諏訪の乱 改訂
六回目
諏訪の乱 サイドストーリー、坂西孫六のこと
諏訪大社の上社と下社の対立 ・・金刺家の没落
諏訪下社の御狩神事
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◆ 諏訪の乱 サイドストーリー、坂西孫六のこと
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諏訪の乱 サイドストーリー、坂西孫六のこと
2013-11-08 01:49:05 | 歴史
サイドストーリー 坂西孫六のこと
今回は、諏訪家と同盟した、松尾小笠原家の系流の話です。
諏訪の乱を見る時、大祝諏訪満継や高遠・諏訪継宗に援軍する伊那の軍に、"孫六"の人名を見かける。大祝援軍で、諏訪に出征で来るだけでなく、諏訪の方からも、松尾と鈴岡の小笠原家内の対立の時、あるいは府中小笠原家が伊那の小笠原家に攻めてくる時は、高遠・諏訪継宗や大祝・諏訪満継は、自ら鈴岡小笠原家や松尾小笠原に援軍している。この際に、諏訪上社の敬虔な信者として"孫六"は登場する。・・守矢文書。この孫六は、時には小笠原孫六を名乗るが、飯田城主坂西孫六である。通称を外せば、五代坂西政重か坂西正俊が年代的に該当できる。
この坂西家のことについては、研究本を探してみたが、松尾小笠原家の別家と言うこと以外、ほとんど見当たらない。書き物を調べても精度が悪いものばかり。それでは自分で調べ直して、年代を糾して書き直したのが下記の様になる。南信濃の中世の豪族の、規模的順位からすれば、松尾小笠原、鈴岡小笠原、知久家に次ぐ、四番目の規模だったようだが、飯田郷・・効戸庄に、1300年代中頃から、1500年代中頃まで約200年に渡って君臨した領主なのだから、もっと資料が研究されていてもよさそうに思えるのだが・・・坂西家の名が、歴史に露出するのは、大塔合戦、結城陣番帳、小笠原・諏訪の文明の内訌、知久・坂西争い、織田の武田攻め・飯田城の戦いで、ほぼ負け戦ばかり、これでは・・地元の郷土史家に興味が湧かなかったのだろうか。
以下、飯田坂西家の系譜略・・・参考
小笠原貞宗
生;正応五年(1292)4月12日-没;正平二年(1347)/貞和3年5月26日
南北朝初期の信濃国守護職・鎌倉時代後期から室町前期の武将。信濃小笠原氏の当主。信濃国松尾(現・長野県飯田市)に生まれる。
当初は鎌倉幕府に仕えており、元弘元年(1331)からの元弘の乱では足利尊氏らとともに後醍醐天皇の討幕運動を鎮圧した。しかし高氏が鎌倉幕府に反旗を翻すとこれに従い、鎌倉攻めに参加する。建武元年(1334)、この功績により信濃国の守護に任ぜられた。その後、尊氏が後醍醐天皇から離反するとこれに従った。建武三年(1336)には足利方の入京により後醍醐天皇が比叡山へ逃れる。この際、貞宗は後醍醐方の兵糧を絶つ目的で琵琶湖の湖上封鎖を行っている。その後も一貫して北朝側の武将として各地を転戦した。
京都で死去。56歳没。子の政長が家督を相続した。三男宗満、分家して坂西を名乗る、坂西宗満。
初代坂西宗満;生、正中元年(1324)-没、永和二年(1376)53歳 法名賢戒
父小笠原貞宗。三男。
飯田郷の地頭職を賜り、貞和年間(1345-50年)頃に飯田郷三本杉に居館を構え、坂西氏の名跡を継いで坂西孫六を称したという。松尾に生れ 建武二年(1335)郊戸の庄へ分家し、貞和年中に城を築き、永和二年(1376)在京中卒す。
・・三本杉城・・・野底川と松川の合流地点、新飯田橋となり西鼎公園のところか。
・・郊戸の庄・・・郊戸八幡宮由緒・・貞観年中(859-877)に勧請す・・久安三年(1147)郊戸庄五郷の總鎮守・・社号につきては旧称郊戸八幡宮・・天保十二年(1841)郊戸神社と改称す・・・場所の比定は、前文の神社の場所が含まれるところ。野底川と松川の間の旧飯田郷とする。この頃はまだ領地の分割相続があった。・・孫六は松尾小笠原家の別家屋号か、それとも嫡男に名付ける幼名か。
二代坂西由政;康永二年(1343)生-正長元年(1428)没、86歳 法名正永寺殿堅峰道因大居士
出家した後、入道正永を名乗る。宗満の長男;母武田佐馬介直信女、稚名孫六郎、別名兵庫守、度々武功あり、応永十五年(1408)入道して正永と号し、由政が、愛宕城(飯田市愛宕町)を築いて本拠を移した。由政が出家入道したのちは嫡子の長由が家督を継いだ
・・愛宕城は飯坂城ともいい、飯田城本丸跡から西に近く愛宕稲荷神社があり、この場所に小さな愛宕城があった。
三代坂西長由;応安三年(1370)生-応永二年(1395)5月卒、法名長圓、27歳。
由政の長男、母家の女房 稚名は彦太郎、松原城に生まる・・・松原城は、郊戸庄飯田郷の内にあると思われるが、比定できていない。今宮城のことか
