研究ノート 「保科家と内藤家との関係」
第一章:内藤・工藤家の歴史
まず、内藤家の歴史を辿る。内藤を名乗る前は工藤氏。
工藤虎豊:1495~1537:明応四年(1495)生まれ。工藤祐包の長男。:工藤祐英ともいう。
武田信虎に「虎」の一字を賜った股肱の臣。 工藤氏は鎌倉時代から甲斐の名族であり、甲斐国巨摩郡と西郡から信濃国伊那郡の一部に及ぶ大草郷を支配する地頭であったという。
・・・信濃国伊那郡の一部に及ぶ大草郷を支配する地頭 大草郷(=中川村)
・・・この部分については、同族別流の工藤氏と思われる。犬吠丸伝承(曽我物語)と繋げるのは、飛躍と思われる。
伝承1 ・「犬吠丸・駿河の狩場で、仇である工藤祐経を討ち果たした曽我時政はその場で捕らえられ、源頼朝の前に引き出されました。それを工藤祐経の息子の犬房丸(いぬぼうまる)が、父親を殺された怒りのあまりに扇子で曽我時政の顔を叩いたので、源頼朝が「武士として縛られている者を殴るとはなにごとか」と犬房丸を怒り信濃国の伊那に流してしまいました。犬房丸はそのまま伊那の狐島に住みつき、春近郷に領地をもらい、善政を行ったといわれています。それによって後に執権北条泰時に流刑を許されました。」
伝承2 ・「伊那春近領における犬房丸の伝説 ・・・ 源頼朝の家臣工藤祐経の子「幼名 犬房丸(工藤 祐時)」は伊那春近領に流罪になりました。犬房丸が流罪になる以前から工藤氏は小出(小井弖)に住み着いており、犬房丸はこの工藤氏の一族だから保護されました。先に住み着いた工藤氏一族は後に地名の小出(小井弖)氏を名乗りました。犬房丸を含めこの一統は地名の唐木(とうのき)の唐木(棠木)氏を名乗ったといわれます。
史学博士井原今朝男教授は「伊那春近領政所長官の池上氏・小出を治めた工藤(小井弖)氏・伊東氏(紋は庵に木瓜)などの関わりが犬房丸の伝承に繋がったのではないか」と言われています。犬房丸祐時に関する吾妻鏡の記載と伊那に伝わる内容に大きな違いがみられます。井原教授がいわれるように、政所の長官の池上氏を背景に勢力を伸ばした工藤(小井弖)氏などとの結びつきの中で犬房丸の伝説が形成されたものとも考えられます。
この「工藤氏供養塔」や「曾我物」の普及が影響し、500年経って、18世紀以後いわゆる「犬房丸伝説」(伊那温知集1740・伊奈郷村鑑1740?・新著聞集1749・狐島神社記1875・など)として多くの記録が作成されました。 ・・・伝聞に基づき信頼性が薄い。
・・・『吾妻鑑』には治承四年(1160)8月25日、平家の将俣野景久と駿河目代橘遠茂を富士裾野で迎え撃った甲斐武田勢があったと記し 「安田義定、工藤景光、工藤行光、市川行房ら甲州より発向云云」とある。これにより、大草郷の地頭が工藤景光であったことが明らかとなっている。・・・ 工藤守岡、工藤光長父子が武田信昌に仕えており、工藤光長の長男工藤祐包、次男工藤昌祐も武田信昌、武田信縄に重く用いられた。 工藤祐包の長男工藤虎豊は武田信虎の重臣として、名を馳せた。 また武田信縄の近侍として工藤昌祐や工藤祐久の名が『一蓮寺過去帳』に記されている。・・・しかし、工藤虎豊は『武田三代記』によれば天文六年(1537)に武田信虎の駿河出兵について直諫したことで、内藤虎資とともに誅殺されたという。 武田家中で重臣として仕えてきた工藤氏は、甲斐を出奔し名跡が絶える。 永正四年(1507)から起こった武田信虎と油川信恵の家督争い(油川氏の乱)では、工藤氏は一貫して油川氏に味方しており、 永正五年(1508)10月に笛吹市境川で行われた坊ヶ峰合戦や12月に都留郡で行われた境小山田合戦などで相次いで敗れた工藤氏は、 小山田氏とともに伊豆へ逃亡し韮山城の伊勢盛時に出仕した者もいたという。 跡絶えていた工藤氏であったが、武田晴信の代になって天文十五年(1546)には、工藤祐元や工藤祐長(内藤昌豊)兄弟は甲斐へ呼び戻され、工藤氏再興がはたされた。 ・・・1160年頃から1507年頃へ、一挙に飛び越えている。後年に作られた物語 ・・・
鎌倉時代から甲斐・武田家の家臣になるまでの工藤家(宮藤表記も含めて)は、上記に一部の記述が歴史書に散見できるが、他にも下伊那・豊岡村林の地頭や佐久地方に、犬吠丸伝承に関連した痕跡が残るが、いずれも甲斐・工藤家に繋がるとは断定できない。武田信虎以降の、信虎反抗後の誅殺と係累の伊豆への逃亡については、証拠立てが整っているので、事実のことと認定が出来そうである。
ただ、甲斐・内藤・工藤家は、”祐”の通字を使っているところから、犬吠丸・工藤家を自認していた、と思われる。
第二章:保科正光は、誰の子?
