探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

溝口家 伊那谷の小笠原家庶流

2014-03-04 21:31:02 | 歴史

溝口家 伊那谷の小笠原家庶流


溝口氏 松皮に井桁 (清和源氏小笠原氏族)

溝口氏

どうも、溝口氏は府中小笠原の系流らしい。

そして、北条残党と南朝の砦の、”大徳王寺の戦い”で、幕府側・小笠原守護が勝利した後の、大徳王寺の周辺・黒河内の郷を、小笠原守護は信頼できる親族に任せた。小笠原氏長がその人である。氏長は、その土地の名前を戴いて溝口氏長と名乗ったらしい。溝口は、今の美和ダムの沿岸に位置する。氏長の時代、溝口は、諏訪大社の神域のど真ん中を占め、守護に反目する諏訪神党に周囲を囲まれた位置にあった。

 戦国時代、信濃国の有力大名である小笠原氏に仕えた溝口氏がいた。『信濃史源考』によれば、溝口氏は小笠原氏の分かれで、小笠原政長の子孫三郎氏長が伊那郡溝口郷を領し、地名をとって溝口氏を名乗ったのが始まりだとしている。氏長以後、宗家小笠原氏に仕えて数々の戦いに出陣し、秀重は持長に属して漆田原合戦において戦死、貞信は長朝に属して松尾矢賀沢の戦いにおいて戦死したが、そのとき、嫡男孫三郎、二男の房八郎も貞信とともに戦死した。このように、溝口氏の歴代は小笠原氏に命を捧げてきたのである。

 貞信の三男(系図上で)美作守長友は、小笠原長時の弟で伊那郡鈴岡城主であった小笠原信定に仕えた。当時、信濃の隣国の大名であった武田家は国内統一をなして、当主晴信は西上の野望を抱き、その第一歩として信州経略を目指していた。

武田信玄の信濃侵攻・・・小笠原氏に忠節を尽くす

この間、野々宮合戦に敗れて村上義清の許に滞在した長時に対して、長勝は鈴岡から援助を施した。この長勝の行為に報いて、長時は右馬助の官途と「吉光の御脇指、小狐と申し御弓」を下賜したと伝える。そして、天文二十三年(1554)長時は中洞の小屋を離れて、越後上杉氏を頼った。その後、長勝は長時を迎えて信定の拠る鈴岡城に至ったが、伊那方面の反武田勢力の一掃を期していた晴信に駆逐されて、長時は京都の三好長慶を頼る羽目になった。・・・ 長時の上洛に従い長勝は父長友と共に従い、京畿にあっては長時が頼みとした長慶の弟三好義賢の居城河内高屋城に寄寓した。ここにおいて、長友は七十二歳で討死、長勝も同城において死去したと『御家中由緒書』に記されている。・・・ その後の溝口氏は、長友の八男の貞泰が継いだ。貞泰は、天正十年(1582)三月、武田氏の滅亡を機に、長時の子貞慶がが府中回復を窺って西牧の金松寺に現れた折、既に貞慶に供奉しており、その後も一貫して貞慶の深志への復帰実現のために尽力した。同年七月、貞慶の松本入城後は、貞慶の股肱の臣として貞慶の意を体して、貞慶旗下の将士に戦功を励まし、所領を宛行い、あるいは検地役を勤めるなどの所務沙汰に関与した。一方、天正十年八月の日岐城攻撃には侍大将として出陣する働きをみせている。
 それら貞泰の功労は、天正十一年三月二十四日付の貞慶宛行状案中に「数代之忠節、殊更別シテ五ヶ年の奉公ニ依ル」という文面からも窺われる。このように小笠原貞慶と溝口貞泰との君臣関係は、天正十七年(1589)九月三日付で貞慶が貞泰に送った起請文中に「心をおカす可被申候」とあるような、隔心のない親密な間柄であったことが偲ばれる。・・・【参考:戦国大名家臣団事典信濃史源考 ほか】