・坂西長国・・由政の次男、康歴二年(1380)生-応永七年(1400)生害 21歳 法名曹源。
大塔の戦いで 大塔城に籠り家臣宮崎と共に自害する。・・応永七年(1400)小笠原長秀に随ひ更科郡所々にて合戦して武功顕し、守護方の旗本衆は曼陀羅一揆と称して勇敢に戦った。なかでも獅子奮迅の戦いぶりを見せたのが、坂西次郎長国であった。長国は六尺三寸に余る太刀を振るって勇戦したが、多勢に無勢、ついに守護勢は塩崎城に逃れて籠城せんとした。ところが、長国たちは守護長秀との連絡を絶たれ、大塔の古砦に逃げ込んだ。大塔には兵糧もなく籠城兵は馬を殺して食糧にする事態の追い込まれ、ついに10月21日、守護勢のほとんどが討死・自害するなどして果てた。猛将長国も自害し、21歳の若さで戦場の露となったのである。大塔の落城により塩崎城も危うくなったが、小笠原一門の大井光矩の斡旋で開城となり、長秀は京都へ逃げ帰った。当然、守護職は解任されたことはいうまでもない。・・大塔合戦の時の勇者で、物語にもなったほどの獅子奮迅の戦いぶりで有名。
長国が討死した後、由政が家政をみて本拠を愛宕社へ移し飯田城と称した。そして由政が出家入道すると、家督を継いだ長男の坂西長由によって飯田城が築かれたという。飯田城ができる以前、この場所には真言宗山伏(修験者)の修行所があったが展望のきく要害の地であったため、坂西氏がそれまの愛宕城の土地と交換して築城した。このため、坂西氏時代の飯田城の主郭部は、近世飯田城では「山伏丸」と呼ばれた。
・・・鎌倉時代の建保年間(1213-19年)に築城したという説もあるが、年代的に無理?。
・・・長由は早死にだったため、長男の政忠が叔父のの長国の後見を得て坂西氏を継いだ。
四代坂西政忠;明徳四年(1395)5月生-寛正五年(1464)6月15日卒 72歳法名圓岳
長由の長男、稚名小太郎。
政忠が叔父の長国の後見を得て坂西氏を継いだ。入道正永が正長元年(1428)に死去すると政忠が名実ともに家督を継承し宗家小笠原氏に属して、永享十二年(1440)の「結城合戦」に小笠原政康に従って出陣した。
・・・漆田原の戦とは、室町時代に起きた信濃守護家の後継をめぐる内紛である。信濃守護・松尾小笠原宗康は弟の小笠原光康に自身が万一討死の際は家督を譲り渡す条件で協力の取り決めをして漆田原での府中小笠原持長軍との合戦に臨んだが敗死。持長は宗康を討取りはしたものの家督を手中にすることが出来ず対立は子らの代にまで続いた。この合戦に坂西政忠・同上総介兄弟は府中小笠原持長勢に属して奮戦、上総介は討死をした。
・・松尾小笠原別家の坂西家が府中小笠原家の側に立ったのか、不明?
・・坂西上總介、長国の次男、文明二年(1470)善光寺大黒塚合戦に討死す
五代坂西政重;応永三十年(1424)生-文明十四年(1484)卒、60歳 法名道圓
政忠の長男、稚名孫六
永享十四年(1440)結城合戦の時信濃守護小笠原政康(正康)に属し武功あり。政重の長男・康雄、次男・正仍。・坂西正仍 詳細不明。・坂西正俊 正仍の子。
・・伊那郡飯田城主。知久氏の二万石の覇権を争った。
・・文明十一年(1479)、同十二年(1480)の両年、松尾小笠原政貞(政秀)と鈴岡小笠原家長が合戦、家長は討ち取られた。この合戦に坂西正俊は鈴岡の政貞(政秀)の軍に加わっていた。
・・守矢文書にある"孫六"は年代を比定するとこの人になる。孫六は諏訪上社に帰依し、諏訪家の内訌で高遠・諏訪家、諏訪大祝家の側で活躍し伊那郡援軍の要と見える。さらに小笠原の松尾・鈴岡の内訌にも関与し、諏訪からは、高遠・諏訪継宗が松尾の援軍に、諏訪満継が鈴岡・政秀の援軍に、伊那へ駆けつけている。どうも、キーマンが"孫六"こと坂西正俊!か。
坂西康雄、坂西正仍、その子坂西正俊の代に、小笠原家と諏訪家の両方に一族間の争乱が起こった。この三人はこの争乱に深く関わっていて、康雄、正仍は巻き込まれて戦死したのだろうか、資料が少なく、この為この時期の系譜に混乱が見られる。
坂西家の嫡男の幼名を示す"孫六"は、初代、二代、五代と坂西正俊の四名が確認され、以後この幼名はない。
六代坂西政之;寛正三年(1462)?生-弘治二年(1556)卒、95?歳、法名長松寺
坂西正俊の男。天文年中愛宕の寺の山城方へ移す。(政重の長男説疑問有り)、
正俊の子政之の代の天文十五年(1546)、知久頼元と領地争いを起こし、政之は敗北し、松尾小笠原信定、下条信氏の扱いで和睦、知久氏に黒田・南条・飯沼・上野の地を割譲し、さらに知久氏の娘を嫡子長重の室に迎えている。
天文二十三年、武田氏は下伊那を制圧、ここにいたって坂西政之は武田氏に帰属し、秋山伯耆守信友の組下となり軍役六十騎を勤めた
