探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

室町期の高遠の豪族  ・・・ 高遠家親と高遠頼継の背景

2015-06-12 11:25:29 | 歴史

室町期の高遠の豪族
 ・・・ 高遠家親と高遠頼継の背景

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> ・コメントを書いた人
> io
> ・タイトル
> 質問です。
> ・コメント> 「高遠家親」の読み方を教えて下さい。

"家親"は、”いえちか”と読むのでしょう。

ここで紛らわしいのは、”高遠家親”の”高遠”の方です。
武田信玄に一時同盟後に滅ぼされた”高遠頼継”の家系とは全く関係がありません。

高遠家親は、高遠・木曽家親とした方が分かりやすい。この系譜は、源平合戦の初期に、信濃・木曽谷で旗を挙げて北信、北陸を攻め上がり、京都を征服した”旭将軍・木曾義仲”の末裔だとされています。倶利伽羅峠の戦い・火牛の計が有名ですね。
後に、頼朝に滅ぼされて滅亡しますが、末流が一部木曽谷へ、一部上州沼田に流れて命脈を保ち、沼田へ流れた方が、南北朝期に北朝に味方して功績を挙げ、足利尊氏から祖先の木曽谷と塩尻の一部、高遠を報償として貰います。それが木曾家村、その三代目が木曽家親で、高遠に住んで、高遠家親を名乗りました。
しかし、系譜の信憑性は薄く、系譜の仮冒の疑いがあるそうです。
古書に、1385年に高遠家親の記事があることから、この頃高遠は、木曽氏の支配下であったことが確認されていますが、高遠は小豪族が乱立していて抜きんでてはいなかった、と言われています。

通常”高遠家”と呼ばれるのは諏訪上社の大祝一族で、歴史上に登場する、高遠・諏訪継宗、高遠・諏訪満継、高遠・諏訪頼継などが、高遠一揆衆の頭目になり、この系譜のことを指します。
参考:一揆の意味・・本来は「目的のため血判して団結すること、を意味する」。この目的のため団結することで結果として戦いに及ぶ事の方が一揆とされることが多いが、本来の意味は前者。
この前後の歴史は資料が乏しくて判然としない部分もありますが、”蕗原捨葉”によれば、高遠・木曽家の勢力も小さくなり、高遠の小豪族に成り下がり、高遠の小豪族達が集まって協議をし、このままでは高遠が脅かされるので、象徴的・名目的棟梁を戴いて、高遠一揆衆としてまとまろうではないかと血判し、諏訪上社に棟梁を要請して、高遠・諏訪家が出来上がった、と言う筋書きです。
この高遠・諏訪家の城主になったのが、諏訪上社の大祝・諏訪頼継(先代)の嫡男(信員)で、何らかの欠点があったらしく大祝にはなれず、高遠城主になったわけで、本来なら諏訪神党の惣領に着くはず・・の”本家意識”が強く、このため諏訪上社との”本家争い”が度々でてきます。
蕗原捨葉には「・・・本来愚かにして」という理由で上社・大祝になれなかったとされていますが、先代・頼継だとすれば、大祝を経験し、さらに北条時行を保護して”大徳寺城の戦い”で幕府・小笠原家と戦った諏訪頼継と言うことになり、「・・愚か・・」とも思えません。幕府に反目したので当然幕府に追求されます。嫡男・信員は、恐らく、当時の幕府への忠誠への評価が主要因で大祝になれなかったのでしょう。そして乞われて高遠城主になった。、大徳王寺城の戦いの後、追放された大祝・諏訪頼継に代わり、諏訪家庶流の藤沢家から大祝が出ています。しかし諏訪家親族、神党から支持が得られずに、頼継の弟が大祝に代わっています。面白いのは、これを境に、藤沢家は府中・小笠原家に近づき、さらに婚姻関係を結び、諏訪神党から離れ小笠原守護家のグループに入っていきます。勿論この大祝交代劇は、諏訪円忠が筋書しています。

高遠・諏訪頼継が武田信玄に攻められるとき、頼継の家臣団を見て見ると、高遠一揆衆の筆頭は保科正俊で、城将に”千村内匠が勤めています。いずれも家老と思われるが、千村氏は木曽家の庶流です。勢力は衰えたといえど、高遠領内に小豪族ぐらいの勢力を保持していたことが覗われます。

