探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

徳川・親藩大名の小笠原家 ・・・松尾小笠原家の系譜

2014-03-03 20:36:01 | 歴史

・・・松尾小笠原家の信嶺以後・・・幕藩体制の大名として

江戸幕府・親藩・信嶺系小笠原家

小笠原家(信嶺系)


武蔵本庄藩 1万石
・藩祖 小笠原信嶺 -小笠原信貴の長男。正室は武田信廉の娘(久旺院尼)。
松尾小笠原家出身であり、府中小笠原長時と対立し武田信玄の家臣となる。天正十年(1582)の織田信長による武田侵攻の際に織田に降り先鋒を務める。本能寺の変の後は徳川家康に仕える。
・二代:小笠原信之:従五位下 左衛門佐 徳川四天王・酒井忠次の三男。酒井家次と本多康俊の弟。正室は小笠原信嶺の娘。


下総古河藩 2万石
・藩主:初代小笠原信之:従五位下 左衛門佐 徳川四天王・酒井忠次の三男。酒井家次と本多康俊の弟。正室は小笠原信嶺の娘。
・二代:小笠原政信:従五位下 左衛門佐 小笠原信之の子


下総関宿藩 2万2千石
・藩主:初代:小笠原政信:従五位下 左衛門佐 小笠原信之の子
・二代:小笠原貞信:従五位下 土佐守 旗本高松貞勝の長男、母は小笠原信之の娘 。


美濃高須藩 2万2千石
・藩主:初代:小笠原貞信:従五位下 土佐守 旗本高松貞勝の長男、母は小笠原信之の娘。


越前勝山藩 2万2千石
・藩主:初代:小笠原貞信:従五位下 土佐守 旗本高松貞勝の長男、母は小笠原信之の娘。
二代:小笠原信辰:従五位下 駿河守 小笠原貞信の子小笠原信秀の長男
三代:小笠原信成:従五位下 能登守 旗本酒井因幡守忠隆の二男。正室は小笠原信辰の娘。
四代:小笠原信胤:従五位下 相模守 伊勢神戸藩主本多伊予守忠統の二男
五代:小笠原信房:従五位下 飛騨守 第2代藩主小笠原信辰の長男
六代:小笠原長教:従五位下 相模守 小笠原信房の二男
七代:小笠原長貴:従五位下 相模守 小笠原長教の二男
八代:小笠原長守:従五位下 相模守 小笠原長貴の六男


・・・明治・・・

 

特異な別家 小笠原陣屋

 小笠原陣屋

伊豆木陣屋

小笠原長巨・小笠原信貴の弟


小笠原長巨
・・・長巨は「糾方的受之人」(笠系)と認められていた。実はこの時代、惣領家が存亡の危機の時、糾方的伝の一子相伝をやめ、才能のある分家にも伝えたという。長巨はその一人であり、彼の子孫にも礼法が伝わっていく。・・・天正十八年(1590)、惣領家の秀政が、秀吉の仲介で家康の長男・信康の娘徳(登久)姫を娶る時、長巨の妻が介添役を勤めた。それを機に、長巨は松本に通って秀政からの糾法の質問に答えたという(秀政年譜)。・・・長巨は一旦は兄信嶺とともに本庄に移るが、慶長五年(1600)、旗本格千石取りで伊豆木(飯田市)の地に着任した。・・・長臣はまた当時の播磨明石城主の忠真(秀政次男)に招かれ、城内に小笠原流弓術の矢場を作った。その後も伊豆木系の男子の多くが小倉藩小笠原惣領家の家臣となった。・・・長臣はこのように、戦国時代に混乱した小笠原流礼法の貴重な伝達者になった。後年は隠居して「以鉄」と号し、飯田近在で礼法の顧問的存在となったという。・・・伊豆木小笠原氏の居館が現在も「小笠原屋敷」として残る。長巨系の伊豆木小笠原氏は、明治まで続く。・・・伊豆木小笠原は小笠原流礼法を守った家系であり、数々の礼書を残している。