七代坂西長重;大永元年(1521)生-永禄三年(1560)卒、40歳、法名長光、
政之の長男;母小笠原左馬介女、飯田城で生まれる。舎兄多と雖も皆早世す。父老年に及び家督方継ぎ神峰城主知久頼元の聟。室は知久頼元の娘。若く病没のため、坂西家の家督は嫡男坂西忠長が相続した。
八代坂西長忠;天文七年(1538)生-永禄五年(1562)生害 25歳
長重の長男;飯田城に生まれ、市瀬山にて自害。父坂西長重が若くして病死したため、坂西長忠が家督を相続した。長忠は永禄五年(1562)松尾小笠原信貴の領地を押領したため、信貴が信玄に訴えた。結果、坂西長忠は武田晴信勢と松尾小笠原信貴勢に攻められて飯田城は落城、木曾谷に落延びる途中、松尾小笠原信貴勢に捕捉され坂西家枝連衆はことごとく討死をとげた。長忠は・・正之の孫の説もあるが不明。
九代坂西延千代;永禄四年(1561)-五年(1562)、2歳
父長忠討死の時、一緒に卒す。長忠の長男・・・・・坂西家断絶・・・
別流か・・・・・
坂西経定;生誕不詳-没年天正十年(1582)
坂西家臣。通称織部。天正元年(1573)小田原北条氏の斡旋を受けて坂西織部経定なる人物が飯田城を賜り、武田氏の軍役に従い、長篠の合戦にも出陣している。そして、天正十年の織田勢の飯田城侵攻によって織部は城を棄てて西山へ逃れたが、進退に窮し自害、坂西氏はまったく滅亡した。この織部の名は小笠原系坂西氏の系譜にはみえない。
近藤氏系坂西氏の最後の当主とするものがあるがこちらも疑わしい。
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参考・・・小笠原文書
板西宗満近藤周家裔小笠原貞宗子孫六彦三郎掃部刑部弾正
由政宗満子兵庫
長由由政子伊予
政忠長由子伊予
政重政忠子内蔵
康維政重子康雄
政仭政重子正仍
政俊政仭子伊予
政之政俊子政重子?伊予?
長重政之子若狭
長忠====1562長重子左衛門周次飯沼城主
織部長重子
長国由政子次郎応永頃
頼国
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正永寺・・・坂西家菩提寺 ・参考
歴代の坂西家の墓が存在していると思われます。
飯田城主2代:坂西由政が応永十五年(1408)66歳の時に、正永寺殿賢峰道因大居士と号して入道し、風越山の麓、圜悟沢付近に庵を結んで閑居したのが始まりで、その後、正永寺原に一寺を建立し「正永寺」と称しました。 この地は虚空蔵山の麓に広がる高台で、正永寺の旧境内地には大公孫樹(長野県の天然記念物)、坂西家のものと思われる宝匡印塔・五輪塔が現存しています。
永禄五年(1562)坂西家八代長忠の時、松尾城主小笠原信貴との戦に敗れ、木曾谷へ落延びる途中、勝負平の一戦で坂西家が滅亡し(長忠の子延千代を祭る御君地蔵尊が大平に在る)、正永寺も一時荒廃してしまいますが、5年後の永禄十年に越後の国、保寧山顕聖寺六世の能霊自果大和尚が伽藍を修復して、曹洞宗の「正永寺」として再興し開山となりました。
文禄三年(1594)正永寺三世洞翁深鶴大和尚の時、飯田城主京極高知は戦略上の理由から外堀の内側に寺を配する事とし、命によって正永寺原より現在の地に移転しました。 その後、歴代の住職と、檀信徒の努力により、明暦二年(1656)に正永寺原に在った観音堂を移転して再建、元禄七年(1694)には鐘楼堂を、享保元年(1716)には山門を建立して寺域も整備されました。
しかし、天保三年(1832)の火災により本堂・庫裡を焼失してしまいました。本堂は明治32年、二十三世慈法順応大和尚の時に再建されましたが、明治三十五年の災火により再び開山堂と共に焼失、二十四世千丈悦恩大和尚により大正2年に現在の本堂が再建されました。 庫裡は天保8年に松尾の木下家居宅を買い受けて本堂右横へ建立し、大正13年現在の場所に移築し、平成元年大規模修復をして現在に至っています
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◆ 諏訪大社の上社と下社の対立 ・・金刺家の没落
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諏訪大社の上社と下社の対立 ・・金刺家の没落
2013-12-07 23:29:36 | 歴史
金刺氏の没落
諏訪大社と金刺氏
傍から見ると、諏訪大社は、あたかも一つの神社に見えます。上下社・春秋宮併せて、本来なら一つの神社の筈です。でも、故あって歴史を調べると、鎌倉期以降、上社と下社の対立の時代がずっと続きます。それが内乱にまで発展してしまうのが、諏訪家の文明の内訌です。この内訌で、下社の金刺氏は滅亡してしまいます。その後、下社は係累の武居氏を祝にあて、下社を諏訪湖畔北側に移設しながら、上社との対立の火を収めながら、現在に繋がります。
