伊那の工藤氏について
「伊那の工藤氏は、保科正俊や高遠頼継に仕えていたと思いますか。」
この様な質問を受けました。これについて、自分なりの考えを記します。
伊那春近領における犬房丸の伝説 (クイックして下さい)
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これを読む限りに置いて、犬房丸の直流か傍流かが伊那に住み着いたのは確かだろうと思います。しかし、各地に残る犬房丸伝承と比べて断定できるほどの資料が揃っているとは思われません。
ここで確認出来ることは、伊那・春近・小出に工藤一族が住んでいた、ただし名前は工藤氏とは限らない、と言うことです。
この春近・小出を領有した豪族は、高遠・諏訪頼継とその先達、また藤沢頼親が確認出来ます。この事実を踏まえると、鎌倉時代は工藤一族は池上弥三郎(入道)に仕えた。この池上は在郷の春近荘の荘官で役職は検校であると記録に残ります。室町時代は小出・工藤一族は藤沢頼親の配下とか高遠・諏訪頼継あるいは高遠・諏訪継宗の配下であった可能性は高い、と思われます。この事実からは一次的想定の範囲に留めるべきで、それ以上想定を広げることは危険です。そう考えると、保科正俊との関係は、同僚か知己の範囲とするのが妥当でしょう。
次ぎに、「工藤虎豊の末裔の工藤祐長・祐元兄弟」と伊那・小出の工藤家の関係は、繋げる資料は出てきていません。
諏訪郡代・板垣信友が工藤兄弟を発見し、武田家への帰参を段取りして信玄の了解を取った、と言うことだけが記録に残っているわけで、工藤家と保科家の親密な関係を照らして憶測すれば、諏訪郡代・板垣信友の郡代統治のテリトリーの範囲にいた、と考えるのが常識的で、無理のない合理的な筋道だろうと考えたわけです。板垣が、当時まだ不安定な諏訪地方を留守にして、伊豆地方に工藤兄弟を捜しに時間を割いたとする方が無理筋だろうと思われます。これも断定できる資料はありません。他説では、武田信虎に追われた工藤一族は、伊豆の伊勢宗瑞のもとへ訪れた記録が残ります。伊勢宗瑞は北条早雲のことで、そこには工藤一族が宗瑞の家臣になったとか伊豆に永住したという記録はありませんから、諏訪・伊那北部に隠棲していた可能性とは矛盾しません。
上記は、既に書いたことですが、まだ書いてない事実・・・
諏訪頼継の高遠城、藤沢頼親の福与城が陥落して、信玄が諏訪・上伊那を攻略したのが1546年、この年から保科正俊と工藤兄弟は信玄に仕えます。2年後の1548年に、塩尻峠の戦いで、信玄は信濃守護・小笠原長時を打ち破ります。この負け方は異常で、本来守護側に付くべき塩嶺の地理に詳しいもの達の裏切りが相当確認されます。
注目は1550年、信玄が更に府中(現在の松本)に攻め込むと、小笠原長時以下の小笠原勢はあまり戦わずして自落する城が多かったようです。長時は、松尾へ逃避していきます。
信玄は、府中(この時点あたりから府中は松本と呼ばれるようになったようです)の統治に、林城ではなく深志城(=松本城)を選び、その城修復の役を、工藤祐長にさせます。→内藤昌豊の名前は、次の戦いの功績で、甲斐の名門・内藤家の名跡を信玄から嗣ぐように命じられたようです。
1550年は、内藤昌月(←保科千次郎)の生まれた年です。
工藤祐長の深志城修復を保科正俊は手伝ったのではないかと言われています。
そして、府中・松本の近く、明科・熊倉は、荒川易氏の次男・保科易正の兄が養子に行った先という説が存在します。更に明科の隣の生坂は、保科正俊の娘の嫁ぎ先・大日方源太左衛門直幸の居城があります。
工藤祐長→内藤昌豊の信玄の直参時代の本貫地はよく分からないのですが、・・・
内藤昌豊の父・工藤虎豊以前の工藤家は、本貫を巨摩郡・西郡とし大草郷までを領有した、という記録が残ります。甲斐の地理には詳しくないのですが、どうも富士川の西域で釜無川当たりかと当たりをつけています。それで甲斐国の中に、大草郷を探したがどうしても見つからない。
範囲を広げると、すずらんの入笠高原を登り、芝平峠から山室川を下れば高遠だが、そのまま牧場を東へ迂回すれば長谷・市野瀬へ出る。ここから直ぐの分杭峠を越すとそこが大草郷(中川村)になる。この間は、そんなに近くはないが遠くでもない。県を跨いで、山梨県と長野県なので違和感はあるが、先述の文章と繋がります。この大草の隣の豊丘村の林と云う所にも工藤家伝承が残っていて、一族は林から春近にも流れたとも言われています。
この入笠・芝平・市野瀬・大草の道は、南朝・宗良親王の道といわれ、中世は案外通行量が多かったのかも知れません。
ここでも、藤沢・山室・芝平辺りの代官だった保科家と大草郷の工藤家と繋がりがあるのかも知れません。
内藤昌豊の人物像を考えてみるとどうしても戦国武将にありがちな戦闘能力に長けた”武闘派”のイメージは浮かび上がってきません。主に甲陽軍艦からの伝承でしょうが、1:深志城の修復、2:小荷駄奉行の業績、3:上野・国峰城攻撃の味方の無損傷の勝利などは、内藤昌豊の能力の方向性を示していると思われます。四大名臣として信玄に愛された昌豊の能力は、”知性派”とか‘内務官僚”的な要素からだったからではないかと思われます。「思慮深く温厚で、ぜ子細よりも全体を見て、知略」をもっていたとされ、「個人の戦いは、味方を苦戦に陥れるだけ」とう哲学を持っていたとされています。「内藤昌豊は毎時相整う真の副将である」という評価は、信玄の臣下の仲間達からの評価でもあり、人望も厚く、「人衆を扱うことでは武田家無双の侍大将」とも言われています。
以上は、武田信玄の家臣時代の内藤昌豊の人物像ですが、ここから信玄の家臣になる以前の工藤祐長の姿が多少憶測できそうです。1:は武芸訓練を受けていない。2:は戦略性に長けているのは、中国故事の知識を有していそうだ。論語などを読みこなす教育を受けていた可能性がある。3:は育った環境が民衆とともにあった。・・・そう考えると、育った環境は、仏門や神官の周辺が思いやられるのですが・・・これも断定できる資料はありません。