探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

小笠原政秀  ・・・ 鈴岡小笠原家歴代 

2014-02-28 09:42:48 | 歴史

       鈴岡  

鈴岡小笠原家歴代

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・小笠原宗政・・鈴岡小笠原家の祖、貞宗の次男

・宗康     ・守護、漆田原の戦いで、府中小笠原持長に殺される
・政秀     ・守護、松尾小笠原貞基によって殺害される
・長貞     ・幼年、政秀とともに貞基に殺害される

・・・暫く、廃城

・信定     ・府中小笠原長時の弟、鈴岡城へ養子に入る。信玄に抵抗し京に逃げる

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小笠原政秀
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 明応2年1月4日1493年1月30日
幕府 信濃守護
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原宗康
長貞、養子:長朝

     小笠原政秀

生涯・・・

室町時代の小笠原氏は中興の祖である祖父・小笠原政康の没後、家督争いが起き衰退していた。

政秀の養父は宗康である。父の政康は従兄の小笠原持長と争い、戦死している。政康は死の直前に弟の光康に家督を譲っており、政秀は叔父で養父の宗康の下で養育された。
・・政秀は寛正2年(1461)、養父の死により家督を継承したと推測されている。鈴岡城に拠り、弟の松尾城主小笠原家長(光康の子)や又従兄の府中城主小笠原清宗(持長の子)と並ぶ勢力となった。・・・家長と政秀の関係に混乱が見られる。兄弟と見られる関係だが、父を同じくしながら、母を異として、政秀は鈴岡家の養子になり相続し、家長は松尾家を相続した、と言うことであろうか。
・・応仁元年(1467)頃から清宗を攻撃して、一時は小笠原家の惣領となった。文明5年(1473)には室町幕府から信濃守護に任命されている。しかし、小笠原家をまとめ上げることはできず、小笠原長朝(清宗の子)を養子に迎え、再び家督を譲らざるを得なくなった。
・・一方、松尾家とは当初は良好な関係であり、幕府の命令で美濃に出陣するなど共同歩調をとっていたが、後に伊賀良荘の領有を巡って争うようになった。政秀は諏訪氏と同盟を結び、文明12年(1480年)に家長と戦って討ち果たしたが、明応2年(1493)1月4日、家長の子である小笠原貞基に松尾城で実子の長貞と共謀り、政秀を暗殺した。
・・鈴岡小笠原家は滅亡したが、政秀の未亡人は下条氏を通じて府中家の小笠原貞朝(長朝の子)を頼って落ち延び、後に貞朝の子の小笠原長棟が松尾家を下して小笠原氏の統一を果たすことになる。

  鈴岡城趾跡

 

小笠原家、山家鼎立の中で・・・

鈴岡小笠原家の当主・政秀は、この時期の三家の中で、武家としての力は抜きんでいたことが覗われる。この力は幕府にも聞こえ、信濃守護の補任されている。さらに諏訪大祝家や高遠家とも同盟を結び、度々府中小笠原を脅かした。応仁元年(1467)7月15日、小笠原政秀(政貞)が府中(松本市)に攻めこみ、井川館の小笠原宗清を襲うという 、ことがあった。この時宗清は府中を棄てて逃げている。政秀は、最初から松尾小笠原と対立したわけではなく、友好的であった。政秀が、勢力を拡大していく過程で、伊賀良荘の領有問題で、松尾家と対立するようになる。この対立の火種が、やがて小笠原貞基(松尾)が、政秀父子を松尾城に誘い出し、謀殺するという、事変に発展し、これにより鈴岡小笠原家は廃絶する。

政秀が謀殺されると、政秀室は同国の下條家に小笠原家の家宝、書籍を持って逃れた。政秀室が没すると下條時氏が家宝を守ることとなる。この”小笠原家の家宝、書籍”は、小笠原宗家を証明する「弓馬の儀礼」に関係する家宝・書とみられ、以後はこの家宝・書の争奪の戦いが繰り広げられるようになる。つまり、宗家の資格の所有を意味した様だ。

ここで、小笠原の宗家と守護家について、疑問を出しておく。

府中の小笠原持長によって宗家争いをした後、何代か信濃守護が、松尾や鈴岡出身からでている。守護が松尾や鈴岡の時の守護所は、当然府中ではなく出身地であったのだろうか。この部分は、意外と判然としない。理由は、府中の意味が、昔国衙のある政治を司る所の意味で、府中に惑わされる。そこで他所を点検すると、国衙が機能していたのは鎌倉期前半までで、それ以後有名無実となり、松本も機能はなくなったが、むかしの府中の名のみ残した、というのが当たっていそうだ。さらに、”血で血をあらう”御内の争いの中に、守護だといっても行ったとも思えない。とすれば、府中持長と対立関係にあった政康以降の守護は松尾であり鈴岡と言うことになり、府中は長棟と長時の時だけが守護職であったと言うことになる。

以上のことは、時折、政康のことや政秀のことを府中小笠原の守護のように仮冒している書をかなり見かけるので、あえて整理してみました。

未完・・・

 


府中(松本)の豪族達・・

2014-02-26 17:13:41 | 歴史

 府中小笠原氏に反抗か!従属か!

桐原氏

 ・・・桐原城 案内板クイックすると拡大し、内容が読めます)

桐原城
所在地:松本市入山辺

長野県松本市にあった山城。寛正一年(1460)ごろに、小笠原清宗に属した桐原真智(犬甘城主の犬甘政徳の弟)により築城。小笠原氏に属した城の中で、とりわけ規模が大きく、石組みの技法を駆使した大規模な石垣のあった城郭である。1460年から桐原五代に亘って相伝したといわれる。天文十九年(1550)、甲斐の武田晴信は小笠原長時の属城を次々と攻撃したが、林城、深志城、岡田城、山家城とともに自落した。長時は村上義清の塩田城に逃れ、周辺の諸城の城主が次々と武田氏に降伏する中、桐原城の桐原氏は長時に忠誠をつくし、一時期長時を城に迎えた後、村上吉清を頼ったといわれる。長時の小笠原勢力をくだした武田勢は深志城に入城し、晴信は同城を武田氏の拠点として馬場信房、日向是吉を城将とした。このとき、桐原城は遠山長左衛門に与えたとする伝承があるが定かではない。

島立氏

 ・・荒井館(清水ケ城)

荒井館(清水ケ城)
場所; 松本市島立荒井381
歴史・・
小笠原氏の一族島立氏の居城といわれる。・・築城年代は未詳。
・・・荒井城は永享二年(1430)に小笠原氏の一族である島立貞時が築いたとされる。島立氏は小笠原氏に仕えてその領国経営を支えており、島立貞時の子貞永は永正元年(1504)に松本城の前身となる深志城を築き、荒井城から居城を移している。天文十九年(1550)の武田勢の侵攻により荒井城も蹂躪され落城の憂き目を見ている。島立氏は武田氏に降り、天正十年(1582)の武田氏滅亡後は旧領を奪回した小笠原氏に再び仕え、元和3年(1617)に小笠原氏の国替えに従い松本の地を離れている。

島立氏の祖・・・

溝口右馬助氏長は、島立氏の祖として知られ、『百家系図稿』巻六所載の「溝口系図」では、氏長の子の三郎太郎重長が島立右馬助と号し、その三郎次郎貞長が溝 口土佐守と号し、永享七年(1435)十月の常州佐竹の永倉遠江守追討のときに従軍したとある。以下、その子の「貞勝-貞信-長信、その弟長友」(貞長と 貞信の間に一代欠落があるか)と続いて、長友の子に「彦左衛門勝政-秀勝」と記される。なお、この信州溝口の系図は、『姓氏家系大辞典』記載の系図よりは 信頼性があるか。

 



府中(松本)の豪族 坂西氏

2014-02-25 05:55:00 | 歴史

 府中小笠原氏に反抗か!従属か!

