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伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

松尾小笠原宗家の創立まで  第五話

2016-01-14 16:59:10 | 歴史

松尾小笠原宗家の創立まで  第五話

承久の乱(1221)以後の小笠原家

まず、小笠原長清をはじめとする一族の事跡と恩賞・官名などから確認してみます。何が浮かび上がってくるのでしょうか?

少し前・加賀美遠光から・・・「吾妻鏡」より拾う
・治承四(1180)年、源頼朝が挙兵した少し後、信濃国は、加賀美遠光が名国司(信濃守)だったが、「実際の国務は目代である比企能員が沙汰しており、信濃国守護も兼務していた」と記録に残ります。”目代”よりも”国司”の方が立場は上ですが、実務は比企能員で、加賀美遠光(小笠原長清の父)は名誉職だったようです。
・治承四(1180)年、加々美次郎長清:富士川の戦い。長清、頼朝の黄瀬川本陣へ。
・治承四(1180)年、加々美次郎長清:頼朝の鎌倉大倉邸に移転する際随行。
・治承四(1180)年、加々美次郎長清:平知盛の家臣・右馬の允橘の公長、子息公忠、公成が鎌倉に投降。 長清が知盛に仕えていた好みで執り成しで鎌倉御家にする。
・養和元年、加々美次郎長清:頼朝の仲介で、上総の権の介廣常の聟と為る。
・元暦元(1184)年、小笠原次郎長清:「故志水の冠者義高の伴類等、甲斐、信濃等の国に隠居せしめ、叛逆を起こさんと 擬するの由風聞するの間、軍兵を遣わし征罰を加えらるべきの由その沙汰あり。 足利の冠者義兼、小笠原の次郎長清御家人等を相伴い、甲斐の国に発向すべし。」・・・高倉天皇より「小笠原姓」を賜り、以後「小笠原」を名乗る
・元暦二(1185)年、小笠原長清が頼朝挙兵に味方した恩賞で、父・遠光の信濃守の官名を継承します。
*元暦二(1185)年、源頼朝の推挙で、信濃守に補任された。ここより、信濃に勢力を浸透させていくこととなる。
・元暦二(1185)年、平家追討の際、「武田(石和)信光と小笠原長清を 誉めている」。逆に、「長清の兄・秋山光朝は敵視されている」。・・・頼朝が弟範頼に出した手紙
・文治元(1185)年、頼朝、全国に守護・地頭を設置:この時期に、長清も信濃国・伴野庄の地頭になった。(伴野庄は伊那・伴野庄と比定。佐久・伴野庄は平賀氏の所有)
・文治二(1186)年、小笠原二郎長清:伴野庄地頭・長清の年貢滞納がしばしばある云々。
・文治四(1188)年、小笠原次郎:伴野庄の年貢の滞納の弁償を申し付けられる。
・文治五(1189)年、小笠原次郎長清:奥州藤原氏征伐に遠光、光行、長経?と参加
・建久五(1194)年、小笠原次郎長清:小山朝政家に随行。弓馬の故実・家説を論ず。
・建久七年~建久九年:吾妻鑑の全文欠文。
・正治元年:頼朝:落馬にて死去。頼家、征夷大将軍に。
・建久十年~建暦三年:この間(14年間)長清に関する記述は無い。
 ・・・
 ①上記までの吾妻鑑の記述でわかるように、信頼を得ていた頼朝の死。
 ②梶原景時の謀反事件(1200年)と長清の従兄弟・武田(逸見)有義 の関連。
 ③二代将軍・頼家の側近となった長清の嫡男・長経、および比企の乱(1203)との関係。
・建保元年、小笠原次郎兵衛長清:将軍(実朝)新御所へ移る時の随行。
・承久元(1218)年、小笠原長清:実朝が右大臣に任じられ、鶴岡八幡宮に参拝の随行。
この時、公暁により実朝は暗殺される。
・承久三(1221)年、小笠原長清:承久の乱において、東山道五万騎の大将軍として。
・承久三(1221)年、小笠原長清:大井戸の渡しを渡り、官軍と戦う。
・承久三(1221)年、小笠原長清:宇治の合戦で、敵を打った武将の名前として。
・承久三(1221)年、小笠原長清:乱に関与した公家の権中納言源有雅を預かる。
・承久三(1221)年、小笠原長清:公家の権中納言源有雅を預かって甲斐国に下着した長清は、有雅が二位の尼(北条政子)へ送った助命嘆願の返事を待たず、処刑する。
・・・承久三年七月を境に、長清は吾妻鑑から姿を消す。
・・・有雅卿を処刑した事に対し、吾妻鑑には、「粗忽のていたらく、定めて亡魂の恨み有るものか」・これは、有雅卿の北条政子へ助命嘆願の結果を待たずに処刑した長清を責めているものである。
しかし、乱の関係者の処刑は、
  1221/07/03、遠山景朝が参議藤原信能を、
  1221/07/12、武田信光が按察卿葉室光親を、
  1221/07/14、小山朝長が権中納言藤原宗行を、
  1221/07/18、北条朝時が藤原範茂を
  ・・・処刑している事に比べれば、むしろ遅いほうである。
長清を責める文面は吾妻鑑の編者の思惑からか・長清が処罰された事実な無い。

