探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

匝瑳の善龍寺?(茂林寺 4) (転記4)

2019-08-19 14:29:17 | 歴史

匝瑳の善龍寺?

 

「正則の法名祥雲院殿は正則が下総で創建したという祥雲山善龍寺に拠るのであろう」---・実は、この文章に惑わされた。

 

 匝瑳に、「祥雲山善龍寺」は、いまあるのか?あるいは過去にはあったのか?

実は、今回の匝瑳での調査はこれが目的であった。「今あるのか?」は、ネット社会なっており調査は容易であり、結論は「なし」である。
問題は、過去には、匝瑳という土地及び周辺に「善龍寺」という寺院が存在したかどうかであるのだが、付近を聞き及んだ限りにおいて、存在した事実は確認できなかった。


さらに深堀する・・
寺院の創設には、開山と開基を必要とする。開山は「僧侶」で、開基は仏閣設立の費用を賄うスポンサーがいることが前提となる。まれに、開山の僧侶が仏閣創設の費用を捻出場合もあることはあるが極めて稀である。
この場合の開山は、寺の名前が「善龍寺」であることから、「廣琳荊室」であることに疑問を挟む余地はほとんどない。


しかして、開基であるが、・・・
ここで、多胡時代の「保科家」の履歴を時系列に羅列してみる・


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・1590年(天正18年):徳川家康の関東入封に従い、信濃:高遠城主保科正直が下総国多胡へ1万石で移籍。
・1591年(天正19年):正直、九戸政実の乱鎮圧に出兵・
          :(保科正則(天正19年9月3日)死去
・1592年(天正20年:文禄元年):正直、正光、秀吉の朝鮮出兵の後詰として肥後名護屋城へ出陣(--・文禄の役)。
・同年、正直病気のため「正光」へ相続。保科正光が保科家の当主となる。
・1593年(文禄2年):朝鮮出兵・休戦
          :京極高知信濃飯田城城主・箕輪(高遠城管理)
          :保科正俊( 文禄2年8月6日(1593年9月1日))死去
・1595年(文禄4年):豊臣秀次切腹事件・
          :木曽義昌が下総網戸において死去・
          :小笠原貞慶が下総古河において死去・
・1597年(慶長2年):再び朝鮮出兵が開始(慶長の役)・
・1598年(慶長3年):豊臣秀吉死去・
          :慶長の役終結・
・1600年(慶長5年):家康・上杉景勝の会津征伐へ進軍・正光も参加
          :関ケ原の合戦」へと続く・
          :保科正光 関ケ原の戦いの時、遠江浜松城を守備・
          :保科正光 越前北之庄城に城番・
          :保科正光 高遠城に復帰(2万5千石
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香取:樹林寺


さて、保科の多胡藩時代の城主は天正18年から数年「正直」であったが、相続以後の多胡藩はほとんど「正光」であったことがわかる。
しかもである、騒乱の最中・激動の10年間のほとんどを、「正光」は、家康の忠臣として、城主は領国を留守にしていたわけである。

この時留守を預かり多古の民政をおこなった保科家臣は、家老北原采女佐(光次)、篠田半左衛門(隆吉)、一ノ瀬勘兵衛らだったようだ。
病身で隠居した「保科正直」は、香取の「樹林寺」を祈願寺としていた記録が残り、高遠帰還の時は兄弟寺として樹林寺も連れ帰った。

臨済宗妙心寺派の宗派は高遠戻った時、同じ宗派の「建福寺」が保科家の菩提寺になり、「保科一族」の依る「樹林寺」につながったことから、筋書きは合理的とみられる。


多胡時代の1593年までに、一切の身上の露出をしない「保科正俊」はどうしたのであろうか。この件は、「保科正則」も同じであり、保科家多胡統治時代以後の、それも墓(供養塔)のみの露出である。そもそも保科正俊・父の保科正則は、確か「赤羽記」によれば、小笠原家三家の内訌に松尾系に与して駒場で戦死しているというこの疑問は、不思議として残る。

保科正則夫婦の供養塔(墓)?