坂西氏

 ・・松本城

写真は、国宝松本城です。ちなみに、国宝の城は、姫路城、犬山城 、彦根城と、この松本城の四つしかありません。しかし、坂西氏が城主を務めた深志城は松本城の前身で、それも、信濃守護の小笠原家の林城を守る、いくつかの支城の一つでしかありませんでした。

深志城城主 坂西氏

深志城主・坂西氏は謎に包まれています。まず、坂西の読み方について混乱が見られます。ある書では”サカニシ”と呼び、またある書では”バンザイ”と呼んでいます。また、歴史書の記載は、”深志城主坂西氏”があり、”城代坂西氏”ともあり、築城者は”島立氏”とあり、”坂西氏”ともあります。さらに、坂西氏の記載に、”官名”がありません。しかし、坂西氏の存在は確かなようで、武田に敗れた小笠原長時が、流浪の果ての最後に、会津芦名家に偶居していた時、逆臣に殺害されますが、その逆臣だけが、坂西禅左衛門として氏名を完結して名前を残しています。長時の、長い流浪に随伴して、向背を伴にした坂西氏は、小笠原家のかなりの重臣で、親族か、それに類する立場であったことは確かなようです。

坂西氏を探求・・・

宗家と庶家 ・・・小笠原家

小笠原家一門に坂西家というのがある。
郊戸荘坂西家は「バンザイ」と読むらしい。郊戸荘は、現在の飯田市の”旧飯田市街地”の辺りを指し、松川と野底川の挟地の台地で、河岸段丘の上にあり、天竜川を見下ろす側は、崖状を示す天然の要塞をなす所に城・・飯田城(長姫城)をもつ。家名の発祥は、小笠原家七代当主・貞宗の三男・宗満が、郊戸にあった名跡・坂西(バンザイ)家を継承したと記す。この家系は累々と年代を重ね、時折歴史に名を残している。まず、大塔合戦の時、坂西長国が守護長秀側で参戦して戦死している。諏訪家の文明の内訌では、坂西”孫六”の名で活躍している。そして最後は、信長の武田侵攻の時、坂西織部は、南信の防御の要・飯田城で城将として敗戦している。何れも、郊戸荘坂西家の系流を継ぐ者である。・・・寂しいことであるが、この郊戸荘の地名は、地方史に関心のある地元の人達だけが、かすかに記憶される地名で、郊戸は"死語"になってしまったようです。

宗家は、一門の主人たる家であり、別家は、宗家の当主の兄弟の分割相続であり、かつ宗家にことあらば、宗家を継承しうる資格を有すという。庶家は、正統なる婚姻にない子弟の家と、別家からまた独立した家を示し、一門一族であるが、やや格を下にする。

さて、ここで歴史書に混乱しているのが府中・小笠原家の家臣・坂西家のこと。こちらの方は、”サカニシ”と呼ぶらしい。歴史を辿ると、貞宗以来の古参の家臣らしく、小笠原家が府中へ移封以来、小笠原家と向背を伴にしている。今の松本城が、昔林城の支城であった深志城の創建の時、つまり初代深志城の城主は、島立氏という記録が残るが、その後坂西氏が城主という記録もあり、時系列の関係のようだ。小笠原長時が、武田に敗れて、放浪のときに、家臣では溝口氏と坂西氏が同行したらしい。

この、府中坂西氏は出自が謎である。

この、郊戸(飯田)坂西氏の一族が、府中坂西氏と同族であったとは思えない。なぜなら、松尾と府中は、”宗家”という一族の棟梁を巡って激しく対立を繰り返してきた経緯があり、郊戸坂西氏は、松尾小笠原家の別家という立場から、一貫して松尾小笠原家の家臣団の中心だった。その郊戸坂西氏が府中に同心する可能性は極めて低いと思うからです。

可能性としては、赤沢小笠原氏が、京都の細川家に仕えた時、細川家領内の近畿・阿波の知行を代行した経歴があり、阿波の坂西地方の”坂西家”を継承したという事歴が残っており、細川家が近畿から駆逐された時に、赤沢流坂西氏が信濃に戻った可能性はあると思います。

だが、上の二つの可能性は、府中坂西氏が小笠原家の庶家・同族を意味しますが、府中坂西氏は、小笠原同族を誇示した例が見つからず、重臣ではあるが他流ではないかと思われます。
以上の観点から推測すると、郊戸の地頭・近藤六親の系譜の坂西家は、小笠原貞宗の時に、貞宗に臣下し、貞宗が府中に守護として赴任する時に、重臣として随行して、郊戸を引き払い、府中に居を移した、と考えるのが妥当ではないかと思われます。郊戸の地頭で名跡であった坂西家を、貞宗の三男・宗満が継承して”バンザイ”を名乗り、府中に行った坂西氏は”サカニシ”を名乗った、・・・これが一番辻褄が合いそうです。

深志城の城主は、小笠原氏の将・坂西孫三郎光長の拠った地で,1454年深志城に入るとの記述があります。永正一年(1504)小笠原貞朝とその将・島立右近貞永が坂西氏の旧址に城を築き深志城と称した、とあります。場所はともかく、城の名前は島立氏からのようです。その後、島立氏は、本来の領地の島内に城を築き、領内に戻ります。深志城は、また坂西氏が城主となったのでは、と思いますが、時系列的順序は定かではありません。どうも府中坂西氏の役目は、武闘の将と言うよりは、年貢などの税を扱う内政の管理者だったのではないかと思われる節があります。この頃の深志城は、規模は小さく、現在の本丸、あるいは二の丸を含んだ地域内に館を建て、堀を廻らせた程度のものであったと思われます。
・・・桐原の城主は深志城の坂西の甥です。・・・桐原大内蔵真智が初代城主で以後、桐原市正真実・蔵人真貞・織部真基と続き、真基の代に 武田氏に敗れ ... 二木家記」と笠系大成附録「増補二木家記」に詳しく書かれている・・・この中で深志城の坂西太郎の名前があります。

今回は、府中・坂西家は謎の部分が多く、資料が少ないため、独断の推論で書かせて貰いました。・・・輪郭を明確にするためにも、反論・異論を貰えれば、もっと精査してみたいと思います。

 


府中(松本)の豪族 二木氏

2014-02-22 00:06:25 | 歴史

 府中小笠原氏に反抗か!従属か!

                  ・・ 宗家と庶流 ・・

二木氏

 二木氏 三階菱 (清和源氏小笠原氏流)

以下、「戦国 武家家伝大井氏」からの引用による ・・・『 』内引用


『信濃国安曇郡住吉庄は、その昔院御領であった。鎌倉幕府滅亡後の建武二年(1335)八月、北条高時の遺子二郎時行が諏訪氏らの後援を得て挙兵し、東国はおおいに乱れた。これに対し、足利尊氏は鎌倉を征討して、北条勢を一掃した。世にいわれる「中先代の乱」である。この合戦に、小笠原貞宗は尊氏に従い、信州各郡の北条方の武士を征討した。その軍功によって、尊氏から住吉庄の地頭職を与えられた。・・・その住吉庄の一郷に二ツ木郷があった。貞宗の四男小笠原七郎政経は、興国六年(1345)八月の天龍寺供養に際して、尊氏の随兵として名をあらわした。この政経が住吉庄内の地頭職を分与され、二ツ木郷に居を構えた。その後、世代を重ね小七郎貞明に至って、二木を家号にしたという。・・・とはいえ、『溝口家記』によれば、二木氏は安曇郡西牧の地に割拠し、その苗字は天文十九年(1550)十月の野々宮合戦後に、小笠原長時が二木氏の居城中塔城に篭城したとき、重高らの忠節に対して「二木之名字被下」れたことに由来するとみえている。・・・いずれにしろ、貞明は、永享十二年(1440)の結城合戦に際し、小笠原政康に従い、その先陣を勤めたという。以後、二木氏一門は、小笠原氏に従って戦乱の時代を生き抜くことになる。』・・・この中のように、歴史的な矛盾があることも確かだが、二木家の存在自体は複数の書で担保されている。

中塔城
 
城名  : 中塔城、中洞山城、小室山城とも
城の種別: 山城、標高1250m、比高450m
築城時期: 不明(天文年間?)
築城者 : 小笠原氏(?)
主要城主: 小笠原氏、二木氏
遺構  : 曲輪、堀切
住所  : 長野県松本市梓川梓~安曇野市三郷小倉

長野の山城の中でも高所に位置し、安曇野一帯を治めていた豪族・西牧氏の本拠である北条城の詰の城として築城されたようである。西牧氏との関係は解明されていない。


歴史

戦乱のなかの二木氏


『天文十四年(1545)武田晴信は、藤沢氏の福与城を攻撃した。小笠原長時は妹婿の藤沢頼親を援けるため軍を発したが、戦かわず兵を退いている。天文十七年(1548)上田原において村上義清と晴信が戦い、晴信は大敗した。村上勢の大勝により村上・小笠原・仁科・藤沢の四家は連合して、下諏訪に討ち入った。・・・この諏訪討ち入りに際して、二木豊後守重高、弟の政久、同六郎宗末らの二木氏一門が従軍した。そして諏訪郡代板垣信形の館を囲み開城の交渉の時、仁科道外が戦線を離脱した。仁科氏が諏訪支配を目論んだのに対して、長時がその要求を拒んだことによるという。』・・・間もなく、晴信が甲府より急行し、長時は兵を退いて塩尻峠に陣を布いた。武田軍は塩尻に攻めて合戦になったが、ついに長時は大敗して林城に退いた。この塩尻峠の合戦には、二木一族は弟政久、宗末らがいて長時軍に就いて武田軍を迎え撃ったが、合戦の大詰めになってから、この時は、二木一族は、武田晴信方に寝返り、長時敗戦の主因を作ったといわれる。・・・翌十八年晴信は村井に陣を布いた。一方、長時は桔梗ケ原で応戦につとめたが、草間肥前守、泉石見守らを討たれて、長時は林城に退いた。この敗戦で、三村入道、山家、坂西、島立、西牧の諸家は晴信に降った。節を曲げず長時に属したのは、二木一族、犬甘、平瀬らの諸士のみであった。ここに至って長時は、林城を棄てて川中嶋に赴き、村上氏を頼った。・・・『天文十九年になって府中の回復を目指す長時は、村上氏の加勢を得て帰郷し安曇郡に入り、氷室に陣を布いた。二木一族、犬甘、平瀬らが小笠原軍に参集し、人数は多勢となった。かくして、村上勢と深志を挟撃しようとしたが、晴信が諏訪に進出したことを聞いた村上義清は、小県の自城が攻められることを恐れ、戦線離脱し川中島に退いた。そこに、馬場民部、飯富兵部ら晴信の先陣が氷室に攻め寄せてきた。両軍は野々宮において会戦したが、この時は小笠原勢は武田勢を撃退することに成功した。