寛政譜によれば ・・・
保科正光は、父を保科正直、母を跡部女(ムスメ)の子、とある。
本当であろうか?
保科家と跡部家(勝頼の重臣)の関係は、寛政譜の系譜のみで他に検出できない。僅かに、高遠城落城(=織田攻め)の時殉死の記録が残るのみである。その後の権力を取り戻した後の保科家からの供養のフォローの跡が見られないのである。
別の保科家の系図上に
「保科正光正直子工藤祐元?子」の記述が残る ・・・小笠原家(文書)
これは、一体何であろうか?
工藤祐元とは、武田信虎に反抗して誅された工藤虎豊の子・工藤兄弟の兄の方である。ちなみに弟は工藤祐長で、後の内藤昌豊のことである。信虎を追放した信玄が、信虎に追われた工藤兄弟を甲斐に呼び戻したのが1546年のこと、信玄は、兄・祐元に工藤家を再興させ、弟・祐長に、空いていた”内藤家”を継がせた、と見て良い。
注目は、この時期であるが、高遠・諏訪頼継の高遠城が落ち、高遠城の筆頭家老・保科正俊が、高遠城の城代になり、武田晴信の家臣になっている時期と重なる。
この時、・・・正直この時5歳。
関係者年譜
正直は天文十一年(1542)- 慶長六年 (1601)、正俊の子。
正光は永禄四年 (1561)- 寛永八年 (1631)。
昌月は天文十九年(1550)- 天正十六年(1588)、別名:千次郎(幼名)
官位:修理亮・大和守 主君:武田勝頼→織田信長→北条氏直 氏族:保科→内藤
父母:父・保科正俊、母・小河内美作守?の娘 養父:内藤昌豊(実父説あり)
○内藤昌豊は、工藤祐長と名乗って相模・伊豆を放浪していたが、武田信玄に呼び戻されて、兄・祐元が甲斐・工藤家を継ぎ、弟・祐長は、空位になっていた甲斐の名跡内藤家を継ぎ、内藤昌豊/昌秀と改名した。
・内藤昌豊 大永二年(1522)- 天正三年(1575)
・別名:工藤祐長、工藤源左衛門、内藤修理亮、官位 修理亮
・戒名:善竜院泰山常安居士、墓所:高崎市箕郷町生原
・主君:武田信玄、武田勝頼 氏族:藤原南家工藤氏
・父母 父:工藤虎豊 兄弟 工藤昌祐、内藤昌豊 子 昌月、昌弘
○工藤昌祐は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣。内藤昌豊(昌秀)の実兄。
・工藤昌祐 永正十七年(1520)- 天正十年(1582)
・別名:工藤祐元、工藤長門守、官位:長門守
・主君:武田晴信、武田勝頼、徳川家康 氏族:藤原南家工藤氏
・父母 父:工藤虎豊 兄弟 工藤昌祐、内藤昌豊 子 工藤祐久
参照:小笠原家
www.geocities.jp/kawabemasatake/ogasawa.html
正利正知子光利子?正尚弾正易正?