諏訪神族の「名跡」は、諏訪祝一族も高遠諏訪家も保科一族も同じ名跡が間隔を置いて繰り返し継承されるという法則性がある。まるで歌舞伎や落語界や老舗商家の「名跡」継承の如くであり、故に歴史を紐解くときに解明を困難させる例が多い。
保科家では、正利から隔世で正俊へ、正信、正則など、高遠諏訪家では頼継などが例である。


こうして検証してみると、匝瑳地区における善龍寺の過去と現在の「存在」の有無に影すら見せないと同時に、開基は「正直」「正光」ではありえず、わずかの可能性の「正俊」も文禄2年に亡くなっているのが事実とすれば、開基の存在しない寺の創設は幻であったと結論せざるを得ない。


つまり ---
--- 正則の法名祥雲院殿は正則が下総で創建したという祥雲山善龍寺」は嘘であると結論する。


ここで「廣琳荊室」のこの時代の履歴を掲示して確認しておく。

龍澤山桂泉院


出典は【木の下蔭】---・
・廣琳荊室・・信玄家臣内藤修理信量の次男・
・天正十年(1582年)正月上州善龍寺丈室に於て宗脈を傳え則善龍寺に住職・(1582年:箕郷:善龍寺住職)
・的雄和尚の遺命によつて補陀寺に轉院す大壇大道寺駿河守政繁に逢つて厚くもてなさる(1582年:松井田・補陀寺12代住職
・天正十八(1590年)七月落城・大道寺政繁討死す・・遺骸を葬つて石牌を寺の西の岡に立つ。翌年(1591年)松井田の・・・本院殿閣を新城に移す。政繁の爲に新に塔院を記す。(大道寺政繁戒名=來炫院殿光淨清大居士:廣琳荊室が弔った」ということ)
・文禄元(1592年)二月亨寅長老に補陀寺を護りて當城(高遠城)の法堂院に退去す。
・其頃の城主内藤昌月兄弟なるに依つて・・・他邦の客貴賤城扉に入るをゆるさねば・・依て城内を出ていた町村龍ヶ澤に移る。
・則城主と邑民と力を合せて法堂院の殿閣不日に今の所に移す内藤昌月中興の開基となつて山を龍澤と改め寺を桂泉と號く。
・其後慶長九(1604年)・・五鴈遷寂す。門弟子師の遺骨樹塔を補陀(寺)善龍(寺)當寺(桂泉院)三ヶ所に分る。
-----
【木の下蔭】によれば、「廣琳荊室」と保科多胡藩との関係は一切出てこない。時系列から見ても、多胡・匝瑳に善龍寺を建立する隙間は一切見つからない。
ここで奇妙な事実は、まず箕郷に善龍寺を再建した後、松井田・補陀寺12代住職になった廣琳荊室は、戦死した大檀那:大道寺政繁を弔って墓碑と供養塔を建立し、焼けた補陀寺を再建した後高遠城に来ているということ。その時期は、家康が江戸入府し家臣がこぞって関東に移り住む時期と重なるのだ。保科正直が高遠城からいなくなる時期に、内藤昌月が城主であったという。内藤昌月が高遠城主であれば、弟の廣琳荊室を自分の城下に招くことは不合理ではない。


こんなことは起こりえるのか?
天正壬午の乱以後の整理の時期に、小田原北条翼下にあった内藤昌月は、真田vs北条の戦いの後「真田」に与したという事例が残る。このに秀吉が加わり、北条亡き後、上杉vs徳川vs秀吉の構図ができ、真田は、沼田を割譲する代わりに、代替えとして、信濃:箕輪(高崎の箕輪ではない)を宛がわれたようだ。その時の真田の命で執行官(代官)が内藤昌月だったら、高遠城主が「昌月」だった可能性があるかもしれない。
そして、高遠城の法堂院から、竜沢の桂泉院に移ったのは、京極高知が飯田城主になり、高遠城の管理も兼ね、管理が厳しくなったので桂泉院に移ったのだろう。


ここには、記載された年号と数年の単位の誤差があるのだが、調整のにおいを感じる。


「なんで”保科の供養塔”がこの寺にあるのか?」 茂林寺:3 (転記3)

2019-08-08 11:19:13 | 歴史

「なんで”保科の供養塔”がこの寺にあるのか?」 茂林寺:3 (転記3)

 