小笠原氏に節を尽くす


しかし、既に大勢は定まっていて、長時は勝運の見込みがないとして自害をしようとした。これをみて、二木重高は諌止して二木氏の中洞の小屋に逃れることを勧め、重高もそれに随った。以後晴信は中洞小屋に攻め寄せたが攻略しきれず、天文二十二年まで、二木一族は長時を守護して武田方の攻撃を防いだ。・・・その間武田氏の信濃攻略は着々と進み、伊那郡の諸武士のほとんどが武田氏に降り、国外に退去するものもあり、松尾、下条両家も長時を援軍できず、村上義清も川中島に去っていった。・・・長時は万策尽き、二木一族の守る中洞小屋を去って、越後の上杉家を頼ることに決した。二木氏一門は、長時の深志回復戦となった前述の野々宮合戦から、越後の上杉氏の許に流寓するまで、重高は一門を挙げて物心両面にわたる援助を長時にしたのである。・・・重高の嫡子は重吉で父と同じく豊後守を称した。天文十四年(1545)伊那郡に侵攻した武田晴信に対抗した藤沢頼親を援軍した小笠原長時に従って初陣を飾った。以後、父の重高とともに長時のために尽力したが、武田氏の府中制圧後は、晴信に許されて一族とともに二木郷に居住した。・・・天正十年(1582)織田信長によって武田氏が滅ぼされると、深志城再入部の本懐を抱いて西牧の金松寺に至った小笠原貞慶の許に、二木重高は子の重次、弟の盛正ら二木氏一門の者を引き連れて参向した。しかし、貞慶が深志城入城を果たさないままに上方へ退去したため、重吉はこの時深志城主となっていた木曽義昌に娘を人質に出してその被官となった。・・・信長が本能寺で横死すると、越後勢の後援を得て深志に入部していた小笠原貞種を、弟の盛正らと画策して攻略し、貞慶の深志復帰を実現に導いた。天正十一年(1583)、西牧氏を討滅した貞慶から西牧領の代官職に任命され、翌年貞慶による麻績城攻撃に際しては、松本城の留守を命じられた。麻績城攻略戦において、貞慶は麻績城主下枝氏を援けた上杉軍の前に大敗を喫して窮地に陥った。・・・松本城を守備していた重吉は貞慶を救うべく策をめぐらした。・・松本の市井人と近郷の農民数千を集め、用意した紙旗を持たせて援軍に見せかける奇略を弄した。・・これで、漸く貞慶を死地から脱出させることに成功したという。その後、重次は旗本足軽大将格に、天正十二年頃には千見城在番衆に、任命されたことが『岩岡家記』に記されている。

その後の二木氏


その後も、二木氏は小笠原氏に仕えて、二木豊後守、草間肥前守綱俊は、犬甘半左衛門久知と並んで、小笠原家の城代となり、三職も務めた。天正十八年(1590)貞慶の跡を継いだ秀政は下総古河三万石を賜り信濃国を離れた。このとき、秀政は安曇郡西牧の材木を伐り出し、新封地に搬送した。その奉行は二木氏が務めたことが記録に残されている。』

武田信玄の信濃併呑によって、いったんは滅亡の憂き目にあった小笠原氏は、当主長時が長尾景虎を頼って越後へ、ついで上方の三好氏を頼って亡命生活を続けていた。京都へ上る際、長時は二木一族に対し、信濃に残って小笠原家再興の種となってもらいたい、と託したのであった。この二木一族の活躍と忍従こそが、のちの近世大名小笠原氏を誕生せしめたといっても過言ではない。・・・戦国の世が終ってみれば、武田氏はわずかに旗本として家名が残ったきり。対するに小笠原氏は府中・松尾の二流ともに大名に列し、それなりに隆盛した。その運命をわけたものは何なのか。特に府中小笠原の存続には、この二木家の役割が大きく貢献する。


逸話・・・二木家と三村家


◆二木一族は大日方上総の口利きで、信玄から二木の地を安堵され、そこに還住していた。ところが猜疑心の強い信玄はこの一族に心を許さなかった。折しも小笠原時代から二木一族とは犬猿の仲だった洗馬の三村氏が事あるごとに信玄に讒言した。
「二木は小笠原長時を飛騨まで呼び寄せ、主家の再興をはかっております」
◆信玄は三村の讒言に激怒し、二木一族のおもだった者に対し、甲府へ出頭するよう命じた。疑いをかけられた二木一族は急遽、一族会議を催した。「甲府へ行けば必ず殺される。いっそ中塔城へ籠城し、一戦交えようではないか」と勇ましい意見を吐く者もあったが、二木重高はこれを制した。
重高「それでは一族の全滅は火を見るより明らかである。甲府へ出頭し、精一杯の申し開きをし、運を天にまかそうではないか」
◆結局、一族は重高の意見を採り、おもだった者たちが甲府へ出仕した。が、意外にも甲府では三村氏との対決の場が用意されていた。信玄は山県昌景に二木一族謀叛の真偽を、三村氏と二木氏の対決によって究明せよ、と命じていたのである。
◆宿敵三村氏との対決の場には重高が臨んだ。重高は「旧主長時の居所さえ知らないのに、どうして信濃へ引き入れることができようか」と潔白を主張した。信玄は物陰に隠れて訴訟のなりゆきを聞いていたが、結局、二木氏を断罪することは躊躇せざるを得なかった。二木一族は処刑を免れ、在所へ帰ることを許されたのであった。
◆ところが、二木氏を訴えた三村氏のほうが武田家への叛意を抱いていた。三村氏の拠る筑摩郡に叛乱が勃発した時、信玄は「重高に図られたか。張本人は二木一族に違いない」と口惜しがった。
◆一方、三村の乱に「これぞ、汚名返上の好機」と二木重高らは深志城へ赴き、武田家への忠節を示すため、入城して三村と戦いたい旨を城将馬場民部に伝えた。馬場も信玄同様二木を疑い、城へ入れることを拒んだ。
重高「ご覧のとおり、女子供を連れており申す。これは武田家へ差し出す証人でござる」
馬場「主命がないかぎり、むやみに城へ入れることはでき申さぬ」
重高「いたしかたない。入城の許しが出るまで野宿いたそう」
◆城外の馬出しで女子供を含む二木一族は一夜を明かしたと聞き、さすがの馬場も折れて、城へ入ることを許したのであった。信玄はその報告を聞いて、不思議そうな顔をしたという。おのれの判断力が、ついに人の至誠を見抜けなかったことへの忸怩たる思いが去来していたのだろうか。権謀をもって興った武田家は滅び、至誠を貫いた二木家は生き残る。だが、「小笠原家再興」の大命題のためには、憎き敵将信玄の信任をも勝ち取れ、という二木重高の至誠こそは最大の権謀と言えなくもない。
◆二木一族は武田家の信頼を勝ち得、その滅亡後も信濃で活動を続け、ついに小笠原家再興を実現させるのである。慶長十六年(1611)、小笠原秀政は二木寿斎に命じて、その苦闘の歴史を記録に残すように命じた。それに応えて成ったのが『二木家記』である。二木寿斎は重高の嫡男であった。