小笠原屋敷・資料館・・・伊豆木での見所は小笠原屋敷。小笠原屋敷自体が「旧小笠原書院」の名で国の重要文化財であり、有料で屋敷内の見学ができる。・・・屋敷の敷地内には、対照的な現代建築の市営の小笠原資料館が隣接している。資料館には展示物のほかに小笠原家から寄贈された礼法・弓法関係の古文書も多数所蔵されている。閲覧するには、市教育委員会に事前に申し込む。

秘伝を学ぶ際の起請文・・・資料館の展示物の中で、礼法を学ぶ者にとって最も重要なのはこの起請文。
これは小笠原流礼法の礼書を外部の者が閲覧する際に用いた誓書である。
弓法躾判紙 
一、御相伝之儀疎略存間敷事 (御相伝の儀、粗略に存じまじき事)
一、失念之節私之儀仕間敷事 (失念の節は私の儀仕うまじき事)
一、他流誹間敷事 (他流を誹(そし)るまじき事)
一、無御免大事他伝申間敷事 (御免なく大事他に伝え申すまじき事)
一、自余之儀雑間敷事 (自ら余の儀、雑(ま)ぜるまじき事)

これは世代を重ねて合理的に考え抜かれてきた「小笠原流礼法」に、勝手なノイズを入れない、すなわち聞きかじった者が勝手に自己流「小笠原流礼法」を名乗らせないためにとられた措置である。伊豆木小笠原氏は山村の旗本格ながら、正当な小笠原流礼法を伝承しているという自負と責任感がうかがえる。 この起請文は現代に小笠原流礼法を学ぶ人にも共有してほしい。

場所:長野県飯田市伊豆木3942-1

 


小笠原信嶺  ・・・ 松尾小笠原家歴代

2014-03-03 19:59:14 | 歴史

                   松尾 

  小笠原信嶺

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小笠原信嶺
時代 戦国時代から安土桃山時代
生誕 天文16年(1547)
死没 慶長3年2月19日(1598・3・26)
戒名 徹抄道也大居士
墓所 埼玉県本庄市内の開善寺
官位 掃部大夫
主君 武田信玄→勝頼→織田信長→徳川家康
信濃国松尾城主→武蔵国本庄城主
武田軍三河攻めで、遠江に侵攻し、井伊谷の領主
織田信忠軍の先陣。信濃「高遠城攻略」
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原信貴
妻 正室:武田信廉の娘(久旺院尼)
子 娘(小笠原信之正室)、娘(榊原忠勝室)
養子:信之

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小笠原信嶺は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。弟に長巨がいる。

生涯
天文十六年(1547)、松尾小笠原氏出身の信濃松尾城主・小笠原信貴の長男として生まれる。父と同様に武田信玄配下の信濃先方衆として働いた。武田晴信(信玄)が天文二十三年(1554)の伊那侵攻で、城主の小笠原信貴・小笠原信嶺父子は武田氏に従い、鈴岡城攻めでは先鋒を勤めた。信玄の死後も引き続き武田勝頼に仕えて、遠江方面の要衝を守っていた。
しかし天正十年(1582)、織田信長による甲州征伐がはじまると、すぐに信長に降伏して織田軍の「高遠城攻め」の道案内役を務めた。同年六月、信長が本能寺の変で死去したため、天正壬午の乱では徳川家康に属し、家康の家臣酒井忠次の家臣として各地を転戦、松尾城などの知行を安堵されるとともに、天正十二年(1584)には、元武田家臣の下条頼安を誘殺するなど支配力の強化にも努めた。
天正十八年(1590)に家康が関東に入部した際、武蔵児玉郡本庄に1万石を与えられ、本庄城主(藩祖)となる。本庄氏時代の城を廃し、久城掘り西側に新たに城を築き、低地である花の木で生活していた住民を台地へ移住させ、新しい町造りを開始した。・・・移封の時、松尾城、鈴岡城廃城。
翌年の天正十九年(1591)には、夫人の兄である甲斐国永岳寺の救山宗温禅和尚を迎え、自らが開基となり、畳秀山の開善寺(小笠原氏の菩提寺と同名)を本庄宿の中宿に建立した。
豊臣秀吉の朝鮮出兵時には九州まで出向いている。伏見城の築城工事の際には人足200人を引率した。慶長三年(1598)二月、江戸で死去。享年52。家督は養嗣子の小笠原信之(酒井忠次の三男)が継いだ。