「保科御事歴」によれば、

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >・保科正俊:永正8年(1511)- 文禄2年8月6日(1593/9/1)
     :異説・生:1509-没: 1593年
     :正俊:保科正則の子:法名・月眞
 >・保科正則:法名 祥雲院殿**榮壽***
   ・:祥雲院殿は正則が下総で創建したという祥雲山善龍寺に拠る
   ・:法華寺:大乗山法華寺:千葉県匝瑳市飯高571
    (祥雲山善龍寺の跡地/寺名改名?)に墓/供養塔あり
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・茂林寺の供養塔は「保科正則」ということになる。「保科正俊」ではありません。

保科正則:法名 祥雲院殿**榮壽***(大乗山法華寺:千葉県匝瑳市飯高571)
「天正十九年辛卯年九月六日薨去(卯年九月参日との差異?)1591年9月3日に死去」とあるが、千葉:匝瑳市:法華寺にある供養塔(/墓)と比隠してみると、千葉:法華寺にある方は、「天正十九年辛卯年九月六日薨去」です。「奉再建元禄三庚午年海音比丘之」は保科家関係者の「海音」という尼さんが元禄三年に再建」したとあります。
この3日間の差異の意味することは何でしょうか。また供養塔の所在地の違いは、一体何を意味するのでしょうか?実際の死去は、9月3日で館林・茂林寺付近、、葬儀の場所は、匝瑳市/多古町辺り、祥雲がかかわる善龍寺?とか、が素直に読める。

 


では、戻って「法妙 祥雲院殿椿叟栄寿大居士」を見てみましょう。先述では、法名」と書いてあることから「祥雲院殿椿叟栄寿大居士」を法名としましたが、禅宗では「戒名」とするのが一般的のようです。現在違いを意識して使う場合は、宗派僧侶を除いてはないようですが、つまりほとんど同義で使われているが、死後の世界観に差があり、法華宗では「戒」を行わないのが流儀といわれているので、前述を訂正し、以後曹洞宗に倣って「戒名」とします。
戒名・・
戒名は、上から「院殿号・院号」「道号」「戒名」「位号」といった順番で漢字のみの列挙で構成されます。中国伝来のようです。
 1:「院殿号・院号」 ・祥雲院殿 ショウインインドノ
 2:「道号」 ・椿叟  チンソウ
 3:「戒名」 ・栄寿  エイジュ
 4:「位号」 ・大居士 ダイコジ

  ---・私の貧しい読解力からすれば、生前の業績をたたえるよりも、長寿を讃えているような戒名である。


祥雲院殿」はおそらく曹洞宗の寺院の建立にかかわっていると思われます。正則の法名祥雲院殿は正則が下総で創建したという祥雲山善龍寺に拠るのであろうということです。つまり「善龍寺」の開基が「保科正則」ということです。
では、開山は誰でしょうか。寺院創建の時の僧侶は誰か?ということです。
荊室広琳」という名前が浮かんできます。内藤昌月」の実弟とあります。保科正俊」の子供との記述がどこにもありません。内藤昌豊の子の記述はあります。