参照 松本の発祥・・・

四方赤良  ・・・四方赤良の余談集2 ・・・『其之 63』H17.12.1~H18.1.1

私こと小僧丸・・・小笠原貞慶のこと
天文14年(1545)私こと小僧丸は、大膳大夫信濃守 小笠原長時の3男として生まれました。林の御館(松本市)という山城の麓にある屋敷に暮らし、私には守護の息子として前途洋々の人生が待っていました。しかし、私が5歳の天文19年(1550)、父長時が宿敵 甲斐国の武田信玄に塩尻嶺の合戦で大破し、次々と城が落とされ、生まれ育った林の御館を離れることになりました。馬にゆられて梓川に沿った長い道中を進み、二木豊後守が籠もる中塔城(旧梓川村)に兄や叔父達と入りました。父はそこで武田信玄に徹底抗戦していましたが、それまで従っていた者達が次々と裏切り、無念から切腹しようとしましたが二木に止められ、剃髪して湖雲斎と名乗り、天文21年(1552)大晦日、中塔城を捨てて、北信濃の高梨殿を頼って草間(中野市)へ行きました。そもそも武田は小笠原家とは同族であるのに、何故これほど争わなければならないのでしょうか。「鎌倉の時代、逸見源太清光の2男武田信義と3男の小笠原遠光は兄弟。お互いに甲斐守護と信濃守護を朝廷から受け、累代別々にこれらの地を治めてきた。」と、父は常々口にしていました。・・・天文23年(1554)父は領土回復をあきらめず、弟の小笠原信定殿が武田と戦っている伊那郡の鈴岡城(飯田市)へ向かいました。私達は危険であると言われ、高梨殿を通じて上杉謙信殿の春日城下(上越市)で暮らすことになりました。上杉殿は私達のためにしきりに信濃へ出兵されて武田と戦い、母はいつも感謝の気持ちを忘れてはなりませんと私に言っていました。ある時、父のいる鈴岡が落ちたと知らせがありました。父は三河を経て伊勢国の外宮御師を務める榎倉武国殿という方に厄介になっているとの便りがあり、無事で安堵しました。・・・弘治元年(1555)父が同族である三好長慶という方を頼って、都で落ち着いたとの知らせがあり、私達も向かうことになりました。長慶殿は近畿一帯の覇者で、私達はその領土内の摂津国芥川城下(大阪府)で生活することになりました。父は100貫の領地をもらって、三好家や将軍足利義輝さまに弓馬の師範をしていました。・・・それから3年後の永禄元年(1558)、私は元服して名を小笠原喜三郎と改めました。時折、信濃において上杉殿と武田が激しく争っているとの話が耳に入ってきましたが、生まれ故郷に帰れる日はまだ遠そうでした。父はまだ諦めていないようでしたが、私はすっかり都の生活が気に入ってきました。そしてまもなく、父から秘伝の小笠原礼法を伝授され、私も公家や各地の武将との交流が増えてきました。そんな折、ご縁で日野大納言様の息女を嫁に迎えることになり、幸福に暮らしていました。しかし、都での生活が10年も経とうとした永禄7年(1564)、三好長慶殿が死亡し、我々は家臣であった松永久秀の下に置かれることになりました。彼は足利義輝さまを殺害したり、東大寺を焼くなどし、三好一党内は混乱していました。そのような中で、永禄11年(1568)昨今著しく勢力を広げてきた尾張国の織田信長という者が軍勢を率いて入京してきました。私は三好義継殿に従って桂川で初めての合戦に臨みましたが、叔父の小笠原信定殿が討ち死にするなどして破れ、芥川城も落ちました。母は織田方へ捕らえられ、私は父や叔父の貞種殿などと共に多聞山城(奈良県)に立て籠もりました。しかし、これ以上戦っても勝ち目はなく、三好義継殿や松永久秀殿も織田殿へ従ったので、我々も降伏しました。私は子も生まれ、妻の実家である日野殿とのご縁もあるので京都に留まり、父から伝授された礼法を織田の各将などへ師範していました。そんなこともあって、私は信長殿を通じて従5位下右近大夫という栄誉に叙位されました。・・・それから4年後の天正元年(1573)、武田信玄が死んだとの知らせが私と父のもとに届きました。このことに父がどれほど喜んだことか、父は思案の末、織田殿との縁を私に任せ、自身は深志を取りもどすために再び上杉謙信殿を頼って、越後へ向かいました。既に50も過ぎていたので、あちらで無理をしないかと心配でしたが、上杉殿は父を賓客として500貫もの領地を与えてくださいました。越後での父は、越中国や関東まで出かけて反武田の工作をし、私は織田殿が信濃へ出兵してくださるように嘆願し続けました。そんなかいもあって、天正3年(1575)三河の長篠で武田軍が織田殿に大破し、いよいよもって深志へ帰れる日が近づいてきたように感じられました。しかし織田殿はすぐには信濃へ出兵せず、ただ待つ日が続きました。・・・天正6年(1578)、上杉謙信殿が突然死亡しました。そして、その跡継ぎを巡って争いが起こり、宿敵武田の影響力が上杉家まで及んできたので、父は越後に居られなくなり、天正7年(1579)会津国の芦名盛氏殿を頼っていくことになったと知らせがきました。父は星味庵という場所で暮らしていましたが、しばらくすると私を都から呼び出しました。6年ぶりに父と再会しました。父は70近くになり、随分年をとったと感じました。父は私に家督を譲ると言い、400年続く小笠原家の家宝や旗印を与えられました。そして私は、名を小笠原貞慶と変えました。・・・天正10年(1582)3月、織田殿の軍がいよいよ信濃へ進軍しているとの急報が会津に届きました。かねて織田殿から「信濃へ出兵せよ」との催促があったので、私は父を会津に残し、さっそく譜代の者を引き連れて30年ぶりに信濃へ出陣しました。上杉と武田は同盟していたので、越後口からの入国は厳しく、飛騨国まで迂回してようやく安曇郡の金松寺へ入ることができました。しかし、既に武田家はことごとく滅び、深志一帯は織田軍に制圧されていました。さっそく上諏訪の法華寺に滞陣していた信長殿へご挨拶に出かけたのですが、何故かお目通りが叶わず、さらに深志は木曽義昌へ与えられたことを知って大変落胆しました。しかたなく妻と子がいる都へ戻り、父に合わす顔もないので酒びたりの生活をしていましたが、7月の夜都で騒ぎがあり、信長殿が本能寺で討れました。誰もがその後継を巡って大きな戦が起こると言っており、私はこの機会にかねてから懇意にしていた徳川家康殿を頼って三河へ行くことにしました。・・・岡崎城(愛知県)に着くと、信濃進出を狙う徳川殿は私を喜んで迎えてくれました。家来の石川数正殿へ私の世話を命じられ、「既に深志の木曽義昌は上杉軍(景勝)に攻撃されて逃げ去り、上杉軍に担ぎ上げられた叔父の小笠原貞種殿が治めている」と、話してくださいました。徳川殿の勧めもあって出兵の準備をしていると、有賀と平澤という者が、二木一族と征矢野の書状を持って私のところへやってきました。二木は私に「深志へ来て領地を回復してもらいたい」とのことで、ひとまず溝口・犬甘・平林など譜代の15人と共に伊那郡へ向かうことにしました。鈴岡城は武田によって破却されていたので、既に徳川殿に従っていた一族の下条頼安がいる吉岡城(下条村)へ入りました。すると伊那郡の旧家臣達が兵を引き連れて集まり始め、父と流浪の日々を送った箕輪の藤沢頼親も兵を率いて参陣してきました。私はこれらを引き連れて北上し、塩尻に布陣して小笠原の旗印を高々と掲げました。すると父の家来だった筑摩郡や安曇郡の者達が次々と集まってきました。彼等はみな上杉の傀儡となっていた貞種殿に不満を持ち、父の深志入りを待ち望んでいたとのことでした。そして兵も集まったので、いよいよ深志城の小笠原貞種殿と上杉軍を攻撃しました。城の抵抗は激しく、鉄砲で箕輪の者共が多く討死しましたが二の丸まで落とし、やがて私がいることを知った貞種殿が、総領家に反抗するわけにはいかないと、城を明け渡してくれました。・・・こうして7月18日念願の深志回復を果たすことができました。私は長い都生活において、これからの時代は商売がものをいう時代だと確信しました。武田が築いたこの深志城を中心に、富んだ城下町を整備することを決意しました。私はこれを記念して、家臣一同へ宣言をしました。「今後、深志を改めて松本と号す」

 




 
 

府中(松本)の豪族 平瀬氏

2014-02-21 11:26:45 | 歴史

 府中小笠原氏に反抗か!従属か!

平瀬氏

平瀬氏は、犬甘氏と同族。終始向背ををともにしている。小笠原家に従属し、一貫して小笠原を主家として助けた。

 ・・平瀬城

 

平瀬城
l平瀬城主郭部
城郭構造 山城、居館
築城主 平瀬氏
主な城主 平瀬氏、原虎胤
廃城年 1553年
遺構 曲輪、土塁
指定文化財 なし
平瀬城(ひらせじょう)は、長野県松本市にあった日本の城。

住所;長野県松本市島内

平瀬氏

平瀬城は小笠原氏の家臣平瀬氏の城であった。小笠原長時は天文19年(1550)、武田晴信に攻められて本城である林城を捨ててこの平瀬城に撤退し、その後、村上義清を頼り葛尾城に落ちていった。砥石崩れにより武田氏は村上方に敗れたが、その機会に再び小笠原長時は村上義清の援助を得て平瀬城を奪還した。天文20年(1552)平瀬城は武田晴信により落城し、城主の平瀬義兼は自刃した。晴信は平瀬城を改修し原虎胤に守らせた。天文22年(1553年)、筑摩郡は武田氏がほぼ平定したため、平瀬城は廃城となった。

ひらせじょう【平瀬城】

長野県松本市の島内地区にあった山城(やまじろ)。戦国大名で信濃守護の小笠原氏の家臣平瀬氏(犬甘(いぬかい)氏の一族)の居城。奈良井川と梓川が合流して犀川と名前を変える合流点近くの標高716m前後、比高約140mの山頂に本城が、その南の標高約650mの山頂に支城があった。それぞれ、北本城、南支城ともよばれている。この城は平瀬氏によって、小笠原氏の本城である林城の築城と前後して築かれたのではないかともいわれているが、築城年代・築城者は明らかではない・・・北本城、南支城とも保存状態は良好で、北本城には多数の帯曲輪(おびぐるわ)、堀切、虎口、武者走り、馬出、主郭・二の郭の土塁や石垣の一部などが残る。また、城跡からは焼米、石臼、内耳土器などの破片が出土した。南支城跡にも主郭の土塁や虎口、その前面の二の郭跡、南の尾根や東西斜面の堀切跡などが残る。JR篠ノ井線田沢駅から徒歩30分、国道19号沿いの平瀬城跡入り口から徒歩。

