好笑岩は、阿波から足利義昭を急襲するが、寸前で失敗(本圀寺の変)。・・元亀元年(1570)7月、三好三人衆・笑岩らが阿波から再び上陸し野田・福島に兵を挙げると、信長はこれを五万の兵で攻めるが、本願寺の協力で、激戦の末信長は撃退され、近江にも戦端が開かれた為、同年9月に信長は撤退する(野田城・福島城の戦い)。この信長の撤退で、篠原長房が再び長治・真之を奉じ阿波・讃岐の兵二万を率いて摂津に上陸、摂津、和泉を席巻するが、信長は朝廷工作を実施し、正親町天皇より「講和斡旋を希望す」という言を得て、11月30日に話し合い、12月14日に和睦が成立し、近江における浅井長政、朝倉義景、六角義賢の撤兵とともに、長房も阿波へ軍を退いた。・・元亀二年(1571)5月には、篠原長房は阿波・讃岐勢を率いて、信長と結ぶ毛利氏の圧迫を受けていた浦上宗景の求めに応じ備前に上陸している(本太城合戦)。・・同年9月にも、長房は阿波・讃岐勢を率い摂津に上陸、荒木村重、中川清秀、松永久秀と共に和田氏の高槻城を包囲している(白井河原の戦い)。・・元亀三年頃には三好三人衆と足利義昭、三好義継、松永久秀が反織田信長で一致、元亀四年には三好家の勢力範囲は淀古城まで達した。

本拠地(阿波・讃岐)の崩壊
しかし元亀四年(1573)5月、篠原長房は主君の三好長治・細川真之により居城の上桜城を攻撃され、抗戦ののち7月に自害してしまう(上桜城の戦い)。これらにより三好家は統率力を喪失、讃岐の国人・香川氏、香西氏を始め、阿波の国人までもが三好家から離反し、本拠地阿波の援軍を得られなくなった三好三人衆・三好笑岩・三好・松永久秀は畿内で孤立してしまう。・・三好三人衆はなおも信長に抵抗したが天正元年末(1573)迄にはそれぞれ敗れ去り(第二次淀古城の戦い)、更には当主・三好義継までもが足利義昭を匿った為同年11月に信長に討たれ(若江城の戦い)、天正二年1月に松永久秀が降伏、天正三年(1575)4月には本願寺の支援を受けていた新堀城の十河一行、香西長信が敗死、高屋城の三好笑岩も降伏(高屋城の戦い)、ここに三好氏は畿内における勢力を完全に失った。
その後、阿波の三好長治は天正五年(1577)長宗我部元親の助力を得た細川真之と阿波荒田野で戦い敗死、長治の死後、讃岐・阿波を領有した十河存保も長宗我部元親の侵攻を受け信長に降った。

その後の三好家
・三好氏の生き残り・三好笑岩は信長の家臣となり、河内の一部に所領を与えられた。
・十河存保も豊臣秀吉に仕えて讃岐に所領を与えられ、家名は存続。しかし存保は天正十四年(1586)、戸次川の戦いで戦死、嫡男十河千松丸も秀吉謁見後に毒殺され、改易。
・笑岩は秀吉の甥・豊臣秀次を養子に迎えたが、縁組は解消され、以降消息不明。
・笑岩の家臣・三好房一も秀吉に仕え、関ヶ原の戦いの後は江戸幕府の旗本となり二千三百石を領したが嗣子なく廃絶。
・元和元年(1615)存保の遺児・十河存英や三好政康は大坂夏の陣で戦死。
・政康の弟・三好政勝は徳川氏に仕え、子孫も旗本として存続。
・・香川県に伝わる伝承・・本流である三好義継の嫡男義兼、次男義茂の兄弟は讃岐国伊吹島に逃れ、土着。義兼の孫・義浄は生駒氏より政所のお墨付きを授かり、代々作右衛門を名乗ったという。伊吹島の伊吹八幡神社には今も八十騎まで減った義兼主従が伊吹島に辿りつき、神宮に誓文を奉げている絵馬が残されている。