「尊卑分脈」から小笠原長清の生涯を辿る

承久の乱の後、長清は阿波国守護に任命された。従って一旦は阿波国への移住、活躍の場が鎌倉から離れます。小笠原長清は、官位も累進し、正四位下、信濃守、豆・相・甲・遠・淡・五カ国の管領となり、後に信濃・阿波両国の太守になった、と記されています。

五カ国は ・・・
 ・豆:伊豆、・相:相模、・甲:甲斐、・遠:遠江、・淡:淡路
のことでしょうか?

阿波国守護
阿波は守護ですが、信濃は信濃守・地頭だと思われます。
承久の乱の恩賞は、息子たちにも、長清とは別口で与えられています。
・小笠原(赤沢)清径は山城国、
・小笠原(伴野)時長には佐久・伴野庄、
・小笠原(大井)朝光には佐久・大井庄です。
  ・・(別説には、次男清経が、山城ではなく、伊豆国赤沢郷を本貫として赤沢氏を称したのに始まる、という説もありますが定かではありません)。
・阿波国守護は長清ですが、阿波国内の荘園地頭は長男・長径と孫・長忠、あるいは長径を”守護代”していたと考えるのが妥当だと思われます。
  ・・そしてすぐ、長清は阿波国と伊那・伴野と甲斐・小笠原領を子息(長径・他)に継承してから隠棲し、京に居住したものと思われます。

弓馬の礼
”弓馬の礼”を創った祖が長清ですから、”流儀”を完成させるのには時間が必要になります。戦役に明け暮れするそれまでの長清の人生ではそんな時間が取れませんでした。「承久の乱」の時に小笠原長清は齢六十歳でした。八十一歳で生涯を終えるまで約二十年間は”弓馬の礼”の流儀の奥義の完成に心血を注いだのだろうと思われます。仁治三(1242)年、長清は京都にて没(81歳)、京都・長清寺(東山の清水坂)に埋葬。その京・長清寺は戦乱に焼けて今はありません。
”弓馬の礼”の奥義は、小笠原長径に引き継がれます。ここで小笠原家に、武家という顔とは別の武家のたしなみとか礼儀とか弓馬の儀礼式の・「弓馬の礼」の宗家の骨格が出来上がります。これにより小笠原家は、武家の中で儀礼を先導するようになり、時には天皇や将軍の教授になり、「別格」として扱われるようになります。
住居としては、守護や地頭として自分の領国のほかに、京都の居を構え、絶えず権力者の近在に存在する、まことに異質の武家に育っていくのです。
これが、松尾小笠原家の源流です。

*気になるのは、伊豆守、信濃守などの”守”という官名は、鎌倉初期の頃は、まだ官名詐称の習慣や乱発もなく、意外に冠の国と関係することが多かったようで、赤沢清径伊豆守は伊豆に関係しているのかもしれません。

長経は正治二(1200)年九月二日条に・・・「小笠原阿波弥太郎」と載せ、 また貞応二(1223)年五月、土御門院を土佐より阿波に遷し奉る条に 「阿波守護小笠原弥太郎長経」とあり。「土御門院土佐の国より阿波の国に遷御有るべきの間、祇侯人数の事これを尋ね承り、注進すべきの旨、阿波守護小笠原の彌太郎長経の許に仰せ遣わさる。四月二十日御迎えの為すでに人を土州に進せをはんぬるの由、長経言上する所なり。今日若君息災の御祈祷等、内外共これを行わると。」・・・
また、当国小笠原氏の事は尊卑分脈に、・・・「長経─ 長房(阿波守、右兵衛佐、小笠原太郎、阿波守護、法名長心)」・・・とあります。貞応二(1223)年には、内外とも、小笠原長径が、阿波国で”守護”を勤めていたことが裏づけられています。また、「承久中佐々木氏の族・官軍に応ぜしにより、長経これと戦いて勝ち、また元仁二(1225)年?殖庄預所長清と相論せし事チエ条にいえり。」の文も見え、承久から元仁の年間は、小笠原長径が、阿波国守護であったことが確認できそうです。



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