探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

小笠原清宗  ・・・ 府中小笠原家歴代

2014-03-09 22:33:07 | 歴史

     府中小笠原家

 小笠原清宗

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小笠原清宗

生没年:1427-1478
父:小笠原持長
正室:
子:長朝 1443-1501、長政・大日向氏の祖、光政・林家の祖?

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清宗の情報は極めて薄い。府中小笠原氏の停滞は、後見となっていた畠山家が、京都で勢力争いから脱落して衰退したことと重なるようだ。清宗の時代、応仁の乱は始まっていた。

概容・・・

室町時代の武将。応永三十四年(1427)生まれ。小笠原持長の子。信濃府中(松本市)に勢力をはり、信濃守護職をついだ小笠原政秀と対立した。文明十年12月8日死去。52歳。

小笠原清宗は林城を築き、居館をその麓に移します。

応仁元年(1467)頃から清宗は、鈴岡の小笠原政秀(小笠原家惣領)から攻撃を受けて、府中に攻め込まれた。しかし府中・小笠原家を盛り返して、子の長朝を鈴岡へ養子に出し、家督を相続する約束をする。

また、府中小笠原氏の成立康正ニ年(1456)ごろ、持長の子小笠原清宗は、伊那の小笠原光康と争い、清宗を関東の足利成氏が、光康を越後の上杉房定が支持するなど対立が複雑化するところへ、宝徳元年1449)から諏訪氏の内訌も加わつた。

・・・清宗のころ、府中は不安定。諏訪神族との関係が悪く、加えて小笠原家の三家鼎立の抗争中であった。

 

林城・・

 

林城は、山城である。

小笠原清宗は、鈴岡・政秀に攻められた。これが恐らく、林城築城に繋がったのであろう。山城は、守るに易く、攻めるに難しの特徴を持つ。林城を主格に、防衛戦の山城の支城を周りに配した。規模は、恐らく日本一の山城群であろう。

だが機能したかどうかは、きわめて疑わしい。以後林城が戦火にあった例はない。武田に府中を攻められた時も、この山城の支城の群は、すべて自落している。小笠原長時は、林城に入らずに家臣の城に逃げ込んでいる。

城を作らなかった信玄に比すと、林城築城の清宗は、到底戦国武将とは思えない。

 

 

 


小笠原持長  ・・・ 府中小笠原家歴代

2014-03-09 01:34:11 | 歴史

      府中小笠原家

 小笠原持長  信濃に ”応仁の乱” を持ち込んだ男!

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小笠原持長
時代 室町時代前期 - 中期
生誕 応永3年(1396年)
死没 寛正3年6月15日(1462年7月21日)
別名 豊千代丸(幼名)、彦次郎(通称)
官位 右馬助、民部大輔、大膳大夫、信濃守
幕府 室町幕府信濃守護
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原長将、母:側室
子 清宗

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概容・・・

小笠原持長は、室町時代中期の武将、守護大名。信濃守護。父は小笠原長基の長男小笠原長将、母は側室。子に清宗。府中(松本市)を本拠とした府中小笠原氏の祖。

同時代に同姓同名の別人がいるが、こちらは京都に移り住み有職故実を専門とした同族である。・・・京都小笠原家系譜


応永3年(1396)に京都の小笠原家屋敷で生まれたが父は早世、祖父の死後家督は2人の叔父長秀・政康に移り、嘉吉2年(1442)の政康の死後は従弟の小笠原宗康に継承された。持長はこの状況に不満を抱き、畠山持国の後ろ盾で家督相続を主張、文安3年(1446)に実力行使で宗康を討ち取った(漆田原の戦)。しかし、宗康は事前に弟の光康に家督を譲り、持国と対立する細川持賢及び甥の細川勝元も光康を支援したため、家督の奪取はならなかった。
宝徳元年(1449)に諏訪大社が上社と下社に分裂すると騒動に介入、下社を支援している。同年に勝元が管領を辞任、代わって持国が管領に就任すると宝徳3年(1451)に光康に代わって信濃守護に任命された。しかし、翌享徳元年(1452)に勝元が管領に再任されると享徳2年(1453)に守護職を交替させられ光康が守護に再任された。
寛正3年(1462)に死去、享年67。子の清宗が後を継いだ。清宗も家督を巡って光康の子家長及び宗康の遺児政秀と対立、小笠原氏は清宗の府中小笠原家、家長の松尾小笠原家と政秀の鈴岡小笠原家に分裂、衝突を繰り返して衰退していった。小笠原氏の統一は持長の玄孫長棟が光康の曾孫貞忠を降伏させる天文3年(1534)までかかることになる。

 