平瀬氏はのちに信濃守護として入国した府中小笠原氏の配下となった。その後、平瀬城は平瀬氏の居城として、犬甘城(同市)とともに、小笠原氏の本城の林城の北方を守る城として機能した。

1550年(天文19)、甲斐の武田晴信(武田信玄)は、対立していた信濃守護の小笠原長時への攻勢を開始し府中(現松本市)に進撃すると、村井城を前線拠点としてイヌイの城(埴原城とも推定されている)を攻略し、その後、小笠原氏の本城(林城と井川館)をはじめ、属城の深志城(のちの松本城)、岡田城、桐原城、山家城を次々と陥落させた。このとき、長時は林城から平瀬城に逃れたのち、北信濃の村上義清を頼って落ち延びたが、平瀬城は犬甘城とともに小笠原方の城として踏みとどまった。同年秋、信玄が戸石(砥石)城の合戦で村上義清に大敗すると(戸石崩れ)、義清のもとに身を寄せていた長時は再び平瀬城に入り、武田氏に対する小笠原氏の抵抗の拠点となった。しかし、1552年(天文21)、平瀬城は武田氏に攻められて落城。城主の平瀬義兼は自刃した。信玄は平瀬城を改修して原虎胤に守らせたが、筑摩・安曇を平定して支配を確立すると、その支配の拠点を深志城に一本化したため、平瀬城は1553年(天文22)に破却処分となった。

参考・・・熊倉氏館跡  ・・豊科・熊倉地区・・

熊倉氏は守護小笠原氏に従って 永 享 12 年(1440)に関東結城に出陣しています。松本市島内の
犬甘氏・平瀬氏の一党と思われますが、その後の動静は明らかではありません。

熊倉氏が氏神として祀っていたとみられる若宮八幡や、京都方面から神主として来往した宮崎高祖橘氏の神霊塚碑なども祀られています。

 

 


府中(松本)の豪族 犬甘氏

2014-02-20 18:01:22 | 歴史

 府中小笠原氏に反抗か!従属か!

 ・・犬甘氏家紋

犬甘氏 ・・・いぬがいし、と読む。小笠原貞宗が府中入封の頃より、小笠原家に従属。戦国から江戸時代にかけて、一貫として小笠原家の支柱となり、家老として小笠原家を支える。

 ・・犬甘城(蟻ヶ崎城、犬飼城)

所在地: 長野県松本市大字蟻ヶ崎
別 名: 犬飼城
現存遺構: 曲輪、土塁、空堀、横堀?
区 分: 平山城
城 主: 犬甘(イヌカイ)氏
歴 史: 正平年間
(1346-1370) 犬甘氏が築城

 ・・城跡の公園風景

松本の市街地から北西の方角・蟻ヶ崎・宮淵の高台に城山公園、その最高所となる西端の尾根には、犬甘城跡が存在する。西側が奈良井川に向かって断崖。東側は現在、芝生公園の暖斜面。犬甘城跡からは、眼下に松本城を見下ろすことができ、東の山辺方面には林城と桐原城が、南東には埴原城が遠望できる。
犬甘城は、古代からの豪族である犬甘氏の居城として築かれ、戦国時代を通じて重要な城砦であった。

犬甘氏の古族としての経歴はかなり興味を引くものがある。渡来人が祖先というのも面白い。伝承された祭りのなかに・・、あるいは遺跡として、それに繋がるものがあれば、さらに惹かれるのだが・・・。

犬甘氏の祖先・・・
さて、古代の信濃国には十郡があり、松本平には筑摩郡が置かれていた。筑摩郡には、良田(ヨシダ)、崇賀(スガ)、辛犬(カライヌ)、錦服(ニシキベ)、山家(ヤマガ)、大井(オオイ)と六郷あったといい、この中の辛犬郷の地は現在の松本市のあたりとされている。この辛犬郷には、辛犬甘(カライヌカイ)氏という渡来系の有力氏族がいたことが判明しており、のちに犬飼(犬甘)氏という豪族に発展していった。松本の浅間温泉は、天慶2年(939)この地の領主豪族の犬飼半左衛門によって発見され、「犬飼の御湯」と呼ばれたと記録されている。犬飼および犬養姓の起源は、官位の名称とされており、朝廷の狩猟犬を飼育する役職だったという。犬飼氏の飼った猟犬は狼の血を引いて、十分に訓練を積んだ狼犬であった。奈良の長岡宮には十二の門があり、その中に県犬養(アガタイヌカイ)門、海犬養(ウミイヌカイ)門、稚犬養(ワカイイヌカイ)門があった。県犬養氏は県の穀物倉庫の番人、海犬養氏は港の倉庫の番人だったとされ、稚犬養氏は犬を飼育して交配・繁殖させる職業だったという。この氏族は吉野の大伴氏の郎党であったといい、古代豪族は、特殊技能を持った郎党を抱えておくことが勢力の源泉であった。また、『日本書紀』、『新撰姓氏録』によると、犬養部(イヌカイベ)を統率した伴造に、県犬養連(コウリイヌカイムラジ)、海犬養連(アマイイヌカイムラジ)、若犬養連(ワカイイニカイムラジ)、阿曇犬養連(アズミイニカイムラジ)の四氏が存在したことが伝わっている。古代の犬飼たちは開拓地に狼犬を連れて移住していき、入植先では重要となる水源を警備したという。・・・安曇氏とともに信濃国に入植した海犬養氏は、辛犬甘氏のちに犬甘氏と名乗って豪族化していた。信濃国の国府の近くに勢力を持った古代の犬甘氏は、国衙行政の実務に従事した在庁官人である。国衙とは古代の律令制において国司が地方政治を遂行した役所のことで、在庁官人とは朝廷から派遣された国司が、現地で国衙の実務官僚として採用した豪族や有力者らを指す。犬甘氏は国衙領の経営や租税徴収、軍事力の提供を行うことで国司に貢献した。平安中期以降(11世紀~12世紀)在庁官人の多くは、在地領主として、そして武士として成長していくことになる。また、犬飼衆の多くは地方で地侍になっていくが、狼犬を使いこなす特殊技能を活かして忍者のように諜報活動に従事する犬飼衆もいた。実際に戸隠流忍術すなわち戸隠修験の中心である戸隠神社(長野市戸隠)の宮司も犬飼氏という。松本市の北西は、奈良井川と梓川の川中島の内側であったため島内と呼ばれているが、中世には犬甘氏が支配していたため犬甘島と呼ばれており、盛んに開発されたという。当初は、深志城の地に犬甘氏の城館があり、南北朝時代の正平年間(1346-70年)頃に犬甘城を築いて移ったと伝承がある。平瀬城の平瀬氏、桐原城の桐原氏などは犬甘氏と同族といい、犬甘一族によって松本一帯が治められていた。
建武元年(1334)足利尊氏に従った小笠原貞宗は、信濃国守護職に任命され、信濃国府中の井川館に入った。この頃、犬甘城は放光寺城とも呼ばれ、南北朝争乱の時期に小笠原氏がこの城に立て籠もって戦ったという史料があり、そこには「放光寺城の戦い」と記述されている。

犬甘氏は同族の平瀬氏とともに、小笠原家に従属・・・
室町時代において、犬甘氏は同族の平瀬氏と向背をともにしており、永享12年(1440)の結城合戦では、室町幕府の命を受けた小笠原政康に属して出陣している。そして、応仁・文明の乱を経て、信濃国守護職の小笠原氏の麾下に属するようになった。のちに犬甘氏は小笠原氏の家老となり、犬甘城は小笠原氏の属城として機能した。戦国時代になると、小笠原氏の本拠である林城を中心に、西の前面には深志城、犬甘城、平瀬城、東の山辺には桐原城、山家城、北方には伊深城、稲倉城、南方には埴原城、熊井城といった強力な支城網が構築されていた。しかし、当時の信濃国守護職であった小笠原長時は、塩尻峠の戦いでの敗戦後、甲斐国の武田晴信の侵攻を受けて徐々に領土を蚕食されていき、退勢は覆いがたい状況であった。天文19年(1550)小笠原氏との決戦のため前線基地である村井城に入った武田晴信は、まず林城の出城であるイヌイの城(場所不明)を攻略して勝鬨をあげた。これに戦慄した小笠原長時は林城を捨てて葛尾城(千曲市)の村上義清のもとに亡命、林城の支城である深志城、岡田城、桐原城、山家城などは相次いで自落した。