小笠原信貴  ・・・ 松尾小笠原家歴代

2014-03-03 17:25:25 | 歴史

             松尾 

  小笠原信貴

*定基の嫡子・小笠原貞忠 (~1534年)は天文三年(1534)、府中小笠原長棟との戦いで戦死。松尾小笠原家を継いだのは信貴。

小笠原信貴
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 不明
主君 武田信玄
藩 信濃国松尾城主
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原貞忠?
子 小笠原信嶺(長男・1547-1598)、小笠原長巨

*松尾小笠原家の名前の連続性・”貞”の文字は、定(貞)基で途絶えた。定基と信貴は、長棟に敗れて、信玄のもとに庇護を求めて逃げた時、信玄に臣下を誓い、武田家の”信”の一字を貰ったものと思われる。定基、信貴の生没は不詳ながら、信嶺が、父信貴が二十歳の時の子であると仮定すれば、信貴の生年は1527年と言うことになる。仮定の話であるが、”当たらずとも遠からず”に拠れば、信玄の所に逃げた信貴は、六歳の幼年であり、甲斐で成長し成人して、信玄の”信”を貰い、信貴を名乗ったとしても違和感はない。

小笠原信貴は、戦国時代の武将。
信濃国松尾城を領していた。松尾小笠原氏の出身で、府中当主である小笠原長棟や小笠原長時と対立して敗れから、武田信玄に臣下した。その後は武田配下の信濃先方衆の一人として活躍した。その後、天文二十三年(1554)、小笠原信定の守る鈴岡城を落とす。これにより松尾小笠原家を再興。山県昌景に属し、伊奈先鋒衆百騎を預かる。・・・天文十八年(1549年)、室町時代後半から衰えていた開善寺を復興させた。

別家・坂西家との争い・・・
永禄年間(1558~1570)、飯田城主の坂西長忠と松尾城主の小笠原信貴との領地争いに端を発した紛争が続いた。永禄五年(1562)、坂西長忠が武田勝頼に謀反したとこにより紛争に拍車がかかった。9月16日、坂西氏の兵が松尾に侵入したことを契機に、松尾城代・清水但馬守を先鋒とする小笠原勢が飯田城へ総攻撃をかけた。持ちこたえることができない飯田城主長忠は小雨の中を城を捨て、竹村・窪田・代田らの家臣と共に、木曽方面へ逃げ出した。小笠原氏は密使・近藤茂助の通報により、市瀬・勝負平に先回りをして討ち取った。その時、長忠は一子を家来に託して落ち延びさせようとしたが、家来は山中を踏み迷った後、かろうじて飯田峠を越えたが、大平宿東端の迷い沢下流で息絶えたといわれている。この子供を祀ったのが御君地蔵で、また「迷沢」「御子谷」の地名がついたといわれる。

 

 

 


小笠原定基の特異性  ・・松尾小笠原家

2014-03-03 00:58:38 | 歴史

       松尾 

 

