探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

小笠原長朝  ・・・ 府中小笠原家歴代

2014-03-10 21:21:27 | 歴史

     府中小笠原家

 小笠原長朝

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小笠原長朝

生没年:1443-1501
父:小笠原清宗
通称:又二郎
官名:民部大輔
正室:
子: 貞朝1461-1515

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概容・・・

小笠原長朝(1443-1501)
室町-戦国時代の武将。通称は又次郎,民部大輔
嘉吉三年生まれ。小笠原清宗の子。信濃府中(松本市)に勢力をはる。
家伝の弓馬・軍礼を伝承した。文亀元年8月12日死去。59歳。

歴史・・・

応仁の乱が終了した頃になると、諏訪大社上社と下社の争いに府中の小笠原長朝(持長の孫)が介入します。府中の小笠原長朝は下社を支援し、上社を支援する伊賀良の小笠原と戦いました。また、小笠原長朝は筑摩と安曇地方で勢力を広げようとしたため周辺の豪族の反発を受け、安曇地方の北部で勢力を持つ仁科氏(大町市付近)とも争うことになります。・・・小笠原長朝は、仁科氏との戦いや諏訪政満による府中の直接攻撃などを受け形成がしだいに不利になっていきます。そして、ついには鈴岡の小笠原政秀に攻撃を受けて本拠地である林館(松本市)を占領され、府中の小笠原家を滅亡の危機にさらしてしまいました。逃亡した小笠原長朝は、自分が叔父である小笠原政秀の養子となることで許され、再び府中に戻る事ができました。
 
・長享二年(1488)鈴岡政秀が府中の小笠原長朝の井川城を落とす。
・同十二年(1480)、(信濃守護職)小笠原長朝は仁科・西牧・山家氏と対立、山家城を攻撃して山家光家の子孫三郎を討ち死にさせ、また同十三(1481)年にも長朝は山家光家と対峙しています。このことから文明年間(1469-87)頃、小笠原氏が国人領主山家氏と抗争し、山家氏が諏訪神党・上社の一族であることから、諏訪神党を敵に回します。 *小笠原長朝が信濃守護であった事実はありません。この時期の信濃守護は、鈴岡・小笠原政秀で、1490年松尾小笠原定基に殺害されるまで、守護を勤めています。
・文明十二年に、山家氏は小笠原氏に背いたため、府中・小笠原長朝に攻められ、翌年の戦いで山家氏は諏訪氏の支援を受けたものの、この戦いの後山家氏は滅びている。

この一連の戦いで、府中の不安定材料の仁科・西牧・山家氏を翼下に従属させた府中小笠原家は、次の戦いへ戦力を充足させていきます。いよいよ、小笠原家の分裂を解消させて、統一できるか、小笠原家の統一が、信濃統一にも繋がるか・・・基盤は整ってきます。