この高遠城主・諏訪頼継と家臣の関係は、戦国大名としては異質の特色があります。
まず、諏訪神党の宗教的繋がりであり、諏訪上社への尊敬はあるものの武家としての主従関係は見えてきません。
次ぎに、高遠地区への愛情なのですが、高遠・諏訪家は、諏訪上社の本家意識が強く、高遠への愛情は感じられません。一方、高遠の拠点を置く一揆衆は、地元である高遠の郷土愛はかなりあるようです。その証拠に信長亡き後、高遠を奪還する”保科正俊”に、地元高遠は、全く違和感がありません。さらに、封建の基礎の部分の、豪族の領土については、高遠城主と家臣の間で、契約的な主従関係が見えてきません。他にもありますが、以上の要点から、高遠城主・諏訪家とその家臣の関係は、かなり名目的・象徴的な部分が多く、他の戦国大名と比べて異質であったようです。このことを分析した研究書は余り見かけませんが。


ノート・「荒川家の系譜」の整理 ・2  ・・伊奈忠次の祖先・荒川易氏の出自の周辺

2015-06-10 01:28:57 | 歴史

ノート・「荒川家の系譜」の整理 ・2  ・・伊奈忠次の祖先・荒川易氏の出自の周辺

荒川家資料2:足利家家臣系譜 ・・『足利家家臣系譜』より

○荒川詮頼頼直子頼清孫満氏曾孫戸賀崎義宗玄孫広沢義実耳孫三河 石見守護

・荒川詮頼以前
 ・広沢義実 ->戸賀崎義宗 ->荒川満氏 ->荒川頼清 ->荒川頼直 ->荒川詮頼
・荒川詮頼:活動年代(1337-1379)
  :石見守護:三河足利党十九家の一つ:詮頼は足利義詮(二代将軍)の偏諱か
  :足利義詮(1330-1367)、直義に仕える:越前金ヶ崎城攻略(1337)に軍功
  :直義党として高ノ師直と抗争(1349):「観応の擾乱」に直義派(1349)
  :直義の死後(1352)は幕府に復帰:石見守護(1352)-罷免-再石見守護(1376)
  :細川頼之の失脚に連座(1379):遠江守:弾正少弼:三河守: 丹後国守護
  :康暦の政変で没落(義満時代)
・荒川詮長(?-1379)
  :詮頼子:治部少輔:石見守護代:父・詮頼と直義党で行動を伴にする
  :詮長は足利義詮(二代将軍)の偏諱か :康暦の政変で没落(義満時代)
・荒川詮宣(?-?)
  :詮長子((詮頼子?):遠江守
  :荒川遼江(遠江?)守詮宣代十當城に住せし・・子詮長、孫詮宜・相堆ぎて・・天文年中断絶・・西尾市史より
  ・・・三河・碧海郡西牧内村に住す。天文年中断絶(1532-1555)。
  この間、吉良家家臣として過ごす?
   ・荒川満頼
   ・荒川政宗、宮内、三河、太郎三郎
・荒川**民部(1489-1491)
  :民部仕畠山政長(1442-1493):延徳(1489-1491)頃:畠山政長は応仁の乱の東軍

 ・・・以後、100年後へ飛ぶ・・・
・荒川澄宣(1481-1511)
  :治部:将軍義澄(1481-1511)より偏諱:奉公衆
・荒川晴宣(1511-1550)
  :澄宣子:義晴より偏諱:足利義晴(1511-1550)に仕える
  :近習衆:民部少輔:備前守:従五位下:治部時宣?:宮内
   ・・子・荒川勝兵衛(菅野勝兵衛)
    ・・荒川与三:荒川勝兵衛の子:荒川治部少助晴宣の孫
     :「荒川与三ニ下申候、御奉行衆へも大炊殿(土居大炊)江も前一戸之城を・・・
・荒川輝宗(1536-1565)
  :晴宣子:足利義輝(1536-1565)に仕える:義輝より偏諱:奉公衆
  :永祿の変(1565)に父・晴宣とともに參戦し、戦死
・荒川珍国民部(1509-1573)
  :仕足利義維(1509-1573):荒川珍国の系流は、徳島へ渡り「荒井家」として存続