諏訪大社の成立は、神話の時代に、天照大神と大国主命が"国盗り"を争い、天照大神の側の武甕槌命と大国主命の次男・建御名方命が相撲で決着し、敗れた建御名方命が諏訪に逃れた上社を造り、その妃・八坂刀売命が下社を造ったとされ、本来は一体とするのが習わしだったようです。
・・武甕槌命・タケミカズチノミコト
・・建御名方命・タケミナカタノミコト
・・八坂刀売命・ヤサカトメノミコト
天照大神は今の皇室に繋がり、大国主命は出雲系祭神で、確かにこの二大勢力は、"国盗り"で争ったのかも知れません。このことは古事記に記載された内容だが、日本書紀には記載されていません。
それでは、この金刺氏を追ってみます。神話の時代、神話の世界は得意ではないので、およそ鎌倉期よりの諏訪神社、上社と下社の"ありよう"から始めます。
治承四年(1180)甲斐の武田信義が、頼朝の挙兵に応じ、諏訪明神に祈って武勲をあげたとき、その奉賽として上社に平出・宮処両郷、下社に龍市・岡仁谷両郷を寄進しており、承久三年(1231)には幕府が越前国宇津目保を寄進している。すでに前九年の役(1051)の頃から、両社の大祝および社人は祭祀のかたわら武士としても活躍し、族党を結束して神家党と呼ぶ有力な武士団に成長していた。
・・平出・宮処は現在平出・宮所。龍市・岡仁谷は現在辰野・岡谷として地名をのこしています。
・・・これを見ると、鎌倉時代初期に諏訪大社は"軍神"として、周囲に認知されていたことが覗われ、さらに"武士団"を形成していたことが分かります。
平安時代の後期になると、諏訪大社の上社・下社の神主系は、別流として独歩に系譜してきたことが顕著になります。上社の神主大祝は当初は神(ミワ)家後に諏訪家・諏訪一族として、下社の神主大祝は金刺家・金刺一族(当初は諏訪家)として、一族を主張し始めます。
この金刺氏の成立は、かなり不鮮明で、科野国造家から分かれて同化した説、あるいは、東征から戻った源氏の氏族が信濃に帰化・婚姻して金刺氏と同化した説などありますが、どうも外部からの有力氏族が金刺氏と婚姻を通して同化したのは確かではないかと思われます。ただし、資料が不足しているため、一族に伝わる伝承を根拠にしているため、定かではありません。
下社の金刺氏の祖は、金刺舎人と言うことになっているが、「金刺系図」によれば、貞継のとき下社の大祝となったことが記されているのをみると、ここまでにも混乱があったことが覗われます。『信濃史科』によれば、一族に諏訪・上泉・手塚の諸氏がある、と述べてあり、再び諏訪氏も同族であったことが記されています。
金刺氏の武士化・・・先述のように金刺氏は武力を蓄え、下社秋宮に隣接する地に霞ヶ城を築き武士化していった。金刺氏は手塚とも称し、手塚太郎光盛は木曽義仲に従って勇名を馳せた。光盛の兄盛澄は鎌倉の御家人となった。・・・
宝治二年(1248)、諏訪上社と下社との間で争いが起きます。小さな諍いは以前にあったのかも知れませんが、"争い"が歴史に登場します。
・・・宝治二年は、・・諏訪大社造営の年度に当たる、その年に上下社間に本宮争いが生じた。下社大祝の金刺盛基が、その解状で訴えた。しかし上社の諏訪氏は、鎌倉幕府の得宗家御内人であり、且つ重臣である。幕府の裁可は当然、「去年御造営に下宮の祝盛基は、新儀の濫訴を致すによって」として裁下し、「上下両社の諸事、上社の例に任せ諸事取り仕切る」とした。・・ しかし、(翌宝治三年(1249))・下社大祝盛基は、この幕府の下知に納得せず、上宮は本宮ではないと再度申し立てた。大祝信重解状は、それに対する長文の反論で、「進上御奉行所」として幕府に訴えた。
その内容は7ヵ条で 一、守屋山麓御垂跡の事、一、当社五月会御射山濫觴の事、一、大祝を以て御体と為す事、一、御神宝物の事、一、大奉幣勤行の事、一、春秋二季御祭の事、一、上下宮御宝殿其外造営の事
鎌倉中期以前の諏訪大社の鎮座伝承、神宝、祭祀、神使御頭(おこうおとう)、大明神天下る際の神宝所持、御造営等、詳細に上社が本宮である由来を記述して、先例通りの恩裁を請願している。・・・
この時の下社大祝は金刺盛基、対する上社大祝は諏訪信重、鎌倉幕府に訴状合戦をしている。・諏訪大社造営のこととは、神事運営の事か?。時は北条得宗家の時代に移り、上社諏訪家は得宗家と御身内の関係の親密さを増している時、裁定は上社有利に下される。
・・・「大祝信重解状」・諏訪家側の訴状のこと、神長守矢家に永らく秘蔵されていた。
この後、しばらく諏訪大社、上・下社のことは歴史資料に詳しくない。
