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伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

松尾小笠原宗家の創立まで  第六話

2016-01-18 16:21:54 | 歴史

松尾小笠原宗家の創立まで  第六話

ここで、小笠原長径、長忠が、阿波国守護として阿波に居着いてしまえば、松尾小笠原家は生まれてこないことになります。ここでどんなドラマがあったのでしょうか?
承久の乱の時、小笠原長径は43歳、父・長清は60歳、長男・長忠は19歳、次男・長房にいたってはまだ8歳です。

 ・小笠原長房:生・没(1213-1276)( 阿波国守護)
 ・小笠原長忠:生・没(1202-1264)( 豊松丸、又次郎、兵庫助、信濃守)
 ・小笠原長径:生・没(1179-1247)( 弥太郎、入道, 阿波国守護)

小笠原長径の生涯の再確認
比企の乱までは、前文参照:建仁三(1203)年、比企能員の変では、比企氏方として拘禁された。その後鎌倉を引き払ったと見られ、鎌倉では弟の伴野時長が小笠原氏の嫡家として重用されている。承久三(1221)年、承久の乱で父長清は鎌倉方の大将軍として子息八人と共に京へ攻め上り、京都軍と戦った。乱後の貞応二(1223)年、長経は父の跡を継いで阿波国の守護となっており、5月27日、土御門上皇の土佐国から阿波国への還御にあたって、対応を命じられている。その後出家して小笠原入道と称され、宝治元(1247)年、京都の新日吉社で行われた流鏑馬の神事を務めている(『葉黄記』)。

小笠原長忠
小笠原長忠は小笠原長経の子。伊那地方の松尾の地で出生したとされるため松尾長忠とも称される。父の長経は承久の乱で功績を挙げ、阿波守護職を得たもの、長忠は後に弟(長清の養子)の小笠原長房に守護職を譲り、自身は信濃に帰国し、伊那地方の伊賀良庄の松尾の地に居住した。長房の子孫は阿波小笠原氏となる。小笠原家の家譜によると長忠は松尾の地で生まれたとされる。
長忠とその子の長政の時代、信濃で幕府から重用されたのは小笠原氏の嫡家である伴野氏(伴野時長が祖)であったが、霜月騒動に連座して伴野長泰が殺害・没落したため、長忠の孫で長政の子の小笠原長氏に惣領の座が復帰した。

小笠原長房
小笠原長房は、阿波国守護。小笠原長経の次男で阿波小笠原氏の祖となる。
承久の乱後、兄・長忠が阿波国守護に任ぜられるが、長忠が本国である信濃国への帰国を希望したために、代わって長房が守護となった。文永四(1267)年に幕府の命令を奉じて、三好郡郡領・平盛隆を討ち、褒賞として美馬郡と三好郡に所領が与えられ、阿波岩倉城を拠点とした。子孫は鎌倉幕府滅亡まで阿波国守護を務め、子孫からは三好氏などを輩出した。

貞応元年(1222):長清、阿波守護となる。
寛喜3年(1231):長経、阿波守護となり、勝瑞を守護所とする。
文永元年(1264):長房、三好郡領の平盛高を滅ぼし三好美馬郡を得、岩倉に本拠を置く。

当たらずとはいえ遠からず・
阿波国守護の変遷を推定します。
長清から長径へ、阿波国守護継承。・・貞応元年(1222)。
長径から長房へ、阿波国守護継承。・・寛喜年間(1231-1233)
 ・・長房生誕(1212)+元服(15?)+α。おそらく元服(15歳過ぎ)まで待ったのだろうと思われます。
 
事実の変遷はこのようですが、ここで不思議なのは、何故小笠原長忠は、阿波国守護を選ばずに、信濃・伊那の松尾に帰ることを希望したのでしょうか。
小笠原長忠が、伊那の松尾に帰ることを選んだので、松尾小笠原家が存立し、ここから信濃国に君臨する幾多の”信濃国守護”が排出されるわけですから、興味津津です。
 ・信濃・伊那松尾では、おそらく”地頭”か”地頭代”の役職で”守護”より格下です。
 ・名誉や権力を考えるのなら、この選択肢はなかろうと思えます。
 ・承久の乱(1221)後、知久氏は上伊那の小河内から知久平に移って、伴野庄の地頭となったという。これ以後に、伊那・伴野(豊丘村)地頭の小笠原長清の名が文献から消えます。『守矢文書』には、十四世紀のはじめ伴野庄の地頭として伊具氏、波多野氏らの名があり、鎌倉時代、知久氏の勢力は知久平中心になります。知久氏は、承久の乱の時、東山道軍大将・小笠原長清の配下です。戦功の恩賞に、長清が関わっていたことは充分合理的に納得できますし、伊具氏、波多野氏も同類として推察できます。
 ・小笠原長忠の官名に信濃守と”民部卿”が見えます。鎌倉御家人として、出仕先が京都で、朝廷・民部卿である可能性もありますが裏付ける資料はありません。信濃守は、地方の行政官の官名ですから、知久氏などの地頭を束ねる役目だったと考える方が自然です。
 ・伊那・松尾に帰ってからの長忠は、公的な立場から名前が一切出てこなくなります。
 ・長忠が、伊那・松尾に帰ることを希望したのは、どうも私的な理由からだったのではないかと憶測します。長忠の母同様、室の名前も詳らかではありません。これは何を意味するのでしょうか。武家としての地位や名誉や名声や権力とは、かなり離れた存在だったことが覗われます。かなり興味深いことです。長忠の松尾への帰還と相まって、父・長径も松尾へ帰ったと記録に残ります。
 
小笠原長政:長忠の子
・小笠原長政のことも、小笠原家の家系図に載っているだけで、ほとんど判りません。

*(これは、小笠原家系図ならびに寛政譜からの資料の記載からです。群書類従には、違った内容で記載があります。この部分は次号で詳細します。)

小笠原長氏:長政の子:生没:安貞元~延慶三(1227-1310)年 
・長氏の時に、松尾小笠原家は劇的に変化して行きます。
 



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