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易氏戸賀崎氏元裔?四郎
易次易氏子太郎熊蔵

1:広沢義実 (足利義実)
2:戸賀崎義宗
・・・・足利義実の子:仁木実国、戸賀崎義宗、細川義季(細川氏へ)。
足利氏(下野源氏)一門の矢田義清の孫、広沢義実の子、仁木実国・細川義季の弟、宗氏・満氏の父、満義(満氏の子)の祖父。建久元年(1190)に、下野国安蘇郡赤見郷(現栃木県佐野市赤見大字)に赴任して、赤見城(佐野城)を築城した。
・・・・足利一門の支流。栃木・佐野辺りに拠点。足利一門として鎌倉幕府の御家人として勢力を張る。
3:荒川満氏
4:荒川頼清
5:荒川頼直
6:荒川詮頼 三河(守) 石見守護 (丹後守護)
・・・・正慶二年/元弘三年(1333)、足利尊氏(義詮の父)の九州からの上洛作戦に従って各地を転戦した。その功によって建武四年/延元二年(1337)頃、丹後国守護職に任ぜられた。貞和五年/正平四年(1349)から始まる観応の擾乱では、父と共に足利直義方に味方するが、直義の横死後は室町幕府に帰順した。文和元年/正平七年(1352)、石見国守護。益田、周布、大内、山名氏等の有力国人を統治できず守護罷免。管領の細川頼之に石見守護職への再任を求め、石見守護職に再任。康暦の政変で頼之が失脚すると、石見守護職を罷免された。
7:荒川詮長 詮頼子 治部 石見守護代
8:荒川詮宣 詮長子 遠江(守)
     子:満頼
       政宗 宮内
       三河
       太郎 三郎
       澄宣 治部
9:荒川晴宣 澄宣子 治部 時宣? 宮内
・・・・8:-12:の間、幕府閣僚の治部、石見守護代、宮内、治部などの役職を勤めた。この被官は、仮名ではなく実際の被官の可能性が高い。
10:荒川輝宗 晴宣子 与三 菅野勝兵衛


11:荒川民部 仕畠山政長 延徳頃
・・・・畠山政長(1442-1493)応仁の乱起こす
12:荒川珍国 民部 仕足利義維
・・・・足利義維(1509-1573)十一代将軍・足利義澄の次男。荒川珍国の系流は、徳島へ渡り「荒井家」として存続されたことが確認されているが、荒川家支流であると思われる。
13:荒川直定 善兵衛
14:荒川宗直 直定弟 市助
15:荒川頼俊 助左衛門 仕毛利元就


*:荒川易氏 戸賀崎氏元裔? 四郎(神)
・・・・「常徳院義尚より信濃国伊奈郡(伊那郡)を賜って住む」を前提にするなら、年代的に、11:荒川民部かその子息が荒川易氏の可能性が高い。子息の場合、将軍義尚の奉公衆に荒川の姓のものがあること(義尚の蹴鞠の相手)が確認されている。しかし氏名の比定は出来ていない。
17:荒川易次 易氏子 太郎 熊蔵

上記のように、この系譜自体信頼性は60%であり、これが伊奈家からの提示でなければ、仮冒の可能性が薄らぎ、精度は70%に上がるのだが。

畠山政長と荒川民部

「11:荒川民部 仕畠山政長 延徳頃」のところ・・・point。実態のない管領であった畠山政長と家臣のこと・・。

荒川民部のことは、歴史資料の中に少ないが、畠山政長のことは歴史に露出は多い。応仁の乱の頃、将軍・義政と義尚の時代に生きた畠山政長の家臣で奉公衆であった荒川民部は、荒川易氏であるか、その縁者である可能性は極めて高そうである。しかし易氏本人であるとするには状況証拠のみで、荒川民部の縁者以上とするのがせいぜいである。

次ぎに、将軍・義尚の奉公衆を分析してみると、・・

長享元年(1487年)常徳院(足利義尚将軍)江州動座着到
九代将軍義尚の近江出陣の際における奉公衆の編成
御供衆14騎
細川政賢 細川政春 細川氏久 細川尚春 山名豊重 大館尚氏 武田国信
伊勢貞陸 伊勢貞藤 赤松則秀 畠山持国 一色吉原 伊勢貞誠 結城尚隆
奉公衆
一番衆68騎 細川 今川 吉見 長井 曽我など
二番衆65騎 桃井 河原 小田 二階堂 土岐など
三番衆46騎 上野 高 小笠原 村上 長など
四番衆52騎 畠山 大和 武田 田村 東など
五番衆73騎 大館 荒川 里見 羽川 大内など
以上、とあります。