元弘三年(1333)、北条氏が滅亡すると、後醍醐天皇による建武の新政が開始された。しかし、その政治は長く実務から離れていた公家たちによる時代錯誤なもので、公正を欠くことが目立ち、多くの武士から反発を受けた。信濃国はかつて北条氏の守護任国であり、北条政権の強力な基盤になっていたことから、鎌倉幕府滅亡後も、神党は旧北条派の中心勢力として各地に転戦した。
中先代の乱・・・とくに北条氏滅亡の際、北条高時の遺児時行が諏訪社大祝のもとに匿われ、諏訪氏の後援で建武二年(1335)挙兵し、鎌倉に攻め上り一時鎌倉を制圧した。
中先代の乱と呼ばれる争乱で、中先代軍の鎌倉支配は二十日間に及んだが、尊氏の巻き返しで時行は連戦連敗して敗走し、諏訪頼重とその子の大祝時継らは自殺して中先代の乱は終熄した。
南北朝時代・・・その後、中先代の乱に北条派と結んだ武士たちは、南朝に帰順して信濃宮方として武家方=信濃守護と対立した。その中核になったのは、諏訪上社の諏訪氏、そして下社の金刺氏らであった。
その後、信濃には宗良親王が入って南朝方の中核となった。しかし、情勢は次第に南朝方の頽勢に傾き、正平十年(1355)、宗良親王は信濃南朝方を糾合して守護小笠原氏に決戦をいどんだ。桔梗が原の合戦と呼ばれ、結果は南朝方の敗北に終わった。この合戦に上社諏訪氏は南朝方の中心として参戦したが、下社金刺氏は傍観的立場をとり、その後、幕府・守護方と親善関係を結ぶようになった。
結局、南北朝の争乱は北朝方=武家方の優勢に推移し、ついに明徳三年(1392)、足利幕府三代将軍義満によって南北朝の合一がなった。以後、足利幕府体制が強化され、信濃も守護権力が浸透するようになった。
鎌倉期晩期と室町期前期まで、諏訪大社の下社の金刺氏と上社の諏訪氏は、ともに北条側・南朝側に立って戦っている。
変化が起こったのは、桔梗ヶ原の合戦以降で、下社金刺氏は両軍に属さず、傍観の立場を取っている。
これを、小笠原守護を交えた立場から見て見ると・・・北条氏に代わり小笠原貞宗が信濃守護として入ってきたのが建武二年(1335)であった。小笠原氏は鎌倉に館を構える「鎌倉中」の有力御家人であった。ただ鎌倉末期には、「御内人」でもあった。しかし、北条氏を見限るのも早く、足利高氏に従い戦功を挙げ、それで信濃守護に補任された。
しかし信濃国内には、北条御内人の最有力者・諏訪氏をはじめ、北条守護領下、守護代、地頭、地頭代として多くの利権を有する氏族がいた。そこに北条氏を裏切った小笠原貞宗が、守護として侵入し、旧北条氏領を独占し、それに依存する勢力を駆逐していった。信濃国人衆旧勢力は、新政権を排除し自己の所領の保全・回復をめぐって熾烈な戦いをせざるえを得なかった。その北条氏残党の中核にいたのが諏訪氏であった。北条得宗家の重鎮でもあったため、信濃国人衆は諏訪氏を盟主として、「神(しん;みわ)」氏を称し、「神家党」として結束していた。それが建武二年7月に起きた中先代の乱であった。その乱以後の争闘が、後醍醐天皇の建武の新政を瓦解させた。・・・諏訪頼重・時継父子は、10歳前後の北条時行を擁して挙兵する。中先代の乱の始まりである。同月、船山郷(更埴市・戸倉町)の青沼とその周辺で、市河氏が守護方として北条方反乱軍と戦っている。船山郷の戸倉町には、当時、守護所があった。しかしこの戦いは、陽動作戦で、主力本隊は府中を攻め、国司博士左近少将入道を自刃させている。この勝利で信濃国人衆の過半を味方にし、鎌倉へ進撃ができる兵力を押さえた。7月には足利直義を破り鎌倉を制圧した。しかし京から尊氏が攻め下ると、金刺頼秀が討ち死に、8月には、諏訪頼重・時継父子とその一族が鎌倉大御堂で、全員が顔を切り自裁している。顔を切りことによって、北条時行も自害していると見せ掛けるためであった。諏訪頼重以下、三百余騎がここで果てている。 時行は無事鎌倉を脱出している。
・・・この中先代の乱で、金刺頼秀が、時を追って諏訪頼重・時継父子が討ち死にしている。
そして南北朝時代へ・・・諏訪頼重が、鎌倉に出陣後、大祝を継いだのは、時継の子・頼継であった。このため朝敵となった頼継は神野に隠れる。尊氏は大祝の継承を、大祝庶流の藤沢政頼に就かせると、頼継の探索を厳しく命じた。頼継は、わずか5,6人の従者を連れて、神野の地をさ迷うが、諏訪の人々による陰ながらの援助で逃れる事ができた。その後も信濃の諏訪神家党、その他の国人衆は、足利政権の守護小笠原氏及びその麾下に与するに国人衆と、果てしない闘争を続けた。