正則正利子易正子?弾正筑前仕高遠頼継
正俊15091593正則子弾正筑前「槍弾正」
正直15421601正俊子弾正
正光15611631正直子工藤祐元子?甚四郎肥後
正貞15881661正光嗣正直子甚四郎弾正
この保科家と内藤・工藤家の関係者年譜を眺めていると、不思議な感慨を覚える。恐らく、保科正俊の、信玄の家臣時代に、ほとんど同時に武田家へ仕えるようになった両家の親密な交流の跡が、鮮明に浮かび上がってくるように思える。
理由は二つ ・・・
・正光正直子工藤祐元子?甚四郎肥後 ・・・1
・千次郎(=昌月)、内藤昌豊を継ぐ ・・・2
・・ 保科正直の正妻は、工藤祐元(=昌祐)の女(ムスメ)。
・・ 保科千次郎(=昌月)は、工藤(=内藤)昌豊(=祐長)の実子で、保科正俊の養子。
上記二点は、可能性とか疑いの問題である。
ただ、こうした推論の方が、保科千次郎が内藤家に養子に入って内藤昌月になった理由が、唐突感が無く筋道が立つのである。
参考:内藤昌豊
内藤昌豊は、戦国時代の武将。武田氏の家臣。武田四天王の一人。
・・・ 武略に長け、武田信繁と共に武田の副将格として評された。『甲陽軍鑑』にも、山県昌景が昌豊のことを「古典厩信繁、内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり」と評したと記している。
・・・ 甲陽の四名臣とは、信玄が最も信頼した四人、馬場信房・高坂昌信・内藤昌豊・山県昌景の四人で、信玄は軍議には必ずこの四人を呼び、意見を求めたといわれています。
・・・・「馬場信房は戦いの手段を進言し、山県昌景は出陣の機を進言し、内藤昌豊はどこに出陣したらよいかを進言し、高坂昌信は敵国への謀略と、戦いの延期が必要な場合、これを進言する」と「甲陽軍鑑」などでは言われています。・・内藤昌豊はどちらかといえば知将の武将で、戦でも知略を用いて働いていたといわれています。また性格も温厚で公明正大であり、部下達からも慕われていたと伝えられています。
武田勝頼は、武田氏の正嫡である武田義信が廃嫡されると継嗣となり、元亀4年(1573年)には信玄の死により家督を相続する。
・・・ 勝頼の、武田家惣領の相続の際に、内藤昌豊の興味深い話が伝承する。信玄から勝頼への相続の時、習わしには、「先代・信玄公にお仕えしたと同様の奉公を、相続の勝頼公にも勤める」という誓詞差し出すのが、武士の世の常といわれるようだ。しかし、何時になっても、内藤昌豊は誓詞を差し出そうとしなかったそうだ。しびれを切らした勝頼は、逆に、主君の勝頼から、部下の内藤昌豊に誓詞を出すとまで言って、内藤昌豊を、武田勝頼軍団の重責に引き入れようとしたらしい。この時の交換条件が、保科正俊の子・千次郎の嫡流予定の養子の件であったそうだ。 ・・・
この話を読んだ時の疑念が、前述の”保科家と内藤・工藤家”との親密性の憶測に繋がっていることを否定するつもりはない。保科正俊の子・千次郎は、幼い時から”勝頼"の小姓を勤め、英才は勝頼以下の主従に認められていたと記録に残る。
この時の、主従関係拒否の内藤昌豊の心中は、信玄への”恩義に報い終えた”という達成感と、”信玄と比べた勝頼の危うさ”を感じて、武田家への臣を終わらせたかったのではないだろうか ・・・と推測する。勝頼に乞われて、また主従する時、”危うさ”を滅亡への道と自覚し、内藤家の将来と託す人物として、千次郎(=昌月)を指名したと読むのは、深読みのしすぎだろうか。千次郎が、”昌豊の実子”説が根強く残るのは、保科家との関係が、そのような交流を前提とするような交流だったのではないかと ・・・
保科正俊は、信玄の没後に引退し、正直に家督を譲っている。この時の正俊の年齢は65歳前後、当然引退をしておかしくはない。そして、奇妙に内藤昌豊が引退を考えた時期を同じくする。しかし、正俊は引退を許されて、52歳頃の昌豊は、それが許されなかった。
上記の前提を是とすると、保科正直の正妻・跡部美作守の女(ムスメ)はどうも納得がいかない。
保科家の正則、正俊、正直、正光の各世代の特徴は、各種文書を読むと、保科家本流・支流を合流させて、その団結の上に、保科家を団結して強い絆を築いているように見える。正光と正妻の実家・真田家との関係も、決して悪くない。
それなのに、甲斐の名門・跡部家との縁の欠片も見えてこない。これはどういうことなのであろうか?