小笠原家の滅亡と小笠原家臣・・・
小笠原氏の家臣の多くが武田氏に降伏するなか、犬甘城の犬甘大炊助政徳と平瀬城の平瀬八郎左衛門は、居城に籠城して武田軍に対して頑強に抵抗を続けた。『二木家記』によると、同天文19年(1550)村上義清が援軍を派遣するとの風説があり、深志城代となった馬場信春が、家臣を連れて夜の苅谷原崎あたりまで物見に来たとき、前方から犬甘大炊助がが村上義清の援軍と間違えて接近して、大炊助は馬場信春に名を尋ねてから、相手が武田軍だと気が付いて逃げ出すが、馬場勢に追跡され大炊助は犬甘城には戻ることができず、安曇郡の二木重高の城館に逃れたという。城主が不在となった犬甘城は、まもなく武田軍の攻撃のため落城してしまい、犬甘一族は尾根続きの平瀬城に逃れた。その後犬甘城はそのまま廃城になったという。その後、世にいう「戸石崩れ」で武田が敗れると、府中の回復を目論む小笠原長時は村上義清の加勢を得て挙兵し、これに旧臣の二木氏や犬甘氏、平瀬氏が合流した。梓川西岸の氷室に陣取った小笠原長時軍は、平瀬城に入って武田氏の信濃計略の拠点である深志城に迫り、塔の原に進出した村上義清軍とともに深志城を挟撃しようとした。しかし、武田晴信が諏訪に着陣すると、村上義清は、小笠原長時に無断で兵を退いた。村上義清の撤退によって小笠原軍はたちまち弱体化したが、武田軍の先鋒である飯富虎昌隊めがけて、小笠原長時は先頭を駆けて突入した。小笠原軍は奮戦したが、やがて疲れて、二木重高の中塔城に退いて籠城した。退勢を挽回できない小笠原長時は自害しようとしたが、二木重高に諫止されたという。ついに平瀬城が陥落し小岩嶽城も落城した。長期に渡って中塔城での籠城していた小笠原長時は、越後国の長尾景虎を頼って逃れた。これらが遠因となって、のちに上杉謙信と武田信玄が川中島にて激突することになる。

その後の犬甘氏・・・
一方、犬甘氏はその後も小笠原氏に仕えており、犬甘政徳の長男は政信といったが、天正10年(1582)小笠原長時の三男である貞慶に従って木曽義昌と戦った時に討死している。犬甘氏の家督は三男の久知が継承し、この犬甘久知は小笠原貞慶の侍大将として、数多くの合戦で活躍した。また犬甘久知は、小笠原貞慶、秀政、忠真と小笠原氏三代にわたって仕えており、その子孫の犬甘氏も豊前国の小倉藩小笠原氏の筆頭家老として代々続いていた。

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以下、「戦国 武家家伝犬甘氏」からの引用による ・・・


『戦国時代の犬甘氏


戦国時代、信濃の隣国武田家は国内統一をなして、当主晴信は西上の野望を抱き、その第一歩として信州経略を目指していた。・・・天文十四年(1545)武田晴信は、藤沢氏の拠る福与城を攻撃した。小笠原長時は、妹婿でもある藤沢頼親を援けるため、軍を発したが戦うことなく兵を退いている。天文十七年(1548)二月。上田原において、村上義清と晴信が戦い、晴信は大敗した。村上勢の大勝により四月、村上・小笠原・仁科・藤沢の四家は連合して、下諏訪に討ち入った。ついで六月、小笠原勢が再び討ち入り、さらに七月、三たび討ち入ろうとした。・・・四月の討ち入りでは、諏訪郡代板垣信形の館を囲み、開城の交渉に入ろうとしたとき、連合軍の一翼を担っていた仁科道外が戦線を離脱した。これは、仁科氏が諏訪支配を目指したのに対して、長時がその要求を拒んだことに対する腹いせであったという。・・・間もなく、晴信が甲府より急行し、長時は兵を退いて塩尻峠に陣を布いた。武田群は塩尻に押し寄せ、合戦になったが、ついに長時は大敗して林城に退いた。
翌十八年四月、晴信は村井に陣を布いた。これに対して長時は桔梗ケ原で応戦につとめたが、草間肥前守、泉石見守らを討たれて、長時は林城に退いた。これにより、洗馬の三村入道、山家、坂西、島立、西牧の諸家は晴信に降った。節を曲げず長時に属したのは、犬甘、二木一族、平瀬らの諸士のみであった。ここに至って長時は、林城を守ることもかなわず、林城を棄てて川中嶋に赴き、村上氏を頼った。・・・天文十九年になって、府中の回復を目指す長時は、村上氏の加勢を得て帰郷し、安曇群に入り氷室に陣を布いた。二木一族、犬甘、平瀬らに人数が参集し、人数は多勢となった。かくして、村上勢と深志を挟撃しようとしたが、晴信が諏訪に進出したことを聞いた村上義清は、小県郡の守りが破られることを恐れ、軍を川中島に退いた。そこに、馬場民部、飯富兵部ら晴信の先陣が氷室に攻め寄せてきた。かくして両軍は野々宮において会戦し、小笠原勢は武田勢を撃退することに成功した。

小笠原氏に節を通す
しかし、すでに大勢は定まっっていて、長時は開運の見込みがないとして、自害をしようとはかった。これをみて、二木豊後守重高は諌止して、二木氏の築いた中洞の小屋に逃れることを勧め、重高もそれに随った。以後、晴信は中洞小屋に攻め寄せたが、落とすことはできず天文二十二年まで、二木一族は長時を守ってよく武田方の攻撃を防いだ。・・・ここに至るまで、犬甘政徳は小笠原長時の家老として忠節を励み、天文十九年(1550)七月、長時が甲斐の武田晴信(信玄)のために林城を逐われたあとも、居城の犬甘城に拠って武田氏に頑強に抵抗した。・・・同年十月半ば頃、長時の府中深志回復の挙に、信濃の雄村上義清が援軍を派遣するとの風説があり、武田方の部将で深志城代の馬場信春は物見のため夜半に苅谷原崎に出馬した。このとき、政徳も長時の軍を出迎えるために十騎ほどで出向いたところ、双方は岡田宿で遭遇した。・・・この折、馬場の一隊を村上の援軍と錯覚した政徳は、これに近付いて包囲されるに至った。辛うじて戸口を脱したものの、政徳は深志城からも武田勢が人数を出していたため、居城の犬甘城に帰城することが叶わず、単騎で安曇郡の二木重高の館まで落ち延びた。主を失った犬甘城は、武田軍の攻撃にさらされ、ついに陥落したと伝えている。・・・政徳の長男は政信といったが、天正十年(1582)七月中旬、小笠原貞慶が筑摩郡本山で木曽義昌と戦ったとき、討死したため、犬甘氏の家督は弟で政徳の三男の久知が継承した。ちなみに。同年八月三日付けの貞慶安堵状案によれば、久知の本領は安曇郡犬甘・北方・青嶋および筑摩郡蟻ケ崎にわたって所在し、総貫高は九百貫文に達していたことが知られる。・・・久知は犬甘家相続以後、貞慶の侍大将として、天正十年八月の日岐城攻め以降、会田、麻績および伊那郡の高遠城攻略と、同十三年(1585)まで小笠原貞慶に従って数多くの戦陣のなかに過ごした。

小笠原家家老として近世へ
久知は、貞慶のほか、小笠原秀政、同忠真と小笠原氏三代に仕えて、二木豊後守、草間肥前守綱俊らと小笠原家の城代となり、三職も務めた。秀政時代の『松本家中知行高帳』には、家老筆頭として家中最高の千六百石を給与されていることからも、小笠原氏家中で重きをなしていたことが窺われる。・・・久知のあとは久信が継ぎ、大坂の陣には主家小笠原氏に従って出陣している。その後、寛永九年(1622)小笠原氏は播州明石から豊前国小倉十五万石に所替となった。犬甘氏もこれに従って小倉に移り、『小笠原家分限帳』によれば、家中筆頭の二千五百石を領したことがみえる。』

 




府中(南松本)の豪族 村井氏

2014-02-19 00:48:14 | 歴史

 府中小笠原氏に反抗か!従属か!