荊室広琳」アラカルト・
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内藤昌月」の弟、上州:長生寺にて剃髪、その後松井田の「補陀寺」12代住職になる。時に、弟「内藤昌豊・昌月」は武田信玄に上州箕郷・箕輪城城代を任され、焼失した箕郷・善竜寺の再建を命じられる。善竜寺再興の際招じられたのが、昌月の弟「荊室広琳」。再興した時に、善竜寺は「満行山」と山号が改められた。
「木の下蔭」---
---・文禄元壬辰年二月九日亨寅長老に補陀寺を護りて當城の法堂院に退去す其頃の城主内藤昌月兄弟なるに依つてや住院幾ほどならずして緇白其徳を仰ぐ事厚し然れども城内の事なれば他邦の客貴賤城扉に入るをゆるさねば廣く法化をなすこと能はず依て城内を出ていた町村龍ヶ澤に移る或る夜一人の老叟來て戒法を請むことを乞ふこれを授く須叟にして老人忽ち失せて桂の池の邊りに恍惚として白龍現じ謝して岩窟に清泉を出して法施に酬むと清泉出づ貴賤手に拍つて稱す禪師を信仰す則城主と邑民と力を合せて法堂院の殿閣不日に今の所に移す内藤昌月中興の開基となつて山を龍澤と改め寺を桂泉と號くーーー・
文禄元壬辰年二月九日は、1592/02/09のことである。
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「その頃(1592)の城主内藤昌月兄弟=(保科正直)なるに依つて」とあるのだが、この城は明らかに高遠城であり、いつもお世話になっております。一般的には、保科家が、房総:多胡から高遠に帰還するのは、「関ケ原の合戦」以後としている歴史書が多い中、保科家の伝手で「荊室広琳」が高遠城内:法堂院の住職になり、その後、板町:桂泉院( 高遠町東高遠 2322)にを移したとあります。
これは不思議なことです。謎??
内藤昌月の没年は1588年(天正17年)で、小田原北条が、秀吉に攻められて落城した年号に一致していますから、この戦いの一連のどこかで戦死したものと思われますが、詳細の記録をいまだに読みません。
内藤昌月が戦死した後のことですから、「荊室広琳」を、まだ正式には保科家に戻っていない高遠の地へ招くことができるのは、保科正直が病身であることを考えれば、保科正俊以外考えられません。その保科正俊も翌文禄二年に死去します。
「保科正俊」は、歴史署の多くに記載されているように、本当に多胡で死んだのでしょうか?多くの歴史家は、存在を危うくした記録を点検照合することは当然できませんが、存在している古書の時代照合をサボタージュしなかったのでしょうか。


松井田:補陀寺 写真

 

補陀寺:開基・大道寺某の墓・北条側にあった松井田城主は、小田原北条敗北で散ったようです。

墓を作ったのは、補陀寺12代住職:「荊室広琳」だそうです。


「荊室広琳」という文字を眺めています。
「荊室広琳」は内藤昌月(保科正俊の三男から内藤家に養子)の弟といわれています。内藤昌月は、内藤昌豊の実子という説もかなり強く残っています。
板町:桂泉院の近く、芝平辺りを水源とする山室川が流れています。山室川の下流に近く、三峰川と合流する手前のほうに、「荊口」というところがあります。この「荊」と「室」が「荊室広琳」に使われています。このことはあるいは偶然かもしれまん。あるいは何かを暗示しているのかものしれません。


高崎・箕郷:満行山善龍寺 写真

 

 


内藤昌豊のこと・
参照:「探 三州街道」より
1:研究ノート「工藤昌祐・昌豊兄弟の”放浪”の足跡」

https://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_7/s/%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88%E3%80%8C%E5%B7%A5%E8%97%A4%E6%98%8C%E7%A5%90%E3%83%BB%E6%98%8C%E8%B1%8A%E5%85%84%E5%BC%9F%E3%81%AE%E2%80%9D%E6%94%BE%E6%B5%AA%E2%80%9D%E3%81%AE%E8%B6%B3%E8%B7%A1%E3%80%8D

2:伊那の工藤氏について 

https://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_7/e/0a8381a2698bd4b0159acdced0202646

 

結論は急ぎません。
「法名 祥雲院殿**榮壽***」(=保科正則)と「荊室広琳」と「内藤昌月」は、事歴を確認すると深い関係性を見出すことができます。
しかし、ここには保科正俊、保科正直、保科正光との関係性を見つけることはできません。そして、多胡時代の「保科正則」と「保科正俊」も行状も確認できていません・(保科正則」は夫婦の供養塔(墓?)のみを残しています。「会津へ移設」されてしまった故か?今では房総・祥雲山善龍寺の跡さえ多胡周辺で見つけることができません。
さらに言えば、高遠でも会津でも、藩主保科家の菩提寺は、臨済宗の建福寺になり、曹洞宗:善竜寺系統の昌月、広琳、正則と血統が違うのではないかと思えてきます。
さて、茂林寺の「法名 祥雲院殿**榮壽***」の供養塔に話を戻します。つまり、茂林寺のこの供養塔の誰が建立したかということですが・・上州に一番関係が深い身内の「内藤昌月」は、天正十五(1588)年に亡くなっています。保科正直は、病気で保科家を「正光」に譲って療養中のようです。保科正光は、天正18年(1590年)の小田原征伐にも参加し、天正19年(1591年)の九戸政実の乱の鎮圧にも参加しており、多忙な日を過ごしていたようです。可能性が高いのは、残り保科正俊と荊室広琳のようです。古文書がないので断定できませんが、この「二りながら」の作業ではなかったjかと・・・。そして本流の正俊は、しばらくして死去し、本流の宗派・臨済宗・妙心寺派の寺に埋葬されたのではないかと・・・
荊室広琳は、松井田の補陀寺の第12代住職でもあったわけで、天正18年(1590年)の小田原征伐に関連して、北条側の「大道寺政繁」の松井田城が攻められて落ちており、補陀寺の大檀那の大道寺の供養で忙しかったようです。ちなみに、曹洞宗寺院の最初は、松井田・補陀寺であり、茂林寺は、補陀寺と兄弟寺(古川和尚談)だと思っていいようです。