・・・この上記の経緯の部分は、諏訪家の文明に内訌の原因になるところで、重要です。上社大祝諏訪頼継は、本来であれば正統に諏訪上社の棟梁であったが、朝敵であったため足利尊氏から追われる立場になってしまった。代わりに、上社大祝は、尊氏から同族とはいえ傍流の"傀儡"が立てられてしまった。山間を逃げ回った頼継は、高遠付近に隠棲所をつくり隠れ住んだが、自らが諏訪上社の正統な棟梁であることを誇っていた。頼継はこうして高遠家の祖になったが、高遠家の以後の嫡流も、頼継の意志を継いだものと思われる。高遠家最後の頼継は、祖の意志と名前を引き継ぎ、上社棟梁への意欲は相当に強いものがあったと思われる。ここの部分をきっちり押さえないと諏訪の内訌への関わりとその後の高遠家の動向が分かりぬくくなる。
・・・この隠棲場所の比定は、当時の状況証拠から、"荒神山城"の可能性が高い。また当時は、高遠城や高遠の地名は無く、この地方は木曽氏の系列の氏族が勢力を持っていたと思われる。このあと、高遠一揆衆の混乱もあり、高遠の地名と高遠城が出来、高遠・諏訪満継のあたりから、高遠家は高遠城が居城になったと推測される。
・佐久の望月氏は、小笠原勢に城を破却されている。9月北条時行に味方した国人衆の本拠地が攻撃された。しかも小笠原勢に与する者は市河一族と村上信貞で、対して諏訪一族は徹底的に交戦を続け、その過酷な試練を乗り越えて、やがて戦国領主として生き残った。
以後諏訪直頼が一時、観応二年(1351)、直義方として尊氏方の小笠原と善光寺平で激戦を繰り返していたが、尊氏が南朝方と和睦し勢力を回復すると形成は逆転し、直義は翌年2月不自然死を遂げている。
諏訪直頼は観応三年(1352)南北朝期最期の大反撃をする。新田義宗や上杉憲顕と組み、諏訪・滋野氏を主力とする信濃勢が、宗良親王を擁して、金井原・小手指原で尊氏方と戦う。しかし敗退し親王は越後へ逃れたようだ。
文和四年(1355)春、宗良親王は越後でも南朝方が敗退すると、信濃に逃れる。諏訪氏・金刺氏・仁科氏も必死の結集に努め、再起をかけて8月府中の制圧にむかう。しかしその途中、桔梗ヶ原(塩尻市)で守護小笠原長基(政長の子)と激戦の末敗退し、信濃南朝軍は瓦解していく。翌延文元年、信濃国境志久見郷(栄村)で、直義方の残党・上杉憲将も敗れている。この様にして信濃南朝勢力は衰退していく。
上社との抗争 ・・・ 応永七年(1400)、守護小笠原氏に対して村上氏を中心とする北信濃の国人らが反旗を翻した。「大塔合戦」と呼ばれる争乱で、守護方の敗北に終わった。この戦いい上社諏訪氏は国人方に味方して陣代を送ったが、下社金刺氏は守護寄りであったようだ。
・・・下社金刺氏は、桔梗ヶ原の合戦以降、明かに心変わりしてきている。それに対して上社諏訪氏は、反守護の立場を一貫している。このような上社と下社の政治姿勢の相違は、相互の対立をよぶようになった。加えて、信濃守護で府中城主の小笠原氏が諏訪社の上社を牽制するため下社を後援したことから、上社と下社が対立し抗争が繰り返されるようになった。
さらに、従来上社大祝職には諏訪氏惣領が就いた諏訪氏宗家でも大祝家と惣領家とに分かれ、一族内紛の芽を有していた。このような状況のもとで、上社と下社の抗争が続き、その抗争は必然的に武力を伴うものであった。
文安六年(1449)、上社と下社は武力衝突し、守護小笠原宗康は下社を支援したが、戦いは上社勢が下社を攻め、社殿を焼き払うという結果となった。その後も、上社と下社の抗争が続いたが、おおむね下社の劣勢であった。
やがて、十五世紀なかごろになると幕府体制に弛緩が見えるようになり、時代は下剋上の様相を見せるようになった。一方で、中世争乱のなかで惣領制的な分割相続から嫡子(惣領)による単独相続へという変化があった。その結果、一族・被官を巻き込んだ相続争いが各地で頻発するようになった。信濃守護小笠原氏では、家督をめぐって内訌が起った。他方、武力によって下社を圧倒していた上社の諏訪氏内部でも大祝家と惣領家とが対立し、分裂状態となった。
・・・ 十五世紀なかごろから、対立構造に変化が起こってくる。それまでの上・下社の争いは、神事の運営方法や政治的な立場の相違からの対立だが、嫡子の相続権が絡む領土・経済戦争の戦国時代の内容の対立が顕著になってくる。諏訪大社で言えば上・下社に加えて惣領家と大祝の隠棲別家の高遠家の、四どもえの戦いに発展してくる。・・上社大祝と高遠家は、ほぼ共同歩調なので、三社対立(鼎立)という方が正確かも知れない。
戦乱のなかで滅亡 ・・・文明十二年(1480)頃になると、諏訪大社の上社の内訌が激化してくる。そして、大祝継満は高遠の継宗および小笠原政秀との連係を強め、一方の惣領政満は藤沢氏とともに府中小笠原長朝と通じるようになった。ここに、諏訪氏の分裂と小笠原氏の分裂とがからみ合うという、複雑な政治状況となってきた。