五番衆73騎・大館・荒川・・・に、番頭(=大将)・大館、恐らく副将・荒川・と読んでいいのでしょう。
この大館氏を詳しく見て見ると、・・
大舘尚氏(おおだち ひさうじ)は、室町時代後期(戦国時代)の武将。
文明元年(1469年)に将軍世子足利義尚に付けられて申次となり、義尚の将軍就任後は御供衆・申次衆を務めて奉公衆第五番番頭を兼務、二階堂政行・結城政胤と共に将軍側近として活躍した、後に義尚の偏諱を受けて尚氏と改名した。
長享元年(1487年)の六角高頼征伐(長享・延徳の乱)には奉公衆第五番を率いて参加、政行・政胤と共に評定衆に任じられて、義尚の政務決裁に参与した。
大舘尚氏は、若狭の青保・松永・安賀・鳥羽・宮川各荘など北陸地方における幕府御料所の代官を務めた。・・
どうやら、将軍義尚から信頼の厚かった人物で、幕府御料所などの幕府直轄地を差配して経済的に将軍を支えた人物のようです。時代が、応仁の乱の時ですから、全国各地の貴族や神社仏閣の荘園や社領が地方で力を付けた地頭などの豪族に押領されて、その訴訟が頻発している時代です。幕府御料所も例外ではなくなっています。
この状況を踏まえて、荒川易氏が「常徳院義尚より信濃国伊奈郡(伊那郡)を賜って住む」と言うことはどういうことなのか、を読み解くとしたら、幕府御料所代官を兼ねる大舘尚氏がその副将・荒川民部に、信濃で起こった幕府御料所かそれに近い直轄地が押領されて、将軍・義尚の了解を得て解決のために信濃へ赴いた、というストーリーが成り立ちます。このストーリーは、そんなに”絵空事”とも思えませんがどうでしょうか。
そして、荒川易氏が信濃へ派遣されている最中、将軍はなくなり、将軍の近衛兵軍団の”奉公衆”制度は、その後空中分解してしまいます。要するに、荒川易氏は京都に帰っても、待っている仕事を失ってしまったわけです。息子達の行く末を案じた易氏は、ここで伊勢神宮の荘園・御厨に狙いを定めて、荘官への道を息子達に案内するという筋書きになり、易正を保科の郷へ、易次を熊倉へいかせるという運びになるわけです。

大舘常興日記』と言うものがあります。
大舘常興は、大舘尚氏の法名で同じ人のこと。この人は長生きで、かつ筆まめな人だったようです。将軍には、八代・義政から始まり、九代・義尚など義晴の代まで重臣として仕えたようです。晩年に執筆された日記『大舘常興日記』は戦国期の室町幕府の動向を知る上で貴重な史料となっているようです。

「大舘氏は室町幕府奉公衆を務めており、特に尚氏は当時としては稀に見る長寿で足利義政から義晴までの代々の将軍に仕えていた老臣。武家故実に深く通じた人物。戦国時代の室町幕府の状況や幕府料所荘園の状況などを知る貴重な史料。『大舘常興書札抄』、書札礼も詳しい。」
参考:桑山浩然「大館常興日記」(『国史大辞典 2』(吉川弘文館、1980年)
参考:鳥居和之「大館常興日記」(『日本史大事典 1』(平凡社、1992年)

ただ残念なことに、日記の記述は、将軍・義尚以後のことで、義政、義尚時代の記述の日記はありません。

参考:天文年間(1532-1555年)の日記内容の一部
「天文日記」天文7年9月14日条に荒川治部少輔が本願寺に桃井治部少輔断絶につき「加州河北郡上田上郷」の知行回復の保証を求めた記事が初見「大館常興日記」天文4年9月25日条には,桃井治部少輔の知行であったことについて,河北郡二番組が幕府に訴え出たことが見えており,あるいは「天文日記」天文8年6月12日条では,南禅寺がその末寺上生院領であるとして知行回復を依頼しており,上田上郷知行をめぐって紛争のあったことが知られるさらに,同8年10月10日条では,荒川方より,超勝寺の違乱によって,当郷の知行が行われていないことを訴えているしたがって上田上郷は,南禅寺末上生院領であり,幕府奉公衆と思われる桃井氏の知行となったが,その断絶後,荒川氏と一向一揆の河北郡二番組や超勝寺が知行をめぐって抗争したことが知られる。」

この荒川治部少輔は、荒川易氏の縁者と思われるが別流であり、後には、徳島へ渡り「荒井家」として存続した荒川珍国の系流と思われる。
天文年間(1532-1555年)は、将軍・足利義晴、足利義輝の時代と言うことになります。