村井氏

村井氏は官牧埴原牧の牧人埴原氏の系統といわれる。
勢力の拡大と共に牧場地帯から松本平南部の平坦地、村井に居館を建て村井氏と称した。
埴原城を要害城として築いた最初の豪族という。

 村井城跡地

村井城(小屋城)・・・
場所:松本市大字芳川小屋。泉龍寺近く、村井城の標柱と解説板あります。
・・・村井氏によって築城された。村井氏はこの館を中心に現在の松本市中山、内田、寿、芳川、塩尻市広丘、片丘にわたる一帯に勢力があったといわれる。
まず、木曾義仲の家臣、手塚光盛(諏訪下社・大祝の弟)が居住したと伝承がある。鎌倉期から戦国期にこの地を支配した村井氏が居を構えた。村井城は平時の館で、埴原城を詰城としていた。
村井氏は、府中小笠原家が入封以来、小笠原家臣として仕えてきた模様。天文十七年(1548)に武田信玄が筑摩郡に侵攻を始め、小笠原氏の配下の村井氏は、小笠原長時が塩尻峠の合戦で信玄に敗れて逃亡すると、没落した。・・・信玄はここを府中攻略の前進拠点として改築。信玄が村井城に到着するや、北熊井城を落とし、さらにイヌイの城(埴原城)を陥落させたが、小笠原氏の本城である林城や深志城などは自落。その後、村井城から深志城に移って深志の改築し、侵攻拠点を移した

信玄の軍事拠点
信玄は天文十七年(1548)佐久の前山城を取ると松本平に侵入。小笠原氏攻撃の基地の役割が村井城。「高白斎記」には・・十月朔日癸卯。二日甲辰、酉刻巳の方に向かって、村井の城の鍬立高白致し候。鍬五具、四日御普請初める。二十四日丙寅、上原まで御帰陣。・・村井城の出発点は不詳。一般的には、埴原氏の一族である村井氏の居館であったと・・。村井の位置を確認すると、松本城が松本盆地の北の隅、村井は塩尻と松本の中間で、松本平を押さえるのに中心の場所です。信玄はここを松本を攻略する戦略基地として、さらに将来この地域を統治する中心にしようとして、城を築いたものと推察されま す。しかし信玄が深志城に拠点を移したので、村井城は廃城となったとか。

 

 ・・埴原城跡地・埴原牧跡地

埴原城
埴原城の石垣
城郭構造 山城
築城主 埴原氏(村井氏)
所在地:長野県松本市大字中山字町村

説明
埴原城は町村集落の東背後にある山の尾根、標高1000m付近。町村集落にある蓮華寺の北側には、殿屋敷・梅屋敷・的畑という地名が残り、埴原城の居館の場所とされる。・・・埴原城は、信濃守護小笠原氏の家臣埴原氏(村井氏)の城であった。・・・天文19年(1550年)、武田晴信の攻撃により真っ先に攻撃され落城し、この後林城など小笠原氏の諸城は、続々と落城し、信濃守護小笠原氏はこの地を追われることになった。 武田氏滅亡後、松本平を奪還した小笠原貞慶が改修し、現在の城跡はその時のものと推定されている。 現在も石垣、土塁などが一部残る。

埴原牧(ハイバラマキ)・信濃国牧監併設
信濃十六牧の一。・・・「延喜式」には、信濃十六牧と言われる次の16の牧が記述がある。大室牧・高井牧(高井郡)、笠原牧・平井手牧・宮処牧(伊那郡)、新張(新治)牧(小県郡)、塩原牧・岡屋牧・山鹿牧(諏訪郡)、望月牧・長倉牧・塩野牧(佐久郡)、埴原牧・大野牧(筑摩郡)、猪鹿牧(安曇郡)、萩倉牧]。・・・牧は、信濃と甲斐は左馬寮が、武蔵と上野は右馬寮が所管した。『類聚三代格』所収の太政官符には、延暦16年(797)に、御牧の長官である監牧(=牧監)に筑摩郡埴原の牧田6町を公廨田として賜ったとある。また、埴原からは牧監庁の礎石らしきものが発掘、牧監庁は埴原牧に置かれていたものと考えられる。

上記の事実から、素直に推論すれば、埴原牧を所有管理していた埴原氏が牧監も兼任していて豪族化したと思われる。この埴原氏が埴原城を作り、平地に降りて、金刺氏の村井城を継承したと見ることが出来る。そして、府中に入府した守護小笠原貞宗に、初期の頃から従属したという歴史の流れであろう。

 

 ・・ 熊井城  熊井城は、村井氏の支城のようである。

熊井城(北熊井城)
平山
城主 ;村井氏,武田氏
所在地 ;長野県塩尻市大字片丘北熊井字町村

・・東西に舌状に長く延びた台地上にあり、深い堀が台地を横断、六つの郭を擁する。
本城といわれる主郭は東側と南側が土塁で囲まれている。城の西側に館・侍屋敷を配したと思われる町割りがある。
歴史
築城年代は定かではないが村井氏によって築かれたと云われる。 天文14年(1546年)武田氏が上伊那を平定すると熊井城は自落して武田氏の手に落ちた。・・天文21年(1552年)「高白斎記」に「熊野井ノ城鍬立」とあり武田氏の手によって改修されたとみられる。

南熊井城
平山城
所在地;長野県塩尻市大字片丘字山岸
歴史
詳細不明。小笠原氏の出城で熊井城の出城とみられており、天文14年(1546年)に熊井城とともに落城したという。・・熊井城から約二キロ西方に出城と思われる南熊井城があり、約四キロ離れた東北にも後詰めの城と思われる山城がある。松林寺の東の段丘上に築かれていた。 空堀が東と南にあって段丘から切り離されている。東側はやや高く土塁があったようで、北東隅に社が祀られている。

 


洗馬(塩尻)の豪族 三村氏

2014-02-18 02:24:04 | 歴史

 府中小笠原氏に反抗か!従属か!

 信濃三村氏・(清和源氏頼親流)

 武居城

 妙義山城

 釜井庵

三村氏の城 武居城(朝日村)→妙義山城・釜井庵

三村氏の居城は朝日村西洗馬の武居城であった。 ある時期に芦ノ田の釜井庵に屋敷を構え、背後に妙義山城を 築いたといわれる。、長興寺を開いた時期。・・・妙義山城、釜井館は西洗馬(せば)を中心にして奈良井川西岸に勢力を張っていた 三村氏の居城、屋敷と考えられている。

以下、「戦国 武家家伝信濃三村氏」からの引用による ・・・


『信濃国洗馬郷に本拠。出自は諸説ある。系図によれば、清和源氏頼親の後裔。多田満仲の次男頼親の後裔。・・・『尊卑分脈』の頼親は大和・周防・淡路・信濃などの国司に任ぜられたとあり。信濃守は『国司表』によれば長保元年(999)とあり、在任中は信濃国洗馬郷に居住。その後、訴訟から土佐に流された。赦されのちに再び信濃の洗馬郷に下って、康平七年(1064)同地で死去。これが、三村氏と洗馬郷との関わりの始め。・・・その後、頼親の九代の孫に仲宗がみえ、その子に親綱とあり、仲宗・親綱の代に鎌倉幕府は滅亡し南北朝の内乱の時代となった。

中世の信濃争乱
親綱には数人の男子があり、嫡子親継、次男の親光は、守護小笠原氏と「大塔合戦」に際して一揆方として出陣、兄弟ともに戦死している。・・・『大塔合戦記』によれば、三村孫三郎種貞の名が記され、種貞は親継のことか。この事件で三村氏は中信濃において洗馬郷を本拠とする国人領主として一応の勢力があったようだ。・・・応仁の乱を経て戦国時代になると、信濃も乱れ、守護小笠原氏も分裂して一族が互いに争い、その支配力にも翳りがみえてきた。・・・天文元年(1532)松尾小笠原定基が下条氏を攻めた時、府中小笠原氏は下条氏を支援したが、三村家親は府中小笠原勢に加わり、松尾城攻めに功を立てている。家親のあとは忠親が家督を相続した。・・・天文十七年(1548)七月、小笠原長時が甲斐の武田晴信と雌雄を決した塩尻峠の合戦において、三村長親は長時に離反して武田方となり、長時大敗の主因を作った。

三村氏の滅亡
以後、長親は武田氏に属したが、天文二十四年、甲府一蓮寺において、長親主従200人は晴信によって殺されたと『三村氏系図』に記されている。・・・長親らが信玄に殺害されたことを知った洗馬の一族は一揆を起こして、武田氏に抵抗したが、深志城代馬場によって制圧された。三村一族は戦死あるいは生け捕りされ、三村氏の領地は没収となり、三村一族は没落したのである。・・・長親の嫡男長行は、叔父にあたる岡田伊深城主で洗馬郷をも管掌していた後庁城主の後庁久親の養嗣子となって後庁を相続し、これを名字とした。長行は、天正十年(1582)、当時、深志回復を目論んでいた小笠原貞慶より、後庁の名字相続と洗馬城堀廻三千貫文の知行約束を受け、その忠節を賞されて小笠原家の奉行人に列せられた。』

・・・小笠原家を裏切った父長親と異なり、長行は貞慶に忠勤を励んだことがうかがえる。
・・・*伊深城主の後庁氏は、井深氏のことだが、三村氏と婚姻を繰り返していたことから、同族の意識が深かったと思える。

概略・・・三村氏は洗馬郷の豪族で、古くは北条残党であるが、南朝側の活動は資料に乏しい。幕府側小笠原家へは、初期に反抗し、やがて従属したが、武田が侵攻した時、小笠原長時を裏切り、武田に付いた。武田軍に属した三村長親は謀反の疑いで、信玄に家臣ともども誅殺されると、三村家宗家は滅亡したが、嫡男・長行だけは井深城主の後庁氏の養子に入り命脈を繋ぎ、小笠原貞慶が府中に復帰すると、貞慶の家臣となって仕えたようだ。




府中(松本)の豪族 西牧氏

2014-02-16 21:56:35 | 歴史

 

 府中小笠原氏に反抗か!従属か!