この諏訪上社の大乱に対して、諏訪下社の金刺興春は上社大祝・継満に味方して挙兵した。下社は永年にわたって上社と紛争を起こして衰退の一途にあったが、上社の内訌を好機として頽勢挽回を図ろうとしたのである。分明十五年(1483)、金刺興春は継満の一派とともに高島城を攻略し、上桑原・武津を焼いた。対する諏訪勢は矢崎肥前守らを中心として出撃し、金刺興春を討ち取り、下社に打ち入ると社殿を焼き払い一面の荒野と化したのである。
興春が戦死したのち、子の盛昌が継ぎ、ついで昌春が継いだ。一方、諏訪上社の抗争は頼満によって克服され、永正十五年(1518)、頼満は昌春の拠る萩倉の要害(山吹城)を攻撃した。上社大祝家に伝わる『当社神幸記』によれば、萩倉要害は自落して、一類の面々家風ことごとく断絶、没落したとある。ここに、金刺氏の没落は決定的となったのである。
社殿などを焼かれ、萩倉城を落とされた下社の大祝金刺昌春は甲斐国の武田信虎を頼って落ち延びた。これが信虎に諏訪郡侵攻の口実を与えるところとなり、享禄元年(1528)信虎は下社金刺氏を押し立てて諏訪に侵攻したのである。このときは、諏訪氏がよく武田軍を神戸で撃退し、逆に享禄四年(1531)には韮崎に出兵した。武田氏の力を借りて下社再興を目論んだ昌春は、享禄四年(1531)に飯富兵部らが信虎に反乱を起した時に戦死したと伝えられている。・・・下社大祝・金刺氏の滅亡。
かくして、代々下社大祝職を継いできた金刺氏であったが、戦国時代末期に至って断絶となった。その後、支族の今井氏が入って武居祝と称し祭祀を継承したが、大祝を名乗ることはなかった。
諏訪のその後 ・・・諏訪氏と武田氏の小競り合いは、その後も続いたが、天文四年(1535)に両者は和睦した。しかし、諏訪氏と武田氏の抗争は、のちの武田晴信の諏訪平定へと連鎖していくのである。
ところで、高遠の地は古来より諏訪上社の領地であったが、金刺昌春が甲斐国に落ち延びた頃、諏訪一族である高遠・諏訪頼継が統治していた。高遠・頼継は諏訪上社の惣領の地位を狙い、諏訪大社下社の金刺氏と結んで武田晴信の力を借りて諏訪氏を攻撃した。ここに出た金刺氏は、武居祝のことであろう。
その後、武田氏と高遠氏の両面攻撃にあった諏訪頼重は降伏し、甲斐に連行され幽閉の身となった。ほどなく、諏訪大社上社の大祝諏訪頼高と共に切腹させられ、諏訪惣領家は滅亡した。その後、諏訪の地は高遠頼継と武田晴信とが二分したが、それに不満を持った高遠頼継が、諏訪地方を武力制圧した。結果として武田晴信と対立、宮川の戦いに敗れた頼継は高遠に逃げ帰り、諏訪一帯全ては武田晴信の領有に帰した。
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◆ 諏訪下社の御狩神事
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諏訪下社の御狩神事
2013-12-12 18:12:23 | 歴史
諏訪下社の御狩神事・・・霧ヶ峰・御射山神社のこと
秋の御射山神社
諏訪大社は、御射山で御狩神事を行うことが、祭祀の大きな特色です。元来、神社の神事については、余りよろしくない頭脳では、何度読みかえしても理解に及ばず、ほとんどわからないままですが、この御狩神事が、諏訪神社を、全国でももっとも尊敬される"軍神"・いくさがみ・にしたのではないかと思っています。
諏訪神社は全国に25000社を数え、この御狩神事を行う御射山を背景に持つ諏訪神社もかなりの数を数えると言います。諏訪大社の御射山は"みしゃやま"と呼び、下社と上社は別々の御射山を持つようです。大社以外の諏訪神社は、御射山を"みさやま"と呼ぶことが多いようです。・・・狩り場から御射と名付けられた様ですが、嘘のような、御射・ミサを古代ユダヤのミサと関連づける説も根強く残っています。
春の御射山神社
諏訪下社の御射山は、霧ヶ峰高原の車山近く、八島湿原近くに神社を持っています。現在諏訪下社の手を離れて、「霧ケ峯本御射山神社」として独立の神社に表記されていますが、諏訪大社の旧摂社という関係から(便宜上)「旧御射山社」を用いています。
まず、御射山の御狩神事の祭祀の規模を、次の2点から確認します。一つは、人間の手の入ったもの、桟敷跡と土塁ですが、八島湿原の池を囲んで、極めて広大です。桟敷跡を観覧席と見ることは、あまりに広大で不合理です。参加観覧人の簡易宿泊施設の建設地跡と見る方が納得がいきます。もう一つは下社武居祝家に伝わる「下諏方旧御射山圖武居祝家蔵本写」です。これは神事式の見取り図です。桟敷は、分類されて、甲州侍桟敷、侍桟敷、刺使御桟敷、北条殿・千葉殿・和田殿、社家桟敷、信濃侍桟敷、に分けられ、接待役と思われる根津、望月、海野の豪族名が書かれ、中央に神殿狩屋、脇に御供所と神楽所があります。
