・・・松尾小笠原家の信嶺以後・・・幕藩体制の大名として
江戸幕府・親藩・信嶺系小笠原家
小笠原家(信嶺系)
武蔵本庄藩 1万石
・藩祖 小笠原信嶺 -小笠原信貴の長男。正室は武田信廉の娘(久旺院尼)。
松尾小笠原家出身であり、府中小笠原長時と対立し武田信玄の家臣となる。天正十年(1582)の織田信長による武田侵攻の際に織田に降り先鋒を務める。本能寺の変の後は徳川家康に仕える。
・二代:小笠原信之:従五位下 左衛門佐 徳川四天王・酒井忠次の三男。酒井家次と本多康俊の弟。正室は小笠原信嶺の娘。
下総古河藩 2万石
・藩主:初代小笠原信之:従五位下 左衛門佐 徳川四天王・酒井忠次の三男。酒井家次と本多康俊の弟。正室は小笠原信嶺の娘。
・二代:小笠原政信:従五位下 左衛門佐 小笠原信之の子
下総関宿藩 2万2千石
・藩主:初代:小笠原政信:従五位下 左衛門佐 小笠原信之の子
・二代:小笠原貞信:従五位下 土佐守 旗本高松貞勝の長男、母は小笠原信之の娘 。
美濃高須藩 2万2千石
・藩主:初代:小笠原貞信:従五位下 土佐守 旗本高松貞勝の長男、母は小笠原信之の娘。
越前勝山藩 2万2千石
・藩主:初代:小笠原貞信:従五位下 土佐守 旗本高松貞勝の長男、母は小笠原信之の娘。
二代:小笠原信辰:従五位下 駿河守 小笠原貞信の子小笠原信秀の長男
三代:小笠原信成:従五位下 能登守 旗本酒井因幡守忠隆の二男。正室は小笠原信辰の娘。
四代:小笠原信胤:従五位下 相模守 伊勢神戸藩主本多伊予守忠統の二男
五代:小笠原信房:従五位下 飛騨守 第2代藩主小笠原信辰の長男
六代:小笠原長教:従五位下 相模守 小笠原信房の二男
七代:小笠原長貴:従五位下 相模守 小笠原長教の二男
八代:小笠原長守:従五位下 相模守 小笠原長貴の六男
・・・明治・・・
特異な別家 小笠原陣屋
小笠原陣屋
伊豆木陣屋
小笠原長巨・小笠原信貴の弟
小笠原長巨
・・・長巨は「糾方的受之人」(笠系)と認められていた。実はこの時代、惣領家が存亡の危機の時、糾方的伝の一子相伝をやめ、才能のある分家にも伝えたという。長巨はその一人であり、彼の子孫にも礼法が伝わっていく。・・・天正十八年(1590)、惣領家の秀政が、秀吉の仲介で家康の長男・信康の娘徳(登久)姫を娶る時、長巨の妻が介添役を勤めた。それを機に、長巨は松本に通って秀政からの糾法の質問に答えたという(秀政年譜)。・・・長巨は一旦は兄信嶺とともに本庄に移るが、慶長五年(1600)、旗本格千石取りで伊豆木(飯田市)の地に着任した。・・・長臣はまた当時の播磨明石城主の忠真(秀政次男)に招かれ、城内に小笠原流弓術の矢場を作った。その後も伊豆木系の男子の多くが小倉藩小笠原惣領家の家臣となった。・・・長臣はこのように、戦国時代に混乱した小笠原流礼法の貴重な伝達者になった。後年は隠居して「以鉄」と号し、飯田近在で礼法の顧問的存在となったという。・・・伊豆木小笠原氏の居館が現在も「小笠原屋敷」として残る。長巨系の伊豆木小笠原氏は、明治まで続く。・・・伊豆木小笠原は小笠原流礼法を守った家系であり、数々の礼書を残している。
小笠原屋敷・資料館・・・伊豆木での見所は小笠原屋敷。小笠原屋敷自体が「旧小笠原書院」の名で国の重要文化財であり、有料で屋敷内の見学ができる。・・・屋敷の敷地内には、対照的な現代建築の市営の小笠原資料館が隣接している。資料館には展示物のほかに小笠原家から寄贈された礼法・弓法関係の古文書も多数所蔵されている。閲覧するには、市教育委員会に事前に申し込む。
秘伝を学ぶ際の起請文・・・資料館の展示物の中で、礼法を学ぶ者にとって最も重要なのはこの起請文。
これは小笠原流礼法の礼書を外部の者が閲覧する際に用いた誓書である。
弓法躾判紙
一、御相伝之儀疎略存間敷事 (御相伝の儀、粗略に存じまじき事)
一、失念之節私之儀仕間敷事 (失念の節は私の儀仕うまじき事)
一、他流誹間敷事 (他流を誹(そし)るまじき事)
一、無御免大事他伝申間敷事 (御免なく大事他に伝え申すまじき事)
一、自余之儀雑間敷事 (自ら余の儀、雑(ま)ぜるまじき事)
これは世代を重ねて合理的に考え抜かれてきた「小笠原流礼法」に、勝手なノイズを入れない、すなわち聞きかじった者が勝手に自己流「小笠原流礼法」を名乗らせないためにとられた措置である。伊豆木小笠原氏は山村の旗本格ながら、正当な小笠原流礼法を伝承しているという自負と責任感がうかがえる。 この起請文は現代に小笠原流礼法を学ぶ人にも共有してほしい。
場所:長野県飯田市伊豆木3942-1