探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

小笠原秀政  ・・・ 府中小笠原家歴代

2014-03-18 03:47:24 | 歴史

     府中小笠原家 

 小笠原秀政

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小笠原 秀政
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄12年3月21日(1569年4月7日)
死没 慶長20年5月7日(1615年6月3日)
改名 幸松丸(幼名)→貞政(初名)→秀政
戒名 両選院殿義捜宗玄大居士
墓所 長野県松本市埋橋の埋橋剣塚
長野県松本市里山辺の広沢寺
官位 従五位下、信濃守、上野介、兵部大輔
主君 豊臣秀吉→徳川家康→秀忠
藩 下総古河藩主 1590-1601
 →信濃飯田藩主 1601-1613
 →松本藩主 1613-1615
正室:峯高院・登久姫(父:岡崎信康、義父:徳川家康)
   敬台院・万姫・虎(阿波藩主・蜂須賀至鎮室、義父:徳川家康)
子:忠脩(忠脩系へ)忠真、忠知(忠知系へ)、松平重直(能見松平家へ
氏族 府中小笠原氏
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概略
小笠原秀政 生没年:1569~1615年
身分:信濃松本8万石の大名、官位(通称、号):兵部大輔
【流転の日々】小笠原貞慶の息子。母は日野晴光の娘。小笠原家は清和源氏の後裔で信濃の名族だったが、1553年に武田信玄によって信濃を追われている。秀政は貞慶の逃亡先の山城で生まれ、父と共に各地を転々とした。貞慶は1582年6月の本能寺の変後、徳川家康の助けを得て信濃深志城を奪い、徳川家に秀政を人質に出し石川数正に預けた。
その後、貞慶は数正と共に豊臣秀吉の下に走り、讃岐半国を与えられたが、秀吉の怒りを買ったため改易され、家康の下に戻った。1589年に徳川信康の娘・登久姫と結婚する。
松本城・・・秀政が城主だった松本城・・【徳川家の家臣】1590年の小田原征伐では秀政は<榊原康政隊に属して従軍し、その功で下総古河3万石を与えられた。その後、秀政は朝鮮出兵・会津征伐に従軍し、その功で1601年に信濃飯田5万石に移封され信濃守を名乗る。・・1607年に妻が亡くなると剃髪して家督を長男の忠脩に譲った。1613年5月、石川康長が改易されるとその後に入り信濃松本の旧領に戻った。・・【冬の陣】1614年、大坂冬の陣が起こると忠脩を大坂に向かわせ自身は松本城の守備につく。翌年の夏の陣では秀政が3300の兵を率いて出陣し、息子達は松本城の守備を命じられたが、忠脩と次男・小笠原忠真は密かに大坂に向かい父と合流した。これを知った家康はその忠勇を誉めている。
毛利隊と徳川軍前線が戦った辺り・・・【屈辱】1615年5月6日、若江の戦いで井伊直孝軍が木村重成軍と戦闘となり、小笠原軍も木村宗明に攻撃され、秀政は本格的な戦闘に入ろうとしたが、軍監・藤田信吉に止められたため防戦に徹した。それが家康の耳に入り、秀政は激しく叱責されてしまう。冬の陣でも小笠原軍は沼地のために進撃できないという失態を演じたということもあり、秀政は名誉挽回を決意し、同じ境遇に置かれていた本多忠朝を訪ね酒を酌み交わして翌日の奮闘を誓い合った。・・【奮戦】翌日、大坂城南で天王寺・岡山での最終決戦が始まると、毛利勝永・大野治長・竹田永翁軍と衝突し竹田軍を蹴散らしたが、毛利・大野軍の攻撃によって小笠原軍は敗走し始める。・・秀政は体勢を立て直そうと自ら槍を奮って奮戦するが6ヶ所に傷を負い、忠脩が討死、忠真も傷を受け、指揮官すべてがいなくなってしまい小笠原軍は撤退してしまう。秀政は河内久宝寺に逃れ治療を受けたが、夕方に死亡した。享年47歳。遺体は京都で荼毘にふされ、松本に運ばれて葬儀が行われた後、宗玄寺に葬られた(後、改葬されて現在は広沢寺に墓がある)。