*神殿・・ごうどの、とよみます。
・・・下諏方旧御射山圖武居祝家蔵本写
また、桟敷跡から生活用品である鉄鎌・砥石・鉄釘・灰釉陶器・備前焼・常滑焼・青磁・摺鉢・内耳土器などが発見されています。
この御射山社祭神事は、8月26日から28日まで、3日間行われるそうです。昔は旧暦で、旧暦の7月27日が縁日とされ、5日間行われることもあったという記録が残っています。
霧ヶ峰のこの一帯は風景の美しいところ、、山岳の森林限界を示す場所でもあります。この様子を見ると人の住める環境とは考えられませんが、近くから黒曜石の矢尻などが出土されており、また桟敷跡から生活用品が発見されていることから、古くは狩猟民が、中世は神社関連の民が、生活していたのかも知れません。生活用品は種類と数が多く、臨時の住まいと片づけてしまうのはかなり無理がありそうです。
こちらの御射山図は、上社(茅野)の方のようです。・・・参考
御射山社祭神事の特色だけ箇条に記しますと
・穂屋・薄を使って仮屋の壁をつくり、簡易宿泊施設をつくる。
・鹿を贄として奉納する。
・八島湿原の池七島を星に見立てて占いをする。
・狩りをする。
・最後は酒が出て、どんちゃん騒ぎをする。
・最初は、武士と神官だけだったが、後期は一般見物人も多かった。
・後期は、出店もあったようだ。
これだけではよく分からない。そこで小坂円忠が作ったと言われる『諏方大明神画詞』の文を掲示して、様子を読み解くことにします。ただし、こちらは上社の御射山神事だが、式次第や神事の概容は、ほぼ同じだろうとして類推します。
『諏方大明神画詞』・・・該当文書と合致しませんが、イメージとして参考にして下さい。
・・・、御射山登(のぼり)まし、大祝(おおほうり)神殿(ごうどの)を出て、先ず前宮・溝上の両社へ詣でて後、進発の儀式あり、神官行粧(・・旅装束)騎馬の行列五月会に同じ、御旗二流の外、御札十三所(・・前宮の13神)神名帳銅の札を鉾に付けたりを加う、神長是をさす、先陣既に酒室の社(・・酒室神社)に至る、神事饗膳あり、又、神物・鞍馬・武具是をひく(・・引き出物)別頭役、色衆(・・当色・当日の役を務める神人)小頭に同じ、三献の後、雅楽大草薄穂をとる、群集の人数を算数する儀あり、
(絵是在り)
酒室の神事畢て(終わりて)、長峯へ打ちのぼりて行々山野を狩る、必ず神事の法則に非ずと云えとも、鷹など据えて使う者もあり、禽獣を立てて射取る者もあり、漸く晩頭(・・日暮れ始め)に及んで物見ヶ岡(・・原村柏木)に至る、見物の緇素(しそ・・僧と俗人)群集す、さて大鳥居を過る時は一騎充(づつ)聲をあげてとおる、前官男女の部類、乗輿騎馬の類、前後につづきて櫛の羽(歯)の如し、凡そ諸国の参詣の輩、技芸の族七(・・ママ)深山より群集して一山に充満す、今夜参着の貴賤面々信を起こし掌を合わせて祈念す、諸道の輩衆芸を施す、又、乞食・此処に集まる、参詣の施行更に隙なし、都鄙(・・都と田舎)の高客所々に市をなす、盗賊対治(退治)の為に社家警護を至す(致す)、巡人の甲士(・・鎧を着た武士)昼夜おこたらず、・・・・・『諏方大明神画詞』
こちらは上社御射山神社
前半は、神事の様子、まさにセレモニーだが、この部分はよく分からないし、あまり神事にこだわりを持つつもりはない。儀式が終わると、さあ・・・狩の始まり・・・神事の法則の狩りの方法はあるものの、それに拘っている様子がなく自由に狩を行っている様子。鷹をを使って獣を追うもの、猟犬で獣を追い出して射止めるものもの、そのように狩をする。夕暮れになると、次のイベント会場に移動する。見物の衆は僧もいれば一般人もいる。馬に騎乗した人は、一騎ずつ鳥居を声を上げて通過する。男女の社人や騎馬の人、輿に乗った人、前も後ろも三々五々で、全国から神事の参詣に来た人や、芸妓の人は、山深いところまで群衆と成って充満している。今夜ここに参集した貴人も貧しい人も皆手を合わせて祈願している。色んな芸人が芸を披露している。乞食や達も神事に参詣している。都や田舎から来た貴人達も市の周辺に集まっている。盗賊退治の社家警護の鎧武者は、昼夜を問わず周囲を巡回して警護をしている。
これで、ようやく御射山の御狩神事の概容が掴めました。上記の文脈から、狩は、鹿だけではなさそうで、猪や野ウサギやキジなども対象であったのかも知れません。夜の、無礼講のような様子から、狩った獲物を"さかな"に酒宴が開かれていたようにも思えます。一般人はともかく、ここに集った武士達は、武具を使用した狩という大運動会さながらのようです。この神事的な娯楽は、諏訪神を"いくさがみ"(軍神)とするには十分です。このようにして、鎌倉幕府と室町幕府に諏訪大社は庇護を受けるようになります。