第三章 保科正直の母は誰?
赤羽記付録によると、
・父正俊母小河内美作女、生死年月法名不詳、武田家之○下信州高遠城主、武田家亡後正光奉仕東照宮之摂州、大阪役後賜禄三万石主信州伊奈郡高遠城・
保科正直の父母についての記載は、上記「赤羽記付録」で、父・正俊、母・小河内美作守女(ムスメ)との記述がある。併せて、寛政譜の記載も、同一内容である。
しかして、これが定説となり一般に流布しているのが現状である。
果たしてそうであろうか?
父親については、疑問を差し挟む余地は、余りなさそうである。
母親については、いささか疑問がある。
小河内美作守について、かなり念入りに調べたことがあるが見つからなかった。
小河内の人名はないが、地名はあるかと調べると、確かに北箕輪に”小河内”という地名が存在する。この地は、正俊の時代には、藤沢頼親の領域であり、保科正俊と敵対関係であったわけでもないので、可能性はあるが。美作守の官名がどうも引っかかる。”守”を名乗るのは、従五位下の官位の官名で、自称していたにしても小豪族を意味する。しかし、藤沢頼親といえど、官名を戴くまでにはいたっていないので、部下が従五位下で美作守を自称するのは、矛盾と考える。
信玄に臣下する前は、保科正俊は、高遠・諏訪頼継の筆頭家老であった。高遠・頼継の組下で”美作守”を探すと、溝口長友が美作守を名乗っていたことが記録に残る。溝口家は、高遠一揆衆を構成する、高遠・諏訪頼継の構成メンバー。さらに、溝口は、藤沢・黒河内という諏訪神領の、黒河内の中心地。
記録では、武田の伊那侵攻の時、親族の小笠原信定が危機にさらされていて、援軍のため、溝口長友は、長谷・溝口を棄て、信定の軍に参軍している。
この棄てられた長谷・溝口城を継いだのが保科正慶で、溝口を継承してから、溝口正慶を名乗っている。
この溝口(=保科)正慶は、正俊の子であるという伝承は、長谷・溝口に残っている。
・・・ 「天文年間に保科弾正忠正辰の次男である溝口民部正慶が初めてここに住んだ。正慶は弘治二年(1556)に武田晴信が伊那に乱入した際に、信玄に従わなかったので捕えられて狐島で殺された。」 (長野県の武田信玄伝説より) ・・・溝口城
・・・ *正辰の読み方 たつ、しん、とき、よし 正辰と正俊は同一人物かどうか?