畠山持国の後援・・・

畠山持国の支援を受けられた背景には持長の母が持国の妾となって息子義就を産んだからとされるが、持長と義就の年齢差が大き過ぎるため近年では否定されている(義就は永享九年(1437)生まれであり、兄とされる持長とは41歳も差があるため)。・・・三管四職家のうち、主に第3代将軍足利義満の時代に取り立てられ勢力を躍進させたのは赤松氏、一色氏、そして持国の畠山氏であったが、義満時代に有力な守護大名であった斯波氏や山名氏が弱体化すると、上の三家が将軍権力の障害となるようになった。特に三管領の一角を占める畠山氏は幕政の中核をしめ、代々の将軍にとって目の上のたんこぶであった。・・・六代将軍足利義教は畠山満家の死後、「万人恐怖」と評される恐怖政治を敷き、特に上記三家に対する干渉を強めるようになった。義教は赤松満祐の同族・貞村を重用し、永享十二年(1440)には一色義貫・土岐持頼が殺害されている。嘉吉元年(1441)には義教の矛先は畠山氏に向けられ、持国は結城合戦の出陣を拒んだことから家督を弟持永に譲らされ隠居を余儀なくされる。・・・七代将軍に義教の嫡子の足利義勝が就任し、赤松氏が討伐されると持之は管領を辞任し、持国が管領となる。同年、出家し徳本(とくほん)入道と名乗る。翌年に満祐が擁立していた足利義尊を討ちとり、嘉吉3年(1443)に義勝が病死すると足利義政の八代将軍就任に運動する。禁闕の変に対処したり、嘉吉四年(1444)に嘉吉の乱平定の功労者だった山名宗全を懐柔するため、満祐の従弟の赤松満政が領有する播磨東三郡を宗全に与え、伊勢貞親と義政の擬似父子関係を取り結んだりもしている。

信濃守護・小笠原氏は当主の小笠原宗康と従兄の小笠原持長が対立、文安三年(1446)に宗康が戦死して弟の光康が後を継いだ。持国の二回目の管領在任期の宝徳三年(1451)には持長が守護になっており、それまでは光康が守護だった事から、持国は持長を、細川氏は光康を立てていた事が分かる。・・・応仁の乱の対立構造。

 

応仁の乱の予行の如くに・・・

応仁の乱は、畠山持国が対立構造の芽をつくり、持国の子息が勢力争いで対立し、京都幕府内の対立構造に発展して始まったとされる。小笠原持長は、母を同じくする関係から、持国の後援があり、小笠原宗家を奪取すべく胎動を始めた。畠山家が始めた応仁の乱の、予行の如くに、である。持長はまず、当時守護の、松尾小笠原宗康と対立する。その最初の戦いが、漆田原の戦であり、戦力優勢であった宗康が戦死する。

漆田原の戦・・・

文安三年(1446)、小笠原宗康は父の小笠原政康から家督を相続していたが、従兄の小笠原持長との間で相続をめぐる争いになった。宗康は弟の小笠原光康に自身が万一討死の際は家督を譲り渡す条件で協力の取り決めをして漆田原(長野駅付近)での持長軍との合戦に臨んだが敗死。持長は宗康を討取ったが家督を手中に出来ず、対立は子らの代にまで続いた。この戦いで、信濃国人衆は、国を二分した状態になった。この後さらに小笠原家は三家に分裂して行った。


持長の後援・畠山持国の勢力衰退

漆田原の戦いで持長は、松尾の守護・宗康を討ち取り、管領・持国より守護の座を補任されるが、普及せず名目だけになった。翌年、畠山持国が、細川氏に管領職を奪われると、細川氏は松尾小笠原光康を支持し、光康に守護職を与えた。こうして府中小笠原持長は野望を遂げられずに、対立は続くことになる。幕府は細川氏の時代になって、くすぶっていた対立に火が付き、応仁の乱が始まった。

宗家混乱の整理

まず、府中小笠原家が、時々深志小笠原家と表示されることがある混乱について・・・
府中は、今の松本を言う、昔の地名であった。府中の元は、平安時代以前に、国衙があった場所で、地方政治の政務が行われたところであった。場所の比定は、今の信大・医学部・本部から美ヶ原温泉の間の総社辺りの里山辺と思われる。国衙が政務の機能を果たさなくなったのは、鎌倉初期と推定されるが、府中の名前のみは残り、小笠原氏は総社の近くの井川に居を構えたのが始まりで、以後この地を拠点にして府中小笠原家と呼ばれた。深志城は、井川館と林城の支城として、家臣の溝口家系島立氏が築城し、家臣坂西家の居城として、武田家の府中攻めまで続いた。信玄は、小笠原長時を駆逐すると、この地方の治世の拠点に、林城ではなく、深志城を拡大して選んだ。時が経ち、信長が死んで、小笠原貞慶が松本に戻ると、深志城を受け継ぎ、整備して、ここを拠点とした。従って、松本にある小笠原家を、総じて深志小笠原家というのは正確ではない。一般に府中小笠原家の方が正しく、より正確を望むなら、貞慶時代以降のみ深志小笠原家というのが理屈に合っている。

宗家混乱について・・・
小笠原家の宗家については、三家とも宗家たる意識があったようだ。ここで、小笠原宗家の定義をしてから眺めると、信濃国守護の資格があるかどうかが問題で、三家の自意識と支持する地方豪族と守護職を補任する室町幕府がどう見ているかが問題となる。足利将軍家から貰った家宝の書も資格としてあるが、幕府から見た宗家は、三家鼎立以後は、鈴岡、松尾にあり、貞棟が松尾と戦い、松尾を駆逐してから、小笠原貞棟を守護に認めたという経緯から、上記の順序が、宗家の認定でいいのではないかと思う。これを最後の宗家・府中小笠原家と固定して、以前も宗家であったとするのは、この説は意外と多いが、かなり乱暴な論理の組み立てのように思う。