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伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

松尾小笠原宗家の創立まで  第四話

2016-01-11 12:25:28 | 歴史

松尾小笠原宗家の創立まで  第四話

伴野庄と佐久の豪族・平賀一族

・「吾妻鑑」文治二(1186)年に、信濃国伴野庄地頭として長清の名がみえている。・
この伴野庄は、信濃・伊那の伴野庄か、信濃・佐久の伴野庄かを別の角度で検証します。

それは、平安末期に、信濃・佐久郷に、豪族として君臨した「平賀一族」の歴史の検証になります

佐久の豪族・平賀一族

信濃・佐久郷(伴野庄、大井庄)は、平安末期から平賀一族が所有していました。平賀一族は、源義光流(森羅?新羅三郎)で、甲斐の武田・小笠原家とは同根の別流になります。

平賀義信(1143~1207)、源盛義の子
信濃佐久郡の豪族。「平治の乱」(1159)に源義朝に従い軍功。武蔵を巡り畠山氏と対立。
室:比企ノ尼の娘。子息:隆信(平賀[大内]惟義)、朝信。
官名:美濃守護(1185-1186〉、別名:大内四郎・武蔵守・入道・義宣。

平賀(大内)惟義 (*~1220*)、平賀義信の子。
伊賀国大内荘を領する。源義経の平氏追討軍に参加。「一ノ谷の合戦」に軍功。伊勢羽鳥山に志田義広を追撃する。
文治元(1185)年に頼朝の推薦で後白河院から相模守を拝領。
文治五(1189)年の「奥州征伐」に従軍。建久元(1190)年に頼朝と共に上洛。主に在京し京都の治安維持にあたる。
母:小早川遠平の娘か。藤原秀宗の妹婿。子:惟信、惟親、家信、惟家、義海。
官名:美濃守護(1187-1195〉、別名:大内・冠者・相模守。美濃守護、伊勢・伊賀守護。

平賀朝雅(*~1205)、平賀義信の次男。
佐久の豪族。武蔵を巡り畠山氏と抗争。1205年将軍職を望み、山内首藤通基により討伐。
室:北条時政の娘(北条時政の後妻・牧の方の娘婿)。
官名:京都守護、武蔵守、右衛門佐、別名:朝政。信濃源氏。新羅義光系。

平賀(大内)惟信、大内惟義の嫡男。
鎌倉前期の武将。鎌倉幕府御家人。清和源氏義光流。母:藤原秀宗の妹。
・・・
・元久二(1205)年に叔父の平賀朝雅が牧氏事件に連座して誅された後、朝雅の有していた伊賀・伊勢の守護を継承し、在京御家人として京の都の治安維持などにあたった。帯刀長、検非違使に任じられ、南都神木入洛を防いだり、延暦寺との合戦で焼失した園城寺の造営を奉行するなど重要な役割を果たした。建保七(1219)年に三代将軍源実朝が暗殺された後、父惟義から惟信へ家督が譲られたと見られ、惟義の美濃国の守護も引き継いだ。
承久三(1221)年の承久の乱では後鳥羽上皇方に付いて伊賀光季の襲撃に加わり、子息の惟忠と共に東海道大井戸渡の守りについて幕府軍と対峙した。敗北後、逃亡して十年近く潜伏を続け、法師として日吉八王子の庵室に潜んでいた所を探知され、寛喜二(1230)年12月、武家からの申し入れによって比叡山の悪僧に捕らえられて引き渡された。捕縛の際、力は強いが刀は抜かなかったという。(『明月記』)。その後一命は許されて西国へ配流となった。・・・江戸時代に、天才・奇才の博学として名をはせた平賀源内は四国が出自と聞くが、繋がっているのかも知れない。
承久三(1221)年の承久の乱で敗北した佐久の豪族・平賀一族は、この時点で没落し、所領の伊賀、美濃、信濃佐久は、幕府に没収されて、信濃佐久の権益は、小笠原一族の伴野氏と大井氏に移ったと見られる。 ・・・

平賀一族の経歴と姻戚関係を視野に入れて、当時の政治情勢を思い浮かべてみると、源実朝の亡き後に、将軍を狙ったことと考え合わせると、平賀氏の扱いがあまりにも軽い気がするのですが、平賀氏が「承久の乱」で朝廷側に味方したことから、北条氏の”ポチ”であった「吾妻鏡」編纂者の意図的な”軽視”に思えてなりません。



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