蕗原拾葉「高遠治乱記」に拠れば、、保科正俊が「入り乱れた保科家家系を整理した」とあるのは、武田晴信の臣になった時で、小笠原の別流支族の溝口美作守が、正俊の妻・正直の父ではまずかろうということで、「架空」の小河内美作守をでっち上げたのでは無かろうか、と推測する。そうでなければ、辻褄が合わない。 ・・・同様の書き換えは、正光が、将軍の弟・正之を養子にする時、既に養子にしていた”左源太”の存在を抹消している。左源太は、正光の叔母・父正直の妹の子 ・・・生坂村・大日向源太左衛門の子であった。保科家の家譜には、「松本・小日向源太左衛門」の記録が残るが、恐らく意図的な書き換えであろう。保科正俊が若い頃、・・・松本・小日向は、小笠原・林城に近く、小笠原の別家筋・赤沢氏の出城のあったところ ・・・松本・小日向に、それらしい豪族が存在したことは、歴史書から確認出来ない。戦国の時代の、松本の地名は、府中もしくは深志であり、広域では安曇・筑摩(安築)と呼ばれていた。松本と呼ばれるようになったのは、戦国後期からで、「高遠治乱記」が書かれた時代でもある。正俊が生きた時代から、およそ二百年後の著作である。
*松本城 ・・小笠原正慶が1578年頃府中に復帰し、それまでの深志城を、松本城と改めた。以後、府中とか深志とか呼ばれていたこの地は、松本という名前で呼ばれるようになった。厳密には江戸時代少し前からだが、松本の名前が浸透するのは江戸時代からである。
内藤昌月(千次郎)は裕元の子である可能性はあると思っています。
工藤祐長の子である可能性も少しはあると思っています。
ですが、いずれも推論です。
確認出来る史実は・・・
1:工藤兄弟の武田家帰参が叶った時の諏訪郡代(1545-1546)は板垣信友。
・・信玄が高遠・諏訪頼継を攻め滅ぼして、諏訪・高遠を手中に収めて、諏訪郡代に板垣信友を置き、その板垣が追放されていた工藤虎豊の末裔の工藤祐長・祐元兄弟を見つけ出して、信玄に取り次いで、、ということ。
2:諏訪に隣接する小出(伊那)は犬房丸の系譜の工藤一族の同族が住んでた。
3:工藤兄弟と保科正俊は、旧知の仲、信玄・勝頼時代、保科家と工藤家は親戚付き合いだった。
ここからは推論ですが、板垣信友が諏訪郡代の時に工藤兄弟を見つけたとするなら、諏訪郡代のテリトリーの範囲に、工藤兄弟が閉塞していたとすることは極めて合理的な推論の範囲です。まして、保科家と工藤家が近在であるとすると、ほぼ同時に(1546)信玄の家臣になるわけですが、工藤家は譜代に、保科家は先方衆に分かれます。信玄の譜代になるには、もしあれば信玄に敵対的な係累の整理が必要になります。ここで気心の知れた正俊に相談したかも知れません。・・工藤兄弟の嫁さんの関係?
資料が残ってない以上想像の域を出ませんが、状況証拠的には、昌月を養子に迎えるなど充分成り立つ推論と考えます。
学問的には、この推論は当たっていて、資料がないので担保されないのですが・
1) 解説によると、工藤兄弟は伊那の工藤氏を頼って伊那に行ったのではなく、藤沢・山室・芝平辺りの代官だった保科家と大草郷の工藤家は領地を接し、以前から面識があったので保科家を頼って伊那を訪れたのか?正俊は、この地で彼らとの親交を深め、ある程度の庇護したのか?
2) 工藤兄弟が甲斐を出奔したのは、1536年、昌豊14歳、祐元21歳、正俊26歳、このあと3人が出会っていたとしたら何歳の時に出会ったのか?昌豊は、この時、元服していたのか、祐元は結婚し子供はいたのか、正俊の家庭はどうであったのか?
3) 「保科正光正直子工藤祐元?子」これは、正光が祐元の子なのか、正直が祐元の子なのか、それとも祐元の娘が正直の正室ないし側室になったという事なのか?昌月が昌豊の子だとすると昌月は昌豊が28歳の時の子、どういった状況で養子に出したのか?祐元や昌豊は世話になった正俊に対し、その恩義に報いるべく、自分の息子や娘を養子ないし妻として正俊に預けたのか?逆に保科家所縁の娘が、祐元や昌豊の正室ないし側室になった可能性はあるのか?
4) 正俊や高遠一揆衆は、高遠頼継が敗れたのち領地を安堵され武田晴信に臣従したのか、それとも諏訪の惣領を望む高遠頼継をある時期から見限り、自ら晴信に臣従したのか?
5) 正俊は武田家の家臣になったのち、諏訪郡代の板垣信友に工藤兄弟の存在を話し、帰参を進言したのか?
以上のようなことが、私の中での工藤兄弟と保科正俊との関係性の中で見えてくる疑問点なのですが、歴史的事実というよりは、この地の事を長く研究してこられた氏の所見をお伺いしたいと思います。ご自身の研究でお忙しいと思いますが、手の空いたときにでも押田氏の見解をお書きしていただけたら嬉しく思います。