でも、なんで「茂林寺」なのか?がいっこうにわからない。


(今回・・松井田:補陀寺と高崎・箕郷:善立寺へ行ってきました。「保科正俊」の墓は見つけられませんでした)
参考文献:平山優・真田三代 ・・保科正光は真田昌幸の婿に当たります。この書により、上野・信濃の「天正壬午の乱」を再確認・


・保科正直:天文11年(1542)- 慶長6年9月29日:(1601/10/24)
・    :保科正俊の子:法名・長元院:埋葬寺・長元院:
・    ;長元院:東京都港区虎ノ門3-15-6:浄土宗

・内藤昌豊(「内藤昌秀」)生:1522年 - 没: 1575/6/29
・内藤昌月:生・天文19年(1550)- 没・天正16年5月25日)(1588/6月/18)
・    :戒名:陽光院南雲宗英
・    :埋葬時・箕郷・陽光山善竜寺(満行山善竜寺)
・保科正則:      :法名。榮壽 榮壽
・    :祥雲院殿は正則が下総で創建したという祥雲山善龍寺に拠る
・法華寺:大乗山法華寺:千葉県匝瑳市飯高571(祥雲山善龍寺の跡地/改名)


「消えた槍弾正の墓の行方探し?」  茂林寺 :2 (転記2)

2019-08-08 11:17:30 | 歴史

「消えた槍弾正の墓の行方探し?」  茂林寺 :2 (転記2)


さて、本願・
ここに来た理由は、下記の文を目にしたからに他ならない。


参照:---- ・天正19年(1591)9月6日に正則、文禄2年(1593)8月6日に子の正俊が亡くなる。
それぞれ上州館林の茂林寺や内藤昌月父子墓のある箕郷善竜寺に墓があるとも伝わって ・ ----・保科正則夫妻の墓 飯高法華寺:▲大乗山法華寺の保科正則夫妻の墓・----(to KAZUSA)
本当に、保科正俊」の墓が、茂林寺にあるのだろうか?と来てみたわけである。内藤昌月父子は、厩橋(高崎)の箕郷、--・箕輪城からも、保渡田城からも、案外遠い館林の地・・

 ここで、歴史好きにはある程度メジャーだが、普通は「知る人ぞ知る」ぐらいの「保科正俊」について概要を説明しておく。興味の薄い人は、・・ままに。

保科正俊は -----・戦国時代の武将。保科正直、内藤昌月などの父。はじめ、高遠頼継の家老。後に武田信玄の家臣となった。信玄の戦役に務め、「槍弾正」の功名を挙げる。子息:保科正直は家康の家臣、家康の養女を妻に迎えた。正直の子の保科正光の妻は真田正幸の娘、子ができなかったので三代将軍:家光の弟:正之を養子に迎え、やがて保科正之は会津松平藩の祖となり、家光の幕政を助ける。内藤昌月は、正俊:息から内藤昌秀(昌豊)の養子になる。内藤昌豊は、戦国時武将。信玄の家臣で武田四天王の一人。戦上手と言われ、敵城を自分の軍も相手の軍も損なうことなく幾つも落としたという伝承の持ち主。小笠原亡き後の松本城の城代を務めた後、厩橋(今の高崎)の城代を務める。厩橋時代の居城は、保渡田城か箕輪城。・-----
-----・保科正俊は、織田信長の「武田攻め」で高遠を追われ、息子のいる厩橋(高崎)に落ちる。隠棲先は保渡田城と思われる。信長横死のあと内藤昌月の兵を借りて、息:正直とともに高遠城を奪還し、すぐに家康の家臣になる。秀吉の世に、後北条攻めがあり、家康は、五国太守から関東:江戸へ入封される。家臣も随伴。保科正直は、房総:多胡へ1万石で入封される。この多胡時代に、正直病気のため、息:正光に相続。正俊は、正光が多胡城主時代に没。・-----


