探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

松尾小笠原宗家の創立まで   第二話

2016-01-06 10:36:51 | 歴史

松尾小笠原宗家の創立まで 第二話

話が、少し先へ飛びます。
承久の乱・東山道軍

さて、承久の乱の東山道軍の大将は武田信光と小笠原長清が任命されています。この戦の道順に、武田信光は甲斐の鎌倉御家人と諏訪家が合流して東山道本道を木曽へ抜けて岐阜へ、小笠原長清は伊賀良に痕跡があることから伊那道を経て、御坂峠越えで岐阜へ、岐阜あたりで武田軍と合流したのではないかと思われます。伊那道の小笠原軍は、途中で中澤氏、片桐氏、知久氏などを幕府軍として糾合しています。ここで始めて、小笠原家と南信濃がつながります。伊賀良は伊那道と東山道をつなぐ拠点で、ここで待って、続々と幕府軍に参加してくる伊那谷の御家人武士の大軍をまとめ上げたのではないかと思われます。長清寺あるいは長石寺(時又)は、そのときの戦勝祈願寺で、のちに子孫の丸毛氏が整備するまでは、そんなに立派でなかったのだろうとも思います。

まず嫡子(六男):伴野時長:生没年不詳。

長径のほうは生没年(1179-1247)と見えていますが、伴野時長の生没はわかりません。何故、六男が正嫡なのかは不思議ですが長清の正妻が幕府の有力者の娘なら頷けます。そして政変によって家系を失い、小笠原家の家系からも抹消されたのなら、時長の母が不詳とされている意味が解けてきます。時長は鎌倉か小笠原郷で生まれ、元服まもなく嫡男と認められたのだろうと思われます。・・・長清の正妻:上総広常の娘が母親だろうと推定。長清が頼朝挙兵から幕府軍に参加して戦功があったことから有力御家人となり、正嫡の時長は早くから鎌倉幕府に出仕していて儀礼儀式に参加しています。
承久の乱(1221)のとき、小笠原長清は大将の一人として東山道軍の旗頭となった。この時子息八人は、父とともに参軍している。時長は、この時の戦功で幕府軍の反対勢力の大内氏の領土・佐久伴野庄を引き継ぎ、伴野時長と名乗るようになります。幕府も、伴野時長を小笠原長清の宗家として認めています。弓に優れ将軍の側近の一人であったが、やがて婚姻関係にあった安達氏がかかわる霜月騒動(1285)に連座して没落。伴野時長から三代後・伴野長泰のときのことです。承久の乱前に信濃に痕跡がなし、承久の乱後の霜月騒動で没落。

大井朝光(長清の七男):信濃国大井氏の祖
建久九年(1198)、小笠原長清の七男。母は上総権介平広常の娘。
長清の妹・大弐局は源頼朝の側女、兼実朝の養育係であった。大弐局は子がなかったので甥の大井朝光を養子とし、出羽・由利郡の所領を継承した。以後、由利郡には大井氏一族が地頭代なり仁賀保氏、矢島氏などの祖となった。
承久元年(1219)正月、実朝が鶴岡八幡宮に拝賀参詣した時、道中の随兵(実朝は公暁に暗殺された)。承久三年(1221)朝光は承久の乱で小笠原長清父子らと甲斐・信濃の軍勢五万を率いて東山道より上洛し、宇治川の合戦で功を挙げ、その功により大井庄を賜ったとされる。小笠原長清から引き継いで大井庄地頭となった朝光は岩村田郷に大井城を築いた。承久の乱後、長清が阿波国守護になったのを契機に阿波へ移り、その嫡流がそのまま長経、長房と続いた。佐久地方は、長経の弟時長が伴野荘で、朝光が大井荘で勢力を伸ばし分立した。承久の乱前に信濃・佐久にに痕跡なし、承久の乱後の霜月騒動の後も一族延命。系流が大弐局の流れと言うこともありそうです。

小笠原長径:小笠原長清の長男

小笠原長径の生誕に関して興味深い内容が『続群書類従』に記載されています。
長経について治承三年(1179)五月に山城国六波羅館で生まれたと記し、その二男に清経をおいて「或六波羅二郎。赤沢山城守受譲。」・・『続群書類従』巻124・「小笠原系図」。

この文献が真実として解読すると、小笠原長清が17歳の時の子ということになります。小笠原長清は元服を終えて京都の行き、平知盛に仕えたとされていますが、長清の子・長径は山城・六波羅館で出生とあります。
そして次男は清径・・小笠原家庶流・赤沢家の誕生もここに見えてきます。赤沢家は現在にも命脈を繋げる家系ですから、かなり説得力があります。ただ、赤沢家が小笠原家庶流であることは確かだろうけれそ、系図には、長径の子となっているものもあり、複雑です。長径の母については、藤原邦綱の娘?の記述があることから、頼朝の敵であった平清盛一族の係累が考えられます。藤原邦綱は、四人の娘を六条・高倉・安徳の三天皇及び高倉天皇中宮・平徳子の乳母とし、豊かな財力を活用してその養育に力を尽くしています。平家と親密な関係を深めて、白河殿盛子(関白・近衛基実室)の後見をつとめたが、仁安元年(1166)に基実が没すると多くの摂関家領を盛子に相続させています。この背景を考えると、長径が母の出自を曖昧にしたのは、母方が鎌倉幕府の敵方であったためからかも知れません。弟・赤沢清経は「六波羅二郎。赤沢山城守受譲」とありますが、普通に読めば、承久の乱の時の恩賞ですが、まだ確かめていません。
六波羅探題は、京都の治安部署であり、六波羅館は六波羅探題に勤める武人の館・宿泊所という意味であります。山城・六波羅館の所在の地が比定できません。なぜ京都ではなくて山城なのかも解けません。山城(滋賀県)が初期小笠原家と関係が深かっただろうことだけは垣間見られます。

長径は元服して、山城・六波羅舘から長清のもとへ戻り、鎌倉府に将軍・源頼家の近習として仕えて、比企の乱(1203)に巻き込まれます。小笠原長径は25歳、父・長清は42歳のことであります。



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