生涯
永禄十二年(1569)3月、小笠原貞慶の長男として山城宇治田原で生まれる。この頃の小笠原氏は武田信玄に信濃を追われて流浪していたため、このような場所で生まれたものと思われる。天正十年(1582)、織田信長が死去すると、父・貞慶は徳川氏の家臣となるため、長男を徳川家康のもとへ人質として差し出し、石川数正に預けられた。この頃には貞政を名乗っていた。・・天正十三年(1585)、石川数正が貞政を引き連れて豊臣秀吉のもとへ出奔すると、貞慶も秀吉に仕えざるを得なくなった。貞政は秀吉より偏諱を与えられ秀政と名乗る。天正十七年(1589)1月、父から家督を譲られて小笠原氏の当主となる。8月には秀吉の仲介で家康と和睦し、家康の孫娘・登久姫と結婚することとなった。・・天正十八年(1590)、父が秀吉の怒りを買って改易されると、父と共に再び家康に仕え、家康から下総古河に3万石を与えられた。・・文禄四年(1595)3月、従五位下上野介に任じられ、豊臣姓を与えられる。・・慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いでは宇都宮城守備に功を挙げ、翌年(1601)に信濃飯田五万石に加増移封される。慶長十二年(1607)、出家して家督を長男の忠脩に譲る。慶長十八年(1613)に父祖の地である信濃松本8万石に加増移封された。・・慶長二十年(1615)の大坂夏の陣に参陣し、本多忠朝を救援する。しかし天王寺口の戦いで大坂方の猛攻を受けて忠脩は戦死し、秀政も瀕死の重傷を負って戦場を離脱するが、間もなく戦傷により死去したとされる。享年47才。・・跡を次男の忠真が継いだ。なお、このときの秀政の戦死が、後世の小笠原氏の改易危機の際に、常に「父祖の勲功」として救われる一因を成した。

竜雲山広沢寺
松本市の南東端、鉢伏山の麓にある広沢寺は、持長が先代当主政康の位牌を安置した竜雲寺が前身で、それを長棟(広沢寺殿)が広沢寺に改名し、林城近くから現在地に移したものである。・・広い寺域の最上段に、大坂夏の陣で戦死した小笠原秀政・忠脩父子の墓がある。小倉第三代藩主忠基がそれぞれ別の所にあった墓をここに集めたという。


松本城の歴代城主
・石川家
家康の家老であった石川数正が秀吉のもとに走ったのは周知だが、秀吉は、徳川家を関東に動かしたあとの信濃松本に、この石川数正を入れる。徳川家の筆頭家老でありながら、翻心した石川家の立場は、徳川政権下になると、非常に微妙なものになるが、子の康長は、一応そのままの信濃松本藩の所領を許されていた。しかし、大久保長安事件に連座して、康長の時に改易。

→小笠原家
信濃飯田より小笠原秀政が父小笠原貞慶(さだよし)の故地に8万石で入封する。戦国時代深志城にあった小笠原家は武田氏に追われ、小笠原貞慶の時に家康の幕下で、故地を回復。城地を「松本」と定めたのは小笠原貞慶であった。小笠原秀政・忠脩(ただなが)父子は大坂の陣で、奮戦戦死してしまう。家康はその功を惜しみ、忠脩の弟小笠原忠真に家督を許し、加増の上、播磨明石に移す

→松平(戸田)家
上野高崎の松平(戸田)康長が7万石で入り、康直に継ぐが、これも播磨明石へ転封。

→松平(越前)家
結城秀康の三男、松平(越前)直政が越前大野より7万石で入るが、半年で出雲松江に。

→堀田家
後を受けたのは春日局コネで出頭し、老中となっていた堀田正盛で、武蔵川越3万5千石から6万5千石の大加増を受け、10万石で入る。下総佐倉へ転封

→水野家
三河吉田から、水野忠清が入り、水野家六代継いで、藩主家は定着するかに思えたが、水野忠恒は奇行が目立ち、酒色に耽っていたりしたうえ、ついに江戸城中松の廊下で、長府藩世子の毛利師就(もろなり)に抜刀して切りつけるという事件を起こし、改易となる。

→松平(戸田)家
代官預かりの期間を経て、先に松本藩主だった松平(戸田)康長の裔、松平(戸田)光慈が6万石で入り、以降は戸田家の支配で、明治の廃藩まで続く。
明治維新に至る