茂林寺・門前風景


門前の土産物屋の店は寂しく、うどん屋は店を閉めている。寺が、格式が高そうなのに比して、これである。
それはさておいて、寺門をくぐると、茶釜の狸が参道の両脇に並列して迎えてくれる。壮観である。

 

 

左手が墓地のようである。左手の墓地に足を踏み込むと、手前の墓は真新しいが、奥へ行くにしたがって、古びて苔むしたような墓石が散見できる。あればあの付近だろうと当たりを付けて寄ってみる。古いのの大方が、居士:大姉の二つながらを刻印した夫婦募石であり、対象から除外・・それに墓石が古いのは、刻印が崩れて、天正や文禄の文字が読み取れない。中には宝篋印塔らしきもあるが、供養塔の場合が多く、たまに墓塔としても扱われるという。文字の判読が能わず・・


半ばあきらめ、御朱印を記帳してくれるご婦人のところへ行き、「ここに戦国時代の保科正俊の墓があると噂できてみたが、知らないか」と尋ねてみた。
暫くして、ご婦人は、この寺に住職を連れてきてくれた。

 


茂林寺の住職によると、どうもそれらしき塔があるという。この塔を訪ねて、高遠から人が調査に訪れ、「保科」に関連がありそうだから塔を高頭に持っていくといったらしい。かなり乱暴な話である。
住職は、その塔に案内してくれた。


その塔は、「宝篋印塔」に近いが「宝篋印塔」というには不足物があるようで・・住職に言わせると、長年の歳月で、塔基下方部が損壊したのかもしれないという。「宝篋印塔」が墓でないとは言い切れないが、供養塔である場合が圧倒的に多い。

 

刻印された文字は、私には・・ところどころ・・しか判読できないが、さすが和尚・・は、なんとか判読してくれた。
それが以下である。

             

・「祥雲院殿椿叟榮壽大居士」は保科正則の法名である。正俊ではない。

でも、なんで、「保科」の供養塔(墓?)が茂林寺にあるのか?

  -----・次回に解析を試みます。また、茂林寺住職・古川正道氏の丁寧な応対、協力と判読に感謝いたします。


茂林寺 :1  (転記1)

2019-08-08 11:15:00 | 歴史

茂林寺 :1  (転記1)


「蝶々の 婦ハリととん多 茶釜哉」 一茶


 ・・・> 「蝶々の ふわりと飛んだ 茶釜哉」



茂林寺は「狸」が出迎えてくれる「面白い」寺です。


室町時代中期の応永33年(1426年)に開山。山号「青竜山」

寺院開創の創立者を「開基」、開創僧侶のことを「開山」というが、茂林寺は開基」開山」が同じで「大林正通禅師」というらしい。「開基」と似た言葉で、別当」とか大檀那」というのもあるが、これは経済的な協力、つまり「スポンサー」と理解したほうがよい。


この寺の周辺は沼が多く、館林駅近くは「城沼」がありそこの「躑躅ヶ丘公園」は躑躅の名所であり、この寺の裏側の「茂林寺沼」は自然の宝庫である。さらに、白鳥が飛来するという「多々良沼」もあり、利根と渡良瀬に挟まれたこの地は、この両川の洪水が乱流し「沼」を残したという説が残っている。おそらく本当だろう。


今は「花」の季節でもないし「花」を見に来たわけでもない。だが、この沼の多き付近は、つつじ」を始めとする花の名所が多い。季節には多くの見学者を集める。


「狸」見学も副業である。

 

目的ではないが、折角なので馴染んでいくつもり・。ちなみに、ここの「狸の置物」由来は、童話:「分福茶釜」の発祥の地に因するとされている。

 

(「分福茶釜」割愛)