松尾小笠原家 定基の特異性

守護になれなかった定基だが、この松尾小笠原家は、極めて”外交”に特色を持つ。まず幕府との関係だが、この時期幕府と言うより、応仁の乱の末期に当たり、東軍に属した松尾家は東軍の司令部より様々な指令が来たようだ。最初は、銀閣寺を作った将軍・義政より、松尾と府中に対して、鈴岡と仲良くするように司令が来る。義政が政権を離れると、東軍の司令部は、松尾と木曽氏に、西軍の府中・小笠原と美濃・土岐氏の征伐を命じる。そして松尾は隣国・竜東の知久氏と謀り、鈴岡・政秀を謀殺する。さらに、尾張守護が遠江鎮圧のために松尾定基と子の貞朝に出兵を要請している。よく分からないのが、北条早雲と松尾小笠原家の関係だ。早雲からの書状を読むと、松尾と後北条は、まるで同盟関係のような内容である。

これを解く鍵は、京都小笠原家を含めた、足利幕府内の、伊勢氏(=のち、早雲)との姻戚関係や幕府内の役職上の関係性の把握が必要に思える。さらに、応仁の乱の、東軍・西軍に分かれての対立が、松尾と府中の対立に重層的に関与している実態は、まさに”一族の内乱”を超えて、”代理戦争”となっている。
小笠原定基の時代は、将軍義政の後、将軍義尚の時代へ移り、時代を重ねて推移する。この将軍義尚の時代、伊勢盛時(=早雲)は申次衆であった。ただ、府中については西軍に位置するが、西軍からの書簡が見られないことから、明確な東軍の立場の松尾小笠原家との対立・対抗上、消極的に西軍に位置したのではなかろうか。

申次衆とは、室町幕府の職名の1つ。
申次とは奏者とも呼ばれ、元来は天皇や院に奏聞を取次ぐ役目をする人物を指し、鎌倉幕府や室町幕府でも将軍に奏聞を取次ぐ人を指した。幕府の申次は将士が将軍に拝謁するために参上した際にその姓名を将軍に報告して拝謁を取り次ぎ、同時に関連する雑務も処理した。室町幕府六代将軍足利義教の頃には伊勢・上野・大舘・畠山の4氏出身者によって独占されるようになり、彼らは数名で結番して交代で申次の職務にあたった。これを申次衆と呼び、後に御相伴衆・御供衆・御部屋衆に次ぐ家格としての意味を有するようになった。申次衆は、常に将軍の側に仕え、各種相談を受ける内、信頼を勝ち取り、時には将軍に政策を具申できる立場でもあった。
近年では、伊勢盛時(北条早雲)も申次衆の1人であったと考えられている。さらに、早雲の正妻は、京都小笠原氏の女であったという。

諏訪氏との関係
松尾小笠原家は、別家坂西家が諏訪上社に帰依し、積極的に坂西”孫六”が上社を支援していたので、付随して上社と同盟するに至った様だ。諏訪家の内訌に関しても、一貫して上社・大祝家と高遠家の側に立ち、お互いに戦に援軍している。府中は、これも松尾との対立・対抗上、下社・金刺氏を支援したようだ。諏訪家は守護代を任じ、小笠原家に次ぐ諏訪神党の武士団を持っていた。この諏訪の内訌の時代が、小笠原定基の時代と重なる。

この部分・・・小笠原家の内訌(=内乱)と諏訪家の内訌は、重層的に絡み合う関係性は、一地方部族の限定された物語ではないようだ。鎌倉時代という時代の終焉に伴う、次期の時代への移行期に発生した南北朝の対立の時代に、その主役を務めた諏訪神族と、室町時代の牽引の役割を担った足利一族の同盟者・小笠原一族との軋轢と協調の時代を、明快に解析して解説しうる書を探してみたが、部分的あるいは間接的表現されている書のみで、満足できるものはなかった。その為であろうか、小笠原定基の評価は、世俗的で低いものになっている。つまり、同族を謀殺した、とか、府中と内乱的に対抗した、とか。しかしである・・・この定基の行為を点検すると、小笠原一族と諏訪神族と、この二流の矛盾を解放し、日本的世界に解放できる「アウフヘーベン」的要素をもった”将”であったのではないか、と思える。小笠原定基は、もっともっと再評価されるべきである。