    ・・・  諏訪神家一族は府中に反抗 ・・・

 ・・四本根梶の葉 滋野流諏訪氏 西牧氏

西牧城(北条城)

 ・・西牧城

西牧城(北条城)
場所:松本市・旧梓川村。西牧城は北アルプス東山麓に近い金松寺山の支尾根先端、標高946m・比高200mの「城山」に築かれた山城です。
西牧氏の城:居城・西牧城(北條城)。支城:亀山城、城日影砦、田屋城(全梓川)。

西牧氏

領有範囲:住吉庄、長尾・大妻・二木・真々部、旧三郷村・旧豊科の一部・旧梓川村の東側一部、西牧郷。
西牧氏・・信濃国司から西の牧主。官営の”馬の牧場”の管理者が出発点であった。・・・その牧場管理に西牧氏一党の古幡(古畑)氏が牧司。
*古幡氏は戦国時代の武将に古幡伯耆・降旗三郎右衛門。古幡郷の牧を支配した一族。西牧氏の勢力が拡大して住吉荘に及んでいたため、小笠原貞宗が住吉荘地頭で赴任した時利害が衝突したと思われる。大塔合戦はその利害衝突の現れで、西牧氏は当然反守護の立場であった。

西牧氏の歴史・・・

・滋野氏の一族の西牧氏の築城。真光寺(滋野兼忠の氏名有り・西牧氏のこと)
・滋野氏は諏訪神党、南朝側、北条残党。築応永七年(1400)の「大塔合戦」では仁科氏の「大文字一揆」の中に西牧氏見え、小笠原長秀を信濃から追放。小笠原政康が信濃守護に補任されると、住吉庄、春近領の領有で小笠原氏と争い、西牧時兼らが幕府の信濃国代官・飯尾入道に小笠原氏の不当を訴状。その後西牧氏は小笠原氏に従属。「塩尻峠合戦」で三村長親、西牧信道らが武田晴信に内応して小笠原長時を襲い、長時は敗北した。武田氏が滅亡、織田信長が死去すると、小笠原貞慶が領土回復。松本城に入城。西牧氏は貞慶に討伐され、西牧氏の所領は二木豊後守に付与。西牧城は廃城となった

未完・・・


府中(松本)の豪族 山家氏

2014-02-15 23:55:29 | 歴史

 府中小笠原氏に反抗か!従属か!

    ・・・  諏訪神家一族は府中に反抗 ・・・

 ? 山家氏・の場合 ・・・

 

山家城だが、美ヶ原高原の山麓に位置する。今でも松本から美ヶ原温泉の脇を通り高原へのバスルートがある、その道の途中にある。

 

山家城の読み方だが、クイズで読み方を問うても、既に旧知でもなければ、正解者はいないだろう。山家城の読みの正解は、”やまべじょう”である。古くは、山家を”やんべ”と読んだのかも知れない。
城の頂付近は、美ヶ原高原で、地続きに霧ヶ峰に通じており、霧ヶ峰は諏訪神族の神領であり、神事の祭礼の地であった。また、城の東北方面に、三才山があり、ここも諏訪神族の”聖なる地”であった。山家氏は諏訪神族の一員であり、鎌倉期よりこの地方の地頭として居を構えていた。
そこへ、建武の新政で、軍功を上げた小笠原氏が守護として府中に乗り込んできたわけである。前北条と親戚付き合いをした諏訪神族と、その前北条を倒した幕府側は、当然仲良くやれるはずがない。府中小笠原と諏訪神族山家氏は、常に小競り合いがあり、後大きな衝突が数回あったと見て良い。この不安定さは初期の守護・小笠原の基盤を脆弱なものにしていた。

 

参考:山家氏の居城のあるところは、”やまべ”(=山家)の名前から、いつしか”山辺”と呼ばれるようになった。現在では、山麓の上の方を”入山辺”、麓の方を”里山辺”と呼ぶ。その時、誰も読めない”家=べ”を、”辺”に置き換えたのだろう。

 ・・山家城(中込城)跡・(転記)

 

山家城  やまべじょう/やんべじょう
別  名: 中入城
区  分: 山城
築 城 者: 山家氏
築 城 年: 鎌倉末期
主な城主: 諏訪神族山家氏(山家光政)、折野山家氏(折野昌治)
遺  構: 主郭、石垣、土塁、空堀
城  域: 南北約500m×東西約300m
長野県史跡: 山家城跡
住所:松本市入山辺8318

専門家に拠れば、鎌倉後期のこの石垣は、他に類を見ないという、”見事なもの”らしい。平城に、優美な城郭を戴く礎の石垣は、この後、約250年を待たないと出てこないらしい。


・・・山家城は、その遺構は非常に充実。信州を代表する山城。城址入口は徳運寺の東南300mほど、北に小道に、道路脇に山家城の案内板。そこ上に城の案内板。・・・山家城は別名中入城。鎌倉時代末期に構築。室町時代は山家氏が領していたが、 小笠原氏が守護として来た時に配下に加わった。小笠原氏本城の林城の支城。大規模な改修あり。山辺谷最深部、松本平東側の上田、佐久方面の出入り口の要害。信玄の侵攻で落城。

 

案内板・・・
鎌倉時代末に地頭の山家氏が築城したと伝えられる。
山家氏は、元弘元年(1331)に徳雲寺を創建した諏訪系の神為頼の子孫が山家氏を称した。
文明12年に小笠原氏にそむいたため、小笠原長朝に攻められ、翌年の戦いで山家氏は諏訪氏の支援を受けたがこの戦いで後諏訪山家氏は滅びている。その後、永正2年(1505)頃小笠原氏の同流である折野薩摩守昌治(折野山家氏)が播州から来てこの城にいたといわれている。天文19年武田信玄の府中侵攻のさい自落した。
この城は、遺構が大変見事に残っており秋葉神社のあるところが古く、主郭は東西約20メートル、南北約23メートルで周囲の土塁を取り巻く石垣は戦国時代末期の松本平の石垣技術の到達点を示している。この部分は天正10年以降に大きく改修されたと推察される。
長野県を代表する山城として県史跡に指定されている。
平成18年3月 ・・・長野県教育委員会 、・・・松本市教育委員会


 山家城の歴史・・・ 

戦国時代の松本を代表する豪族の山家氏。発祥は鎌倉時代からのようです。・・・鎌倉期、諏訪神氏系の山家氏が、この地の「山辺」の地頭と伝えられている。・・・山家氏は名字と地名を見ればわかるように、現在の松本市入山辺(いりやまべ)を根拠としていましたが、近くに住む小笠原氏とは仲が悪く、諏訪氏の一族の家です。
・・・文明七年(1475)、小笠原氏から本拠地を追われた山家光政は諏訪信満に太刀を送っています。この年5月、当時の山家城主山家光政が、小笠原長朝に攻められると、光政は諏訪大社の神長官であった守矢満実を頼った…との記述があります。【守矢満実書留】・・文明12年(1480)9月20日の条には『この日小笠原民部大輔(長朝)の敵として、仁科・西牧・山家同心なすの間、民部大輔、山家に寄せ懸け城櫓を責めらる。山家孫三郎討死なす。口惜しき次第なり』と記述されており、小笠原氏が山家城を攻めは明らかですが、この戦いで山家氏が損害を被りましたが、滅亡したとは思えません。永正2年(1505)、小笠原氏一族の折野薩摩守昌治が播州明石より移り、小笠原貞朝に属して山家城を守備し、山家氏を名乗ったようだ。
・・・山家氏は、信玄が攻めてくるといち早く小笠原氏から離反しました。天文17年(1548)7月19日の塩尻峠の合戦の際、山家氏は三村氏などと共に信玄に味方し、小笠原氏敗軍の原因の一端を作りました。・・・天文19年7月、信玄の軍が府中の小笠原氏を攻めた時には、本拠地の山家城も15日に自落しました。しかし結局信玄 に味方したようです。天文19年(1550) 七月、小笠原長時勢として折野山家氏は武田軍に挑んだものの自軍が劣勢と見て、武田方に身を翻し、武田方として永禄4年(1561)「川中島の戦い」で戦功を挙げている。天文23年正月20日、信玄は山家松寿斎に大村(松本市)の百貫文の所領を安堵します。武田の統治時代は、山家氏は武田家に協力して領地を拡大した模様です。
・・・天正10年(1582)武田氏滅亡後、小笠原貞慶は徳川家康に安曇・筑摩の旧領安堵を貰って林城などの改修を行ってます。この時小笠原氏を裏切った山家氏は、小笠原家から冷遇され、山家城は小笠原氏に接収されたようです。天正18年(1590)の小田原北条氏滅亡で、戦国乱世の時代が終わり、山家城は廃城になったようです。 

鎌倉期から続いた、諏訪神族の山家氏は、北条残党・あるいは南北朝の南朝の豪族として、幕府側の府中小笠原家に抵抗を続けましたが、永正2年(1502)頃ついに滅亡しました。名跡を継いだのは、別の系流の幕府側折野山家氏です。ここからは府中小笠原の家臣となっています。府中小笠原の林城を防衛する山城の支城として機能し始めています。武田軍に侵攻された時は、ほとんど抵抗せずに武田軍の配下になっています。その武田家も滅亡して信長の時代を経て秀吉の時代になり、小笠原家の系流の長時の三男・貞慶が府中に復活します。小笠原氏を裏切った折野山家氏は、ここで滅亡します。

未完・・・