溝口氏の情報は下記による

溝口家記 二木家記と岩岡家記 ただし別:越後新発田、溝口家文書は別流・注意

あるいは、蕗原拾葉にも記載がある。諏訪神党と行動を一つにしていた記録が残る。

系譜
貞宗-政長-三男・氏長(溝口氏)-秀行-政行-秀重-貞信-三男・氏友-長勝-常長-常吉-重長-重恒・・・一般に流布された系譜だが、疑問が多い。

概容(樹堂氏による)・・・

深志城の築城者・島立氏は溝口氏の系流・・・

「小笠原政長の三男右馬助氏長※の二男土佐守貞長が信州伊那郡入谷庄溝口に住、曾孫の溝口右馬助長友が小笠原長時に従って出奔し、美濃国にて死し、その子が溝口彦左衛門勝政なり」と記しているからである。また、真年翁の『百家系図稿』巻六にも、これと同様な系図が記載され、『華族諸家伝』の或説の記事と対応する。
※  右馬助氏長は、島立氏の祖として知られ、『百家系図稿』巻六所載の「溝口系図」では、氏長の子の三郎太郎重長が島立右馬助と号し、その三郎次郎貞長が溝口土佐守と号し、永享七年(1435)十月の常州佐竹の永倉遠江守追討のときに従軍したとある。以下、その子の「貞勝-貞信-長信、その弟長友」(貞長と 貞信の間に一代欠落があるか)と続いて、長友の子に「彦左衛門勝政-秀勝」と記される。なお、この信州溝口の系図は、『姓氏家系大辞典』記載の系図よりは 信頼性があるか。
この系譜は明らかに仮冒であって、小笠原一族の系図に溝口彦左衛門勝政を接合させたものである。なぜなら、溝口右馬助長友が主君の小笠原長時に従って信濃を出たが、死んだ地は美濃国ではなく、三好義賢の居城たる上方の河内国高屋城であり、その嫡男右馬助長勝とともに天文二三年(1554)に死んでいる。右馬助長勝の八弟の美作守貞泰は、長時の子の貞慶・秀政親子に仕えて、慶長十三年(1608)には「溝口家記」を執筆して主君秀政に呈した事情もある(『戦国人名事典』)。信濃松本城主の小笠原貞慶が、天正十一年三月にその臣溝口貞康に対し筑摩郡の地を与え(大日本史料 11編)、天正十七年九月に溝口美作守(これも貞康)に誓書を与えた(史料綜覧 11編)、と史料に見える。
一方、溝口彦左衛門勝政は天正三年(1575)三月に死んだと家譜にいい、その子の伯耆守秀勝の活動時期は1548生~1610没とされるから、「勝政と長友」、「秀勝と長 勝・貞泰兄弟」とがそれぞれ同世代として対応することになる。溝口彦左衛門勝政は右馬助長友の子ではありえないということである。-ucomより

系譜・・信濃国人史・・・

溝口長友(1485~1551)

鈴岡小笠原信定家臣。1545年、武田晴信は、藤沢頼親の拠る福与城を攻撃した。小笠原長時は、妹婿でもある藤沢頼親を援けるため、軍を発したが戦うことなく兵を退いた。1548年「上田原の戦い」において、村上義清と武田晴信が戦い、武田勢に大勝した。この勢いをかって、小笠原、村上、仁科、藤沢の連合軍は諏訪郡に討ち入った。これに対し、武田晴信は甲府より急行し、小笠原長時は兵を退いて塩尻峠に陣を布いた。武田群は塩尻に押し寄せ、合戦になったが、ついに小笠原長時は大敗して林城に退いた。1546年、武田晴信は村井に陣を布いた。これに対して小笠原長時は桔梗ケ原で応戦につとめたが、草間肥前守、泉石見守らを討たれて、小笠原長時は林城に退いた。これにより、洗馬の三村入道、山家、坂西、島立、西牧の諸家は武田晴信に降った。小笠原長時に属したのは、二木、犬甘、平瀬らの諸家のみであった。

溝口長勝(1512~1565)

溝口長友の男。官途は右馬助。父溝口長友は小笠原信定(小笠原長時の弟)に仕えていた。1550年「野々宮の戦い」ののち、村上義清のもとにあった小笠原長時を援助した。1554年、長尾家のもとにあった小笠原長時を伊那郡鈴岡城に迎えたが、武田晴信の攻撃を受けて信濃国から落延びた。父溝口長友とともに小笠原長時に従って三好長慶を頼り、河内高屋城に寄寓していたが、同地において病没した。

溝口貞泰(1539~1608)

溝口長友の八男。官途は美作守。1582年、小笠原貞慶が金松寺に入った際、これに仕えて深志復帰に尽力した。その後政務を担当する。1582年「日岐城の戦い」では侍大将として参陣。1608年『溝口家記』を著して小笠原秀政に献じた。

宮田親房(15??~15??)

伊那郡の国人衆。官途は左近正。藤沢頼親家臣。藤沢頼親が武田晴信に降ったあとは、武田家に属した。1556年、武田晴信が川中島で長尾景虎と対陣中、黒河内政信、溝口正慶、松島信久、春日重親、殿島重国、宮田親房、小田切正則、上穂重清の八人は武田家から離反したが失敗、戦後狐島で磔にされた。

溝口正慶(15??~15??)

伊那郡の国人衆。官途は民部少輔。藤沢頼親家臣。藤沢頼親が武田晴信に降ったあとは、武田家に属した。1556年、武田晴信が川中島で長尾景虎と対陣中、黒河内政信、溝口正慶、松島信久、春日重親、殿島重国、宮田親房、小田切正則、上穂重清の八人は武田家から離反したが失敗、戦後狐島で磔にされた。・・・溝口正慶は保科正俊の子の説がある(保科正直兄弟)

 

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